『いつきひめ~妖刀夜話・終章~』・1
天文十七年(1548年)。
世相は乱れ、戦が相次ぎ、数多の命が枯葉のように容易く散っていった。
時は戦国。日の本の覇権を争い、数多の大名が名乗りを上げた群雄割拠の時代である。
所は播磨の国、連なる山々の合間に位置する小さな集落『葛野』。
これは、絢爛たる戦場から離れた、産鉄の集落で起こった物語。
誰に語るべくもない。
歴史において然して意味のない。
鍛冶師と鬼女の、小さな小さな恋のお話。
◆
男は森にいた。
鬱蒼と茂る森は先が見通せない程に深く、霧の濃さも相まって、まるで幽世へ紛れ込んでしまったように現実感がない。
さ迷い歩いて既に数刻。
足取りは重く、けれど惰性で動かして。いったい自分は何処にいるのか、何をやっているかさえ分からなくなってくる。
男の住む集落、葛野において『いらずの森』と呼ばれるこの森は、尊きものがおわすと伝えられる神域。みだりに踏み入ることの許されぬ神代の国である。
立ち入りを禁ぜらていると知りながらも訪れたのには理由がある。
といっても明確な目的意識があった訳ではなく、男は単にこの場所へ逃げ込んだだけだった。
男の名は兼臣。
彼の生まれ育った葛野は山間にある集落で、古くからタタラ場として栄えてきた。
タタラ場とは、特有の製鉄法をもって砂鉄より鋼塊を造り出す、産鉄を生業とする土地である。
武器や鎧、農具の元となる鉄は武士にとっても農民にとっても必需品であるため、その希少性から各地の大名や寺院はタタラ場に特権を与えて保護していた。
また葛野はタタラ場であると同時に、刀鍛冶においても多くの名工が住まう、鉄師の集落でもあった。
質の良い鉄と高い鋳造技術を併せ持つ日の本有数のタタラ場を敵に回したくないのか、朝廷も強引な搾取はせず、葛野は小さな国とでも呼ぶべき独立した自治区を形成していた。
兼臣はそんな葛野で育った鍛冶師だった。
年の頃は二十代半ば、まだまだ若輩ではあるがその腕は確かで、彼の打つ刀は鬼さえ裂くと称えられた葛野の太刀の中でも高く評価されている。今や葛野随一の鍛冶師と言っていいだろう。
しかし名工というのも善し悪しのようで、刀を売りに集落から離れた彼は、街道で山賊崩れに襲われた。
無論、狙いは兼臣の刀である。
自衛の手段を持たぬ兼臣に選べたのは一目散に逃げることだけ。
走って逃げても差は広がらず、追いつかれると思った兼臣は、街道から森へ逃げ込んだ。それがいらずの森だった。
「ああくそ、足が痛くなってきた」
吐き捨て、とにかく歩く。
何処へ続く道かは分からない。それでも刀を奪われ殺されるよりはいくらかましだろう。そう考え、ただ只管に前へ進む。
しばらくすると霧の中に浮かび上がる一軒の家屋が目に映った。
「こりゃ終わったかねぇ」
思わず漏れたのはそんな言葉。
それも仕方ない。さ迷い歩いた森の奥深く、辿り着く場所はうらぶれた小屋。山に伝わる怪談話の典型だ。
話の筋書きからすれば次に出てくるのは山姥か、鬼女か。それとも他の怪異なのか。どれであっても結末はろくなものじゃない。
ああ、でも。山賊崩れに殺されんのと、山姥だか鬼女だかに喰われんの、どっちがましなもんか。
足を止め、兼臣は割合真剣に悩んだ。
「手間取らせやがって、くそがっ!」
そして、それがいけなかった。
声に反応する一歩遅い。振り返る途中、襲い来る鈍色が兼臣を襲った。咄嗟に身をよじりどうにか交わすが、体勢を崩す。散々歩いた疲れもあったのだろう、膝が崩れ兼臣はその場にへたり込んだ。
「はっ、ようやっと追いついたぜ」
「葛野の刀は高く売れるからな。逃がしゃしねぇよ」
三人の男。先程の山賊崩れが追い付いたのだ。
怒りに表情を歪める者、勝ち誇ったようなに見下す者、にたにたと馬鹿にしたような笑みを浮かべる者。三者三様の顔をして、しかし兼臣の結末は一つしかない。
俺は、此処で、死ぬのだ。
心血を注ぎ鍛え上げた刀を奪われ、抗う手段を持たぬ兼臣は為す術もなく殺される。彼自身その未来をありありと想像できた。
それでも、ただ殺されてなどやるものか。
尻餅をついたまま、売る筈だった刀の一振りを手に取る。
葛野の太刀の特徴である鉄鞘に納められた刀。
抜刀し、鞘から姿を現したのは、簡素な波紋と肉厚の刀身。無骨なまでに戦いを意識して嫌え上げられた一品だ。
「おお、いい刀じゃねぇか」
「こりゃ売るのがもったいねぇくらいだ」
にたにたと男達は笑っている。
もう既に兼臣の刀を自分のものにしたつもりでいるのだろう。
歯を食い縛る。こんな下衆どもに心血注いで鍛え上げた刀を奪われるなんぞ認められねぇ。
死の恐怖に耐え、何とか立ち上がろうと兼臣は足に力を込める。
『騒がしいことだ』
声が聞こえた。
氷のように冷たく、固い言葉。
森の奥、この場には兼臣と山賊どもしかいない筈で、しかし響いた声に振り返る。
背後に立っていたのは、こんな森にはそぐわぬ、鮮やかな赤の着物を纏った見目麗しい少女だった。
地に触れそうな長い黒髪。病的なまでに白い肌。小柄で線が細く、場所が森の中でなければどこぞの令嬢かと思ったかもしれない。
一瞬年甲斐もなく少女の美しさに目を奪われ、しかしその瞳の輝きに息を呑む。
『人よ、立ち去れ。此処はお前達の居場所ではない』
音も立てず森を歩き、兼臣をかばうように前へ。
もう少女の背中しか見えない。だが兼臣は確かに見た。
───滲む朝焼けのように、揺らめく赤。
少女の瞳は、人のものではなかった。
小野陶苑の著書『鉄師考』に曰く、古い時代、他者と異なる外観を持つ存在は総じて「あやかしのもの」として扱われた。
人は人とは違うものを排除する。
赤い目や青い目、白すぎる肌、高すぎる身長、異常なほどの筋力。絶世の美貌。
こういった人の枠から食み出た特徴を「異類傷痕」と呼び、明治初期に入るまでその真贋に関わらず異類傷痕を持つ者は一括りに人ならざる存在だと信じられた。
だから皆一様に言葉を失う。
赤い瞳は鬼の証。
即ちこの少女は、人とは違う理に生きるあやかしだった。
「お、おい……あれ」
「鬼女だ。ど、どうするよ」
山賊どもにも動揺が走る。その中で一人の男がずいと前に出る。
「鬼ったって娘っ子じゃねぇか! あいつも殺して身ぐるみ剥いじまえ、ば……」
しかし言葉は途中で止まる。その眼は驚愕に見開かれた。
ゆらり。
揺らめく灯りが一つ。
二つ三つと増えては舞って、深い森が橙色に色付く。少女の周りに浮かぶ焔。踊るように、戯れるように、ゆらゆら揺れては瞬いて、次第に大きくなっていく。
そして弾ける。
火球はごうと音を立てながら放たれ、男達の足元を焼いた。
異常なほど熱せられた空気に理解する。もしもほんの少しでも位置がずれていれば、消し炭になっていただろう。
山賊たちにもその光景が容易に想像できたらしい。青白く顔色が変化する。垂れた汗は決して熱気が原因ではなかった。
『今一度言う。立ち去れ。この森での殺生は許さぬ』
殺意はなく、怒気はなく、色のない平坦な言葉だった。
だから恐ろしい。声に何の感情も宿らないのは、彼女が心底男達を小さな存在だと思っているから。
人が蚊に殺意を抱かぬように、この鬼女は人に殺意を抱かない。
つまり彼女はそれこそ蚊を叩くような気安さで、人を焼き殺すことが出来るのだ。
少女は、にたりと笑う。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
そこで限界を迎える。
発狂したような叫びをあげ山賊崩れたちは逃げ惑う。反響する声も次第に消えていき、最後には情けなく地べたに座り込む兼臣と鬼女だけが残された。
人ならぬものを前にして、しかし兼臣は呆けていた。いや見惚れていた。
焔を纏い、宵闇に滲む、あやかしの姫。
兼臣にはそれがおぞましいものとは思えず、寧ろ気品すら漂わせる紅玉に思えた。
「あんたぁ、いったい」
問い掛けるも鬼女は答えを返さず、転がっている刀を拾い上げた。
紅い瞳の中で鋭利な白刃が揺れている。
『綺麗な刀だ』
兼臣の刀を眺めながら、あやかしの姫は表情を僅かながらに優しくした。
『葛野には時折、お前のような鉄に愛された子供が生まれる』
何処か感慨深げに聞こえたのは何故だろう。
遠い昔を思い出すような、深い深い感情の色だ。
「いんや、子共って、歳じゃ、ねえんだけども」
上手く声は出ないが、どう見ても自分よりも年下の少女の言葉に、たどたどしく反論する。
その強がりに鬼女はゆったりと、静かな笑みを浮かべた。
『子供だよ。私から見れば』
そうして刀を兼臣に返し、鬼女は去っていく。
たおやかな後姿。兼臣は呆けたまま、消え去った後も彼女の後姿をしばらく眺めていた。
────それが、夜刀との初めての出会いだった。
兼臣は戦国時代の刀匠である。
説話によれば彼は鬼女を妻とし、四口の刀を鍛え上げた。
鬼の助力をもって鍛え上げられた刀は、人為的に造り上げた妖刀。
四口それぞれが別種の<力>を宿すという。
妻の名は、夜刀。
兼臣は鍛えた妖刀に自身と妻の名を与える。
“夜刀守兼臣”
四口の妖刀は、鍛冶師と鬼女の出会いにより生まれ、数多の物語を紡ぐこととなる。
鬼人幻燈抄『いつきひめ~妖刀夜話・終章~』
2009年 4月。
口裂け女に赤マント、トイレの花子さんといった都市伝説がらみの事件を解決し終えた頃の話である。
「この刀は、夜刀守兼臣といってな」
甚太神社の神主、姫川啓人は畳敷きの広間で、娘の友人である梓屋薫の話相手を務めていた。
といっても啓人もいい歳をしたおじさん、女子高生好みの話題なんぞ分からない。散々頭を悩ませて選んだのは、刀の話だった。
鉄鞘に収められた武骨な太刀を、薫は興味深げに見つめている。
鬼哭の妖刀。戦国時代の刀匠兼臣によって鍛え上げられた、人為的に造られた妖刀だ。
もっとも宿った<力>は封印が解けた際に甚夜が喰ってしまった。妖刀とは名ばかり、今やなんの力もない普通の刀でしかない。
それでもこれは啓人にとって大切なもの。
古結堂店主、青葉から譲り受けた思い出の一品である。
「まあ、本物の妖刀ってやつだ。実際、俺もこの刀が喋っているのを見たことがある」
「か、刀が喋るんですか!?」
「ああ、詳しくはうちの嫁さんに聞くといい。なんせ、あいつは」
刀さん、なんて呼ぶくらい妻は鬼喰らいの鬼と仲が良かった。
もっとも目の前の少女はその鬼と現在同じクラスで授業を受けていたりするのだが、当然ながら啓人に分かる筈もない。
薫自身もそれを知らず、純粋に妖刀の話に聞き入っているようだ。
聞き手の反応がいいと舌も滑らかになる。啓人が調子よく喋っていると、がらがらと障子を開けて、畳敷きの広間に愛娘が入ってくる。
おお、ようやく帰ってきたか。
そう思って視線を向ければ、何故だか娘は物凄く冷たい視線を向けていた。
「……なにしてるの? お父さん」
啓人の一人娘、姫川みやか。
やはり女子高生相手に刀の話題はちょっと失敗だったらしい。とうとうと語っていた父親を見るみやかの目はあからさまに呆れていた。
「おう、お帰り。いやあ、折角お前の友達が来てくれたんだから、珍しいものを見せてあげようと思ってな」
「そういうのいいから、ホントに。というか女の子に刀見せてもあんまり喜ばないと思う」
今日は日曜日。
二人は遊ぶ約束をしていたらしいのだが、なんでも薫の方が時間を勘違いしていたらしく、早く来すぎてしまった。
遊ぶ前に用事を済ませようと思っていたのか、生憎とみやかは出かけている。
ミスをしたのは薫の方ではあるが、放っておくのも気が引ける。
ここは父親として娘の友達を退屈させないよう気遣うべきだろう。
ということで啓人は古結堂の店主・青葉から譲ってもらった夜刀守兼臣を見せていたのだが、それがみやかには気に喰わない様子。
冷たい視線に軽い溜息。我が娘ながらなんともクールな怒り方である。
「えー、そんなことないけどなぁ。すごいんだよ、この刀喋るんだって!」
「いや、ないから。お父さん、私の友達からかわないでよ」
反して薫は妖刀の話を聞いて若干興奮気味。
自分で話しておいてなんだが、そんな簡単に信じるとは思っていなかった。
勿論啓人に嘘を吐いたつもりなど毛頭ない。実際、この刀は喋る。かつて確かに、喋ったのだ。
「あら、からかってなんかないわよ」
しっとりとした柔らかな肌触りの声色。
差し入れのケーキを運んできた、啓人の妻・やよいである。
長い黒髪。ほっそりとした体付き。もう三十半ばを過ぎたというのに、妻は驚くほどに魅力的だ。
そんなことを臆面なく考えるくらいべた惚れ。
初めて会ったのは彼が高校生の時、彼女が小学生の時。これで惚れたというとなにやら犯罪的だが、啓人にとっては運命の出会いだった。
「ね、啓人さん」
「ああ、勿論だ。なんせ、刀さんについてはお前の方がよく知ってるもんな……やよい」
「ええ。この刀はね、本当に昔喋っていたの」
懐かしむように遠くを見つめる彼女は、多分いつかの夏休みを思い出している。
あの遠い夏に刀さんと出会い、封印が解かれてからも数回程度ではあるが遊んでもらった。
結婚してからは浅草に行くことも少なくなり、もう二十年近く会っていないけれど、刀さんは元気にしているだろうか。
「ほらぁ、みやかちゃん。やよいおばさんだってそう言ってるし」
「うーん、お母さんが言うのなら、本当、なのかな?」
やよいの言葉に娘達は顔を見合わせている。
お父さんよりお母さんの方が信じられるみたいな物言いには、多少引っ掛かるところもある。
それはともかく、この手の話に興味がなさそうなみやかまで信じているのはどういうことだろう。
「ありゃ、意外だな。みやかはこういう話信じないと思ってたんだが」
「まぁ、なんというか……世の中不思議なこともあるから」
「うんうん、喋る刀くらいあっても不思議じゃないよねー」
あはは、と朗らからに笑う薫と、何故か微妙な顔をしているみやか。
表情こそ違えど、二人とも見解は同じようなものだ。
以前ならばともかく、最近はオカルトな展開にも慣れてきた。口裂け女や赤マントに比べれば、喋る刀くらい全然常識の範疇である。
本物の妖刀、夜刀守兼臣。
世の中は不思議なもので溢れている。
喋る刀だって、古い物ならそういうこともあるのだろう。
いいか悪いかは別にして、二人の少女はそう考えるようになっていた。
◆
それから更に二か月が経ち、2009年 6月。
ひきこさんの事件はどうにか決着し、高校生活にも少しずつ慣れ、最近は比較的穏やかな日々が続いている。
梅雨時に差し掛かり、外は生憎の雨。
この天気では屋上や中庭は使えないし、学食の人口密度もぐんと上がり、落ち着いて食事という雰囲気でもない。
態々人の多いところに行くのも微妙だし、ここ数日みやか達は教室で昼食をとっていた。
「……そういえば。葛野君、夜刀守兼臣って知ってる?」
「知ってはいるが、また随分と珍しい名前を出してきたな」
メンバーはいつもの三人、みやかに薫に甚夜である。
入学から二か月、みやかは口裂け女の一件で知り合った彼と、それなりに良好な関係を築いていた。
こうやって昼食を一緒に食べながら、楽しく談笑を交わしているのだ。殆ど男の子達と交流を持たなかった中学の頃からは考えられない。
オカルトな事件に巻き込まれては助けられ、高校生活を共にして、なんだかんだで葛野甚夜という少年はクラスで一番仲のいい男子になっていた。
今日も三人でお昼ご飯。適当に雑談を交わしていると、ふとみやかは父が言っていた喋る刀のことを思い出した。
普通なら与太話としか思えないだろうが、NNN臨時放送に口裂け女、赤マントにトイレの花子さん、極め付けにクラスメイトのひきこさん。これだけ都市伝説に遭遇していれば、喋る刀くらいあってもおかしくないような気もする。
もしかしたら程度の気持ちで質問したのだが、どうやら彼は本当に知っていたらしい。
「夜刀守兼臣は戦国時代の刀匠、兼臣の鍛えた刀だ。兼臣には少々曰くがあってな。なんでも彼は鬼女を妻とし、その助力をもって人為的に四口の妖刀を造り出したという。そして妻、夜刀の名にあやかり、四口の妖刀には夜刀守兼臣という銘が与えられたそうだ」
「妖刀……じゃあ、やっぱり不思議な力があるの?」
「ああ。私も見たことがある。振るうだけで斬撃を飛ばす、自我を持ち喋る。斬ることで鬼を封ずる。夜刀守兼臣はどれもが、“本物”の妖刀だった」
自我を持ち喋る。つまり父の語った話は、本当だったということだ。
実際のところ喋る妖刀は『御影』、啓二の持つ刀は『鬼哭』と別物なのだが、そこまではみやかには分からない。
多少の勘違いはあるものの、喋る刀が本当にあると知れて、素直に感心していた。
「興味があるのか?」
「そうじゃないけど、その刀、お父さんが持ってるの。だから気になって」
「啓人くんが……ああ、そうか。青葉の」
啓人くん? お父さんの名前、話したことあったかな?
疑問に思い聞こうとするが、突如教室に響いた電子音とBGMに問いを遮られた。
『皆さんこんにちは。本日のお昼の放送を始めたいと思います』
次いでスピーカーから流れてくる少女の声に、クラスの男子が色めき立つ。
アニメ声とでもいうのか、トーンは高いが優しい、いかにも女の子女の子した可愛らしい声音だ。
最近、放送部が流すお昼の放送は、この柔らかな響きの挨拶から始まる。
別にラジオのパーソナリティーのように軽妙なトークをする訳ではない。しかし滑舌がはっきりしているのに柔らかく、どこか甘い幼げな少女の声は耳に心地よく、密かにファンを増やし続けている。
あの可愛らしい声の主は何者だ、と男子は騒いでいるし、女子でも桃恵萌などは「おー、なになに、すっごいアニメ声。かーいーじゃん」とお気に入りの様子。
かく言うみやかもこの放送を楽しみにしている。
伝聞とはいえ声の主の過去を知っているだけに、彼女が人気者になるというのは、非常に嬉しかった。
「麻衣ちゃんの声って、やっぱり可愛いよねー」
「そうだな。あの娘も楽しんでいるようでなによりだ」
薫も甚夜もひきこさんの件で関わった為当初はかなり心配していたが、今では気楽に耳を傾けている。
昼休憩の時間、放送部ではお昼の放送として一日に二曲音楽を流す。選曲の基準は部員の趣味であったり、一応図書室の前にリクエストボックスが設置されているため、そこから選ぶこともある。
進行は放送部の部員の持ち回りで、今日は1-Cの吉岡麻衣が担当だった。
中学時代サッカー部のエースだった富島柳は、何故か放送部に入部した。
その理由を知る者は殆どおらず、柳の人物評は『奇妙』の一言に尽きる。
しかしひきこさんの件でその事情に深く関わった甚夜らには、彼の行動は寧ろ納得のいくものだった。
吉岡麻衣は昔から体が弱かった。
やってみたい部活はあったが体力もない為諦めていたそうだ。
まあ、つまりはそういうこと。
放送部に入部したのは、麻衣がやってみたかったと言っていたからで、彼女が入部しやすいようにという配慮。
結局、柳にとって大切なのはサッカー部のエースという肩書より、不特定多数の賞賛より、麻衣と過ごす何気ない日常の方なのだろう。
「しかしあまりに人気が出過ぎると、それはそれで富島にとっては心配の種だな」
「そこは大丈夫じゃない? クラスの男子も気づいていないみたいだし」
みやかの言う通り、声の主が吉岡麻衣というのは全くと言っていいほど気付かれていない。
もともと麻衣は積極的なタイプではなく、会話する時も少しおどおどとした、気弱な印象を抱かせる少女だ。
お昼の放送の時の可愛らしいがはっきりとした喋り方と、普段のか細い声ではどうにも結びつかないらしい。
そもそも麻衣が放送部に入部したということを知っているのもごく一部のみ。放送部に押しかけても対応するのは部長か柳だけ。
そんなこんなで男子達は、この可愛らしい声の持ち主は誰なのか、未だに手がかり一つ見つけられない状態だった。
「……ところでさ、そろそろ突っ込んでいい?」
「どうした、姫川?」
「そんなに普通に返されると、ちょっと困るけど。あの、それなに?」
話の途中ではあったが、みやかは我慢できずに指摘する。
お昼時の教室には香ばしい醤油の焦げた匂いが充満している。
それもその筈、今日のお昼は、みやかと薫は母の作った弁当。甚夜の前には、醤油のいい香りが食欲をそそる、出来立ての磯部餅が山ほどあった。
「コンビニで切り餅と海苔を買って、家庭科室で焼いてきた。いや、いつでも磯部餅が食えるとは、いい時代になった」
磯部餅は甚夜の思い出の味であり、一番の好物。
えらく真剣にそんなことをのたまう彼は、いつも通りの無表情のはずなのに、どうしてか満足そうに見えた。
というか確かに切り餅も醤油も海苔もコンビニで買えるが、どう考えても学校のお昼に食べるものではない。教室で磯部餅は流石におかしすぎないだろうか。
「お前達も食べるか?」
「いいの? わーい、いただきまーす」
「あ、じいちゃん。俺もちょうだい」
「私も私も!」
あれ、これ私がおかしいの?
怪訝そうなみやかとは裏腹に、甚夜に磯部餅を勧められた薫は喜んで受け取り、早速美味しそうに頬張っている。
ついでにどこから出てきたのか、クラスメイトの藤堂夏樹と根来音久美子も餅を貰っていた。
「ひさしぶりだとおいしいねー」とか、「そういや昔じいちゃんの部屋でよく食べたな」とか、「じんじん、もいっこいい?」とか、みんなでわいわいお餅を食べてらっしゃる。
学校で磯部餅を焼いて食べていることに関しては、誰も疑問を抱いていない様子だ。
「なんだかなぁ……」
「どうだ、姫川も一つ」
「……うん、ありがと」
よし、深く考えるのはもうやめておこう。
大丈夫、教室で磯部餅くらいトイレの花子さんよりは日常的な光景だ。
なんか考えるのが面倒くさくなって、みやかも差し出された磯部餅を一口。まだ暖かいお餅は、焦げた醤油が香ばしく美味しかった。
「そうだ、じいちゃんとこ、宿題のテーマ決まった?」
「いや、まだだが」
「そっか。決まってたら参考にしようと思ってたんだけど」
宿題というのは先程の日本史で出た研究レポートのことだ。
戻川高校では『高等学校における郷土史等のふるさと教育の推進』というものを掲げており、高校一年一学期の日本史で少しばかり特殊な宿題を課している。
テーマは郷土研究。3~5人のグループを作り、葛野市の有名人や歴史などを調べ、レポートにして提出するというものだ。
当然いつもの如くグループは葛野甚夜、姫川みやか、梓屋薫のいつもの三人。それに富島柳と吉岡麻衣を合わせた計五人である。
期限は六月いっぱい。出来れば早めにテーマは決めておきたいと、昼食を取りながら軽く話し合ってはいたのだが、今一つ決めかねていた。
「宿題やだなぁ、なんで高校になったすぐでこんな難しいの出るんだろ……」
「そう言わないの。でも実際、早めに決めておきたいよね」
うだー、と机に突っ伏して薫は愚痴を言う。
その気持ちは分からないでもないが、出た以上は仕方がない。親友の頭を撫でてながら窘めつつ、みやかは甚夜に「どうする?」と話を振った。
そうだな、と彼は少しの間考え込み、思い付くものがあったのか小さく口元を緩める。
「なんなら、先程のでいってみるか?」
「え?」
「だから、夜刀守兼臣の話だ。兼臣はかつて葛野市がタタラ場であった頃の刀匠。産鉄の集落として葛野を、妖刀を絡めて語るというのは案外面白いかもしれない」
成程、葛野市は元々タタラ場で、産鉄を生業とした土地だ。
今でも包丁などの鉄製品で有名な市であり、かつては刀鍛冶の集落として多くの名工を輩出している。その辺りを題材にするというのは資料も多くやりやすそうだ。
「それに」
甚夜は、まっすぐにみやかを見た。
そして何故か、優しげに、穏やかな笑みを落とす。
「君が“いつきひめ”なら。知っておいた方がいいこともあるだろう」




