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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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173/216

『手を繋いで、君と一緒に』・3(了)



 昔から大抵のことは人並み以上に出来た。

 勉強もスポーツも努力という努力をした覚えはなく、反面、これといって得意なものもなかった。

 テストの成績やマラソン大会でも、毎回五指には入る。それでも一番になった経験は数えるほど。

 努力が足りないから? そう思って小学生の頃はがむしゃらになったこともある。

 けれど結局大した成果は得られなかった。

 何事もうまくできるが、特定の競技や分野で、それを専門にやっている人を越えて、トップをとれるほどの能力はない。


 多分、“優秀”なのではなく“要領がいい”。

 富島柳は自身のことをそう評価している。


 要領がいいから大した努力もなくある程度まではいけるけれど、優秀ではないからある程度で頭打ちになる。

 子供の頃からずっと同じ。頑張らなくても好成績、頑張っても一番にはなれない。

 なら努力にどれだけの価値があるのだろう。

 そう考えてしまう彼は、幼い頃からなにか一つに熱中したことがなく、何事もほどほどにが身上。

 それでいて何でもそつなくこなし、性格自体は明るく社交的だから、周りは彼を軽妙洒脱な人物と評価する。


“富島君は格好いい。サッカー部のエースで、明るくて優しいし、勉強もスポーツも簡単にこなしちゃう”


 中学時代は整った容姿も相まって、女子の人気は高かった。

 告白も何度かされたが、誰かと付き合ったことはない。

 頑張っても一番になれないのに、女子達は何でもできると囃し立てる。

 コンプレックスを褒められて、どうして喜べるのか。好きになってくれたのは嬉しくても、的外れな評価をする彼女達に、魅力を感じはしなかった。

 とはいえ悪感情を直接ぶつけるのも苦手だ。穏やかに、角が立たないように周囲のアピールもやんわり断って。

 そんなところも“他の男子と違って、がっついていない”と高評価。

 コンプレックスは誰にでもあると知っている。だから卑屈にはならない。

 もともとの朗らかな性格もあって友達も多く、柳は毎日を楽しく過ごす。

 彼はいつだって笑顔だ。

 それでも、ほんの少し。爪の先程度の僅かな蟠りではあるけれど。

 投げ付けられる好意や賞賛を、煩わしいと思うこともあった。




 何事もほどほどにが身上だった柳は、中学生になってサッカーを始めた。

 きっかけは友人の誘い。もっとも、誘った本人は厳しい練習に耐えかねて退部してしまったが。

 それでも彼がサッカーを続けたのは、単純に楽しかったからだろう。

 私生活の全てを投げ打つようなのめり込み方はしなかったけれど、練習して上手くなって、チームの勝利に貢献できる。その感覚が心地よかった。

 要領のいい彼はすぐに頭角を現し、二年の初め頃にはエースとしての地位を確立する。

 そうすると練習の成果がより実感できて、更にサッカーが楽しくなり。


 だからこそ、蹴躓いたのだと思う。

 皆で頑張るのが楽しくて、いつの間にかサッカーが好きになって、練習にも少しずつ熱が入った。

 彼はめきめきと実力を伸ばし、それでもやはり、トップに立てる程ではなく。

 サッカー部内ではエースと持て囃されていても、全国には彼よりうまい選手がいる。

 二年の時の全国大会、対戦校のプレイヤーを見て彼は愕然とする。

 実際に対峙してみて分かった。あれが、才能というやつだ。

 要領がいいだけの彼にはない、純然たる輝き。高校になれば彼我の差は今以上に開くだろう。

 まがい物の自分とは違う、本物の“すごい奴”。

 ちくしょう、悔しいなぁ。

 初めて真剣になったから味わう、初めての挫折。

 好きなサッカーで行き詰って、苛立たしいくらいの眩しさを見せつけられて、不貞腐れていた時期が彼にもあった。




 そんな時に出会ったのが、吉岡麻衣という少女だ。

 クラスの図書委員が体調を崩したから、当番を代わった。気遣いじゃない、サッカーが行き詰って、少し離れたくて。つまり部活をサボる理由が欲しかった。

 足を運んだ図書室。 慣れないながらに本棚の整理なんかをしている途中見かけたのは、窓際の席で静かに本を読む少女。

 時折吹き込む風にゆらり揺れる前髪。別段絶世の美貌という訳でもないのに目を引かれたのは、その表情のせいだろう。

 なんかよく分からない固そうな本を読みながら、とても穏やかでくつろいだ様子。

 自分がささくれ立っているからこそ、その穏やかさが鼻についた。 


『……それ、おもしろい?』


 声をかけた訳じゃなかった。意識せずに、ぽろりと言葉が零れ落ちてしまった。

 距離が近かったから、彼女も気づいて顔を上げる。

 それを見て我に返って、ひどく後悔した。

 零れた言葉は単なる意地悪だ。

 放課後に本を読んでいる暇があるんだ、部活を熱心にやっている訳ではないだろう。

 努力もせず辛い目にも合わず、ただ時間を潰しているのがそんなにおもしろい? 

 意地悪で、卑屈だったと思う。

 結局のところ八つ当たり。

 いろんなことがうまくいかなくて、溜まった鬱憤。意識していなかったとはいえ、それを面識もない、おとなしそうな女の子にぶつけてしまったのだ。


『あ、いや、ごめん。いきなり。なんでも、なくて』

『……はい、とてもおもしろいですよ』


 返ってきたのは、笑顔、なのだと思う。

 どこか寂しそうな、そのまま消えてしまいそうな程に薄く。

 笑顔という表現を躊躇わせる、喜びを感じさせない儚げなもの。

 別に責め立てるようなきつい物言いではなかった。

 でも傷つけた。

 そうと簡単に分かってしまうくらい、彼女は透明だった。


『あ……』

『もしかして、興味あります?』

『えっ、興味!?』

『同じ作者さんの本、あちらの本棚にありますよ』

『あ、本。本ね……ありがとう、読んでみるよ』


 動揺していたのだろう。片付けの途中だというのに、言われるままに彼女が言う本棚の方へ向かう。

 手にとってパラパラとページをめくれば、いわゆる純文学というやつだ。

 やはり、なんだかんだ言って体を動かす方が好きなんだろう。難しい本を見ていると、すぐに頭が痛くなってきた。

 小さく溜息。ちらりと横目で窓際を見れば、既に先程の女の子の姿はなかった。


『あーあ』


 それをなんとなく残念に思ったのは、何故だったろうか。







『や、また会ったな』

『昨日の……』


 翌日。

 きっかけというほど大層なものではなく、ただあの透明な表情が気になって、柳は再び少女に声をかけた。

 罪悪感があった、というのも大きな理由だろう。傷つけてしまった。だから少しだけ、彼女を気遣おうと思った。

 こうして始まった交流は、以後も長く続くこととなる。


 彼女の名前は吉岡麻衣。

 クラスが離れているから、廊下ですれ違うことはあまりない。

 昼休みと放課後。図書室に行くといつも本を読んでいる。そこで声をかけるのが彼の日課になった。

 麻衣と一緒にいるのは楽だった。

 たぶん、柳にあまり興味がないのだろう。他の女子とは違い、サッカー部のエースであることやテストの成績とか、見当外れの賞賛を口にしない。

 ただ一緒に本を読んで、時々雑談を交わして。難しい本が苦手だと言うと、歴史系の漫画で読みやすいものを勧めてくれた。

 投げ付けられる好意や賞賛にうんざりしていた彼には、そういう何でもない時間が心地良く感じられた。


 いつの間にか二人は仲良くなって、少しずつ彼女を知る。

 物静かで、遊んでいるイメージはない。だから清楚で真面目な優等生だと思っていたが、実は結構ぽんこつで、何もないところで転ぶのはいつものこと。

 一緒に遊びに出かけた時なんて、デパートで迷子になるという今日日小学生でもやらないような真似をして見せた。


『麻衣……お前、実はぽんこつ?』

『そ、そんなことない、よ?』

『いや、目を逸らすなよ』


 まあそれはそれで可愛いところではあると思うから別にいい。

 転びそうなるのを支えるのも随分と慣れた。自慢ではないが、麻衣の失敗の予測にかけては校内一という自信が柳にはある。


 後は、昔のことも、教えてくれるようになった。

 麻衣は幼い頃から体が弱かった。気管支が悪く、喘息があるらしい。

 運動をするのは勿論、外で遊び回るのも難しい。薬も手放せず、小学校も中学校も友達は少なかったそうだ。

 そんな中、唯一の慰めだったのが本。

 体調は少しずつ良くなっていったけれど、運動はやはり苦手。やってみたい部活はあっても、体力に自信はないし。今は放課後に読書を楽しむのが精一杯。

 でも昔は起きて本を読むのさえ制限があったから。好きな読書を毎日楽しめる今は、嬉しいことなんだと彼女は笑った。


 それを、俺は、馬鹿にしたのか。


 あの時の、透明な笑みの意味をようやく理解した。

 彼女はある意味で彼と同じだった。

 柳の言葉に傷ついたのではない。彼が『努力が報われない』と嘆くように、吉岡麻衣は『努力できない』と嘆く。

 己が無力を知りながら、現状を変えられない。変えようとすることさえできないが故の諦観こそ、透明な笑みの正体。

 それでも彼女は日々の中に小さな楽しみを見出して。

 そうした時間を、努力もせず辛い目にも合わずに時間を潰すだけの行為と見下していた。

 自分の馬鹿さ加減に腸が煮えくり返り、けれど、相も変わらず彼女は穏やかで。


『あんまり気にしないでね、やなぎくん。私すごく楽しいよ』

『え……』

『お友達と一緒に、好きな本を読めて。本当に、幸せ』


 ただそれだけ。

 たったそれだけのことを、まるで宝物のように、彼女は愛おしげに見つめていた。


“なんであんな地味な女子に。お前ならもっと高いレベルでも狙えるだろ?”


 周りは言う。

 けど違う、違うんだ。

『努力が報われない』と現状に不貞腐れるだけの自分より、『努力できない』と嘆きながらも日々に僅かな楽しみを見つけ、静かに穏やかに過ごす麻衣の方が強かった。

 彼女だけが、サッカー部のエースでも成績優秀な生徒でもない、ただの富島柳と過ごす時間を宝物のように思ってくれた。



 ページをめくると紙がこすれあって音が鳴る。

 ゆったりと流れる時間に染み渡る響きが心地良い

 放課後、夕暮れ。オレンジの光が差し込む図書室。

 ふとしたきっかけから仲良くなった二人は、日が暮れるまで本を読む。



 眩しくて、視界が滲む。

 中学二年の頃の話である。

 あの景色は、多分富島柳にとっても、宝物だった。





 だから───





 ◆





『ああ……あああああああああああああああああああああああああああっ!』





 ────だから、それを汚す、こいつらが許せない。





 麻衣と仲良くなって、もう一度サッカー部の練習に励みだした。

 努力できない彼女をみたら、努力できるのに不貞腐れていた自分が恥ずかしくなった。

 毎日くたくたになるまで練習して、終われば図書室へ迎えに行き、話をしたり寄り道したり、じゃれ合いながら一緒に帰る。

 中学三年でも同じクラスにはなれなかったけど、そういう楽しい日々はしばらく続き。

 麻衣にいいところを見せようと、最後の大会に向けて、がむしゃらに練習をして。

 少しだけ、会う機会は減り。


 影でいじめを受けていた彼女は、学校に来なくなってしまった。


 つまりは失敗したのだ。

 あの時、彼女の味方になれたのは彼だけだったのに、気付いてやれなかった。

 だからサッカーは中学までと決めた。

 麻衣が穏やかに日々を過ごせるよう、宝物と呼んだあの景色をもう一度過ごせるように、出来る限り一緒にいようと思った。

 なのに、また失敗した。

 許せない。

 いじめてたやつらが? 手を出そうとした男共が?

 それとも、本当に許せなかったのは、自分自身だったのだろうか。

 いや、もはやどうでもいいことだ。


 既に彼の心は、あのゴミ共への憎悪で満ち満ちている。

 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。そして心の在り様を決めるのはいつだって想い。

 揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。

 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。

 だから、これは当然の帰結だろう。 


 野放図に伸びた長い黒髪、纏う薄汚れたぼろきれ。

 彼の顔は醜悪に歪む。

 富島柳はひきこさんとなった。

 ならば彼が為すは都市伝説に語られる通り。


“自分をいじめた者達が肉塊になるまで引きずり回す”


 あのゴミ共が麻衣を傷つけたなら、それは彼が傷つけられたのと同じ。

 やるべきは、初めから一つだけだ。


「ば、化け物っ!?」

「なんだよこれっ、こんなの聞いてねぇ!」


 意識を取り戻した二人の男子生徒は、醜悪な怪異に気圧されて、怯えながら後退る。

 あれが何なのかは分からない。それでも良からぬものだということ。そして自分達へ向けられている悪意くらいは察せた。

 彼らはすぐさまひきこさんに背を向ける。

 女子達がどうなろうと関係ない。殺される、そう直感してしまった。沸き上がる恐怖に逆らえず、それなりに交流のあった少女達を見捨て一目散に逃げ出した。


『待て、よ……』


 一目散に逃げ出した……逃げ出そうと、思って一歩を踏み出した。

 けれど肩を掴まれる。

 逃げる? 不可能だ。

 如何なる説話においても変わらない。怪異と遭遇した時点で、それは既に手遅れ。

 十分に距離は開いていた。にも拘らず、ひきこさんは彼らの肩を掴み、そのまま力任せに引き倒した。


「いぎゃあああああああああああああああ!?」


 それだけで、皮膚が裂ける。

 ひきこさんが触れた部分は、まるで刃物で切られたように、鋭利な無数の傷ができている。

 制服が破れ、血が飛び散り。

 しかし地面に倒れのた打ち回る男子を見ても、何も感じない。

 憎しみが強すぎるせいか、或いは、人ではないものになってしまったからか。

 痛みにむせび泣く彼らが、せいぜい水たまりで溺れる蟻程度にしか思えなかった。


「ひ、ひぃ。だれ、か。誰か助け……」


 女生徒は腰を抜かし、逃げることもままならず惨状を見詰めている。

 意識せずに救いを求め、その声に反応し怪異が振り返った。


『助、けて?』


 こいつらはもう逃げられない。 

 なら、まず片付けるのは、麻衣を蹴ったあの女だ。

 ぎょろりとした、憎しみに濁った眼。深い沼のような淀んだ視線に射竦められる。


『助けて、ほしいのか?』


 怪異は問う。助けてほしいのかと。

 恐怖に支配された少女には、それが救いに見えた。

 助けて。ごめんなさい、許してください。なんでもしますから。

 思いつく限りの言葉をぶつけて。


『なら、麻衣が。それを、望まなかったと?』


 けれど、届く筈もない。


『助けて。ごめんなさい、ゆるして、ください。あいつだって、何度も訴えた筈だ。でもお前たちは聞き入れなかった。なら、ここでお前たちだけが救われるのは、不公平じゃないか』

「それ、は……」


 反論できない。

 何も言えずただ震える少女達。

しかし怪異は一瞬、その眼光を緩めた。


『だけど、許しは、するよ』

「……え?」

『だから、許す』

「ほ、本当に?」

『ああ』


 助、かった?

 実際ひきこさんは足を止めている。もしかしたら、本当に。

 怯えていた少女達は、蜘蛛の糸に縋る亡者のように、唯一の希望に飛びつき。


『肉塊になったお前達なら、きっと許せるからさ』


 にたりと、耳元まで裂けた口が醜悪なまでに歪む。

 助かるかもしれない。

 そんな希望を抱き、しかし奪われた少女達は、一度は助かるかもと思ってしまったが故に失意のどん底へと叩き付けられた。

 ああ、その顔こそが見ものだった。

 これは裁きだ。ならば彼女達は、絶望のままに死んでいかねばならない。



 カチカチ、と奇妙な音が鳴った。



 突き出した彼の手には、血に濡れた、錆びついた刃。

 カッターの刃やカミソリ、鋭い刃物がまるで生えるように掌の皮膚を食い破って沸き上がる。

 痛々しく気色の悪い光景に少女達の顔が引きつる。あれらが自身の肌を食い破る様を、ありありと想像してしまった。




 刃物をシンボルとする都市伝説の怪人は多いが、ひきこさんもまたその一角だ。

 とはいえ口裂け女の鎌や赤マントのナイフとは若干以上に趣が違う。

 ひきこさんの刃物はカミソリやカッター。

 曰く、ひきこさんの大きく裂けた口は、不安定な精神から自らカッターで切り裂いたもの。

 いじめと不登校を背景に生まれた彼女は、リストカットなどの自傷に使われる脆く鋭い刃物、正確に言えばそれによって傷つけられた自身の傷を象徴とする。


 赤マントは、本質的にはマントの怪人ではない。

 そもそもは青い毛布をかぶった男によって引き起こされた殺人事件。それが時代を経て赤へと染まり、その後にマントへ変化する。

 つまりマントは最後の要素。

 赤マントは『マント』の怪人である前に『赤』の怪人、それ以上に赤=血液を撒き散らせる『殺人』の都市伝説だ。


 その観点で語るならば、ひきこさんは人を殺しながらも『殺人』の都市伝説ではない。

 いじめとひきこもりを元に生まれ、カッターナイフで自身の容貌を傷つけ、自身がいじめられたのと同じ方法で加害者を殺す。

 だから彼女は鏡に映る自分を恐れ退散する。

 鏡が怖いのは、いじめっこと同じことをしている、今の自分が怖いから。

 いじめの加害者を傷つけることで、自身も加害者となり、鏡でそれを見せつけられて逃げていく。

 誰かを傷つけることで自身も傷つける、復讐することで復讐される側と同じものになる。

 その在り方こそが彼女の本質。

 言うなれば、ひきこさんとは『自傷』の都市伝説である。


「だ、め。だめだよ、やなぎくん……」


 腹を蹴られ、鈍痛で動くこともできない。地面に這い蹲ったままの麻衣は、それでもかすれた声を絞り出す。

 ああ、止めると思っていた。

 優しい彼女は、たとえ自分をいじめていたクソであろうとも、無惨に死んでいくのを見過ごせない。

 そんなこと、最初から分かっている。

 しかし柳はゆっくりと、確実に女生徒達を追いつめる。


 ひきこさんは自傷の都市伝説。

 自らの皮膚を傷つけ生み出すカミソリはその体現だ。

 だから富島柳も同じ。傷つくと分かっていながらも復讐を止められない。

 この復讐は、優しい麻衣を傷つけてしまう。

 そうと知りながらも、彼が望むはただ一つ。

 皮が剥げ、むき出しになった肉と滴り落ちる血液。

 ぐちゃぐちゃの肉塊となった少女達の姿だけが、彼の心を満たしてくれる。


「成程、朝顔の危惧はこういうことか」


 あと少しでそれが叶う。

 だというのに、邪魔が入った。

 怯えのない、鉄のように芯の通った声。麻衣をいじめていた女生徒の傍には、どこかで見た覚えのある少年の姿が。


「富島……随分と様変わりしたじゃないか」


 確か、クラスメイトだったような。

 なんだか頭に靄がかかって、名前が。

 ああ、でも。こうやってあいつらの側に立つから、多分敵で。

 いや、違う。麻衣の為に、力を貸してくれると。

 そんな話をしたはず、なのに。


『邪魔、するな、よ』


 たどたどしい呻きに現れた少年……葛野甚夜は眉を顰める。

 周囲を見渡せば、腹を手で押さえ蹲っている吉岡麻衣。血だらけで倒れている二人の男子生徒に、怯えて腰を抜かしている三人の女子。

 男子は出血こそ派手だが、見たところ傷は浅い。おそらく皮膚を斬った程度。放っておいても死に至ることはないだろう。

 吉岡は、腹を殴られたのか。胃液を吐き出し苦悶の表情。こちらも命に支障はない。

 そして無傷の女生徒を、富島柳が殺そうとしている。

 女子が主犯格、吉岡を殴り、男は女共がけしかけた下種、といったところか。

 粗方の状況を把握し、甚夜は呆れから溜息を零す。


「なんとも、庇い甲斐のない状況だ」

『なら、消えろ。消えて、くれ。俺は……そいつらを』

「そう、だな」


 頼むから殺させてくれと、彼は懇願する。

 甚夜は僅かに眉を顰めた。自身も経験があるから分かる。富島柳は憎しみの果てに鬼へと堕ち、思考も薄れ始めている。

 はっきり言ってしまえば、もはや手遅れだ。

 憎悪に身を窶した者の末路など幾つもない。柳の行く末は容易に想像がつく。

 自意識を手放さずに安定すれば甚夜と同じようなあやかしに。そうでなければ、ただ周囲に害悪を撒き散らすだけの怪異となる。

 どちらにせよ人としての彼は既に終わっている。


「彼女達を許せはしないか?」

『あた、りまえだ』

「殺すことに、躊躇いは」

『あるわ、けが、ない…だろう……!』


 溜那の時と同じ方法で、自意識を安定させる?

 いや、無理だ。彼女を助けられたのは、<古椿>で操れるよう南雲叡善が調整していたから。

 言ってみれば例外中の例外。

 外的要因が全くなく、自らの想いをもって怪異へ堕ちた富島柳相手では、<古椿>や<御影>での干渉は無意味。彼を救えるのは、あくまでも彼自身の心だけ。


 そして、あの様を見るにおそらく自意識を保つことは不可能。

 状況は既に詰み。

 近代の都市伝説の知識を持たない甚夜には知りようもないが、今の柳はひきこさん。

 憎しみのままにいじめの加害者を殺し、いずれは“遭遇した者を肉塊になるまで引きずり回す”、ただそれだけの“現象”に彼はなるのだ。


『どけ、俺は、そいつらを。麻衣が、そうなるから』

「元より守る義理もない。私としては構わないが……」


 そんなっ。ひどい。ふざけないで。

 絶望に満ちた少女達の叫びなど意にも介さず、甚夜はひきこさんに正対する。

 下種の命まで守ってやる義理はなく、正義を気取る趣味もない。

 そもそも彼自身が憎悪を持って鬼へと落ちた身だ。「復讐を止めろ」などと、どの面下げて言うつもりなのか。

 放っておいても人間としての富島柳はここで終わる。

 ならば意識が残っているうちに、復讐を果たさせてやるのがせめてもの慈悲なのかもしれない。

 斬るべきを斬れぬは無様。

 少なくとも、自分ならばそうしてほしいと思う。


「だ、め。やなぎくん、お願い、だから」


 けれど吉岡麻衣は、か細い体に活を入れて、必死になって立ち上がろうとしている。

 あの体格だ、元々丈夫ではないのだろう。散々いじめられ、腹を蹴られ。力なんてほとんど残っていない。

 立ち上がろうとして、崩れ。それでも諦めず、うわ言のように駄目だ、やめてと繰り返しながら。

 何の力もない少女が、大切な人を守りたいと。その手を汚させてなるものかと、なけなしの意地を張っていた。


「……残念ながら、そうもいかないらしい」

『なに、が』

「はっきり言っておく。人としての君はどのみち此処で終わりだ。何も残っていないというのなら、押し通れ。彼女達を殺しすぐさま怪異へと落ちればいい」


 もっとも、殺さなくても彼は、ほどなくして怪異に堕ちる。

 もはや人には戻れず、自我を取り戻すことも叶わず。

 ならば後は、どうやって死なせてやるかという話だ。


 だから甚夜は、最後に復讐を遂げさせてやりたいと思い。

 しかし吉岡麻衣の目は、まだ捨て切れないものがあると言っている。


 あの子の声なら届くかもしれない。

 届いたとして結末は変わらず、復讐を果たせなかった彼に何が残るかは分からない。

 けれど彼女の在り方を尊いと思う


「しかし、まだ諦めきれない者もいるようだ。悪いが、あの子の意地の分くらいは邪魔をさせてもらうぞ」


 あの三人組の女子を殺させず、吉岡麻衣との会話の時間を作る。

 少女の呼びかけに応え、自我を持った怪異に落ち着くならばよし。

 最後に想いを通じ合わせ、それでもどうにもならず、単なる害悪へ変じるならば。

 泥は被る。この手で彼を斬り捨てよう。


 甚夜は一度深く息を吐き、眼前の怪異を静かに見詰める。そこに気のいい級友の面影はない。

 本当に、儘ならないものだ。

 彼はただ、大切なものを守りたかっただけ。だというのに、大切なものを傷つけることしかできなくなってしまった。

 そんな彼になにもしてやれない自分がもどかしく、ただ小さく願う。


 どうか、報われない結末に。

 ほんの少しの救いがあってくれますように。




 ◆




 梓屋薫が体育館裏に辿り着いた時、状況は佳境へと至っていた。

 血塗れで倒れている男子生徒。あまりの恐怖に涙を流し動くこともできないでいる三人の女子。

 ぷるぷると体を震わせ、歯を食いしばって立ち上がる麻衣の姿。

 そして。


『あああああああああああああああああ!』


 暴れ狂うひきこさんと、それを手にした赤い太刀でいなす甚夜。

 怪異は雄叫びと共に突進、纏うぼろきれが翻る。

 ひゅぅ、と空気を切る嫌な音。それを太刀で防げば、何故か金属音が響き渡る。

 ぼろきれ、ではない。カミソリやカッターの替え刃のような、脆く鋭い刃が折り重なっている。

 あれは布ではなく、刃物だ。それを纏い動くのだから、激しく動けば動くほどにひきこさんは血を撒き散らす。

 振るう腕からは、やはり刃。掌を食い破って生えるカッターの刃が、雨あられと甚夜を襲う。

 攻撃をしても、動いても、受けに回っても。なにをしてもひきこさんは自らを傷つけていく。

 だというのにその挙動は鈍ることなく、甚夜は防戦一方。口裂け女相手には圧倒していた彼が、一太刀も加えられないでいた。


「……まずいな」


 薫は甚夜の呟きを、押されているからだと考えた。

 実際は違う。攻撃に転じようと思えば可能だが、今の彼が為すべきは時間稼ぎ。だから防戦一方は当然のことだ。


「やなぎくん、お願い聞いて……! とまって、よぉ」


 しかし、まずい。

 予想以上に早い。

 動きが、ではなく。富島柳の壊れる速度が。


『ひっ、は。あはあ、ひひひ』


 ひきこさんは笑っている。攻撃と共に自らを傷つけながら、狂ったように笑い続ける。

 吉岡麻衣がいくら呼びかけようとも、見向きもせず、血を撒き散らし、脆く鋭い刃を振るっていた。


「もう、だいじょうぶ。私は、だいじょぶだから……それ以上、傷つかないで」


 少女の声は届かない。

 流れる涙は彼を案じてのもの。怪異となり自らを傷つけながら、柳はそれでも復讐を果たそうとする。

 化け物なっても、麻衣にとって彼は富島柳なのだ。

 傷ついてほしくないと。私の為に傷つく必要はないと、何度も何度も訴えかける。


『ああ、あは、ひひ。あはは、ひっ、はははははははははは。許さない、許せる、ものか。俺は麻衣を。俺は麻衣で。お前が、いじめ、麻衣を守らなきゃ、俺が、俺を守らなきゃ。あいつの痛みが俺の痛みで。だから、俺は悲しくて、麻衣が喜んでるんだ。きっと、あは、そう、うだ。ひひ、あひ、あはは、ははははははははははは!』


 彼自身、何故暴れているのかも分かっていない。

 ただ衝動のままに害意を撒き散らしている。

 年甲斐もなく悪足掻きをしてみた。

 報われない結末に僅かながらの救いを求めた。

 だがこれ以上は無理だ。復讐を遂げられず、麻衣の声も届かないというのなら、彼に与えられる救いはもう何もない。


「吉岡……すまない、これ以上は」

「ま、まって! もう少し、やなぎくんは、こんなことで負けない。だから……っ」


 麻衣はまだ信じている。

 この声が、この想いが、彼に伝わることを。

 けれど今の彼は単なる怪異。ひきこさんという現象になってしまっている。

 届くとは到底思えない。それでも、少女の目は諦めていなかった。


「あ、あ……そう、だ。鏡、鏡!」


 苛烈な戦いを傍観していた薫は、はっとなって自身の懐を漁り始めた。

 ひきこさんは鏡を見せれば逃げていく。だから鏡を、と所持品を探すが、生憎と薫に化粧の習慣はなく、手鏡の類は持っていない。

 ならば、あの三人の女子生徒。若干ケバいしきっと鏡を持っている筈だ。思い立ったらすぐ行動、薫は甚夜達とひきこさんの戦いを横目に走り抜ける。


「ねね、鏡! 鏡持ってない!?」

「え、あ。な、なに」

「だから鏡! ひきこさんの弱点なの!」

「え!? あ、でも、ポーチ教室に……!」

「あーもう!」


 しかし三人の女子も持っていない。

 後は、吉岡麻衣だけ。でも彼女も薫と同じく化粧をしている様子はない。手鏡なんて携帯しているとは思えなかった。

 けれど最後の望みを託し、彼女の下へとひた走る。いきなり現れた薫に麻衣は随分驚いていたが、今は気を使っている余裕もない


「吉岡さん、鏡ない!? ひきこさんの弱点で、見せれば逃げてくの!」 

「あ、ずさやさん……かが、み」


 どうすれば、彼に届く? なにを伝えれば、彼は止まってくれる?

 ずっと考え続けて麻衣は、一度必死な様子の薫へ視線を移した。

 鏡、鏡と何度も呟き、思い立つものがあったのか、再び柳をまっすぐ見詰める。

そして、何かを決意するようにぐっと唇を噛み締めた。


「ある、よ。鏡、ちゃんと」


 ようやくだった。

 ようやく、伝えたいことがはっきりと定まった。

 どうすれば届くのか。それも、薫が教えてくれた。

 少女の目に力が戻り、しかし一歩目を踏み出すより早く、硬直していた状況が動いた。


「<地縛>」


 甚夜が呟くと共に走る、無数の鎖。

 それらはひきこさんの四肢を拘束し、完全にその動きを止めて見せた。

 マガツメの娘から喰らった<力>だ、年若い怪異に破れるものではない。

 力を入れても振り払えず、脆い刃物では切り裂けず。どれだけもがいてもひきこさんは抜け出せず、体をよじる程度がせいぜいだ。


『ああ、ひ。俺は、麻衣を……だから、守らなきゃ。もう一度、あの景色に。俺は、失敗したから。今度こそ、麻衣を』


 心底、残念だ。

 まだ彼にも捨て切れないものはある。けれど、それを抱えたまま富島柳は怪異となった。

 吉岡麻衣の声も彼には届かなかった。もうこれ以上、出来ることはなにもない。

 結局、救いはなかったのだと思い知らされ、甚夜は僅かに顔を顰めた。


「……せめて、此処で終わらせよう。君が、無為な殺戮をしないで済むように」


 泥は被る。最初から決めていたことだ。

 赤い太刀を握り直し、腰を落とす。

 苦しめるつもりはない、一太刀で終わらせる。

 甚夜は一気に踏み込もうとして。


「やなぎくん……」


 それよりも早く、彼に近付く者がいた。

 誰もが驚愕に動きを止めた。多分、ひきこさんでさえ。

 麻衣はよろよろと覚束ない足取りで柳の傍へ。そして目前に立ち、そっと優しく彼に触れる。

 纏うぼろきれは、刃物の塊。

 それに触れたのだ、細い少女の指は無惨に傷つき、血がつぅと伝った。


「……鏡、ちゃんとあるよ」


 なのに、少女はあまりにも穏やかに微笑む。


「やなぎくん。私ね、部屋から出て来れたの」


 その表情は、どこかで見たような。

 あれは、なんだろう。どこだったっけ。

 ひきこさんは……富島柳は、記憶の片隅、確かに残っているそれを何とか探し出そうと、ぼんやり霞がかった頭をひねる。


「高校に合格して、毎日学校通って。やなぎくんとお昼ご飯食べて、一緒に帰って。クラスの女の子たちとも、少しずつお話しできるようになった。この前はね、男の子に本を取ってもらって。でも、逃げなかったんだよ」


 それがどうしたと思ってしまうくらい、ちっぽけなこと。

 なのに麻衣は誇らしげ。どう、すごいでしょうと。自慢するように柳へ語り掛ける。


『ま…い……』

「嫌がらせは、まだちょっとあるけど。頑張ったよ。ここで逃げたら前と同じだって、ちょっとだけど頑張れた。それどころか、言い返したりもしたんだから」


 指先で触れるだけではない、麻衣は包み込むように柳を抱きしめる。

 力を入れれば、傷ついて。痛みはあるけれど、決して離さない。

 もう二度と、離してはいけない。


「でも、最初の一歩はやなぎくん。いじめが怖くて引きこもってた私を、あなたが連れ出してくれた」


 だから頑張れた。

 だから、鏡は、ちゃんとここにある。


「私の今は、やなぎくんが頑張ってくれた証。ね、今の私、やなぎくんにはどう映ってる?」

『あ…ああ……』

「ちゃんと、笑えてるでしょ? ……鏡ならここにある。もし忘れそうになったら、私を見てほしいな。やなぎくんのしてくれたことが、いつだって映ってるから」


 いつか、涙に沈んだ心へ、手を差し伸べてくれたから。

 今もこの笑顔は、きっと彼の優しさを映し出している。

 なら失敗なんてしていない。今迄やってきたことは間違いなんかじゃなかった。

 少女は血を流し、痛みに耐えながらも、ただ柔らかく微笑む。 

 精一杯の想いが、まっすぐあなたへ伝わるように。


「ありがとう。でも、もう私の為に傷付かなくても大丈夫。今度は私が頑張るから。……間違ってなんかいなかったって。あなたがそう思えるように、私、頑張る」

『まい、麻衣ぃ……』

「だから……どっかにいっちゃやだよ、いつもみたいに私のことぽんこつって馬鹿にして。頑張るけど、私すぐ転ぶから。ちゃんと手を引いてよ」

『あ、あ。そう、だよ、なぁ』


 ああ、ようやく思い出した。

 あまりにも穏やかな微笑み。

 見覚えがある筈だ。だって、あれは。


 ページをめくると紙がこすれあって音が鳴る。

 ゆったりと流れる時間に染み渡る響きが心地良い

 放課後、夕暮れ。オレンジの光が差し込む図書室。

 ふとしたきっかけから仲良くなった二人は、日が暮れるまで本を読む。


 眩しくて、視界が滲む。

 中学二年の頃の話である。

 あの景色は、多分富島柳にとっても、宝物だった。


 遠い図書室で、いつだって麻衣は穏やかに微笑んでいた。

 失われたと思っていた、宝物の景色。

 柳はずっとそれを取り戻したくて。

 でも、本当は失ってなんていなかった。

 気を張りすぎて見えていなかっただけで。

 宝物は今も此処に。

 ちゃんと、すぐ傍にあってくれたのだ。


『ごめん、ごめんな……俺さ、お前のこと何にも見えて、なくて」

「違うよ。見えていなかったのは、やなぎくんのこと。私の面倒ばかり見てたから、ちょっと自分のことに気が回らなかっただけ」


 都市伝説、ひきこさん。

 いじめから引きこもり、暗い部屋の中で心を病み、怪異と化した女の物語。

 彼女は雨の日に町をさ迷い、出会った子供の足を掴み、引きずり回して肉塊へと変える。

 危険な都市伝説ではあるが、その対処法は割合簡単。

 鏡を見せれば、それだけでひきこさんは逃げていく。


 つまり、この結末は原典と何も変わらない。

 彼の傍には鏡があり、映し出された自身の行いに、ひきこさんは退散した。

 ひきこさんの都市伝説は、都市伝説の通りに終わりを迎えた。

 特別なことなどなにもなかった。


「はは、そっか。お前、ぽんこつだし。目ぇ、離せないもんな」

「ふふ。ひどいよ、やなぎくん……」


 少年と少女はしっかりと抱き合う。

 彼はもはや怪異ではない。

 長い黒髪も纏うぼろきれもどこかへ消えた。

 ひきこさんは逃げて、そこには富島柳と吉岡麻衣の二人がいるだけ。

 ぬくもりを確かめ合うように、もう二度と離れぬように、微笑む二人がいるだけだった。




 ────若者というやつは、時に年寄りの想像を容易に超える。




 その光景に誰よりも驚いていたのは甚夜だろう。

 年老いた彼は数多の鬼を、都市伝説を。

 此処にいる誰よりも、多くの報われぬ結末を見てきた。

 故に、手遅れだと判断した。

 憎悪に身を窶した者の末路など幾つもない。

 自意識を手放さずに安定すれば甚夜と同じようなあやかしに。

 そうでなければ、ただ周囲に害悪を撒き散らすだけの怪異となる。

 どちらにせよ人としての彼は既に終わっていると、そう思った。


「……まさか、あそこから戻ってくるとは」


 しかし若者というやつは、時に年寄りの想像を容易に超えてくる。

 今の柳は鬼ではなく都市伝説でもない。

 一度は怪異へと身を落としながら、人の領域へと帰ってきた。

 勿論彼一人の力ではない。引き上げる者がいてくれたからこそ。

 正直に言えばこの結末は、予想だにしていなかった。


「えーと、葛野君。どう、なったの?」


 ひきこさんが、富島柳になって。血だらけのまま二人は抱き合って。

 戦いが一段落して甚夜の傍まで歩み寄った薫だが、今一つ状況が理解できていない。

 そしてひきこさんの都市伝説を知らない甚夜自身、何故柳が人に戻れたのかよく分かっていなかった。

 ただ、どうなったのかと問われれば、多分藤堂夏樹の口にした言葉が最も適しているのだろう。


「まあ、なんだ。ロマン、でいいのかな」

「……どゆこと?」

「伸ばした手が届いて、まっすぐ想いが伝わって、男女は幸せな結末を迎える。在り来たりだが、悪くない結末だろう」


 締め括りとしてはそれで十分。多くを語っても無粋になるだけ。

 理屈なんぞ所詮は他事。

 幸せそうに抱きしめ合う二人が、そのまま理由でいいような気がした。






 ◆






「なによあれ、なんなの、あの化け物!?」

「分かんないわよっ!」

「吉岡も富島君も絶対おかしいって!」


 後日のことである。

 命からがら助かった三人の女子生徒は、一人目を離れ階段の踊り場で、あの恐ろしい出来事について言い争っていた。

 憧れていた男子が化け物で、いじめていた女子がそれを止めて。

 訳が分からない。夢だったのだと思い込めればいいのだが、吉岡をなぶりものにする為呼んだ男子は、実際に傷を負い入院してしまっている。

 つまりあの化け物は紛れもない現実。同じ学校に、同じ学年にあんな醜悪なものが潜んでいるのだ。


「どうする?」

「どうするって……」

「だから、放っておいていいのかってこと! あんなのがすぐ近くにいんのよ!?」

「確かに、誰かに話した方が」

「誰かって誰よ」

「先生……ううん、警察とか」


 やはり警察に、もっと大きな問題として取り扱わないと。

 三人の話はどんどんヒートアップする。

 しかし、それでは少し困る。


「いや、誰かに話すのはやめた方がいい」


 急に声をかけられ、三人の女子はびくりと体を震わせ振り返った。

 そこにいたのは、あの時化け物相手に戦っていた男子。名前は、クラスが違うから分からないけれど。

 なんだかんだ、彼は自分たちを守ってくれたのだ。


「あの時の……」

「な、なんでよ。やめた方がいいって」


 あんな化け物と戦えるのだから、彼も十分得体が知れない。

 しかし助けてくれたという事実が、少しだけ彼女達の態度を軟化させる。

 やめた方がいいという彼の表情は真剣で、それも耳を傾けようと思わせる要因の一つだった。


「話そうとすれば、君達に危険が及ぶからだ」

「危険が、及ぶ?」

「あの手の怪異は、自身を害する者に報復を企てる。誰にも話さず、何事もなかったように振る舞う。そうするのが一番安全だ」

「でも……!」

「ああ、いけないな。そら、もう来たぞ」


 顎で彼が示したのは女子生徒の足元。

 いったいなんのこと? 疑問に思い視線を落とせば。



『あは、ひひ、あは。ははははっははははははは!』



 足元の影の中から腕が伸びる。

 長い黒髪、醜悪な容貌。耳元まで裂けた口、纏うぼろきれ。

 都市伝説ひきこさん。

 かの怪異は再び女生徒を殺そうと姿を現したのだ。


「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」


 少女達は悲鳴を上げ、わき目もふらず逃げ出していく。

 途中で転んで、這い蹲って、それでもすぐに駆け出して。廊下を走る彼女達に、周囲の生徒は奇異の視線を向けていた。

 それと入れ替わるように男子。葛野甚夜の下へ、てこてこと少女が歩み寄る。

 今はお昼休み。行き先は伝えておいたので、梓屋薫は昼食のお誘いに来てくれたのだろう。


「葛野君、用事終わった? 一緒にご飯いこー、もうみんな集まってるよ」

「ああ、そうだな」

「ところで、なんか今いじめっこ三人組が廊下を走ってったけど、なにかあった?」

「さて。天邪鬼にでも化かされたんじゃないか?」


 そんなことを言ってとぼけてみせる。

 勿論、先程のひきこさんは偽物。天邪鬼がくれた嘘、<空言>で作り上げた幻影である。

 記憶を消してしまってもよかったが、全てを忘れて、再び麻衣のいじめが始まっても困る。あと数回も同じ脅しをかければ、話す気もなくなるだろう。 

 それに、彼女達が無罪放免というのは気に喰わない。

 しばらくはひきこさんの幻影をけしかけて、自分達がしたことを後悔してもらうつもりだった。





 こうして、ひきこさんにまつわる一連の事件は幕を下ろした。

 血を流し倒れた二人の男子生徒は病院へ運ばれた。命に別状はなく、怪我の理由は互いに「分からない」と言い張っている。

 彼らの記憶はしっかりと消しておいた。柳らのことが漏れる心配はないだろう。


 麻衣をいじめていた三人の女子生徒は、あれ以来随分と大人しい。

 ひきこさんの幻影が効いたのか、誰かに話した様子はなく、嫌がらせもぴたりと止まり、廊下ですれ違う時もおどおどとした様子で逃げていく。

 長く続いた麻衣へのいじめは、ようやく終わりを迎えたようだ。


 富島柳は人へと戻り、相変わらず麻衣と一緒に毎日を過ごしている。

 意地は見せたが日常での彼女は相変わらずぽんこつ気味、なにもないところで転んでは、柳に支えられる姿がよく見られた。

 いじめの問題も都市伝説も解決し、取り敢えずの平穏は戻った。

 しかし以前とまったく同じという訳でもなかった。


「なあ、葛野……」


 学生食堂、窓際のテーブルを五人で占拠し、雑談を交わしながらの昼食。

 今日のメンバーは甚夜とみやか、薫のいつもの三人。それに、富島柳と吉岡麻衣の姿もある。

 人は多いが皆それぞれ歓談に夢中。彼等に注意を払っている者はいない。

 それでも一度周囲を警戒し、こちらを見ている生徒がいないことを確認してから柳は甚夜に相談を持ち掛けた。

 その内容というのは。


「俺さ、こんなことが出来るようになっちゃったんだけど」


 彼の手には、カミソリの刃。

 ひきこさんであった頃と同じように、彼はカッターの刃やカミソリなどの脆く鋭い刃を生み出したり、刃物で編んだぼろきれを纏ったり。

 後は、ごく短い時間ではあるが人とは思えぬほどの身体能力や耐久性、再生力を発揮したりと、非常に人間離れした力に目覚めてしまったのである。

 やはり既に人間ではなくなってしまったのか。

 不安に思い相談を持ち掛けたのだが、甚夜曰くそういう訳でもないらしい。


「これって、やっぱり」

「いや、保証しよう。富島が人間であるのは間違いない。……だが一度は怪異に堕ちた影響か、“ひきこさん”とやらの力の一部を行使可能になった、のだと思う」

「なんか、はっきりしないな」

「私も初めて見るからな。ただ、人であっても不可思議な能力を有した者は案外多いぞ?」

「そうなのか?」


 他の者も興味深そうにしていたため、いくつか例を挙げていく。

 付喪神を操る秋津。

 妖刀を扱う南雲。

 鬼の魂で作り出した勾玉を肉体に埋め込み、<力>を行使する特殊な退魔、久賀見。

 妖怪化した古い器物を取り扱う骨董屋、古結堂。

 皆、人でありながら特異な能力を扱う者達だ。

 それを聞くと、柳は感心したように深く頷く。


「へえ、退魔師って本当にいるんだな。って、葛野も同じようなもんか」

「まあ、な。ともかく、君も人でありながら人ならざる力に目覚めたということだろう。……ふむ、都市伝説使い、とでも呼ぶべきかな」


 都市伝説使い。

 なんか少年漫画にでも出てきそうな名前である。

 よく分からないが、取り敢えず化け物になってしまったのではないと知れて安心した。

 ほっ、と柳が安堵の息を吐いていると、薫がくいくいと甚夜の袖を引っ張って呼んでいる。


「葛野君葛野君」

「どうした、梓屋?」

「都市伝説使いより、都市伝説保有者アーバンレジェンド・ホルダーの方がかっこいいと思う!」


 ぐっと両の拳を握りガッツポーズ。薫は真剣な表情でそんな提案をしてきた。 

 本当に、この子は。

 今回の件は完全に蚊帳の外で、詳しい事情を全く知らないみやかでも、今はそういう状況ではないだろうと分かる。

 相変わらず過ぎる親友の爛漫さに、ちょっとだけ溜息が零れてしまう。

 その提案に甚夜も目を白黒させている。そしてしばらく何かを考え込み、小さく頷いてから再び彼は口を開いた。


「あー。……都市伝説保有者アーバンレジェンド・ホルダー、とでも呼ぶべきかな?」


 どうやら考えた結果、薫の案を採用することになったらしかった。


(やり直すんだ……)

(つーかそれでいいのか)

(だから何か薫に甘くない?)


 麻衣、柳、みやかは三者三様、微妙な感想を抱く。

 しかし甚夜は大して気にしていない。薫に至っては、むふー、と何やら満足げである。


「ともかく、そう不安がることもない。君のそれは足が速い、体が柔らかい、その程度の特性に過ぎない」

「そっか、なら一安心だな。悪いな、変なこと聞いて。それに、色々世話になったみたいでさ」

「それこそ気にしないでいいさ。今回の手柄は吉岡と梓屋の二人。私がやったことなど精々時間稼ぎだよ」


 謙遜ではない。

 実際、甚夜は怪異に堕ちた柳を斬り伏せようとしていたし、吉岡麻衣の存在がなければ彼は人に戻れなかった。

 本当に何もしていないのだから、どうにもバツが悪い。


「そんなこと、ないよ。葛野君は、私の我儘聞いて、くれたから……ありがとう、ございました」

「だな、麻衣の頑張りを応援してくれたんだ。やっぱり俺も、ありがとうって言うよ」


 けれど麻衣も柳も真っ直ぐにありがとうと伝えてくれる。

 歳をとったせいだろう。こういう素直な子供達にはちょっと弱い。


「ならば受け取ろう。それで終わりにしておいてくれ」


 いつまでも意地を張っていても仕方がない。

 苦笑交じりに感謝を受け取れば、二人して満足そうに頷く。

 そうしてまた昼食に戻る。まだぎこちないながらも頑張ってみやか達とおしゃべりをしようとする麻衣、そんな彼女を温かく見守る柳。眺めているだけで心地よい景色に、甚夜の口元も自然と緩む。

 食事を終え、時計を確認した麻衣が柳に目配せをすれば、「分かってる」と彼はにっかり笑う。


「ごめん、ちょっと俺ら用事があるんだ。先に行くわ」


 言いながら柳は席を立ち、慌てて麻衣もそれに続く。

 が、そこはやはり彼女だ。慌て過ぎて、足が滑ったのか。何もないところで体勢を崩し、そのまま麻衣は顔面から床に突っ込んでいき。


「だからな? もうちょっと気を付けてくれよ、頼むから」


 それを予見していた柳が、転ぶ寸前のところで体を支える。

 別に今更驚くでもない。同じクラスの生徒なら、既に見慣れきってしまっている光景だ。


「ご、ごめんね、やなぎくん……」

「いいって、慣れてる。でもほんと、麻衣はぽんこつだなぁ」


 けれど見慣れた光景が変わらず此処に在ってくれることが、たまらなく嬉しくて。

 薫もみやかも、そして柳達自身も朗らかな笑みを浮かべている。


「んじゃ、行くな?」

「あの、お、お先に……」


 二人は当たり前のように手を繋いで、食堂から出ていく。

 柳に引っ張られ、麻衣は少しだけ恥ずかしそう。けれど握りしめた手は離れることなく、彼らは一緒に歩いていく。

 ひきこさんが退散した後も、やはり柳の方が引く側のようだ。


「やっぱり、仲いいね」


 彼らの様子に、みやかはしみじみと呟く。


「そうだねー。ほんとに恋愛映画みたい」 


 薫も心からの喜びに目を細める。

 うっとりとした表情を見るに、彼らの行く末と恋愛映画らしいハッピーエンドを重ねているのだろう。

 ただ、水を差すのは悪いが、どうやら勘違いしているようなので訂正はしておこう。


「……一応言っておくが、無法松の一生の最後は悲恋だぞ?」

「えっ、そうなの!?」


 無法松の一生の最後は富島松五郎の死と、残された吉岡良子の哀切の涙。二人の別離によって締め括られる。

 切なく美しい終わりは高く評価されているが、決して薫が想像するような、恋人同士の甘さを感じさせるものではなかった。


「えー、それ全然ロマンティックじゃない……」

「そうか? 死して尚も繋がる想いというのは、十分ロマンだと思うが」


 やはり薫は、「富島と吉岡の組み合わせがロマンティック」だなんて言うものだから、映画の最後はハッピーエンドだと思っていたらしい。

 なんだか裏切られたような気分なのか、若干不満そうにしている。


「でも、やっぱり最後はハッピーエンドがいいよ」

「そこは同意見だな」


 そんな彼女の子供っぽい振る舞いに、甚夜は小さく笑みを落とす。

 本来なら、富島柳と吉岡麻衣の結末は、映画と同じく別離でもおかしくはなかった。

 けれど彼らは最後まで互いの手を離すことなく、再び共に生きる未来を勝ち取って見せた。

 だから、そこは薫と同意見だ。

 あの二人を飾る言葉は“死して尚も繋がる想い”よりも。


「手を繋いで君と一緒に……彼等には、その方が似合っている」


 心から、そう思った。





『手を繋いで、君と一緒に』・了




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