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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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172/216

『手を繋いで、君と一緒に』・2




 吉岡麻衣が中学三年生だった頃の話である。

 初めのきっかけは何だったのか、もう思い出せない。

 暗い性格だったからか、それとも容姿がぱっとしないからか。

 人見知りが激しく引っ込み思案なところや、勉強ができて真面目で、教師受けだけはよかったのが気に障ったのかもしれない。

 後は、声。

 耳障りと言われたことが何度かあったから、それのせいだろうか。

 心当たりは幾つかあるけれど、初めのきっかけが何だったのか、彼女にはもう思い出せず。


『なんかさー、あの子暗いしおどおどして、ウザくね?」』

『あ、分かるぅ。あざといしさぁ。なんか作ったみたいな声で、男子に媚び媚びなの』

『マジでキモい』

『だからさぁ……』

『それ、いいじゃん』

『じゃあ皆にも……』


 けれどいつの間にか、クラスに居場所はなくなっていた。


『あれー、次の授業移動教室になったのに聞いてなかったのぉ?』

『大方男と遊んでて忘れてたんじゃない?』


 連絡事項が回ってこないのは当たり前。

 一人先生に怒られて、クラス全員の笑い者にされた。

 上履きや教科書を捨てられたのなんて数え切れないくらい。

 スクール水着の大事なところだけを切り取られていたこともあった。


『あ、ごめんねぇ?』

『うわ、だっさ!』

『汚れちゃったみたいだし拭いてあげる!』


 足を引っ掛けられて転んで、雑巾で顔を拭かれて。

 バケツの汚い水を頭からかけられた。


『うわ、きったねぇ』

『あははは』

『くっせ、はははは』


 ごめんなさい、許してください。

 泣いて謝るほどに彼女達は喜んで、周りのクラスメイトもニヤニヤとして。

 毎日が辛くて、朝になると吐いて。

 学校が怖い。 

 クラスの皆が、笑い声が、視線が怖い。

 夜寝ると朝が来るから怖い。

 もう何もかもが怖くなって。

 彼女は不登校になり、部屋で引きこもるようになった。




 誰にも見られないようカーテンを閉めて電気を消して、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 時折鳴るインターホンに体を震わせる。

 誰もいない部屋なのに、あの笑い声が木霊している。

 心底楽しそうな視線がまとわりついている。

 もう、いや。

 なんでわたしばっかり。


 ぎしぎし、ぎしぎしと。

 鈍い音を立てて広がる痛み。

 軋む心はまるで錆びついた鉄のようだと、暗い部屋で麻衣は思った。




 不登校になってどれくらい経ったのか。

 嘆くだけの日々は長く続いて。


『おーい、麻衣。たいやき買ってきたけど食べる?』


 それでも、救いはあったのかもしれない。

 富島柳。中学二年の頃、ちょっとしたきっかけで仲良くなった、別のクラスの男子。

 クラスが違って教室も離れていたから、麻衣が遭っていたいじめについて詳しく知らないのか、それとも分かっていて気づかないふりをしてくれていたのか。

 以前と変わらない態度で、彼は引きこもってしまった麻衣を何度も尋ねた。


『……それ、おもしろい?』


 まだいじめられていなかった、中学二年生。

 それでもやっぱり本が好きで、図書室で読み耽っていた時だ。

 いきなり知らない男の子にそんなことを言われて、すごく驚いたのをよく覚えている。

 彼は人見知りも物怖じもしない性格で、図書室で逢う度に声をかけてくれて。

 ちょっとしたきっかけから始まった交流。

 中学最後の年も同じクラスにはなれなかったけれど、放課後にはサッカー部の練習が終わるまで図書室で本を読んで、一緒に寄り道をしながら帰った。

 休みの日には遊びに出かけたりもした。

 柳はモテるから、麻衣は仲のいい女子の一人でしかないだろう。

 けれど麻衣にとっては、一番仲のいい男子。もしかしたら、女の子を含めても、一番だったかもしれない。


 でも今は、誰かの声が、視線が、たまらなく怖くて。

 彼が訪ねてきても、扉が開くことはない。

 返事もなく。麻衣の部屋の前で、柳は一頻り独り言を零して帰る。

 そんな日々がしばらく続いた。


『サッカー、最後の大会だからさ。ちょっと気合入れてるんだ。見に来てとは言わないから、応援してくれてると嬉しい』


 言葉は返らない。


『そういや最近図書室行ってないなぁ。なんか俺でも読めそうなやつない?』


 言葉は返らない


『インターミドル、準優勝だった。周りはすごいって言ってくれてるけどさ、もしあの時俺がシュート外さなきゃ……』


 言葉は返らない。


『俺さ、戻川高校を受験するつもりなんだ。できれば、麻衣と一緒に高校通いたいって思ってる。……気に留めといてくれると、嬉しい』


 どれだけ話しかけても、言葉は返らなくて。

 なのに、雨の日も風の日も、彼は麻衣を訪ねた。

 無理に「出てこい」というのではない、心配していると伝えるのでもない。

 ただ雑談をふるだけ。友達とそうするように、くだらない話を持ち掛けてくる。

 特別なことは何もない。

 なのに、涙があふれるのは何故だろう。




 だからきっと、救いはあった。

 なにもかもが怖くなっても、差し伸べられた手はちゃんと在ってくれたのだから。




 それから幾ばくかの時が過ぎた。

 麻衣は部屋を出て、けれど学校へ戻るほどの勇気はなく、フリースクールに通いながら受験勉強を重ねた。

 支えたのは勿論のこと柳だ。

 一緒に高校へ行こうと二人は約束を交わし、受験にも見事合格。

 いじめ、不登校。暗い過去を振り切って、吉岡麻衣の物語はようやくハッピーエンドを迎えたのである。






 ……けれど戻川高校に合格したのは、当たり前だが彼女達だけではない。

 入学式当日、思いがけない再会が麻衣を待っていた。


『ねえ、あれ』

『あんた……』

『へぇ、同じ高校だったんだぁ』


 麻衣のいじめの主犯格であった三人の女子もまた、戻川高校の新一年生。

 つまり中学の卒業はエンディングではない。

 高校もまた地続き、あの頃とは場所が変わっただけに過ぎなかった。




 ◆




「ねえ、みやかちゃん。百歳越えてる人っているのかな?」


 授業合間の休憩時間、何故か妙に真剣な表情で薫がそんなことを聞いてきた。


「昔、百歳越えた双子のお婆ちゃんがテレビに出てたけど」

「あ、そういえばそうだよね」

「どうしたのいきなり?」


 薫の視線は四人ほど集まって雑談を交わしている男子の方に向けられている。

 随分と盛り上がっているようで、離れているみやか達のところまで笑い声が聞こえてくる。その中には最近なにかと縁のある葛野甚夜の姿もあった。


「昨日ね、葛野君と一緒に学食でお昼食べてた時、百歳越えてるって言ってたから」

「……それ、からかわれただけだと思う」


 ない。いくらなんでもそれはない。

 確かに甚夜は色々と常識外れだが、その言は単に薫をからかっただけだろう。事実を知らないみやかにとっては、そうとしか思えなかった。

 そうかなぁ、と親友は納得しきれていない様子。

 みやかからすれば、何故他の可能性を考えているのかと不思議になる。

 純粋というか、無邪気というか。若干ずれてはいるが、これも薫のいいところだと無理矢理自分を納得させることにした。


「葛野君、そういう冗談言うタイプにも見えないし……そだ、飴食べる? コンビニで買って来たんだ。ゴージャスミルクキャンディ、一袋680円!」

「ありがと。というか、ただのキャンディの癖に妙に強気な値段設定だね」

「それは私も思うなぁ。でもおいしいんだーこれ」


 一つ貰って口に放り込む。ミルクというか、濃厚な生クリームのような味わい。

 成程、確かに結構おいしい。値段分の味かは微妙だけれど。

 薫もキャンディを頬張ってご満悦、そこで何か思い立ったのか、急に席を立ってとことこと歩き始めた。

 向かった先は、静かに読書をしていたクラスの女子。吉岡麻衣の席だった。


「吉岡さん、飴食べる?」

「え……?」

「これ高いけどおいしーんだよ」


 前置きもなくいきなりキャンディを差し出されて、麻衣は思い切り困惑している。それはそうである。

 物怖じしないのは薫のいいところだが、突飛すぎるのはよくない。

 みやかも後を付いていき、とりあえず突っ込みを入れておく。


「薫、前置きなしでいきなり言われても困るから。ごめんね、吉岡さん」

「いえ……」

「えーと、お近づきの印、くらいに思ってくれればいいと思う。私ももらったし」


 自分の頬を指しながら穏やかに言えば、それで納得したのか、ぎこちないながら麻衣は微笑みを返してくれた。


「それじゃあ、いただきます」

「うんっ、どうぞ!」


 嬉しそうに、弾んだ声で薫はにっこり満面の笑み。

 あまり話したことはなかったけど、決して悪い子ではなさそうだ。

 それにしっかりと出た彼女の声は、とてもかわいい。アニメ声とでもいうのか、キレイで女の子女の子した、特徴的なものだった。


「あの、梓屋さん……昨日はごめんなさい。折角拾ってくれたのに」

「ううん、こっちこそごめんね? なんか驚かせちゃった、あれ、怯えさせちゃった? とかそんな感じで」


 そうして三人で休憩時間いっぱいお喋りをする。

 珍しい組み合わせだったが、そんなことは全く気にならなかった。










 四人組の男子は、雑談で盛り上がっていた。

 藤堂夏樹、葛野甚夜、吾妻かなた。そして富島柳も話に参加し、しかし途中から彼の視線は吉岡麻衣の方に注がれている。

 近づく薫達を横目で警戒していたようだが、和やかに皆でキャンディを食べている姿に安堵したのか、眼差しは優しげなものに変化する。


「……安心したか?」


 苦笑混じりに甚夜がそう言えば、曖昧な表情が返ってくる。

 気付かれないようにしていたつもりだが、麻衣の方を見ていたのは普通にばれていたらしい。それが少しだけ恥ずかしくて、柳は軽い笑みで頬をポリポリとかいていた。


「あー、バレバレだった?」

「そうだな。恥ずかしがることもないだろう。大切な相手なら気にかけるのは当然だ」

「た、大切な相手……葛野はもう少し恥ずかしがってほしいんだけど」


 異性への照れが出始める思春期の少年だというのに、なんとも直接的な表現を使う。

 麻衣は大切な相手なのだろう、と真正面から言われて、事実だからこそ柳は返答に困った。


「じいちゃんじいちゃん、やめてあげて。もうちょっと若者に気遣いを」


 夏樹がとりなすのは、甚夜の実年齢を知っており、柳の心境が理解できるから。

 甚夜には過ぎ去った日々、大したものではないのかもしれない。しかし思春期の少年にとって、異性への好意は多分に恥ずかしいものなのだ。

 いや、まあ、否定はしないけど。そう前置きをして、柳の表情は一転真剣なものになる。


「麻衣、中学の頃同じクラスの女子に嫌がらせ受けてたことがあってさ。だから俺、ちょっと過敏かもしれないけど、一応気にかけてはいるんだよ」


 ならいつも一緒にいたらいいんじゃないか? という夏樹の提案に柳は首を振る。

 そこまであからさまだと麻衣が気にする。だからあくまでも普通の友人として、一緒にいる時は一緒にいるし、そうでない時もある。そういう態度を崩すつもりはないそうだ。

 端正な顔は怒りに僅かながら歪んでいる。

 過去の麻衣に対するいじめを思い出しているのかもしれない。

 夏樹にも大切なものはある。彼の怒りに共感を覚えたのか、それならと甚夜達に呼びかける。


「そっか、ならさ。俺らもちょっと気にしとこうぜ。なんかあったら富島に伝えるってことで」

「そう、だな。これでも荒事には慣れている。なにかあれば手を貸そう」

「いや、いじめっこ相手にじいちゃんは過剰戦力過ぎるからね? お願いだから無茶なことしないでね?」

「分かっているよ。しかし、信用がないな」

「信用も信頼もしてるけど、例えば俺が誰かにいじめられたらどうする?」

「……成程、確かに夏樹の危惧は正しい」


 夏樹が誰かにいじめられたら、加害者の結末はおそらく見るも無残な蹂躙である。

 実際に殺すかどうかは分からないが、少なくとも相当の無茶はする。夏樹が心配するのも無理からんことではあった。

 じゃれ合うような彼らの遣り取りに気が抜けたのか、柳は心底安堵した笑みを漏らす。


「悪いな、藤堂。葛野に吾妻も。頼むよ、俺、もうあいつのあんな姿見たくないんだ」

「おう、まかせろ。みこにもそれとなく頼んどく……ところで富島と吉岡って、ロマンティックな組み合わせだよな? なんというか、劇的な感じ」

「はは、何の話だよ」


 力強く夏樹は頷き、残る二人もそれに同意してくれた。

 本当に有難い。

 彼らはいい友人だし、梓屋に姫川もいい子だ。このクラスならあんなことにはならないだろうと、柳は改めて思った。




 ◆




 富島とみしまやなぎという男子は、クラスでも奇妙な人物として有名である。

 といっても普段から奇行があったり、特殊な性癖やおかしな言動があるという訳ではない。

 彼はいわゆるイケメンで、成績優秀は運動神経も抜群。

 中学の頃はサッカー部に所属、一年生からレギュラーで、インターミドルではエースとして活躍、最後の大会ではチームを準優勝にまで導いている。

 だからと言って性格が悪いということもない。年上には礼儀正しく、同年代にも気さくで対応は柔らかい。時には男子連中と悪乗りをしたりもする、快活な少年だった。

 

 しかし柳は奇妙だと評される。

 その始まりは部活の入部期間。

 中学時代エース級の活躍を見せた彼は、当然高校でもサッカー部に入ると誰もが思っていた。

 実際、戻川高校のサッカー部から熱烈な勧誘を受けていたし、高校でも素晴らしい活躍を見せてくれると教師陣は大いに期待していた。

 にも拘らず、富島柳は何故か部員が一人しかいない放送部に入部したのだ。


 これには多くの者が驚いた。

 お前ほどの選手が何故。今からでも遅くない、考え直せ。

 放送部に入部した後も、彼のところには同中学の先輩が訪ねて来る。

 しかし周りの期待なんてどこ吹く風、本人は昼休みの放送の時間に自分の好きな音楽を流してご満悦。

 それでいて体育の時間ではサッカー部に入部した男子よりも見事な技前を披露するのだから、謎は深まるばかりである。


 あれだけの才能が有りながらいとも容易く無駄にする。

 そんな非合理な在り方こそ、彼が奇妙と評される所以だろう。

 もう一つ、これは同学年の女子が口を揃えて言うことなのだが、富島柳には理解し難いところがあった。


「おー、麻衣、どこいくんだ?」

「あ、やなぎくん。図書室に……」

「相変わらず好きだなぁ。ちょっと待って、俺もついてく。荷物持ちがいるだろ?」

「本くらい持てるよ……」


 容姿に優れ成績優秀、運動神経もいい。

 非の打ち所がないように思える彼は、女子にも人気が高い。彼とお近づきになろうという者も多いのだが、その殆どはあえなく袖にされていた。

 そんな彼が御執心なのは、吉岡麻衣という地味な女の子である。

 特別可愛い訳でも、スタイルがいい訳でもない、いつもクラスの端っこにいるような少女。

 口さがない女子は「富島君にひっついている、べたべたしている」と表現しているが、実際は逆。柳の方が麻衣の後を追っかけている、というのが本当のところだった。






「やぁっぱ、不思議ではあるよねー」


 お昼休み、桃恵ももえもえは教室でメロンパンを食べながら、早々に食事を終えて図書室へと向かう二人を眺めていた。

 萌の目から見ても、あの二人の関係は奇妙に映る。

 別段富島柳に興味がある訳ではないが、彼ならばもっと高めの女子でも狙えるだろうに、何故敢えて地味な吉岡麻衣なのかというのは正直疑問だった。


「姫川はどう思う? 正直富島ならもっとレベル高い女子でもいけるっしょ」

「どう、と言われても。吉岡さんいい子だから、あんまり不思議でもないけど。それに富島君もそういうの気にするタイプでもなさそうだし」


 ちなみに彼女の話し相手はいつものギャルっぽい女子グループではなく、何故か姫川みやかだった。

 萌には不思議に思えるようだが、最近はそこそこ話すようになったから自然と麻衣の擁護に回る。

 交流を持って既に一週間。物静かでちょっとおどおどしているけれど、素直ないい子。それが吉岡麻衣という少女の印象だ。


 だから、みやかにしてみれば二人の関係よりも、何故桃恵と一緒に昼食をとっているかの方が不思議である。

 いや、先週に引き続き今日も職員室へ行く用事があった為、薫や甚夜とは別行動。後から合流するのもなんだし、どうしようかと悩んでいるところに「お昼一緒にどう?」と声をかけられた、という流れなのだが。

 別に萌のことを嫌っている訳でもなし、彼女との昼食に不満はない。ただなんとなく違和感がぬぐえないだけで、それなりに会話は弾んでいた。


「あー、可愛いより明るい性格よりお前がいい、みたいな? そうだったらあいつ、めっちゃいい男じゃん。あ、もしかして姫川狙ってたりする?」

「いい人だとは思うけど、あんまり話したことないから分からない、かな」

「意外と真面目な返し……」


 意外と、なんて枕がつくのはどういう了見なのか。

 髪が茶色っぽいのは地毛だし、みやか自身は真面目な方だと考えているのだが、萌からするとそうは見えないらしかった。


「そういう桃恵さんは?」

「だからアキだってば。私もパスー。イケメンだとは思うけど、興味あるのは別のやつなんだ。あたしけっこー純情だからね。今はその彼のことしか考えてないの」

「意外……」

「お、仕返し?」


 思わず零れた感想にも笑顔で応じる辺り、彼女も大概おおらかだ。

 偏見かも知れないが、格好は完全に白ギャルなのに、と思ってしまう。彼女は単におしゃれが好きなだけで、見た目と違ってそんなに遊んではいないのだろう。


「てか、姫川にもご執心の彼いるっしょ?」

「え?」

「またまたぁ、とぼけなくっていいって。前も葛野と授業さぼってたじゃん」

「ああ……」


 またその話か、とみやかは小さく息を吐いた。

 赤マントの件での早退、そして『トイレの花子さん事件』では授業をサボったりと、みやかは甚夜と一緒に行動することが多かった。

 どうやら萌はそれを邪推しているようで、しきりに甚夜との関係を聞こうとしてくるのだ。

 しかし関係を問われても彼に助けられたというだけ。彼女が期待するような艶っぽい話など欠片もない。


「だから、なんにもないって」

「えー、いいじゃん、ちょっとぐらい教えてよ。藤堂に聞いても全然だしさぁ」


 クラスメイトの藤堂夏樹は、何故か甚夜のことを「じいちゃん」と呼び、かなり親しげにしている。

 その辺りから情報を得ようとしているようだが、それも失敗らしい。というかその行動力は何なのか。


「そういや藤堂って言えば、なんか『富島と吉岡ってロマンティックな組み合わせ』とか言ってたんだけど、どういう意味か分かる?」

「なにそれ?」

「いやー、前に葛野のこと聞いた時、ちょっと脱線してあの二人のことも話したのよね。そしたら、なんかシミジミ言っててさ」

「ロマンティック……ちょっと分からないかな」

「だよねぇ……なんだろ、藤堂のやつ意外と運命の赤い糸とか信じるタイプなんかね」


 富島と吉岡ってロマンティックな組み合わせ。

 藤堂夏樹には何か感じ入るところがあったのかもしれないけれど、普通に意味が分からなかった。

 まあそれはそれとして、いい感じに話が逸れた。チャンスとばかりにみやかは席を立つ。


「ごめん、ちょっと手水行ってくるね」

「いやいや、もうちょっとコーコーセーらしい言葉つかお? それでトイレって分かるやつあんまいないかんね?」


 意外なツッコミを受けつつ、逃げるように教室を出る。正直、手水=トイレだと分かるとは思っていなかった。

 妙なところで萌を見直し、それはそれとして言い訳だけでなく本当にお手洗いへ向かう。

 若干早足なのは、「ご執心」という言葉に少しばかりの恥かしさを感じたからだろう。

 廊下を先生に怒られない程度に急ぎ女子トイレへ入ると、中で三人組の女子とすれ違った。

 沢山の生徒がいるのだから、すれ違うくらいなにも不思議なことではない。

 なのに三人を強く意識したのは、聞こえてきた不穏当な会話のせいだ。


「吉岡のやつ、ほんとウザい」

「富島君も迷惑してるってのにさ」

「ねぇねぇ、いい考えあるんだけど……」


 吉岡も富島も、先程まで話題に上がっていたクラスメイトだ。

 人気のある男子に構われる女子。成程、嫉妬を集める構図だと納得もする。

 しかし陰口というのは聞いていて気持ちいいものではない。最近では交流ができたこともあり、みやかは気分を害されて、僅かに眉を顰めた。




 ◆




 戻川高校での生活は、吉岡麻衣にとって幸せなものだった。


「麻衣、おはよ」

「うん、おはよう。やなぎくん」


 一緒に受験をした富島柳は、偶然だが同じクラスになった。

 もともと鈍くさいのは自覚しているが、転びそうになると柳が支えてくれたり、時々一緒に図書室で本を読んだりと彼との関係は今も良好だ。


「やっぱり俺こういうの向いてないなぁ。眠くなってきた」

「もう、やなぎくんてば」


 くすりと笑みが零れる。

 図書室には付き合ってくれるが、やはり読書は苦手な様子。うだー、と机に突っ伏す彼は、普段イケメンだなんだと言われているのに、思い切りだらけた顔をしている。

 ちょっとだけ嬉しい。こうやって寛いだ表情をするのは、少しくらいは気を許してくれている証拠だと思えるから。


「ここの学食、うまいよな」

「そうだね。……あ」

「そういやトマト駄目だったっけ? もらっていい?」

「あ、ありがと……ごめんね?」

「いや俺好きだし。代わりにデザートのオレンジをプレゼントっと」


 食事の時も一緒になることが多い。

 毎回不平等なトレードが起こってしまうのが申し訳ない。遠慮しても押し切られて、結局彼の好意に甘えてしまう。


「吉岡さん、次の授業移動教室に変更だってー」

「科学教室、一緒に行かない?」


 クラスメイトの女子とも少し打ち解けた。

 梓屋薫に、姫川みやか。梓屋の方は前の一件で気を使ってくれているのかもしれないけれど、それでも嬉しい。

 中学の頃は、クラスの女子はいじめてくるか無視されるかのどちらかだった。

 だから何気ない会話は、まだちょっとだけ怖くて慣れないけど、あの頃とは違うのだと思わせてくれた。


「これでいいか?」

「あ、はい……ありがとう、ございます」


 クラスの男子、葛野甚夜。

 ちょっといかつい顔で、長身で筋肉質。見た目は少し怖いけれど、図書室で届かないところにある本を取ってもらったことがあった。

 姫川や梓屋とも仲がいいみたいで、よく一緒にいるのを見る。

 少しだけ喋ったけど、見た目と違って気遣い上手な穏やかな人。怖いけど、怖くない男の子だ。



 戻川高校での生活は、吉岡麻衣にとって幸せなものだった。

 中学三年の頃とは全然違う。学校に通うのが苦痛ではない。それどころか、楽しいと思えるようになってきていた。


「あ……」


 だから、大丈夫。

 教科書が捨てられたり、上履きがなくなっていたり、席に画びょうがばらまかれていても。

 それは同じクラスの子がやった訳じゃないのだから、何も問題はない。

 いやがらせをしているのは、多分あの女子三人組。中学の頃のいじめのリーダー格だ。

 違うクラスになって、合同体育の時もクラスが離れているから一緒になることはないのが救いだが、それでもいやがらせはまだ続いている。

 いったい、いつになれば終わるのか。どうすれば、いいのだろう。

 今が幸せなだけに、些細な痛みは際立って感じられる。


「でも、大丈夫……」


 麻衣は唇をきゅっと一文字に結んだ。目に涙はない。

 大丈夫だと自分に言い聞かせる。今はちゃんと学校に通えている、あの頃とは違うんだ。

 ここでまた逃げ出しては、暗い部屋から自分を連れ出してくれた柳に申し訳が立たない。

 だから誰にも気づかれぬよう画びょうを片付け、頑張らなきゃ、と彼女は小さく一つ頷いた。


「あ、吉岡さん。富島君から伝言、用事があるから体育館裏まで着てほしいってさ」


 そんなある日の昼休み。

 図書室で本を読んでいると、クラスの女子が柳の伝言を持ってきてくれた。

 あれ、「今日は先に部室の方に用事があるから、図書室で待ってて。それから飯行こう」って言っていたのに。

 ああでも、柳の言うことだ、なにか理由があるのだろう。

 態々来てくれた女子にお礼を言った麻衣は、然して疑問も抱かず、素直に呼び出された場所へと向かう。

 つまり多少の嫌なことはあれど、麻衣は幸せだった。

 高校生活は順調で、張りつめていたものが緩んでいたのだ。 


「はぁい、まってたよー、よしおかさん」

「男に誘われたらホイホイ来るんだねぇ」

「あはは、ばっかみたい」

 

 辿り着いた体育館裏。

 待っていたのは富島柳ではなく。

 麻衣をいじめていた三人の女子。そして取り巻きであろう、二人の男子だった。




 ◆




「あっれー、おかしいなぁ」


 昼休み、放送部の部室に用があった為、柳は先にそちらへ向かった。

 それから図書室で待っている麻衣を迎えに行き学食で昼ごはん、となる筈だったのだが、肝心の少女がいない。

 図書室をぐるり一周回ったがどこにもおらず、メールを何度か送ってみるもマナーモードになっているのか返信はなかった。

 教室にいないのは確認済み。もしかして先に学食行ったか? いや、しかし麻衣がそんなことするとは。

 腑に落ちないものを感じつつも、四度目のメールを送りながら、とりあえず学食へと向かう。

 すると入り口辺りでクラスメイトの三人、甚夜とみやか、薫。いつものメンバーと出くわした。

 どうやら彼らも今から食事だったらしい。


「お、葛野。両手に花で飯か?」

「いや、春の花に天女だ」

「もー、またそういうこと言うー」


 意味の分からない答えに薫が思わずツッコミを入れる。相変わらず天女扱いは直っていなかった。

 事情をよく知らない柳には何のことか今一つ理解できなかったが、それよりも聞きたいことがあると話を切り出す。


「そうだ。麻衣のやつ見なかったか? 図書室にいなかったんだけど」

「教室では見なかったが。食堂、にもいなさそうだな」

「そか、おかしいな。どこ行ったんだろう……」


 教室にはいなかった。図書室にも、見渡したところ食堂にも彼女の姿はない。

 本当に麻衣はどこに行ったのか。思い悩んでいると、通りすがった同じクラスの女子に声をかけられる。


「あー、富島君。吉岡さんと会えた? ちゃんと伝えといたけど」

「え? 会えてないけど、どういうこと?」

「だから、違うクラスの女の子から伝言。富島君が体育館裏で待ってるから、吉岡さんに伝えてって。富島君が頼んだんでしょ?」

「いや、俺そんなこと頼んでない……」

「え?」


 噛み合わない会話。

 じゃあ麻衣は今体育館裏? そんなこと頼んでないのに、なんで。

 そこまで考えて、柳は急速に事態を理解した。

 違うクラスの女の子が、麻衣を呼び出した。「富島君が待ってる」といえば、たぶん麻衣は簡単についていくだろう。

 誰が呼び出した? 他のクラスの友達なんて話、聞いたことがない。だいたい友達なら柳の名を使って呼び出す必要がない。

 つまり呼び出したのは普通なら彼女が付いていく筈もない奴ら。

 吉岡麻衣という少女へ悪意を抱いた誰かに他ならない。


「ありがとう! 俺、行ってくるっ!」


 気付けば、柳は弾かれたように走り出していた。

 流石に元サッカー部。その速度は尋常ではなく、人混みの中でもすいすいと、誰にもぶつからず走り抜けていく。

 いきなりの行動についていけず、みやかも伝言をした女子もぽかんとそれを見つめていた。




 カチカチ、と奇妙な音がまた聞こえた。




「……あれ? 今、変な音しなかった?」


 まるでカッターの刃をゆっくりと出すような、そんな音。

 今度は甚夜だけではなく、薫にも聞こえたようだ。

 なんだろう、と思って問うてみたが、みやかは気付かなかったらしい。聞こえていたとしても学食付近は喧噪も大きい、多少の物音は気のせいだと流してしまうかもしれない。

 実際、薫自身も音などすぐに忘れてしまう。

 今の気がかりは、柳と麻衣のこと。状況をおぼろげながら理解している二人は、少しばかり険しい表情をしていた。

 体育館裏への呼び出し。富島が行ったのだ、滅多なことはないと思うが、あまりいい状況ではないようだ。


「……ねえねえ、葛野君。もしかして」

「ああ。多分、吉岡をいじめていた奴らだろうな」

「大丈夫かな」

「富島が行ったんだ。大事にはならんと思うが」

「うん。そう、だよね?」


 心配は心配だが、今から追ってもあまり意味はないだろう。

 それに柳に聞いた話では、麻衣へのいじめの先導をしたのは同じクラスの女子だったらしい。ならば彼一人でも十分ことは足りる筈だ。

 そう伝えれば、少しは薫の杞憂も晴れたらしい。ぎこちないながらも笑顔を見せてくれた。


「そうだ、葛野君。聞きたいことがあるんだけど」


 若干微妙な空気が流れる中、思い出したようにみやかが口を開いた。


「どうした?」

「藤堂君が言っていたらしいんだけど。『富島と吉岡がロマンティックな組み合わせ』ってどういう意味か分かる?」

「夏樹が? ……ああ、成程。確かにロマンがあるな」


 以前桃恵萌から聞いた、意味の分からないまま放置していた話だ。

 富島柳の顔を見て急に思い出し、もしかしたら夏樹と仲の良い甚夜ならわかるかもしれないと聞いてみたが、正解だったらしい。

 彼も思い当たったようで、重々しく一つ頷いていた。


「映画の話だよ」

「映画?」

「夏樹はもともと東京の生まれで、実家は昔ながらのキネマ館だからな。子供の頃は古い作品をよく見ていた。富島と吉岡というのは、古い恋愛映画の主人公とヒロインだ」

「ああ、だからロマンティック」


 古い恋愛映画の主人公とヒロイン。

 それとあの二人を重ねてのロマンティック発言。成程、それは確かとみやかも納得した。

 ただでさえ仲のいい二人、今後恋愛映画のように仲を深めていったら、と思うと確かにロマンがあるというものだ。


「そっか、ありがとう。ようやく意味が分かった。ちなみに、葛野君も見たことあるの?」

「一応は。小説原作の映画なんだが、戦後間もなかったからGHQの検閲でいい場面が軒並み切られていてな。出来には正直満足いかなかったよ」

「へぇ、古い作品だとそういのもあるんだ」


 勿論みやかには、甚夜がそれをリアルタイムで見ていたなんてことは分からない。

 だから普通にその映画に興味を惹かれ、色々と質問をしてみる。


「どんな映画なの?」

「無法松の一生。主人公の富島松五郎と、未亡人の吉岡亮子との交流を描いた作品だ。富島は“ひきこ”、吉岡は“陸軍大尉の夫人”。身分違いの恋が題材となっている」




「……………………………え?」




 けれど、質問の答えに大きく反応をしたのは、みやかではなく薫だった。


「え、え? か、葛野君、今、富島君が、なんて?」

「ん? だから、富島の職業は“ひきこ”だと。……ああ、“ひきこ”というのは人力車の車夫のことだ。車を引くから、昔は引き子という俗称で呼ばれていた。ちなみに彼の名前だが、“やなぎ”というのも“ひきこ”の言葉でな。静かに、隠れるように車をひくという意味だ」


 彼女の戸惑いは、言葉の意味が分からなかったからだと思い、詳しく解説をする。

 しかし見る見るうちに薫の顔面は青白くなってしまう。

 流石におかしいと思ったのか、甚夜もみやかも薫の様子を伺っていた。


「どうした、梓屋?」

「どう、しよう。葛野君、どうしよう。富島君、ひきこだったんだよ……」


 甚夜にもみやかにも薫の動揺が理解できない。

 けれど彼女の中では一つの答えが出来上がってしまっていた。

 この目で見た麻衣へのいじめの現場と、伝聞で知った不登校だったという事実。

 カチカチ、というカッターの刃を出す音。

 口裂け女や赤マント、トイレの花子さんといった都市伝説の怪人達。

 そして、“ひきこ”。

 いじめ。不登校。都市伝説。“ひきこ”。

 あの音は、決して聞き間違いなんかじゃない。

 全てが噛み合ってしまった。


「都市伝説の話っ! 富島君、“ひきこさん”だったの……!」




 * * *




≪ひきこさん≫


「いじめ」と「ひきこもり」という近代の問題を背景にした新しい学校の怪談。

 口頭の噂で流布された口裂け女や赤マントとは違い、インターネットの普及により語られるようになった新形態の都市伝説といえる。




 雨の日のこと、遮られた視界の向こうに人影を見つける。 

 雨音の中それでも聞けてくる、ずるずると何かを引きずるような音。

 白いぼろぼろの着物を着て、人形のようなものを引きずっている女。よく見れば、女の目はつり上がり、口は耳元まで裂けている。

 ずたずたに引き裂かれた容貌は、目を背けたくなるほど。

 女が引きずっていたものは、人形ではなく人間。彼女は小学生ほどの子供を無造作に引きずり回していたのだ。


 女の名は“ひきこさん”。

 自分の姿を見た子供を捕らえて肉塊になるまで引きずり回し、決まった場所に連れて行き死ぬまで放置する、残虐かつ暴力性の高い都市伝説である。


 ひきこさんの本名は森妃姫子もりひきこ

 元は背が高く成績優秀で顔も可愛く心優しく、先生からも可愛がられていた少女であった。

 しかしそれを妬んだ他の生徒からいじめられ、彼女は不登校になった。

 かつて受けた酷いいじめから心を病み、暗い部屋で怪異と化した彼女は、いじめの加害者への恨みから子供を捕まえては肉塊と化すまで引きずり回しているのだという。


 口裂け女のように裂けた口は、カッターによる自傷の象徴。

 ひきこさんはいじめに対する忌避と恐怖、不登校へのマイナスイメージの具象化だ。

 反して、いじめ加害者が裁かれないという現状から生まれたこの怪人は、恐怖の対象でありながら同時に「法律とは関係ないところでいじめ加害者に制裁を加える」というダークヒーロー的側面を持っている。

 事実、残虐な性質とは裏腹にいじめられっ子を襲わず、雨の日も狙ったようにいじめっ子の前へ姿を現すという特性がある。

 社会問題が生み出した都市伝説。

 そういう意味では、現象の具象化という怪異のテンプレートを踏襲した存在だと言えるだろう。




 ちなみに危険な都市伝説ではあるが、その対処法は割合簡単。

 鏡を見せればそれだけでひきこさんは逃げていくそうだ。




 * * *




 薫の必死の訴えにも、甚夜は僅かに眉を顰めただけ。

 何故彼女が慌てているのか分かっていない様子だった。

 ああ、そっか。

 妙なところで薫は納得してしまった。

「百歳を越えている」。以前彼が口にした言葉、その真偽はともかく、彼が現代の高校生としては浮世離れしすぎているのだけは事実だ。

 葛野甚夜は口裂け女や赤マントに関しては詳しかった。

 なのにNNN臨時放送を知らず、今“ひきこさん”の名前を伝えても困ったような対応をしている。

 それに、以前パソコンとファミコンを勘違いしていた。

 だから気付く。彼の知識の穴、その意味に。


 実に単純、口裂け女とひきこさんの違い。それは流布された年代にある。

 口裂け女や赤マントは、昭和に流行した都市伝説。ニュースや新聞でも報道され、口頭を主に噂となった怪人だ。

 しかしNNN臨時放送やひきこさんは違う。

 この二種は某オカルト掲示板によって知れ渡った都市伝説。ネット上の創作怪談に分類される話である。


 つまり、有体に言えば。

 葛野甚夜という若者らしからぬ少年は、インターネットで語られる、オカルト版発祥の都市伝説の知識を持ち合わせていないのだ。


 薫の予想は正しい。

 百歳を越える鬼である甚夜はパソコンなど殆ど触ったことがなく、怪人アンサーや八尺様、NNN臨時放送やひきこさんといった都市伝説を全くと言っていいほど知らなかった。

 故に、薫の動揺が理解できない。

 みやかもいじめの現場を見ておらず、鎖の音も聞き逃した。

 この場において、答えに辿り着いたのは薫しかいなかった。


「まずは落ち着け」

「でも、富島君がっ、吉岡さんも!」

「よく分からんが、何かあるんだな?」


 上手く言葉に出来ず、薫はこくこくと頷く。

 勘違いならいい。けれど、赤マントの件で知ってしまった。都市伝説を放置すれば死人が出てもおかしくない。

 もしかしたら、富島柳がいじめっ子を殺すような展開があってもおかしくないのだ。

 必死の懇願は形にならずとも伝わる。縋るような薫の目、それで十分だった。

 途端、甚夜の気配は鋭く研ぎ澄まされる。


「富島を追う。それでいいな?」

「う、うんっ、お願い! 急がないと多分大変なことになっちゃう!」

「ならばそうしよう」


 そうして駆け出す。彼の背中は瞬く間に見えなくなった。

 それを状況が把握できていないみやかは茫然と眺めている。

 けれど今はそちらを気にしている余裕はない。


「ごめん、みやかちゃん! 私も行くから食堂の席取っといてね!」

「え、ちょ、薫!?」


 それだけ言って、薫までも走って行ってしまう。

 追おうかとも思ったが、席を取っといてと頼まれたし。


「なんだかなぁ……」


 結局みやかは動けず、そう呟くことしかできなかった。




 ◆



『ごめんね、やなぎくん……わたし、こわいよ』


 扉越しに聞こえてくる嗚咽混じりの声。

 友達だと思っていたのに、彼女がこんな風になるまで何もできなかった。

 最後の大会がある、部活が忙しかった。それが何の言い訳になる?

 あの時、麻衣の味方になれたのは、自分しかいなかったのに。


 だから高校ではサッカー部に入らなかった。あんなもの、邪魔でしかない。

 不特定多数の賞賛と、麻衣の穏やかな日常。どちらが大切かなんて比べるまでもなかった。


『……それ、おもしろい?』


 声をかけたのは、柳の方から。

 今も覚えているのは、本当に大切な時間だったから。

 心から大切だと思っていた。

 なのに、また失敗した。


 ぎしぎし、ぎしぎしと。

 鈍い音を立てて広がる痛み。

 軋む心はまるで錆びついた鉄のようだと、走りながら柳は思った。


 その時点で多分。

 彼は、富島柳ではなかった。








 体育館裏は小さな雑木林となっており、かなり視界が悪かった。

 昼休み、五限目に体育館を使用するクラスもなく、人気がない。ことに及ぶにはおあつらえ向きの状況だろう。


「だからさぁ、あんたウザいんだよっ!」


 女子生徒に突き飛ばされて、地面に転がった麻衣は小さく悲鳴を上げる。

 それすらも不快だと、周囲の者達は嘲笑を浮かべた。


「きゃっ、だってぇ。うわっ、あざとぉ。てかキモっ!」

「ぶりっこするにしても鏡見てからにすればいのにね、ブース」


 罵詈雑言が麻衣へ降り注ぐ。

 連れて来られた男子二人は流石に引いていた。女子は怖いねぇ、なんて言いながら互いに顔を見合わせる。

 といっても、彼らも真面とは言い難い。そもそも彼らは素行のよろしくない不良生徒であり、のこのこついて来たのは、美味しい目を期待してのことだった。


「ほんと、鬱陶しい。富島君も可哀そうだよ、こんなのにまとわりつかれて」

「だよねぇ。優しいからボッチのあんたの相手してんのに、勘違いしちゃってさ」

「そうそう、言えないだけだけで内心キモイ、消えろブスって思ってるよ。そんなことも分かんないの?」


 ぴくりと、麻衣の目つきが変わった。

 怯えはまだ残っている。けれど、そこに僅かな怒りが宿る。

 自分が馬鹿にされてるのはいい。殴られるのも慣れている。

 でも、今の言葉は嫌だ。柳の優しさ、どれだけ自分の為に骨を折ってくれたか、麻衣はちゃんと分かっている。

 だから彼の内心を勝手に代弁する三人が許せない。

 いじめられて身は竦むけれど、宿るのは純粋な感情。大切なものを汚されたからこそ沸き上がる、まっとうな怒りだった。


「……ちがう」

「はぁ?」

「やなぎくんは、そんな人じゃない。分かってないのは貴女達の方だよ……」


 いじめていた、無抵抗なおもちゃの抵抗。

 しかもまるで自分の方が彼のことをよく分かっているとでも言いたげだ。

 おそらくいじめの原因には、富島柳の存在もあったのだろう。

 地味な女のくせに、彼に構われて。そんな嫉妬が混じっていた。

 だからこそ女子生徒達は激昂する。

 ふざけるな、この女。 

 どれだけ調子に乗れば気が済むのかと、理不尽な憎悪に駆られ、転んだままの麻衣の腹を蹴り飛ばす。

 苦悶の喘ぎに歪む顔へ唾を吐きかけ、苛立ち冷めやらぬままに背を向ける。


「ほんと、ふざけんなブス! あーもういいわ。ねえ、あんたらやっちゃってよ」

「お、出番?」

「二度と表で歩けないように、とことんお願いね」

「おっけー。ちゃんとカメラも用意してますよっと」


 このために、二人の男子は付いてきた。

 幸い人気はなく、近くには体育倉庫。五限目には使用する予定もなく、しばらく邪魔は入らない。

 まさしくおあつらえ向き。少女が二度と表で歩けぬよう、生まれたままの姿を、そういうシーンをしっかりと写真に収めてあげなくては。

 彼らは最初から、美味しい目を期待して付いてきた。

 吉岡麻衣という弄んでも文句を言いそうもないか弱い少女で、性欲を処理するのが目的だった。


「はーい、麻衣ちゃん。向こう行きましょうねー。大丈夫大丈夫、俺ら優しいから。すーぐ気持ちよくなりますからねー」

「そそ、富島ってモテるんだろ? どうせいろんな女喰いまくってるんだし、麻衣ちゃんも経験してみようぜ。案外はまるかもよ?」


 中学の頃からいじめられた。

 上履きを捨てられたり、服を切り裂かれたり、雑巾で顔を無理矢理拭かれたり。

 いろいろなことをされてきたけど、まだ中学生。こういういじめは初めてだった。

 にじり寄る男子生徒に、今まで感じてきたものとは別種の恐怖が沸き上がる。

 声が出ない。出たとしても意味がない。今迄だって誰も助けてくれなかった。

 唯一助けてくれたのは、


『麻衣……』


 富島柳、だけだった。

 男の手が触れる寸でのところで声は響き、その場にいる全員が振り返り、そして皆一様に固まった。

 今度は、間に合った。

 最悪の事態を迎える前に、柳は辿り着くことが出来たのだ。


「と、富島君?」

「あ、あの、これはね?」


 いじめている現場を柳に見られ、三人の女子生徒はおろおろと動揺している。

 彼は状況を確認すると俯き、肩を震わせていた。

 怒っている。それを察した女子達、言い訳は堰を切ったように溢れる。

 これは違うの。悪いのは吉岡の方だ。私達は被害者みたいなもの。

 しかし柳はなんの反応も見せない。彼の纏う空気は一種独特、異様と言ってもいい。麻衣に手を出そうとしていた男子達も戸惑いに動きを止めていた。

 動揺は麻衣でさえ例外でなかった。

 助けに来てくれたけれど、あからさまに彼の様子はおかしい。

 どうしたの? 声をかけるよりも早く、俯いていた柳が顔を上げる。






『ああ……あああああああああああああああああああああああああああっ!』








 辿り着くことはできた、けれど間に合ってはいなかったのかもしれない。

 麻衣の危機に、ではなく。

 間に合わなかったのは柳自身。

 既に彼は手遅れ。

 その顔は尋常ではない怒りに歪み、人のものとは思えぬほど醜く変容していた。









 ……麻衣は、大切な友達だった。

 もしかしたらそれ以上に、大切な想いもあったのかもしれない。

 本当に、大切で。

 だから麻衣が嬉しいのなら俺も嬉しい。

 悲しめば、俺も悲しい。

 彼女の痛みは俺の痛みで。

 彼女がいじめられたなら、それは俺がいじめられたということだ。


 なら逆も同じ筈。

 彼女がいじめられたのは、俺がいじめられたのと同じ。

 喜びも、悲しみも、痛みも同じなら。






 俺の憎悪は、彼女の憎悪に等しい。





 故に、あやかしは生まれる。

 いじめられたことにより沸き上がる憎悪は、少年を人ならざるもの変える。

 捏造された都市伝説ではない。

 人の心に巣食う真なる怪異。





 創作でしかなかった筈の都市伝説“ひきこさん”は此処に真実となった。



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