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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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165/216

『歪なるもの』・1



 世の中にはルールがある。

 社会通念、常識など。破ってはいけない規範というものは、明文化されずとも存在している。

 そして同時に、誰にも知られないところにも、ルールというべきものは確かに存在する。

 それは往々にして理不尽で、どうしようもなく不合理で、怖気がするくらいに不気味で残虐だ。

 古今東西如津々浦々。何なる寓話においても、触れてはいけないモノに触れてしまった人間は無残な最期を遂げる。

 だから多分、私達はルールに触れてしまったのだろう。




 ◆




 夕暮れの通学路、少しずつ風の冷たさは和らいできている。

 立ち並ぶ街路樹も緩やかに葉をつけ、花開く時期を今か今かと待ち望んでるかのようだ。

 今日も一日が終わり、中学生活も残すところあと一週間。

 姫川みやかは、中学への通学路を友人の薫とともに歩きながら、妙に感傷的な気分で街路樹を眺める。

 三年間通った道とはいえ、今まで大して意識をしてはいなかった。しかし橙色に染まる風景を改めて眺めてみると、言葉にはし難い感慨深さがある。


「卒業式まであとちょっとだねー」

「そう、だね」


 それは多分、卒業が差し迫り、もうこの道を通うこともなくなると思うからこそのものだろう。見慣れた何の変哲もない通学路にさえ、染み渡るような趣が感じられた。

 兵庫県葛野市では、公立高校の入試は中学の卒業式よりも遅い。卒業式を終えてからが本番だとは分かっているが、通い慣れた中学やクラスの皆とのお別れを考えればやはり寂しくなってしまう。

 どちらかといえば落ち着いた印象のみやかとて年頃の少女、目前に迫った別れに、多少以上にセンチメンタルな気分だった。


「改めて思うと、中学も楽しかったよね。そう言えば、みやかちゃん高校でもバスケ続けるの?」

「ううん、あんまり続ける気はないかな。バイトとかしてみたいし、家のこともあるし。部活は文化部に名前だけ置いておくくらいだと思う。……入試はまだなんだから、こんなこというのもなんだけど」

「そだね。あー、やっぱり不安だなぁ」


 ほんの少し寂しげに遠くを見つめる薫も同じような心境なのだろう。

 入試への不安に高校生活への期待と、長かったようで短かった三年間への淡い未練。それをうまく表現できるほど達観してはない少女たちは、見つからない言葉の代わりに、お互い顔を見合わせて曖昧に微笑んだ。


「なーに湿っぽい顔してんのあんたたちはぁ!」

「ひえ!?」


 しかしシリアスな雰囲気は僅かも維持できない。

 いきなり声をかけられたかと思えば、ばしん、と乾いた音が響きわたるほど強烈な一撃に暗い空気は霧散する。背中を思い切り平手され、その衝撃にみやかは耐え切れずタタラを踏んでしまった。

 なにごと? 

 驚き過ぎて心臓がバクバクといっている。荒れた息のまま振り返れば、そこにはしてやったりとほくそ笑む、赤ん坊を抱いた妙齢の女性の姿があった。


「やっほ、ひさしぶり」

「白峰先生!」


 白峰しらみね八千枝やちえ

 年の頃は二十代後半、セミウェットショートの長身細身。明るく気っ風のいいこの女教師は、みやか達が中学一年生だった時の担任である。

 しかし一年ほど前に産休を取り、今は中学を休職中。その為こうやって会うのは随分と久しぶりだった。


「わー、先生すっごい久しぶり! どうしたんですか、こんなところで? あっ、この子もしかして先生の!?」

「落ち着きなさいって。しょうっていうの、正真正銘私の息子よ」

「あはは、先生ってば。翔だけに正真正銘?」

「うん、そんなつもりまったくなかったけどね」


 八千枝はいい意味で女を感じさせない教師だった。

 男勝りという程ではないが、外見を飾ることはあまりしないし化粧も最低限、選ぶ服装も男性的なものが多く、細かいことに拘らない割合大雑把な性格をしている。

 そういうこざっぱりとした気質が受けて、八千枝は男女問わず生徒に慕われていた。


「わー、赤ちゃんかわいい。翔くん、こんにちわ」

「ふふ、だろ。夜中はちょっと騒がしいけどね」

「先生、まるでお母さんみたい」

「まるでも何もお母さんだっての」


 しかし彼女が赤ん坊に向けている笑みはまさしく母の表情であり、違和感を覚えると同時によく似合っていて、なんとなく不思議な感覚だ。

 みやかの母であるやよいとはタイプが違うけれど、やはり八千枝もちゃんと母親だった。


「お久しぶりです、白峰先生」

「うん、久しぶり姫川。あんたも元気だった?」

「はい、おかげさまで」

「相変わらず落ち着いてるね。梓屋にも見習ってほしいもんだ」

「あんまり顔に出ないだけです。あと、薫のあれはいいところだとも思いますし」

「ははっ、確かに。仲のよさも相変わらずみたいだね」


 彼女の飾らない笑みもまた以前と変わっていない。

 中学入学当初、右も左も分からなかった頃、八千枝には随分とお世話になった。

 落ち着いている、といえば聞こえはいいが、感情表現が苦手で不愛想に見られがちなみやかを、彼女がさりげなく気遣ってくれていたことをよく覚えている。

 今の担任は正直あまり好きじゃないし、恩師を聞かれれば一番に出てくるのはやはり白峰八千枝その人だろう。

 薫ほどストレートに好意は示せないが、みやかも久々の再会を嬉しく思っていた。


「ねね、先生。学校になんか用事だったの?」

「あー、そろそろ卒業式でしょ? 休職中とはいえあんたらの門出だから、ちょっとくらいはと思ってさ。その辺の話をいろいろと」

「でしたら、もしかして卒業式来てくれるんですか?」

「ま、そういうこと」


 無事に出産を終え、来年度から教職に復帰する彼女だが、受け持った生徒達の卒業式には参加したい。

 その旨を学校側に伝えた帰り、偶然にもみやか達を見つけ声をかけてくれた、ということらしい。

 いきなり背を叩かれ驚かされたが、八千枝が卒業式に来てくれるというのは嬉しい驚きだ。

 薫も喜色満面、子供のように諸手をあげて彼女の参列を喜び燥いでいる。


「ほんとですか? やったー!」

「大げさだねぇ」


 そんなことはないです、とみやかは言おうとして、そこまではっきり言うのは何となく恥ずかしくて、結局何も言えず二人を眺めていた。

 はたと、八千枝と目が合う。彼女は、いつか見慣れていた筈の、気っ風のいい爽やかな笑みを浮かべている。

 多分飲み込んだ言葉なんて見通されているのだろう。それが分かるから、みやかも返すように微笑んで見せた。


「ねね、先生暇なら遊びに行こうよ」

「あのね、梓屋。この子抱いたまま行くわけないでしょうが。それに最近物騒なんだから、あんまり遅くならないように帰りなさい」

「えー」

「薫、あんまり無理言っちゃ駄目」


 懐かしい空気に三人して表情は綻ぶ。

 卒業式まであと一週間、入試はその後なので不安はあるけれど、それでも楽しみだと思えることが一つ増えた。

 橙色に染まる通学路。過る寂しさが少しだけ軽くなった、夕暮れのことだった。




 そしてその日、梓屋薫は姿を消した。




 ◆




 八千枝が物騒だと語ったのは、ここ一か月の間に葛野市で起こった通り魔事件のことである。

 被害者は四人。全て刃物で切られ死亡するという残虐な事件は、未だ犯人が捕まっておらず、連日ニュースやワイドショーを騒がせている。

 犯人についてはコートを着た女性が現場で目撃されたという僅かな情報しかなく、捜査は難航。小学校や中学校でも夜間の外出を控えるよう教師から厳重に注意されていた。


「……もしも梓屋のことを見かけたら、学校に報告してほしい」


 ホームルームの終わり、重々しく担任教師は言う。

 薫が失踪してから丸一日経っている。通り魔事件のこともあり、学校側は事態を重く見ていた。

 有体に言えば、梓屋薫は既に死んでいるのではないか、と考えているのだ。

 見かけたら報告をといいながら、どこか胡乱とした目つきなのはそういう理由だろう。事件の渦中に巻き込まれ、面倒くさいことになったとでも言いたげだ。


「ねぇねぇ、梓屋さんさ」

「やっぱり……だよねぇ」

「例の通り魔、まだ捕まってないらしいし」


 クラスメイトは好き勝手に確証もないことを垂れ流している。

 勿論心配しているからこそ暗い顔で話している女子も多いが、中には好奇心からかにやにやと面白そうに語る男子だっている。

 もともと感情表現が苦手なみやかだ、この場で怒り叫び出すような真似はできなかった。

 それでも奥歯を噛み締め表情を歪める程に苛立ちは募り、親友の安否に不安を覚え俯いてしまう。

 八千枝と一頻り話して、二人は「また明日」なんて言いながら別れた。

 明日また会えると思っていた、なのに。

 ぐっと握りしめた掌に爪が食い込む。痛みなんてどうでもよくなるくらいに、みやかの胸中は濁りに濁っていた。

 その日、日が暮れるまで街を探し回った。

 結局、梓屋薫が見つかることはなかった。




 ◆




 姫川みやかの家は江戸時代から続く由緒ある神社で、神主が常駐していることからも分かるようにそれなりの規模を持つ。

 神社に併設する自宅は外観こそ和式の平屋だが、中身は和室もあるが基本フローリングの現代風の造りとなっている。

 祖父母は啓人に神主を譲った後、別のところで悠々自適に暮らすと言って、甚太神社から程ない距離に新居を構えた。

 その後祖父母の許可を取って、「若い娘じゃ畳の部屋は嬉しくないだろ?」と啓人がリフォームをしたらしい。

 おかげで神社の生まれとはいえ時代錯誤な生活をしている訳でもない。

 とは言え歴史のある神社の方は、殆ど知識のないみやかでも相応の威厳を感じられるくらいの、古いながらに丁寧な造りとなっている。

 鳥居を潜れば、片目が潰れ片足のない狛犬二匹が迎えてくれる。

 奥に鎮座する社殿、そこへ通ずる参道には燈籠。境内には桜の木が立ち並び、薄紅の花が咲き誇る。燈籠に火を灯した春夜の景色などは「典雅にして優美」とものの本に記される程だった。

 けれど春はまだ少し遠く、日が落ちて夜の闇に沈む神社は、自分の家とはいえどこかおどろおどろしい雰囲気がある。

 現在の心境も相まってか、誰もいない真っ暗な神社に嫌なものを感じ、みやかは小さく肩を震わせた。


「ごちそうさま」

「みやかちゃん、大丈夫?」

「……お母さん、ありがと。大丈夫、だから」

「薫ちゃんのこと、啓人さんも探してくれているから。あまり無理しないで今日は休んで?」

「うん……」


 帰宅し夕食となったものの、食事は殆ど喉を通らない。散々歩き回って疲労は溜まっているけれど、空腹は感じなかった。

 体が重い。それ以上に重いのは心だ。

 放課後、みやかは薫が行きそうな場所へ足を運んだ。けれど、やはり彼女の姿はどこにもなかった。

 夕食にほとんど手を付けず、顔色も優れないみやかを、母であるやよいは心配そうに見つめている。幼い子供にするような手つきでその頭を優しく撫で、せめて体を休めてほしいと促す。

 父親の啓人は神社の神主。ノリの軽い男ではあるが、職業柄地域では顔が広い。いなくなった薫の話を聞いた途端、すぐさま家を出て地域住民へ捜索を願い出に行った。

 愛娘の親友であり、父にとっても面識のある相手だ。みやかが思っていた以上に、啓人は真剣に事態と向き合ってくれた。

 それは有難い。有難いが、不安が消えることはない。

 巷をにぎわせている通り魔事件。被害者は既に四人。朝になってニュースをみたら、その人数が五人に増えていたら。報道される名前に聞き覚えがあったら。ぞわぞわと虫のように沸き上がる恐怖が全身を這い回っている。


「心配する気持ちは分かるわ。でも、貴女が倒れちゃったら仕方ないでしょう? 今日はお風呂に入ってもう寝ましょう。探すのは、また明日。ね?」

「……うん」


 母は優しい。

 みやかの心を慮り、体を壊さないようにと気遣ってくれる。「そんなこと心配しても仕方がない」「警察に任せればいい」とは言わない人だ。

 探すのは止めないけれど、せめて体を休めて。その優しさに感謝して、みやかは母の言葉に従った。

 お風呂に入れば、じんわりとした温かさが体の芯に染み込んでくる。自分で思っていたよりも疲れていたらしい。目を瞑ればそのままお湯に溶けてしまいそうなくらいだ

 結局いつもよりも二十分以上長湯をしてしまい、のぼせかけの頭で湯船が上がる。

 よほど心配だったのか、みやかが風呂から出てくると「髪乾かしてあげる」とやよいが脱衣所で待っていた。

 そこからは殆どなすがままだ。髪を乾かしてもらい少し今で休むと、ハチミツ入りのホットミルクを用意してくれる。

 少しでもよく眠れるように、ということだろう。けれど多くは語らず、やよいはいつも通りのゆったりと微笑んでいる。


「お母さん、ありがとう」

「ううん。さあ、ゆっくり休んで?」


 こういうところ、多分お母さんには一生勝てないんだろうなと思わされる。同時に、この人の娘でよかったとも。

 勿論、娘の為に率先して動いてくれる父に対しても同じ気持ちだった。

 ホットミルクを飲んで、一心地。眠気も少し出てきたこともあり、そのままのろのろと自室へと戻る。

 薫とは違ってぬいぐるみを飾ったりピンクの小物を置いたりはしない。年頃の娘にしては簡素な部屋だ。

 みやかは倒れ込むようにベッドへ寝転がる。

 薫、無事でいて。

 そう考えながらも疲れは限界まできていたらしい。意識は一瞬で眠りに落ちた。









 ぴちゃん、と水音が聞こえたような。

 多分、気のせいだろう。元となる水なんてこの部屋にはない、だから気のせいだ。

 いつもより早く寝たためか、みやかは夜中ふと目を覚ましてしまった。

 妙に喉が渇いている。もぞもぞとベッドから出て、何か飲もうと台所へ。嫌な気分だ。親友が心配でも疲れていれば眠れるし、当たり前のように喉が渇く。

 それがまるで、お前にとって親友などその程度なのだと証明しているのではないかと思ってしまう。

 そんなことある筈がない。頭を振って浮かんだ妙な考えを振り払う。

 ぎしり、ぎしり。普段とは違い妙に軋む暗がりの廊下を歩く。台所へ向かおうとして、はたと足を止めた。

 廊下に光が漏れてきている。リビングが妙に明るく、ざざ、とノイズ音が聞こえてくるのだ。

 みやかは、「ああ、またか」と溜息を吐いた。

 前にも一度だけ、夜中お茶を飲みに起きると、お酒を呑んだお父さんがテレビ点けっ放しにしたままリビングで眠っていたことがあった

 おそらくは今回もだろう、と少しばかり呆れる。

けれど父も薫を捜索するために骨を折ってくれた。今日は疲れているのだから、それを責めるのは流石にかわいそうだ。

 どうせ台所にはリビングを通らないと行けない。ついでだし一声かけておこう、そう思って足を踏み入れる。


「……あれ?」


 しかしテレビは点いているが、誰もいない。

 ソファーで横になっていると思った父の姿はそこになかった。

 テレビはもう放送時間を終了し、画面にはカラーバー、モノスコと呼ばれる調整のテストパターンが映し出されているだけ。

 どうやら単なる消し忘れのようだ。やれやれと、テレビに近付き電源を消そうと手を伸ばし。


 ぶつり


 突如画像が切り替わる。

 びくりとみやかは肩を震わせた。カラーバーは深夜、放送が終了してから流されるもの。もうなんの番組もやっていない筈だった。

 なのに画面には、なんだろうか、薄暗い場所。ゴミ処理場のような施設が映し出されている。

 一緒になって流れる音楽もいやに不気味で不安感を煽る。

 伸ばした手を動かすこともできず固まっていると、テレビからは濁ったようなエコーしたような、男か女かも分からない低い声が。






『こんばんは、NNN臨時放送です』







 * * *




《NNN臨時放送》


 かつてネット上で話題になった、「国営放送の放送終了後に謎の映像が流れる」という都市伝説。

 深夜2時30分頃テレビを点けると、そこには当然のようにカラーテロップが映っていた。

 やっぱりこの時間は放送やってないな。諦めて寝ようとした時、放送終了後にカラーテロップが突然消え、画面が切り替わってゴミ処理場が映し出される。

 同時に流れる暗く不気味なクラシック。そしてテロップには『NNN臨時放送』の文字が。

 ひたすら処理場を遠景で映し続け、しかし暫くすると音楽と共に人の名がスタッフロールのようにせり上がってくる。

 ナレーターはそれを抑揚なく読み上げる。

 あまりにも淡々とした声。五分ほど続いただろうか、最後にナレーターはこう言った。


『明日の犠牲者はこの方々です、おやすみなさい』


 番組の名前は“明日の犠牲者”。

 読んで字の如く、明日犠牲になり命を落とす人間の名前を挙げていくというものである。

 勿論そのような臨時放送が流れたという記録はなく、結局この番組の真偽は不明のまま。

 ただ確かに、ごく少数ではあるが、これを見たという者は存在している。

 深夜のテレビに映し出される、明日の死を告げる都市伝説である。




 * * *




 淡々と無感情に、抑揚なく読み上げられる名前達。

 みやかは動けない。なぜならば人名は五十音順に並んでいる。

だから当然、最初に呼ばれるのはア行の名字だ。

 NNN臨時放送は明日の犠牲者を告げる。

 始まりは、“あ”のつく人物から。


“梓屋薫”


 崩れたテロップの文字は、なんの感情も込められていない声は、確かにみやかの親友の名を示した。

 幾多の名前が次々に流れる。脂汗がひどい、呼吸が荒れる。なんだ、これは。頭の中がぐちゃぐちゃに撹拌されているような気分だ。

 そして、


“姫川みやか”


 自分の名前が映し出された時、みやかは耐え切れず膝から崩れ落ちた。

 得体の知れない恐怖に支配され、体に力が入らない。それでもテレビから視線を外すことはできず、ただ茫然と画面を眺める。

 なに、これは。いったい、なんだというのか。

 浮かび上がる疑問は形にならず、なったところで答えるものなどいない。

 深夜のリビングでは、無情なまでに『明日の犠牲者』だけが流れ続けている。


『以上がぁ明日のぉ……被害者でぇす。それでは、おやすぅみぃ、なさぁいぃぃぃ』


 そうして最後に、歪んだ声がリビングに響き。


『イヒヒヒァヒヒヒァ!!』


 顔面蒼白の奇妙な怪人のアップが画面いっぱいに広がる。


 ぶつん。


 それで終わり。

 電源を押していないにもかかわらず、テレビの画面は勝手に消えた。




 ◆



 その日、みやかはいつものように自分の部屋のベッドで目を覚ました。

 昨夜はあのまま意識を失ってしまい、それから先のことは当然ながら覚えていない。父母共に運んでくれた様子はなく、多分自分で部屋まで戻ったのだろう。

 いつもと同じように登校、やはり親友である梓屋薫の姿はなかった。


「ああ、それ知ってるぅ。NNN臨時放送ってやつでしょ? ネットで見たことあるよ」

「NNN臨時放送?」

「そ、都市伝説ってやつ。まあ実際はどっかの馬鹿の創作っしょ」


 昼休み、クラスの友人と昼食を取りながら、さりげなく昨夜のことを話題に出してみた。

 すると女子の一人が『NNN臨時放送』なる都市伝説を語って聞かせてくれた。

 曰く、明日死ぬ人間の名を放送する番組。有名だが実際は単なる創作で、多くは動画投稿掲示板にアップされた作りものであるという。

 みやかの話も「ネットでこんなものを見た」程度で認識しているようだった。

 単なる創作、作りもの。そう聞くと、目覚めたのがベッドの上だったこともあり、もしかしたら夢だったのかとも思ってしまう。

 実際は夜中に起きてなんていなくて、夢の中で台所に行こうとして、あんなものを見ただけ。

 結局はただの夢だったのかもしれない。

 そう考えて、あまりの言い訳臭さに眉を顰める。あの映像を見た時の恐怖はしっかりと胸にある。それは間違っても夢なんかではない。

 明日死ぬと告げられた、梓屋薫と姫川みやか。

 もしあれが事実だとすれば、多分薫はまだ生きていて。

 けれど遠くない未来、通り魔に。

 それを考えると、一応登校してはみたが、胸がきゅぅと締め付けられ居ても立っても居られなくなる。


「……そっか、いろいろ教えてくれてありがと」

「どういたぁましてー。てか、姫川さんホラー好きなの?」

「そんなことないかな。どちらかというと、ハッピーエンドの方が好き」


 そうだ、どんな道筋を辿ったとて、最後はハッピーエンドがいいに決まっている。

 多分それは誰もが思うことで。だからNNN臨時放送に名を挙げられたのは自分も同じだけれど、何もしないなんて耐えられそうになかった。


「え? てっ、ちょ。姫川さんどこ行くの!?」

「ごめん、早退。先生に伝えといて」


 余計な荷物はいらない。鞄も呼び止めるクラスメイトの声も置いて、みやかは走り出す。

 昨日も見つからなかった。お父さんだって探してくれている。ただの中学生が何をしたところで、解決の糸口をつかめるとは思えない。

 でもそれは、何もしない理由にはなりえない。

 冷静ではなかったのかもしれないが、親友の危機に冷静でいられる自分ではいたくなかった。

 八千枝は落ち着いている、なんて評価してくれたが、それはやはり間違いだ。

 感情表現が苦手なだけで、結局中身はこんなもの。冷静さも深い考えもなく、気付けばみやかは学校を飛び出していた。




 ◆




 走って、走って、息を切らし走って。

 思い当たるところを全部回り、足を棒にして。

 けれどやっぱり、梓屋薫は見つからない。

 夕暮れ過ぎて、日は落ちて。空は既に藍色の様相。ああ、そう言えば昔、黄昏時は妖怪が出る時間なのだと母に聞いたような。どうでもいいことを思い出したのは、何故だろうか。


「こぉら、不良少女。なにしてんの」


 葛野市、戻川南駅前。

 みやかが受験する兵庫県立戻川高校のすぐ近くに位置するこの駅は、彼女の生活県内で一番大きな駅だった。

 人通りも多く、もしも単なる家出なら駅を利用するかもと思って足を運んだが、それも無駄足に終わる。親友の姿はどこにもなく、代わりに長身細身の二十代後半、セミウェットショートの女性に声をかけられた。


「白峰先生……」

「聞いたわよ、今日学校さぼったんだって?」


 誰から聞いたのか、こちらの状況は察しているようだ。

 呆れと心配が混じったような表情で、白峰八千枝はみやかの場まで近寄る。こつんと軽く少女の頭をつついたかと思えば、そのままそっと優しく撫でる。

 恩師にあって気が緩んだのかもしれない。じわり、とみやかの瞳に涙が滲む。

 それでも八千枝は優しく、本当に優しく頭を撫で続けてくれた。


「せんせぇ」

「聞いたよ、梓屋のこと。けど、もう夜の11時だよ? 探すのはいいけど、こんな夜遅くで歩くのは認められないね」

「でも、薫がっ」

「言い訳は聞かない。最近物騒だって言ったでしょ。ミイラ取りがミイラになったらどうすんの」


 みやかの発言を遮り、手付きとは正反対の強い否定の言葉を吐く。

 少女には分かっている。それも心配するが故だということくらい。けれど素直に受け入れられるほど大人ではなく、優しい手をはねのけるほど子供にもなれず、結局は何も言えず俯いてしまう。

 その態度が感情表現の苦手な少女なりの反抗であり訴えなのだと、八千枝も知っている。

 だとしても、教師である以上認める訳にはいかなかった。


「今日は帰りなさい。私も探してあげるから」

「でも」

「でももストもない。……私にも、今のあんたと同じ気持ちを味わわせるつもり?」


 みやかになにかあれば、同じように辛いのだと八千枝は語る。

 そう言われては何も返せない。そもそも彼女を言い包める自信など欠片もなく、おずおずと頷くくらいしかみやかに出来ることはなかった。

 納得した訳ではないだろうが、嘘を吐いてその場をやり過ごせばいいと考えるような子でもない。

 安堵から八千枝はふっと息を吐き、不安げな少女のオデコを指先で弾く。


「安心しなさい、とは言ってやれないけど。あんたの代わりに出来ることは私がするから、今日は家に帰りなさい」

「……はい」


 不承不承といった様子で、一応の了解を示す。

 そうして小さくお辞儀をして、重い足取りでみやかはこの場を後にした。

 もともと細っこい少女ではあるが、見送った背中は普段以上に小さく頼りない。教師として、生徒のあんな姿は見たいものではなかった。


「さってと。約束したし、もう一回気合い入れなおしますかね」


 そもそも八千枝がこんな時間まで出歩いていたのは、「まだ娘が帰らない。なにか知りませんか」と姫川やよいから連絡を受けたからであり、同時に梓屋薫を探す為でもあった。

 息子の翔は旦那に任せてあり、つまり最初からやることは何も変わっていない。

 ばんっ、と両手で自身の頬を叩き、みやかとの会話で少しだけ緩んだ心に活を入れる。

 八千枝は再び人ごみに戻っていく。見つかるかどうかは分からない、それでも生徒の為に何かをしてやりたかった。




 ◆




 家に帰ると約束した。

 約束を破るつもりはなく、しかしみやかの足取りは重い。きょろきょろと辺りを見回しながら歩くのは、もしかしたらという希望を捨てられないから。


「どこにいるのよ、薫……」


 呟いた愚痴は誰にも届かない。

 泣きそうになりながら、あちらこちらに視線を漂わせ、のたのたと家路を辿る。

 約束はしても、やはり薫のことが心配だったのだ。 

 それが、いけなかった。

 戻川南駅を離れ、高校に見学へ行った時に通った道を進み、自宅である甚太神社への途中には『みさき公園』と呼ばれる場所がある。

 昼間は子供達が遊び近所の奥様方が立ち話なんぞに興じる、特別なことはなにもない、普通の公園だ。

 けれど歩く速度が遅かったせいだろう。

 そこを通り過ぎようとしたのは、ちょうど午前0時を過ぎ。


 予告された、彼女が死ぬ日となった瞬間であった。


 不意に風が吹く。

 冬の名残か、肌が痛くなるくらいに風は冷たい。まるで金属を押し付けられたような、そんな固い感触を想起させる風だった。

 風の行方を追うように視線を遠くに向ければ、その先には人影が。

 こんな時間にどうしたんだろう。

 そう思っていると、人影はこちらに向かって歩き出した。

 みやかはそれを立ち止まったまま眺めている。すぐ立ち去ればいいはずなのに、何故か足が動かなかった。

 人影は女だった。公園の電灯に照らし出されたのは、白いコートに白いブーツを纏った女性だ。

 心臓が、どくりと鳴った。

 ぼさぼさの長い髪。その顔に見覚えはなく、しかしみやかはひどく動揺していた。

 見覚えはないが、彼女のことは聞き及んでおり、ちゃんと知っていたからだ。

 どんどんと近づいてくる女。やはり足は動かない。

 顔に見覚えはないというが、実のところ彼女の顔は大きなマスクで覆われており、その正確な容姿を窺い知ることはできない。

 けれど聞き覚えはあった。

 それは女が近付いてきたことにより確信へと変わる。

 同時に思い出される、あの歪な声。



“以上がぁ明日のぉ……被害者でぇす。それでは、おやすぅみぃ、なさぁいぃぃぃ”



 NNN臨時放送は、みやかが明日死ぬと告げた。

 もう、その明日は訪れてしまったのだ。

 近づいてくる女は白いコートと白いブーツを纏っている。

 口元には大きなマスクが……そして手には、錆びついた手鎌が。

 逃げなきゃ、そう思うのに、全身が固まって身動ぎさえできない。

 女は一歩一歩近づいてくる。

 通り魔事件。現場で、コートを着た女性が目撃されたという。

 だったら逃げなきゃ、ああでも、もう遅い。

 目の間に立ち、マスクの女はこちらを見下し。

 お決まりのフレーズを口にする。






『ワタシ、キレイ?』






 ……世の中にはルールがある。

 社会通念、常識など。破ってはいけない規範というものは、明文化されずとも存在している。

 そして同時に、誰にも知られないところにも、ルールというべきものは確かに存在する。

 それは往々にして理不尽で、どうしようもなく不合理で、怖気がするくらいに不気味で残虐だ。

 古今東西如津々浦々、何なる寓話においても、触れてはいけないモノに触れてしまった人間は無残な最期を遂げる。

 だから多分、とみやかは思う。

 多分私達は、どこかでルールに触れ、迷い込んでしまったのだ。



 暗く陰惨な、人ならざるものの領域に。





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