終章『赤線跡を訪ねて』(了)
その6 ほたるについて
* * *
昭和五十七年(1982年) 八月
夏の盛り、木々の少なくなった東京でも蝉の喧噪は聞こえてくる。
重たい夏色の空、発された言葉は更に重苦しい。
「なぁ、じいちゃん。確か俺にさ、ちょっと出かけてくるっつたよな?」
暦座キネマ館は昔と何も変わらない。
戦時中の空爆により建物は全壊したが、藤堂芳彦、希美子夫妻の尽力で、大正の頃と変わらぬ佇まいを取り戻した。
そして勿論、甚夜が戻ってきた時も、以前と何も変わっていなかった。
「ん、ああ。そうだった、かな?」
「おう、確かに言ったよ。でよぉ……」
ただ、人間の方はそうもいかない。
夜刀守兼臣に封じられていた甚夜は、封印が解かれ自由になり、ようやく藤堂家に戻ることができた。
できたのだが。
「そのまま二十年以上帰ってこないってどういうことだよ!?」
二十三年という歳月は、流石に長すぎたらしい。
藤堂夫妻の長男である甚悟は甚夜の帰りを心から喜び、それはそれとして二十年以上帰らなかったことに、正確に言えば散々心配をかけたことに対して心底怒っていた。
という訳で、甚夜を藤堂家の茶の間にて正座をさせ、延々一時間説教は続いているのである。
「まぁまぁ、甚悟。たかだか二十年くらいでそこまで言うこともねぇだろ」
同じく藤堂家に訪れていた暦座キネマ館の従業員、井槌が助け舟を出す。
外見はガタイのいい三十前後の大男だが、その正体は鬼。甚夜とは大正の頃からの付き合いで、酒飲み仲間でもある。
可愛がっていた甚悟に正座をさせられ、叱りつけられている甚夜が憐れに思えたのか、どうにか場を和ませようと「がはは」と殊更豪快に笑う。
しかしその程度で落ち着く筈もなく、じろりと甚悟に睨みつけられてしまう。
「いや井槌さん、千年生きる鬼の感覚で話されても。こちとら寿命六十年七十年くらい、二十年って言ったら人生の四分の一だぞ? じいちゃんが出ってる間に三番目の息子生まれたし、つーか俺が爺ちゃんになっちまったよ」
実際甚悟の髪は大分白くなってしまっている。長男夫婦に子供も生まれ、名実ともにお爺ちゃんだ。
慕っていっただけに、「少し出てくる」程度の軽さで出ていった甚夜がいつまでも帰ってこないという状況は、精神的にかなり辛かったようだ。
「……済まなかった。申し開きもない」
怒りはもっともだと、甚夜は深く頭を下げた。正座したままのため、格好としては殆ど土下座だ。
散々怒ったが一切の言い訳をせず、それどころか孫のような相手にこうやって心からの謝意を示してくれる。
そこまでされると今度は甚悟の方がいたたまれなくなってくる。言いたいことは色々あるが、どうにか飲み込んで溜息一つ。頭をあげてくれ、と幾分穏やかに声をかける。
「正直、俺は怒ってる。怒ってるし、心配した。じいちゃんにも事情はあったって、あの子にも聞いてる。それでも、せめてもう少し細かに連絡が欲しかったよ」
「確かにその通りだ。しかし、あの子とは?」
「ん? ああ、本木青葉って女の子だよ。じいちゃんが頼んだんだろ? 一度うちに来て、じいちゃんがちょっと厄介な依頼を抱えてる。だからしばらく帰れないって、伝言を持ってきてくれたんだよ。しばらくが二十年とは思ってなかったけどさ」
詳しく聞けば、甚夜が鳩の街へ向かってから半年後、本木青葉と名乗る少女が暦座キネマ館へ訪れたらしい。
少女が語るには『今、甚さんは鳩の街での件が終わって、厄介な敵と戦ってるっす。そりゃあもう恐ろしい相手で、放っておいたら日本がどうにかなるじゃないかくらいっす。何年かかるか分からないけど、そいつを倒してから戻るんで、私に伝言を頼んだんすよ』ということだ。
彼女は本木宗司の孫、甚夜が暦座に身を寄せていたことも知っていたのだろう。その上で、彼の身内が心配しないように心を砕いてくれたのだ。
まったく、本当に完敗だ。
自然甚夜の口元に笑みが浮かぶ。強くなりたいと願い、幾重にも力を積み重ねてきた。今の彼ならば、大抵の敵は容易く退けられる。
けれど“強い”というのは、本当は彼女のような在り方を指すのだろう。それを嬉しいと思う。
力以外の強さを見せつけてくれた青葉への感情は、多分が憧れに近い何かだった。
「あの娘、じいちゃんの知り合いか?」
「ああ、退魔の家系に生まれた娘でな。私を完膚なきまでに叩き伏せた相手もである」
「へえ、じいちゃんを完膚なきまでに……はぁ!?」
驚きは当然だ。なにせ甚悟の知るじいちゃんは、普段の態度こそ優しいものの、幾度となく死線を潜り抜けてきた歴戦の鬼である。
それを退魔の家系とは言え、あの可愛らしい娘が完膚なきまでに叩き伏せたという。そこに驚きを感じない訳がない。
しかも言った本人は大真面目といった様子。つまり、紛れもない事実だということだ。
「そ、そか。人は見た目によらないというか……ま、まあともかく。俺からはこんくらいか。あんまりくどくど言うのもなんだしな」
「いいのか?」
「おう、そりゃあ、まだ言いたいことはあるが、俺だってじいちゃんが帰ってきてくれたのは嬉しいんだから……だけど頼む、今度からはもうちょっと考えてくれよ?」
ちょっと気恥ずかしそうに甚悟は笑う。怒りはあるだろうが、それを長引かせて甚夜を困らせるつもりはなかったらしい。
多少のわだかまりはあれど、ある程度言いたいことを言ったならここらで手打ち、というところだろう。
甚夜はその心遣いに感謝し顔をあげた。すると何故か笑みは消えていて、困ったように曖昧な表情を浮かべていた。
どうした、と問うより早く、とんとんと肩を叩かれる。
「……つぎ、わたし」
視線を向ければ、そこには溜那の姿があった。
彼女もまた年を取らない。十四歳のままの溜那は、大正の頃から変わらず、細面でつややかな黒髪をした可愛らしい少女である。
ただし今は思い切り頬を膨らませ、幼子のように怒りをあらわにしていた。
「溜那姉ちゃんの話が終わったら、次は母さんな。あと、うちの息子からも一言あるらしいんでよろしく」
微妙な表情の正体は後続を考えてのことである。
甚夜への説教は、まだまだ続くらしかった。
◆
「おつかれさま、じいやさん」
溜那からは『かえってくるのがおそい。さみしかった』と怒られた。希美子には『もう帰ってきてくれないのかと』と泣かれた。甚悟の長男には『久しぶり』とにこやかな挨拶の後、全然遊んでもらえなかったことに対する恨み言。合計三時間近い説教を受け、甚夜は項垂れていた。
それだけ心配をかけたのだ、説教くらい甘んじて受け入れる。かなり怒られたが、全ては心配の裏返し。多少へこんではいても、同時に嬉しくもあった。
全員から苦言を聞き終えた後、また一人自室で休んでいるところに顔を出す。
暦座キネマ館の館長の座を息子に譲り、のんびりと隠居生活を楽しんでいた藤堂芳彦である。
「ああ、芳彦」
「大変だったでしょう。お茶、持ってきましたよぉ」
初めて会った頃、暦座のモギリをしていた彼も既に七十五。頭に髪の毛はなく、骨ばった体付き。年老いた芳彦に若い頃の面影はなく、けれど彼はいつだって柔和に笑っている。
良い歳の取り方をした。芳彦を見る度に甚夜はいつもそう思う。
希美子と結婚し子宝に恵まれ、戦争を生き残り、戦後は暦座再建に従事した。
大正から昭和にかけての激動の時代を生き抜いた彼は、過去を振り返っても「そんなこともありましたねぇ」と懐かしむように目を細めるのみ。
過去の不幸を嘆かず、それをひけらかすような真似もしない。
苦難を乗り越え平然と笑い、その果てに得た幸福を慈しむ。
芳彦は甚夜が知る中でも、もっとも強い部類に入る男だった。
「済まないな、気を遣わせてしまって」
「いいえぇ、儂もじいやさんと久しぶりに話したかったですし」
「む、やはり君からもあるか」
若干言葉を詰まらせたのは、彼からも説教があると思った為だ。
しかし、そうではないと芳彦はしわくちゃの顔を笑みで更に歪ませる。
「いやいや、別にお説教じゃありませんよ」
「そう、なのか? 迷惑をかけたのは事実、苦言も甘んじて受けるつもりだが」
「迷惑だなんぞ思っちゃないですし、そもそも心配してないですしねぇ。だって、いつ帰るかは分からなくても、帰る場所はちゃんとここでしょう?」
あまりに気軽な言葉は、だからこそ甚夜の意表を突いた。
自然体の信頼が気恥ずかしく、そういうことを言えてしまう芳彦に感心もする。未だに井槌から「芳彦先輩」と呼ばれ、尊敬されている理由の一端を垣間見たような気がした。
「……いや、まいった」
「はは、間違ってましたかね?」
「なにを、君の言う通りだ。芳彦四鬼衆の一員として、主へ敬意を払いたくなるくらいに正解だよ」
「随分と、懐かしい話を持ってきましたねぇ」
井槌が以前そんなことを言っていた。
思い出して話題にすれば、やはり彼はただ懐かしむように目を細め、皺だらけの顔に笑みを浮かべる。
いったいどれだけの人間が、年老いた時にこういう笑い方ができるようになるだろう。
できれば自分も彼のように笑える男でありたいと、甚夜は素直に思った。
「話ついでに、少し頼みたいことがあるんだが」
「ええ、構いませんよぉ」
「即決するじゃないか。聞かなくていいのか?」
「じいやさんは、できない無茶は言いませんしねぇ」
こうもまっすぐ言われると、流石に少し照れてしまう。
とはいえ有難い。甚夜は、彼に一つの頼みごとをした。
大仰なことではない。ただ地図が欲しいというだけ。
甚夜は自身のポケットにある小瓶を取り出し、手の中で転がす。小瓶には星の砂が入っている。
一夜の夢は泡沫に消えて、けれどまだやり残したことがある。
だから目を覚ます前に、最後のけじめをつけておきたかった。
◆
数日後、甚夜は暦座キネマ館での業務を再開した。
といっても、もともと清掃関係や雑務がほとんど、大して忙しくはない。寧ろ暇があれば傍にいようとする甚悟や希美子ら、家族の相手の方が大変だった。
「じいや、じいや」
その中でも会いに来る回数が一番多いのは溜那だ。帰ってきてから彼女はちょこちょこと甚夜の後ろをついて回っていた。
暦座キネマ館の表を掃除している際も、なにかにつけて引っ付いてくる。
そういえば、かつて赤瀬の屋敷で庭師をしていた頃も、溜那はこんな風に甘えてきた。二十年以上離れていたせいで、随分と寂しがらせてしまったらしい。
慕ってくれることが嬉しく、それだけに申し訳なく、綯い交ぜになったような心地で甚夜は少女の頭を撫でる。
零れた微笑みは心からの喜びに溢れ、それだけで帰ってきてよかったと思わせてくれた。
「済まないな、寂しがらせてしまった」
「ううん、大丈夫。ちゃんとじいやがいない間、みんなを守ってた」
「そうか」
「だからもっと撫でて撫でて」
戦時中、徴兵逃れの為に甚夜や井槌は暦座を離れていた時期があった。
戦うのが怖いとは思わない。しかし、人の戦いに鬼である己が関わることを是とはできなかった。
栄枯盛衰は世の常。放置すれば日本は諸外国に踏み荒らされ滅び往くのかもしれない。時流に抗い剣を取ることが尊いというのも理解できる。
だとしても、鬼が関わるのは間違っている。
隆盛も衰退も須らく人の手で行われるべきだろう。
いくら取り繕ったとて甚夜は鬼。既に人の理から外れてしまった身で、人の行く末を決める動乱に手を出すなどあってはならない。
たとえ結果として国が滅びゆくとしても、それが人の選んだ道行きならば、受け入れねばならぬ事だ。
そう思うからこそ彼は戦争には参加せず、井槌もその考えに従った。
とはいえ徴兵に応じない若い男がいては、藤堂家に迷惑がかかる。その為昭和の初期は井槌と二人で旅がらすような生活をしていた。
『なら、かわりにわたしがみんなを守る。だから安心してね、じいや』
そう言ってくれたのが溜那だ。
いつの間にか、暦座は彼女にとっても大切な場といっていたらしい。それからも甚夜が長く離れる際は、溜那が此処を守ってくれていた。
今回も同じく、彼女はじいやの代わり暦座に害が及ぶことないよう努めた。
しかし寂しいものは寂しい。甚夜が帰ってきてからの甘えっぷりは一番気を張っていた反動かすさまじいものだった。
「おう、じいちゃん」
掃除がひと段落ついたところで声をかけてきたのは甚悟だった。
彼が今の暦座の館長。仕事の指示も役割の一つだが、今回はそうではないようだ。手には二枚の地図。どうやら芳彦が早速準備してくれたのだろう。
「ああ、甚悟。それは頼んでおいた?」
「そうそう、親父から。今年度版の東京都の地図と、東向島の地図な。あと、都電の路面図が欲しいって話だけど、もう廃止されてるぞ?」
都電が廃止されたのは、昭和三十八年から昭和四十七年にかけて。ちょうど封印されていた時期の話である。
甚夜は聞かされた話に驚きを隠せないでいた。
明治から大正、大正から昭和。科学の発展というのは恐ろしいほどに早いと思っていたが、その分廃れるのもまた早い。
こういうのは、どうにも慣れない。早すぎる時代の流れに、江戸の頃から生きる彼は取り残されてしまったような寂寞を覚える。
「そう、だったのか。通りで電車を見ないと思ったが」
「二十年もありゃ街並みは変わるさ。ま、その中でも暦座キネマ館は今も昔も変わらずあります、ってね」
暦座キネマ館は変わらないことこそ信条であり誇り。
その考えはしっかりと甚悟にも受け継がれている。おどけたような言い方だったが、彼の表情は自信に満ちた晴れやかなものだった。
「んで、なんでいきなり地図なんだ?」
「少し鳩の街に行こうと思ってな」
がしっ、と掴まれたのは、言うとほぼ同時だった。
両肩を甚悟、腰には溜那がしがみ付いている。あまりにも早かったのは前科のせいだろう。
なにせ前回は「ちょっと出かけてくる」と鳩の街へ赴き、そのまま二十三年も帰らなかったのだ、彼等の反応はある意味当然だ。
「じいや、だめ」
「姉ちゃんの言う通りだよ。ちょっとは考えようぜ、じいちゃん?」
目を潤ませ、今にも涙を零しそうな溜那。心配と怒りが綯い交ぜになったような表情の甚悟。
共通しているのは、また帰ってこないのではないかという不安だ。
「いや、すぐに帰ってくるぞ?」
「……まえも、そう言った」
溜那は上目使いで睨み付ける。とはいっても彼女の容姿では脅しにはならない、寧ろ可愛らしいだけだった。
それでも振り払う気にはなれない辺り、有効な手段ではある。
野茉莉や平吉、希美子や芳彦。元々子供に甘い自覚はあったが、一緒にいた時間が長い為溜那にもとんと弱い。
しかし今回ばかりは彼女の言うことを聞いてやる訳にはいかない。
「約束だ、本当に今日中に帰ってくる」
「でも」
「頼む、溜那。行かなければならないんだ」
嘘も誤魔化しもない、真剣な目だった。
虚飾のない想いはまっすぐに伝わる。頑固な彼が決めたことだ、我儘を言っても曲げてはくれないだろう。
それが分かる溜那は名残惜しそうにしながらも手を離した。姉と慕う彼女が諦めるのならば、と甚悟も渋々従う。
「……やくそく。ちゃんと、帰ってきて」
「ああ、なら指切りをしよう」
「ん」
ゆーびきりげんまん うそついたらはーりせんぼんのーます ゆびきった
交わされる約束は守らねばならない。当たり前のことだ。
だから、もう一度だけ鳩の街にも足を運ばないと。
「甚悟も済まないな」
「姉ちゃんが我慢すんのに俺だけ我儘は言えねえじゃねか。……でもよ、理由くらいは聞かせてくれるんだろ? なんでまた行くんだよ」
不機嫌そうな甚悟に、甚夜は小さな笑みを落としながら言った。
「約束を破ってしまったから、かな?」
鬼人幻燈抄 昭和編 終章『赤線跡を訪ねて』
東京都墨田区東向島に鳩の街はあった。
当時は神田須田町から浅草を経由する都電があり、向島須崎町で下車すれば、花の盛りと色付いた特飲街まで五分とかからなかった。
鳩の街へ行く客の多くは、都電に揺られながら華やかな東京の街を眺めたことだろう。
しかし売春防止法の完全施行により赤線の灯は消え、昭和四十七年までに荒川線を除く全ての都電は廃止され、かつての景色を見ることはできない。
とはいえ、鳩の街は廃墟となってしまった訳ではなかった。
かつては一日に数千人という規模の客が訪れた花街も今は昔、売春防止法以後すべての業者が撤退、全ての娼館が看板を下ろした。
そして現在、娼館があった裏通りと並行していた表通りの商店は今も変わらず営業しており、使われなくなった娼館もアパートや店屋として再利用されている。
昭和三年に開業した寺島商栄会を前身とした「鳩の街商店街」は、花街の風情をわずかに残しつつも、下町情緒溢れる商店街として今も賑わいを見せていた。
「随分、変わった……いや、そうでもないか」
花街が一夜の夢ならば、差し詰め夢の跡か。
甚夜はそのように考えていたが、鳩の街商店街は夢の跡にしては随分と騒がしい。
いかにも下町らしい喧噪に満ちた街並み、花街だった頃を思い起こさせるタイル張りの家屋。買い物帰りのおばさん達の話し声を余所に、野良猫が走り抜けていく。
艶やかなピンクのネオンは灯っていないが、あの頃とは違う独特の活気がある。
変わってしまった景色にほんの少しの寂しさを感じるが、僅かながらに見られる花街の名残に安堵もする。
山の手の男も通ったアプレ派娘の花街はもはやどこにもないけれど、あの頃とは違う形で鳩の街はここに在ってくれた。
それが多分、嬉しかったのだ。
「さて、と」
甚夜は一枚の紙を取り出す。芳彦に準備してもらった、東向島の地図だ。
以前は住んでいたこともあるとはいえ、随分様変わりしている。迷わないようにと用意してもらったが正解だった。
地図を片手に歩き始め、しばらく行ったところでふうわりと香ばしい香りが鼻腔を擽る。
軽く周囲を見回せば、香りの下はすぐに見つかった。
マキタ精肉店。
このいい香りは、揚げ物の匂いか。見ると四十代くらいの女性店員が、新しく揚がったコロッケをショーケースに陳列している最中だった。
「コロッケ、か……」
鳩の街、コロッケ。二つが揃うとどうにも苦笑が零れた。
そろそろ昼時、折角だから少し腹に入れていくか。そう思ったのは、多分誰かの顔を思い出したからで、単純に肉屋のコロッケが美味そうだったからでもある。
まあ細かな考えはどうでもいいだろう。自然と甚夜の足はマキタ精肉店の方へと向いていた。
「コロッケを一つ」
「はいよ、五十円ね!」
注文すると威勢のいい声が上がる。
四十前後の、恰幅のよい女性。年齢のせいか多少太ってはいるが、顔立ちを見るに若かりし頃はそれなりの美人だったのだろう。
差し出されたコロッケを受け取り、五十円を女性に渡す。
コロッケはソースだぼだぼにかけるのがいいんだよ。なんせこれなら飯が二杯食えるからな!
そう言ったのは、甚悟だった。しかし今は米もない。なにもかけずにコロッケを一口。さっくりとした衣に、ほくほくとしたジャガイモ。ひき肉は少なめで、よく炒めた玉ねぎの甘さと歯触りが心地良い。素朴だが美味しい、昔懐かしいコロッケだった。
「どうだい、うちのコロッケ。美味しいだろう?」
「ああ、丁寧で懐かしい味だ」
「あはは、あんたみたいな若い子でもそう思うかい」
大きな口を開けて女性は笑う。
見た目十八の少年が懐かしいは確かに妙か。思いながらもう一口。件の女性は何故か食べている姿を凝視している。
不思議に重い視線を返せば、彼女は首をかしげている。
「ねえ、あんた。前も、うちの店来た?」
「いや、これが初めてだが」
「そう、だよね。おかしいなぁ、どっかで見たような気が。コロッケ、だしねぇ……まあ、勘違いならいいか」
ぶつぶつとなにか言いながら、しかし途中で考えるのを放棄したらしい。女性は朗らかな笑顔へと変わる。
何故かそれが、嬉しかったからか。甚夜は「こちらからも聞きたいことが」と問いかける。
なんだい、と了承の意を示す彼女に聞きたかったのは、多分ずっと昔から変わっていない。
「あなたの好きな食べ物は?」
「そりゃあ、うちの旦那のコロッケさ!」
間髪入れずに返ってくる答えが小気味よくて、甚夜は思わず小さな笑みを落とした。
お礼という訳ではないがもう一つコロッケを頼んでみる。
そうして軽い挨拶を交わし、マキタ精肉店を離れ、歩きながら早速コロッケを一口齧る。
「……うむ、うまい」
やはり、美味しい。
一個目よりさらに美味しく感じたのは、きっと心に届く味をしていたからだろう。
◆
地図を頼りに商店街と並行する裏通りを歩いていくと、視界の先には懐かしい建物があった。
外観は多少の痛みはあるものの以前と殆ど変わらない。
二階建てのカフェー風の建築。タイル張りの壁に、バルコニー。斜めに通した真鍮製の二重取っ手が印象的なドアもそのまま残っている。
一番の違いは、かけられた看板だろう。
看板には大きな文字で「桜庭荘」と書かれている。
ここがまだ赤線区域だった頃は、桜庭ミルクホールという名称がつかわれていた。しかし業者が撤退した後は、かつてのミルクホールを多少改修し、アパートとして使っているらしかった。
時代の流れとはいえ、残念は残念だ。ここで呑む酒は旨かったから尚更そう思う。
この建物を見ると今でも思い出す。男なのに女言葉で話す店長が、気安い態度で声をかけてくれた。
「あら、いらっしゃい」
そう、「あら、いらっしゃい」と口にしながら、手は既にグラスへ伸び、いつも甚夜が呑んでいたウイスキィの準備を。
そこまで考えて、その言葉が妄想ではなく、実際の耳に届いたものであると気付き、甚夜は声の方に向き直った。
目の前には箒片手に立っている、六十前後の老人。歳の割に肩幅のある、右足に装具をつけた男性だった。
「今日入居するっていう人でしょ、待ってたわよ。私は桜庭荘の管理人……って、おかしいわね。なんか聞いた話と随分違うけど?」
既に老翁と呼んでもいい年齢だというのに、女言葉で話す奇妙な人物。それを懐かしいと感じる。
彼は桜庭荘の管理人だと名乗った。つまり、今も此処で働いているのだ。それだけのことが、何故かとても嬉しい。
「ねえ。もしかして、今日入居の人じゃ、なかったりするのかしら?」
「はい、おそらく人違いかと」
「あら、やっぱり。どうりで変だと、ごめんなさいね」
「いえ、気にしないでください」
甚夜に声をかけたのは、どうやら単なる間違いらしい。
軽い笑みで謝罪を受けると、管理人はほっとしたように息を吐いた。
「そりゃそうよねぇ。貴方みたいな若い人が、こんなぼろいアパート選ぶわけないもの」
「そんなことは。趣のあるいい建物だと思います」
「嬉しいわぁ。見た目はぼろいけど、私にとっては半生を共にした大切な場所なのよ。昔はね、桜庭ミルクホールって名前だったけど、今はアパートとして使ってるの」
知っています、私にとっても好ましい場所でした。
そうは言えなかった。十八の少年が、桜庭ミルクホールを知っている筈がない。だから口を噤み、ただ老人の横顔を見詰める。
時代の流れに押され赤線はなくなってしまった。しかし老人は誇らしげに桜庭ミルクホールを見詰めていた。
過去に一片の曇りもないと、彼のまっすぐな立ち姿が教えてくれる。
迷い道、いつの間にか迷い込んで、帰れずに泣いていた誰かは。
ちゃんと自分の心が還る場所を手に入れたのだ。
「ちなみに桜庭荘って私が名前つけたのよ、いいセンスでしょう?」
「ええ、そうですね」
「分かるぅ? でもね、最後の最後まで候補があったの。もう一つは、ほたる荘ってするつもりだったのよ」
管理人の言葉に、一瞬息が止まったように感じた。
無論錯覚だ。しかしそれほどの衝撃だった。
胸ポケットには星の砂の小瓶が入っている。甚夜がここを訪れた理由は、まさしく“ほたる”にあったからだ。
「ほたる、ですか」
「ええ。実は昔、ここは娼館でね。その時働いてた女の子がほたるちゃんっていうの」
肺に病を患い、それでも娼婦として在り続けた女。
感染性のものではなかったから認めたが、本当は止めるべきだったのかもしれない、と管理人は言う。
無理がたたり、ほたるは赤線の最後を見ることなく、鳩の街の終わりに流れた「ほたるのひかり」を聞くことなく亡くなったそうだ。
「いい娘だったのよ? 古い、懐かしい夜の女。人気もあった。亡くなったことを嘆くお客さんいっぱいいたんだから」
「そう、ですか」
「興味ある? なら、東向島の霊園にお墓があるから行ってみたらどうかしら?」
「いや、しかし。面識のない方の墓を勝手に知るのは」
「いいのいいの、貴方興味ありそうな顔してたわよ? 昔のお客さんもよくお墓参りに行くんだし気にしないで。そもそもほたるちゃんはそんなことで怒るような娘じゃないわ」
そう言いながら管理人は桜庭荘へ戻り、一枚の紙を持ってきた。
ノートの切れ端、手描きの地図だ。おそらくは件の霊園への道順だろう。それを殆ど押し付けるように甚夜へ渡し、軽い説明をした後、懐かしむように彼は目を細める。
「この街の近くにお墓を作ってほしいっていうのは、ほたるちゃんのお願いだったの。最後まで鳩の街の娼婦でいたいって。だから男の人が来てくれたら嬉しがると思う。死んだ後も私は人気の娼婦ですね、なんてね」
だから、行ってあげて。
念を押すように、どこか懇願するような真摯な響きで、彼はそう言う。
見も知らぬ通りすがりに墓参りされたところで、故人も戸惑うだけだろう。そう思いながらも、ほたるの墓を知るのは当初の目的であり、甚夜は素直にそれを受け取る。
「ありがとう、ございます」しっかりと頭を下げる甚夜に、管理人は笑顔で返す。
「ほんといいのよ、別に。まあ、暇つぶしが見つかったくらいの気持ちでいてくれたらそれで十分」
そうして彼は軽く手を振り掃除へ戻る。話はこれで終わりらしい。
もう一度甚夜は頭を下げ、地図を確認し歩き始める。振り返って桜庭ミルクホールや管理人の姿を見るような真似はしなかった。
彼等とはもう別れの挨拶は済ませてある。今を幸せに生きている、それさえ知れればもう十分だった。
青年が去った後、管理人は掃除を続ける。
すると桜庭荘から高校生くらいの男子が外に出てきた。
「管理人さーん、こんにちは!」
「はい、こんにちわ。いつも元気ねぇ」
「それだけが取り柄だかんね。ところで、さっきの人誰? もしかして入居希望?」
「そんなわけないでしょ。貴方が入って以来希望者なんて一人もおりません」
「ちぇ、せっかく同年代が入ると思ったのに」
「あら、彼多分結構年上よ?」
「ええ、そう?」
何気ない会話である。
誰にも聞かれない、青年には届かない。それでいいと管理人は思う。
今の自分は桜庭荘の管理人。夢の話を現実に引きずるなんてよくない。
だから、現実の職業を全うするために掃除を続ける。
「……じゃあね、お客さん」
零れた呟きは、未練のようなものだ。
それも一緒に箒で掃いて、何でもない昼下がりの一幕は、何事もなく終わりを迎えた。
◆
鳩の街商店街から離れ、途中で花束を買い、地図に従って歩みを進める。
墨田区にある大きな寺、その裏手は一帯が墓地となっており、ほたるは死後そこで供養されたという。
彼女の実家の宗教は分からないため、管理人が……店長が知り合いの住職頼んだそうだ。
墓地は日当たりがよく、緑も豊かだった。そっと吹く夏の風に木々は揺れて、肌を撫ぜて抜けていく。
蝉の喧噪も少し鳴りを潜めたようだ。特有の静寂が横たわる墓地、その一角にほたるの墓はあった。
「……久しぶり、でいいのかな」
物言わぬ墓石に声をかける。
彼女の好きな花など聞かなかったから、仏花として最初から花束になったものを選んできた。
あまりに無難すぎると怒るだろうか。いや、喜んでくれるような気もする。
実際にはどちらかは分からない。甚夜が知っている彼女は、あくまでも鳩の街の娼婦。ほたるの本音は、彼には分からないままだった。
墓石は綺麗でコケや汚れはない。誰かが頻繁に来て掃除をしているのだろう。
横にはおそらく名前が、ほたるの本名と没年が刻まれている。しかし確認はしなかった。
彼は彼女の名前を知らず、彼女もまた彼の名を知らず、そうやって過ごした。今更知っても意味はない。
二人は名も知らぬ誰かとして出会い、一夜の夢を見ただけ。ならばこんな方法で彼女を知るのはルール違反だ。
そもそもそんなことの為に来たのではない。足を運んだのは、彼女に謝りたかったからだ。
「約束、破ってしまったな」
甚夜は無表情のまま、どこか寂しそうにそう呟いた。
出会った時、既にほたるは亡くなっていた。
だから墓を前にしても悲しみはない。沸き上がる感情は後悔、申し訳なさだろう。
いつかの指切りを思い出す。鳩の街を出る前にもう一度会おうと、互いの大切なものを交換した。
けれど約束は守れなかった。結局甚夜はほたるに会うことができず、二十三年という歳月が流れてしまった。
鳩の街にもう一度来たかったのは、つまりそういうこと。ほたるの足取りを追い、墓前でもいい、せめて謝罪をしたかった。
「すまない。最後の最後に君の信頼を裏切った」
ほたるは娼婦としてではなく、ただの女としても心を許してくれていた。少なくとも甚夜にはそう思えた。
にも拘らず、指切りまでさせておいて、彼女の信頼に報いることは叶わなかった。
未練だとしても、それを謝りたくて。しかし墓石はなにも言わない。
当たり前だ。こんなところで謝ったとして、彼女に届く筈もない。それで慰められるのは死んだ者の魂ではなく、謝ったという事実に満足した自分だけだ。
悲しくない、なんて嘘だったのかもしれない。甚夜は心臓が締め付けられるのを自覚していた。
「おや、君は……」
いったいどれくらいの時間立ち尽くしていたのだろう。
ふと気づけば、片手に花束を持ったスーツ姿の初老の男性が墓地へ訪れていた。視線は甚夜に注がれている。目的はこの墓らしい。見たことのない青年に、怪訝そうに眉を顰めている。
甚夜が小さく頭を下げて横にずれると、相手もそれに応じ礼を返した。そして墓前に花を置き、静かに黙祷を捧げる。
顔も知らぬ男二人。気まずく思ったのか、しばらくすると向こうから声をかけてきた。
「君は、彼女の……?」
「一応、知人です。少し世話になった程度ですが」
「そうか。いや、すまない。彼女の墓参りに来るにしては随分と若かったから、不思議に思ってね」
墓地で、共通する話題はそこに眠る彼女のみ。話が盛り上がる訳もない。
しかし男性には、二十年以上前に亡くなった彼女の見舞いに来る、十八程度の青年が奇妙に思えるらしい。ちらちらと甚夜の方を気にしている様子だ。
「墓の掃除は、あなたが?」
「ああ、私は小さな診療所を開いているんだが、距離が近いので頻繁に来るんだ。と、挨拶が遅れたね。僕は、梶井匠という。彼女とは……古い知り合い、だよ」
梶井匠。その名前には覚えがある。
ほたるのかつての恋人。彼女の未練にして、星の砂を贈った男性だった。
「そう、ですか。貴方が」
「ん、どうしたのかな?」
「いえ、梶井さんのことは、彼女から聞き及んでいたので」
「おや、そうなのかい。恥ずかしい話でないといいんだが」
笑って見せるが、どこか疲れた印象がある。
先程の言葉が本当なら、この墓を維持してきたのは彼だ。死んだかつての恋人の下へ通い続ける。その心中を覗き見ることはできないが、健やかなものではないくらい容易に想像はついた。
「恥ずかしいこと、ではあるかもしれません。聞かされたのは惚気ですから」
「惚気、かい……?」
「ええ。かつての恋人で、なにもかもを失い続けてきた彼女にとっては、唯一の本当だったと」
その言葉に匠は絶句する。
目を逸らし、墓石を眺める。信じられないものを見るような、茫然とした表情だった。
「……本当に?」
「はい」
「そう、か」
念を押すように確認するが、それでもまだ信じられないのか。匠は苦々しく口元を歪める。
なんとなく、彼が思い浮かべる景色が分かった。
本当に好きで、幸せにしたかった。
けれど結局、間に合わなかった。
梶井匠はずっとほたるのことを探していた。
しかし彼が鳩の街に辿り着けたのは、既に赤線が終わりを迎えた後。夜の女となったほたるはその一年前に亡くなっており、二人の恋は中途半端なまま幕を下ろしてしまった。
その後悔は、きっと今も彼を苛んでいる。
「正直、信じられないな」
「何故?」
「僕は、確かに彼女が好きだった。でも、出ていったあの子が何を考えてるのか分からなかった。あの子も、僕の気持ちを最後まで分かってくれなかった。結局僕らは……何も見てはいなかったんだよ」
それはいつかも口にした嘆きだった。
好きだったけれど、それは恋じゃなくて。
ただお互いに想いを押し付け合っていただけ。
何も理解せず、心を通わせることもできず。
二人の間にあったのは恋ではなく。ただの独りよがりだったのではないかと、今でも彼は思っている。
「彼女は、傍に居なくても貴方の幸せを祈っていました。……ちゃんと通じ合っていた。ほんの少し、ずれてしまっただけで」
匠の表情の痛ましさに、甚夜もかつて伝えた言葉を口にする。
穏やかに、似合わないと思えるほどの優しさで。
「俯く必要はない。君達は、間違いなく恋をしていたよ」
あの時と同じように、二人の間に確かに在った、美しい想いに名前を付けた。
「君は……」
「そうだ、これを返しておきます」
甚夜の言葉に匠は動揺を隠せないでいる。
そんな彼を余所に、胸ポケットから取り出したくすんだ小瓶を取り出す。
「星の砂。彼女から預かっていました。貴方からもらった、大切なものだと。……本当は墓前に返していくつもりでしたが、貴方が持っていた方がいいでしょう」
匠はあんぐりと大口を開けた。視線は星の砂の小瓶と甚夜の顔を行ったり来たり。
それを何度か繰り返した後、納得したように大きく頷いた。
「そうか、君のことだったのか……」
今度は甚夜が疑問に思う番だった。
君のこと、と言われても彼は存在しない筈の鳩の街でほたると出会っただけ。
現実には彼女との面識はなく、その為匠が甚夜のことを知っている可能性はほぼゼロだ。
にも拘らず、何か思い当たることがあったのか、彼の目からは疑いがきれいさっぱり消えていた。
「済まない、君。一緒に、うちの診療所に来てくれないか?」
「それは、どうして」
「頼む、時間は取らせない。私も君に渡したいものがあるんだ」
年下相手に、深く頭を下げて懇願する。
そのような姿を見せられては断るのも申し訳ない。どうにも腑に落ちないが、押し切られる形で甚夜は「分かりました」と頷いた。
連れて来られたのは、隅田川のほとりにある小さな診療所だった。
白塗りの壁の清潔そうな建物。中に入ると消毒の匂いがつんと鼻を刺すが、やはり綺麗な待合室だった。案内され奥の応接室へ、ソファーを進められそこで待つことになる。
見回すと室内も白い壁が目立つ簡素な造りだ。病院などが突飛な色合いの壁にしないのは、患者を落ち着かせるためらしい。成程、確かに手入れの行き届いた綺麗な白色は、なんとなく安心できるような気がする。
「待たせてしまったね」
そう言いながら応接室に戻ってきた匠の手には、二メートルもいかない程度の大きさの、細長い桐の箱がある。
甚夜に向かい合って座り、中央のテーブルに桐の箱を置き、滑らせるように差し出す。
これが件の“渡したいもの”のようだ。
「開けてみても?」
「ああ、構わない」
桐の箱に手をかけ、ゆっくりと蓋を開ける。
中には、刀袋が。
袋の中に収められたものを取り出せば、甚夜は驚きに目を見開いた。
出てきたのは一振りの刀。武骨な鉄鞘が特徴的な太刀だった。
「夜来……?」
刀の銘は『夜来』。
産鉄の集落葛野において、社に安置され、火の神の偶像と崇められた御神刀である。
夜来はいつきひめが代々受け継いできた葛野の宝にして、曰く千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀。
百年以上前、旅立つ己に集落の長が託してくれた、長い時を連れ添った愛刀だった。
「何故、これが、ここに」
「彼女から預かっていたんだ」
驚きにうまく反応をとれないでいる甚夜へ、匠は先程とは打って変わった穏やかな表情で語り掛ける。
「私が鳩の街に着いた時、既に彼女は後だった。しかし世話をしていたという店長が、この刀と彼女からの手紙を渡してくれてね」
“いつか、星の砂をもつ男の人が私のお墓を訪ねてくるでしょう。その時には、この刀を返してあげてください。”
手紙には、そう記されていたという。
そんなこと、ある筈がない。
甚夜がほたると出会ったのは彼女の死後。だから、その時には彼女の手元に夜来はなく、生前にそんな手紙を残すことなど不可能だ。
不可能、だというのに。なのに、確かに、夜来はここに在って。胸には暖かい何かが灯って。
甚夜は後から後から湧き上がる感情に強く目を瞑り。
しかし有り得ない景色を幻視する。
『お久しぶりですね』
白い壁の目立つ、簡素な部屋。
窓から入り込む春の風が柔らかに肌を撫でている。
差し込む陽光に微睡みながら、椅子に深く腰掛けたまま、彼女は窓の外を眺めていた。
浅い眠りに、ゆらゆらと揺れて。
彼女は今もまだ、誰かを、待っていて。
『済まなかった、私は、約束を』
長い時を越えて、誰かは訪れた。
彼女はそれを優しく迎えてくれる。
『いいえ、ちゃんと守ってくれたじゃないですか。ただ、ほんのちょっと、遅くなっただけで』
言いながら、小指をぴんと立てる。
いつかの指切り。歌い上げるように交わした約束。
それを破ってしまったのだと思っていた。
けれど彼女は、約束を破ったわけではないと
少し遅くなっただけで、貴方はちゃんと来てくれた。
そう言って彼女は、優しく、微笑んでくれたのだ。
「確かに、返したよ」
匠の声に甚夜は我を取り戻す。
目を開ければ、そこは先程と同じ応接室。麗らかな幻視はするりと手からすり抜けるように、遠い空へと還っていく。
残されたのは、夜来だけ。
重い。鉄の重さだけではなく、歩んできた道のりの分だけ、背負って来た重さがこの太刀にはある。
そして同じように。
鉄の固い冷たさ以外の、じんわりと滲むような暖かさが感じられた。
「……ありがとうございました。では、私からもこれを」
墓地では受け取ってもらえなかった星の砂、今度は素直に貰ってくれた。
いつか薄れていくはずの記憶を、それでも覚えていられたのは、繋がりがあったからだろう。あの小瓶を失えば、自分も忘れていくのかもしれない。
そう考えて、甚夜はそれを否定する。
繋がりならば、ちゃんとここに在る。夜来も、胸にある暖かな想いも。
だから覚えていられるだろう。
きっと、君を忘れない。
「……何故君達は刀と星の砂を交換していたんだい?」
懐かしむように、匠は手にした小瓶を眺めている。
零した疑問に裏はない。ただ本当に分からないから聞いただけ。
「お互い、もう一度会う約束をしていたんです。それを忘れないように、一番大切なものを相手に預けました」
「それが、彼女にとっては、星の砂だったと?」
「はい、この刀は私の半身。見合うものは、彼女には星の砂しかありませんでした。……それだけ、大切だったのでしょう」
星の砂が、ではなく。
あなたと過ごした日々が、彼女にとっては何よりも大切だった。
聞かされた彼女の真実に匠は茫然としている。
伝えたかったことは伝えたし、夜来はこの手に戻った。もはやここにいることもないと、夜来を再び刀袋に戻し、甚夜は静かに立ち上がる。
「では、私はこれで失礼します」
「ま、待ってくれ!」
帰ろうとする甚夜の背中に、匠は声を投げかける。
首だけで振り返れば、彼は肩を震わせ、まるで迷子の子供のようにこちらへ手を伸ばしていた。
「君は、いったい、何者なんだ?」
二十年以上前に亡くなったほたると親しくしていた、十八くらいの青年。
その言動といい、彼には甚夜が大層奇妙に見えていることだろう。
ぶつけられた問いに、どう返そうか。
しばし悩み、閃くものがあったらしく、小さく笑みを落とす。
「ただの男ですよ」
口にしたのは、答えにもならない言葉。
悪戯っぽく口の端を釣り上げる。
「かつて星の数ほどいた、彼女に恋をした……ただの、男です」
名乗っても何の問題もない。
けれど名乗らなかったのは、案外ほたるに恋をしていたからなのかもしれない。
『心からの愛では重すぎる。口先だけの、一夜を越すだけの情があればそれでいい』
“本当”はいつだって重く冷たいから、娼婦は軽薄な嘘で男を騙す。
所詮は上辺だけの恋。嘘で出来た温もりは、目が覚める頃には消えて、何一つ残りはしないけれど。
眠れない夜の傍らに、そんな恋が、せめてもの慰みがあってもいい。
そう願った、最後まで娼婦で在ろうとした彼女に、彼はきっと恋をしていた。
だから名前はいらない。
何も知らずに何も知られずに、ほたるという娼婦に恋をした。
そういう、ただの男でよかった。それでこそよかったのだ。
茫然としている匠に小さく頭を下げ、甚夜は診療所を後にする。
今日中に帰ると約束した。寄り道せずに、暦座への帰路を辿る。
一夜の夢は終わりを告げたのだから、後ろ髪をひかれて立ち止まるのは間違っている。歩みに迷いはなく、途中で止まることはない。
けれど、思い返す夜がある。
どれだけ素直になろうとも、最後の一歩は踏み込めなかった。
でも、それでよかったのだと思う。
言えなかった言葉や伝えたかった心は、雪のように溶けて、いつかは消えてしまうけれど。
夢のままに終わるからこそ、美しいものもあるだろう。
「では、な……ほたる。今度こそ、さようなら」
いつかの恋に、伝わらない別れの言葉。
あまりに軽すぎる、けれどそれで十分な気もした。
炎天の下、日差しは強く、めまいを起こしそうになる。
僅かに目を細めれば、夏の蜃気楼の向こう側に彼女の笑顔を幻視した。
とはいえ所詮は幻、それこそ蜃気楼のように一瞬で消え去ってしまう。
ほんの少しの寂しさはやはり胸にあって、しかしそれを塗りつぶすくらいの喜びに顔は自然と綻ぶ。
瞬きの恋は夜に消えて、訪れた朝の眩しさに、少し目が眩んでしまうけれど。
見上げた先には晴れやかな盛夏の青空が広がっている。
それだけで十分、ちゃんと歩いて行ける。
足取りは軽い。甚夜は歌でも口遊んでしまいそうなくらいの気分で、遠く遠く、続いていく道の果てに想いを馳せた。
終章『赤線跡を訪ねて』・了




