幕間『復讐の果てに』・2
【続・少年と憧れのお姉さんの話】
柚原青葉は三十七歳である。
実際年齢より若く見えるとは言え、以前と比べれば皺は目立つようになった。しかし青葉はやっぱり綺麗で、体型だって細いまま。そのくせおっきい。
つまるところ彼女は、年齢を重ねた今でも、高森啓人にとっては憧れのお姉さんのままだった。
「なんだか久しぶりっすね、啓人くんとこうやっておしゃべりするの」
「はは、そうですね」
夏休みの朝、いつもより早く起きた啓人は軽い運動がてら散歩に出かけた。
興が乗ってちょっと遠出、小さな神社へ足を運べば、いつかのように青葉が笑顔で迎えてくれる。
そういえば小学生の頃は、彼女に会いたくて毎朝神社まで走った。
初恋の思い出というやつは後から考えるとどうにも気恥ずかしい。だけど今もこうやって彼女の笑顔にドギマギしてしまうのだから、高校生になってもあんまり成長していないのかもしれない。
「むむ、そうやって敬語で喋られるとちょっと寂しいっす」
「そう言わないで下さいよ。俺だってガキのまんまじゃないんですから」
「私もすっかりおばさんっすねぇ……ちっちゃかった啓人くんがこんなに大きくなるんすから」
この人がおばさんだったら俺の母さんはおばあちゃんだ、というのが素直な感想だ。
何度も繰り返すが、彼にとって青葉は憧れのお姉さんで、初恋の相手でもある。その辺りの贔屓目を抜きにしても、年齢よりもかなり若く見える為、おばさんというのが今一つしっくりこない。
初恋は破れ、今更未練なんぞないけれど。
もうちょっと早く生まれたかったなぁ、なんて益体のないことを啓人はぼんやりと考えていた。
「そういや、青葉さん今でも毎朝通ってるんですよね?」
「日課っすから」
そっと呟き、視線は社へ。
夜刀守兼臣。ここに安置された“鬼を封じた刀”らしい。
子供の頃はちょっと憧れもしたけれど、流石に高校生にもなって「すげー」なんて感想は沸き上がってこない。
だからなのか、昔よりも青葉の横顔が寂しげに見える。
多分彼女の表情は変わっていない。変わったのは啓人の方だ。あの頃より少しだけ大きくなって、その分気付けることが増えた。
例えば、怖かった父親の背が小さくなったとか。
はしゃぎまわる小学生の相手をしてくれていた近所のおっさんの優しさとか。
後は、初恋のお姉さんが綺麗なだけじゃなくて、笑顔の下にも表情があったりするんだって、考えるようにもなった。
「あー、なんだっけ。昔、言ってた。ああ、そうだ。分からないことを考えてる、でしたっけ」
「よく覚えてるっすね、そんなこと」
「そりゃ青葉さんの話だし。じゃなくて、やっぱり今も考え中?」
「……うん、そっすね。考えても分からないことばっかり、考えてます」
青葉は昔も、そんなようなことを言っていた。
あの時はよく分からなかったけど。今ならもう少し話を聞いてあげられるような気がする。
だから、きっと触れてほしくない話題だろうけれど、敢えて啓人は話を振った。
その意はちゃんと伝わったらしく、帰ってきたのは優しい微笑み。やっぱり綺麗で、どきりと心臓が高鳴った。
ありがとうと小さく口にした青葉は視線を社へと固定したまま、投げ捨てるような軽さで問う。
「啓人くん、もし私がいきなり殴ったら怒りますか?」
「え? そりゃごほうび……違う、えーと、待って」
真面目な話だったのに、なんか急に話が飛んだような。
行き成りすぎる質問に戸惑うが、青葉の真剣な目を見て思い直す。
違う、飛んでなんかいないし、冗談や誤魔化しではない。彼女は真面目にこの質問を投げかけた。
つまりこれは、急な話の転換ではなく話の続き。“考えても分からないこと”なのだ。
ならばちゃんと向き合わないと。啓人は然程よくない頭を悩ませ、しっかり一分使った後、自信なさげに答える。
「そりゃ、怒らない……んじゃないですかね」
「どうして? 理由もなく殴られるんすよ?」
「いや、いきなりだったら、多分“なんで?”とか疑問の方が先に来ると思いますけど」
「ああ、そっすよね。じゃあ、啓人くんが七緒を怪我させて、怒った私が殴ったら?」
「殴られた後で土下座します。俺が怒る要素皆無でしょそれ」
「むむ、それなら、私じゃなくて。見も知らぬ他人に“私の子供怪我させて!”みたいな因縁つけられて殴られたら?」
「あー、そこまでいったら怒るかも。めちゃくちゃ理不尽な因縁じゃないですか」
青葉が何を言いたいのかよく分からない。
けれど彼女は返した答えを一つ一つ咀嚼するようにじっくりと噛み締めて飲み込む。
「それじゃあそんな理不尽な因縁をつけられて、何の抵抗もしない人って……どんなこと考えてたんすかねぇ」
その上で零れたのは、懐かしい思い出を口にするような、置いてきぼりにされたことをぼやくような、諦めに似た力のない呟きだった。
「それって……」
「昔ね、喧嘩しちゃった人がいるんすよ。その人とは、そんなに長い付き合いじゃなかったんすけど、まあ私の方が一方的に当り散らしちゃいまして」
聞かなくても、何となくではあるが察した。おそらくその相手は男だ。
それも、彼女の夫ではない男。
過去の恋の話なのか、世話になったというだけなのか。そこまでは分からないが、青葉にとって特別な相手であろうことは容易く想像がついた。
「我ながらひどかったと思うっす。……けどその人、全然抵抗しないんすよ。理不尽な言い掛かりで詰め寄っても、言い訳一つせずに、黙って私のすることを受け入れて」
「そりゃあ、その。自分が悪いって思ってたから、とか」
「だとしても、もっと器用に立ち回ることができた筈っすよ。なのになんであの人は、一番馬鹿みたいな選択をしたんすかね」
その理由が今も分からないと、彼女は言う。
「どんなに考えても、それが分からなくて。歳ばっかりとって、いつ間にかおばさんになっちゃってました」
一転青葉は朗らかな笑みで啓人を見る。
そこには憂いなどない。少なくとも、まだ子供である彼にはそう見えた。
本当のところは分からないけれど、彼女の笑顔は「話はここでおしまい」と言っているようだった。
「まあ、今更分かったからって、何にもならないんすけどね。分からなくたって、家族三人幸せだってことには変わらないですし」
強がりなどではない。
優しい旦那様、可愛い娘。
青葉は心から今が幸せだと思う。
祖父の復讐を果たし、古結堂を継いで。自分がやると決めたことを確かに為して、こうやって家族仲良く穏やかな毎日を送っている。
だからたまらなく幸せで、後悔なんて欠片もなくて。
それでも、と彼女は静かに目を細めた。
「それでも、ちょっとだけ。引きずってるんだと思います」
まだ子供だった頃に分からなかったことは、大人になった今やっぱり分からないままで。
幸せだと思うのに、少しだけ胸にはしこりが残って。
彼女はきっと、あれからずっと、考えても分からないことを考え続けている。
【男子高校生と女子中学生と女子小学生の話】
「お?」
「げっ」
「はい?」
やよいが浅草へ遊びに来てから早四日。
いつものように小さな神社で待ち合わせ、七緒が来るちょうどのタイミングで神社へ着いた。
しかし今日はいつものように二人だけという訳ではなかった。
境内には先客が一人。見知らぬ男子高校生がぼんやりと社を眺めている。
別にここはやよいや七緒専用でもない。他の人がいても不思議ではないだろう。
それに昔から使っている遊び場だし、馴染みと顔を合わせたりするのもある意味当然。
やよいたちの来訪に気付いた件の彼は、しゅたりと片手をあげて気安く挨拶をしてきた。
「おー、七緒」
「こんちゃー、けーちん。……しまったなぁ、行動範囲ほとんど一緒なんだから、そりゃ会うよね」
「ん? なにが?」
いきなりでやよいはびっくりしたが、七緒の方は軽い調子で手をぱたぱたとさせている。
年齢はかなり上だけど、どうやら彼女の知り合いらしい。
お互い軽く手を挙げて挨拶。けーちん、という呼び方からするに結構親しい間柄のようだ。
「七緒ちゃん、お友達ですか?」
「お友達というかなんというか。ううん」
仲はよさそうに見える。しかし今はあまり会いたくなかったのか、七緒はどうにも歯切れが悪かった。
なにやらうんうんと唸って考え込んでいたが、「まぁ会っちゃったからには仕方ないよね」と強く頷き、ようやく男子高校生を紹介という運びになった。
「えーと、こちらけーちん。高校生だけど昔からの付き合いで、なんか幼馴染っぽい感じの人っす。あれ? けーちん名前なんだっけ?」
「た・か・も・り・け・い・とっ! お前こんだけ付き合い長いのに名前覚えてないってどういう了見だ!?」
「そうそうそれそれ。ていうか普段名前呼ばないし」
やはり仲はいいらしく、言い争っているようだが傍目にはじゃれ合いにしか見えない。
散々わーわー騒いだ後、ようやく高校生の彼はやよいの方に目を向け、安心させるように笑顔でゆっくりと話し始める。
「ああっと、ごめんな。俺、高森啓人。七緒とは昔からの、まぁ友達でさ」
「彼女いない歴年齢といっしょで、女子中学生にご執心なの。だからやよっちゃんも気をつけてね? けーちんってばちっちゃい子大好きだから」
「え、なに? お前俺の評価下げないと気が済まないの?」
初対面から女子中学生に弄られまくる高校生。そのおかげか、やよいからすればかなり年上だが変に緊張しないで済んだ。
今度はこちらから挨拶をしないと。麦わら帽子を取り、にっこり笑顔で丁寧にお辞儀をする。
「初めまして、姫川やよいです。えーと、こっちには親戚のおじさんが住んでいて、それで遊びに来てるんです」
「あー、前に七緒が言ってた亀井さんの親戚の子?」
「はい、そうです」
「そっか。こいつからすっごい可愛い子だって聞いてたけど、話以上だなぁ」
「え、あ、えへへ」
お世辞は入っているだろうけど、褒められるのはやっぱり嬉しい。
それに年上だけどあまり怖い感じはしなかった。握手をしてこれからよろしく、なんて笑顔で言う啓人は、気を付けないといけないような悪い人には見えない。
「ていうか、けーちん。こんな朝っぱらから一人でどしたの?」
「え、いや……まぁ、ちょっと散歩?」
七緒の何気ない問いに言い淀む彼は、つつっ、と目線を逸らしてしまう。
彼としては誤魔化したかったのだろうが、寧ろそのあからさまな態度のせいで、隠したい事実は簡単に露呈する。
「……もしかして、お母さん?」
図星である。
啓人は朝方青葉と語らい、その後も小さな神社の境内でボーっとしていた。そこに二人の少女が来たのである。
もちろんそれだけなら特別騒ぐようなことではないが、彼の初恋の相手が青葉だと知っているため、七緒の視線はかなり冷たい
「あ、その、あれだ。偶然、な?」
「うわぁ……一応言っとくけどお母さん三十七歳だからね? ついでに言うとけーちんをお父さんとか呼ぶの嫌だよ」
「そうじゃない、そういうのじゃないからね。ちょっと昔みたいなねーなんて話してただけだから。他意は全くないから。ほら、ここお前んちの家宝の刀が置いてあるんだろ?」
やよいには話の内容は分からないが、七緒に詰め寄られて啓人は大慌てだ。
どうしたんだろう、なんて思っていると、彼は一度深呼吸して明らかに取り繕った顔で、しかも話を無理矢理そらそうとしているのが丸分かりな態度でこちらへ話を振ってくる。
「それについて色々聞いてたんだよ。あれだよ、男の子の憧れだろ、妖刀とか家宝とか。そうだ、やよいちゃん、知ってる? ここには夜刀守兼臣って刀が収められてるんだぜ?」
「あ、はい。七緒ちゃんのおうちの大切な刀、なんですよね?」
「そうそう。なんでも鬼を封じたっていう説話があるらしくって、刀には昔暴れた悪鬼が封印されてるって話なんだ」
「ひぇぅ!? ……へぇ、そうなん、ですかっ」
今度はやよいが慌てる番だった。
なんせ、タイムリーすぎる。狙いすましたように隠し事を射抜いてきた。
結果としてテンパってるのが二人に増えただけ。すごいよなっ、そうですねっ、となんだかよく分からないやり取りを交わす二人を訝しげな眼で七緒は見つめている。
蝉の声に満ち満ちた境内に、乾いた笑いが消えていく。
やよいと啓人の初対面は、お世辞にも和やかとは言い難い、ひどくぎこちないものとなってしまった。
【神社の娘と封じられた鬼の話】
『いや、中々楽しそうじゃないか』
「うー……なんか他人事です」
『そういうつもりはないのだがな。子供たちのそういう話は、年寄りには微笑ましく聞こえるものだよ』
その日は結局七緒と啓人、三人で遊ぶこととなった。
高校生の啓人が駄菓子屋でいろいろおごってくれたり、普段の七緒の様子を話してくれたり、そのお返しとして思いきり弄られていたり。騒がしく真昼は過ぎて、夕方になりやよいは再び小さな神社の社へ足を運ぶ。
浅草へ来た初日に知り合った奇妙な刀との付き合いも、早四日目となっていた。
“やめなさい、君のような少女が。妖刀など興味本位で抜くものではないぞ”
好奇心から抜刀しようとしたやよいを止めたのは、他ならぬ妖刀自身だった。
いきなり刀が喋りかけてきたのだ、彼女の驚愕は筆舌に尽くしがたいものがあった。投げ捨てて逃げ出さなかったのは、友達の家の家宝と聞いていたからである。
“あの、その、えーと……こんにちは?”
“……そう返されるとは思っていなかったな”
妖刀の目論見としては、驚愕と恐怖に刀を投げ捨てて、そのまま逃げてくれることの方だったらしい。
小学生の女の子だ。多少驚かせれば二度と来ないと思った、というのが彼……彼? の弁だ。
しかしそれはやよいが逃げずに挨拶を交わしたことで無意味なものとなった。更には何を考えたのか、彼女は少し怯えながらも妖刀に話しかけてきたのだ。
子供らしい好奇心だったのだろう。だが、やよいは同年代に比べればしっかりした娘でもある。
関わらせないように、という妖刀の配慮に悪い刀ではないと知ったからか、喋る刀を前にしても多少の怯えはあれど落ち着いた様子だった。
その判断は間違いでもなかったらしい。
喋る刀という時点で非常に不気味ではあるのだが、話してみると随分穏やかで理性的な相手だ。しかも幼いやよいへの気遣いが言葉の節々から感じられる。やはり彼は悪い刀ではなく、優しい刀だった。
話しているうちに恐怖も薄れ、刀の方も彼女を邪険にはせず。
彼のことが気に入ったやよいは、こうして夕方になると神社を訪れ、しばらくお喋りに興じるのが日課となっていた。
『それに、やよいも嫌がってるわけではないのだろう?』
「はい、それは勿論。啓人さんすっごく優しくて、おにいちゃんみたいでした」
今日の話題は七緒や啓人と遊んだ時のこと。
七緒という名前を聞くと一瞬変な感じになったけど、妖刀はやよいの話をまるで父親のような、寧ろ父親よりも親身になって聞いてくれる。
この奇妙な刀との交流は、不思議ではあるけれどとても楽しかった。
「あ、そういえば」
『どうした』
しばらくの触れ合いで分かったことがいくつかある。
刀の声は触れている時だけ聞こえる。つまり耳からではなく肌から伝わるのだということ。
正確に言えば刀が喋っているのではなく、“中の人”が喋っているということ。
昔この刀に封印されたこと。
多分それは男で、人間じゃないこと。
「啓人さんが、ここにある刀は妖刀で、昔暴れてた悪い鬼をふういんしたって言ってたんです。それって……刀さんの事なんですよね?」
そして今日聞いたばかりの話。
刀の銘は夜刀守兼臣。かつて暴虐の鬼を封じた刀であり、話からすれば中の人は悪い鬼であるということ。
この不思議な刀について知っているのは、そのくらいだった。
『その通り。私は夜刀守兼臣に封じられた鬼だ』
「……じゃあ、悪い鬼さん、なんですか?」
『封印されるような輩だ。相応の悪行を重ねた悪鬼ではあるよ』
「そうおうのあくぎょう?」
『たくさん悪いことをしたひどいやつ、だな』
気軽な調子で刀は言うが、やよいにはそれが信じられない。
この四日、夕方になると神社で刀とお喋りをした。だから彼が悪い刀ではないと知っている。たくさん悪いことをした、と言われても今一つぴんと来なかった。
「そんな風に見えません」
『悪いやつほど嘘を吐くのがうまいものだ。言葉が優しいからと信用してはいけない。君のような可愛らしい娘なら尚更な』
「かっ、かわいいって……あ! ごまかそうとしてますね?」
『ばれたか。そら、甘い言葉の方が信用ならないだろう?』
「うー……」
どうにも上手くあしらわれてしまっている。
手の中の刀を睨みつけても、表情なんてないのだから内心は読み取れない。
ただ声の調子は、落ち着いた様子だがなんとなく楽しげに聞こえた。
「ふーんだ、いいですよ、別に。ごまかされてあげます」
『あまりむくれないでくれ。可愛いというのは本音だ。それに、優しい言葉には嘘が多いというのもな。心の片隅にでも留めておいてくれると嬉しい』
「わ、分かりましたよ、もう」
結局本当のことは言ってくれない。
それが悲しくて、褒められたのが照れくさくて、やよいは拗ねたような態度をとってしまう。
小さな苦笑が聞こえた。多分いじける少女を微笑ましく思っているのだろう。
この刀とのお話は楽しいけれど、子供扱いされるのはちょっとだけ悔しい。けれど同時に、自分を心配しての発言だと分かるから、少し嬉しかった。
「……刀さんは、出たくないんですか?」
それからしばらくはまた雑談に戻ったが、思い出したようにやよいはそう問うた。
『ん?』
「だってむりやり閉じ込められたんですよね? 外に出たくないのかなって」
『出たくないと言えば嘘になる。一応身内もいるしな』
「身内、ですか?」
『ああ。封印された影響かな、記憶があやふやだったんだが、近頃ようやくはっきりと思い出せるようになった』
心配をかけるのは心苦しいと彼は言う。
一時期とある少年と行動を共にしていた時期があった。その頃は昔のことが全く思い出せなかったらしい。
しかし件の彼との行動がきっかけとなったのか、全てが終わりこの神社に再び安置されてから、少しずつだが記憶が戻ってきたという。
よく分からない話だが、気にすることじゃないと言われたのでやよいは深く考えるのをやめた。
代わりに頭を占めるのは、封印された彼のことだ。
「それなら」と口に仕掛けた言葉を、強い語調で刀は遮る
『やよい。封印された化け物を外に出したいなど、間違っても言うものじゃない』
「でも」
『ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ』
自覚があるのかないのか、そういうことを言えてしまう辺りが、悪い鬼には思えない原因の一つだろう。
だからこそ、やよいの表情は暗い。彼女はそれだけ心配してくれているのだ。
刀は思わず小さな溜息を零す。
優しいというか純粋というか、或いは考えが足らないというべきか。やよいは、自分が騙されているかもしれない、とは欠片も考えていないらしい。
優しさも純粋さも責められるようなものではないが、こうまで邪気がないと良からぬ輩に騙されないかと不安になってしまう。
とはいえそれとは別に、気遣いは嬉しいと思うし、幼子が落ち込んでいる姿を放っておく気にもなれない。
『あまり気にしないでいい、少し一人で考えたいこともあった。だから封じられた今は、存外都合がよかったのかもしれない』
慰めるような穏やかな声音は彼女への気遣いではあった。しかし鬼は嘘を吐かない。口にした言葉はまるっきりの嘘という訳でもなかった。
「考えたいこと、ですか?」
あやふやだった記憶が元に戻り始め、それでも積極的に暦座へ戻ろうとしなかったのは、多分迷いがあったからだろう。
ああ、と刀は一段声を低くして、どこか自嘲混じりに言葉を漏らす。
『帰る気がない訳ではない。……けれど、おそらく私は。考えても分からないことを、今もずっと考えているんだ』
【考えても分からない話、或いは恋破れた少年と神社の娘の話】
幼い頃、大人は何でも知っていると思っていた。
彼は言った。
『考えても分からないことを、今もずっと考えている』
不思議な刀だった。助けになりたかった。
けれど何も言ってくれなかったから、なんて言えばいいのか分からなかった。
苦しんでいる誰かに手を差し伸べてあげられないことは辛いのだと少女は知った。
彼女は言った。
「考えても分からないことを、今もずっと考えている」
初恋の人だった。助けになりたかった。
けれどなんて言えばいいのか分からなくて、結局何も言えなかった。
子供って、辛い。せめてもう少し大きくて頼りになったのなら、彼女に何かできただろうか。
幼い頃、大人は何でも知っていると思っていた。
けれどあの頃より少しは大きくなって、知らなかったことを知って色んな事を覚えて。
なのに、分からないことばかりが増えていく。
それはまだ子供だから?
大人になれば、分からないままにしてしまった沢山のものに、答えを出せる日が来るのだろうか。
* * *
「あ、啓人さん。おはようございます」
「お、やよいちゃん。今日は一人?」
「はい、七緒ちゃん用事があるみたいで。お散歩です」
「そっか、俺も散歩中」
何度か一緒に遊んだことで、年齢は離れているが二人は随分と仲良くなった。
大抵会うのはあの小さな神社の付近。今日は七緒に用事があるらしく、やよいが一人で出歩いていたところで偶然に顔を合わせた。
「あれ、どうしたの? なんかあった?」
「え……」
「いや、落ち込んでるみたいだからさ」
「そう、ですか?」
やよいはどきりとした。やっぱり年上のお兄さんだから、よく見ているんだなと思う。
昨日、社で交わした刀との会話がずっと気になっている。考えても分からないことを、ずっと考えている。それがどんな内容なのかは教えてくれない。
彼が何かを悩んでいるのは分かる、けれど、まだ幼いやよいにはかけられる言葉なんて何もなかった。
もうちょっと大きかったら。
例えば、啓人お兄さんくらいの年齢だったら上手く言ってあげられたのかな、なんて思う。
「ちょっと、悩み事というか。いえ、私のじゃないんですけど。あの」
「……よし、やよいちゃん。暇だったら一緒に遊ぶ?」
「え?」
「あんまり悩んでても仕方ないって。いっぱい遊んでまずは頭の中すっきりさせよう」
元気づけようとしてくれている、それくらいやよいにも分かった。
仲良くなったとはいえ、基本的にはお互い七緒の友達という認識。そこまでしてくれるとは思っていなくて、けれど頭をぽんぽんと叩きながら気遣ってくれる年上のお兄さんは、やよいの目には頼もしく映る。
「いいん、ですか?」
「勿論。俺もやよいちゃんともっと仲良くなりたいって思ってたし」
七緒とよく一緒に居るせいだろう。こういうことを気軽に言ってしまう辺り、啓人の感覚はずれている。
普通男子高校生は女子小学生を気軽に誘わない。傍目にはひどく奇異に映るからだ。もう少し時代が進めば事案扱いされる話である。
とはいえ昭和の頃はそこまで騒がしくするほどのものではない。
にっこり笑って頷くやよいは大変可愛らしく、啓人も笑顔で彼女の手を取った。
遊ぶと言っても高校生と小学生、男と女では随分違う。しかし知らない遊びも面白いだろうと、小さい頃によく使ったおもちゃを持ってくることにした。
ベーゴマやらメンコ、銀玉鉄砲なんかは女の子だからかあまり触る機会がなかったようで、興味深そうにしている。
ベーゴマの巻き方を教えてあげると、四苦八苦しながらもなんとか回せるようになった。
メンコの方は、ロボットアニメのメンコにそんなに食いついてくれなかったのが啓人にはちょっと悲しかった。昔はマジンガーやコンバトラーなんて持っているだけでヒーローだったのに。
一頻り遊び終えると今度は近所の駄菓子屋で冷たい飲み物を購入。悪いです、と遠慮するやよいに殆ど押し付ける形でよく冷えた瓶ラムネを渡す。
また小さな神社へ戻って木陰で休憩。七緒といる時はこの神社でのんびりするのがいつものことだった。
「ごめんなさい、またごちそうになっちゃいました」
「いいっていいって。大した値段でもないし」
ホント礼儀正しいなこの子、七緒も見習ってほしい。
ぺこりとお辞儀をするやよいが微笑ましくて、啓人の口の端はにんまりと緩む。途中で小学校時代からの親友と出会い「あー、おまえってやっぱり……」みたいな目で見られたのは失敗だったが、つい先日知り合ったばかりのこの娘と過ごす時間は結構楽しかった。
おにいちゃんみたいです、と言われたのは流石に照れたが。
「そういや、やよいちゃんって七緒と随分仲いいよな」
「はい、前に来た時に知り合って。今ではお手紙の交換もしてるんです」
「へぇ、あいつも意外とマメだなぁ」
どちらかというと大雑把な彼女が文通なんて面倒くさそうなことをしているのは少しだけ驚いた。
そういや小学校の時にクラスの女子が交換日記なんてやっていたし、七緒も女の子ということなんだろう。
「でも啓人さんも七緒ちゃんと仲良しですよね?」
「あー、俺の場合は」
「やっぱり七緒ちゃんのお母さんが初恋の人だからですか?」
何か言うよりも早く、無邪気なやよいの言葉に殴りつけられる。
十歳の頃に青葉目当てでこの神社へ足繁く通っていたことは、啓人の中でも三指に入る恥ずかしい過去だった。
「や、よいちゃん、何故、それを」
「七緒ちゃんが話してくれました。お母さん目当てでこの神社に通ってたんだよーって」
いや、分かってたけどね?
分かってたけど人の恥かしい話いちいち掘り起こしてんじゃねーよ畜生。
この場にいない七緒へありったけの呪詛を贈りながら、一度深呼吸。
いくらなんでも小学生に八つ当たりみたいな真似はできない。どうにか心を落ち着け、啓人はにこやかな笑顔を取り繕ろう。
「いや、あのだね。……まあ憧れだったのは確かなんだけどね」
「七緒ちゃんのお母さん、すっごい綺麗ですもんね。恥ずかしがっちゃダメですよ、誰かを好きになるってとっても素敵なことだと思います」
臆面なく、微笑を崩さぬままやよいは言い切る。
誤魔化そうとした啓人とは正反対だ。女の子の成長は早いとは言うが、なんか恋愛面に関してはこの子の方が大人なんじゃないだろうか。
「やよいちゃんは、いい子だなぁ」
「え? なにがですか?」
「そーいうところが」
少なくとも啓人には、こんなにまっすぐ「好きになるって素敵なことだ」なんて言えない。
単に子供らしい、というだけなのかもしれないが、思春期になった彼にはやよいの在り方が眩しく見えた。
「まあ青葉さんが初恋の相手ってのはホントだけど、だから七緒と仲良くなった訳じゃないよ。俺は俺なりに七緒のことが気に入っていて、だから友達になったんだ。……あ、これあいつには内緒な?」
「えー、聞いたら喜ぶと思いますよ?」
「だめだめ、調子に乗るから」
いーじゃないですか、だーめ。
はにかんだ笑みで互いに同じ言葉を繰り返す。奇妙な遣り取りが何となく心地よい。
顔を合わせてもう一度笑い合う。年齢差など感じさせない。出会って間もないが、二人はちゃんと友達になれていた。
「そういや、やよいちゃんはこっちにどれくらいいるの?」
「えーと、あと一週間くらいは」
「そっか。なら機会があったらまた一緒に遊ぼうぜ、今度は七緒も一緒に」
「はいっ」
それからも長い時間一緒に遊び、夕方になり、あまり遅くならないようにと神社で解散。送っていこうか、と啓人は言ったが、家近いから大丈夫ですとやよいは笑顔で断る。
本当の理由は寄るところがあるから。社で刀とお喋りなんて人に知られたいことではないし、刀さんからは他言しないでほしいと頼まれている。
「今日はほんとにありがとうございました」
「なんの、俺も楽しかったし。それにちょっとは元気になったみたいでよかった」
やっぱり、こういうところお兄さんだなぁ。
年上の貫録というのか、啓人はとても頼りになる。実際に悩みが解決した訳ではないが、気分はすっきりとしていた。
「あの、啓人さん」
青葉の悩みにうまく答えられず悩む啓人も、やよいから見れば頼りになるお兄さん。
それに今日一日で、彼に対する信頼はぐっと高まっていた。
だからやよいはおずおずと、昨日からずっと胸の奥で引っ掛かっていた想いを吐露する。
「ん、どしたの?」
「あの、私の友達なんですけど。年上で、悩み事があるみたいで、でもあんまり話してくれないし。そういう時、どうしてあげればいいと思います?」
「悩み事……」
「はい。考えても分からないことを考えてるって、でも私なにも言ってあげられなくて」
詳しいことは言えない、というよりも殆ど知らない為、曖昧な表現しかできない。
要領を得ないやよいの言葉に、しかし啓人は真面目な顔で真剣に悩んでくれている。
「そっか。何もできないって、辛いよな」
考えても分からないことを考えている。
そんな誰かに何かをしてやりたいというのは、啓人自身の悩みでもあった。
だから零れた呟きは安易な同情ではなく実感が籠っている。
どうすればいいのか分からないのは彼も同じだった。
「……はい」
「でも、ごめんな。うまいこと答えられないや。……やよいちゃんからしたら俺は大人に見えるかもしれないけどさ、そんなに大したやつじゃないよ? 高校生なんてまだまだ子供だって、最近思い知らされたばっか」
青葉は言った。
“考えても分からないことを、今もずっと考えている”
初恋の人だった。助けになりたかった。
けれどなんて言えばいいのか分からなくて、結局何も言えなかった。
「子供って、辛いよなぁ。せめてもう少し大きくて頼りになったんなら、何かできたかもしれないのに」
やよいからは大人にしか見えない彼が零したぼやきは、少女の内心を正確に表している。
封じられた鬼は語った。
“考えても分からないことを、今もずっと考えている”
不思議な刀だった。助けになりたかった。
けれど何も言ってくれなかったから、なんて言えばいいのか分からなかった。
苦しんでいる誰かに手を差し伸べてあげられないことは辛いのだと、やよいは初めて知った。
それと同種の劣等感を、彼もまた感じているのだ。
「……うん、そうだよね」
丁寧だったやよいの言葉遣いが崩れる。俯いた姿は涙をこらえているようだ。
ぽんぽんと、少女の頭を優しく撫でて、啓人は慰めるように笑いかける。
「多分さ、俺にできること、やよいちゃんにできることって殆どないんだと思う。情けないけどね。……それでもやっぱり、その人が大切なら。悩みを解決できなくても、傍にいて笑わせてあげたいって思っちゃうな」
未練がある訳ではないけれど、初恋の人だったから。
少しくらい青葉の力になれたらいいと思う。それができなくても、ただの隣人としてでもいいから、笑ってくれれば嬉しい。
なんてことを、自分の母親くらいの年代の女の人に思うのは流石に変か。自分の馬鹿な考えに、思わず啓人は苦笑する。
けれどやよいにとっては、決して馬鹿な考えではなかったらしい。
「私にしてくれたみたいに?」
「ああ、そうかも。悩み事をちょっとでも忘れられるように一緒に遊ぶ、ってのはいいんじゃないか? やよいちゃんみたいに可愛い子だったら相手も喜んでくれるって」
「う、うー……」
いきなりの褒め言葉に照れてしまう。そんなやよいが微笑ましくて、苦笑は自然と柔らかなものに変わった。
おどけたように言う啓人自身、本当はどうすればいいのかなんて分からない。それこそ“考えても分からないこと”だ。
大人になった時、その答えが見つかるのかどうかさえ、やっぱり分からないままで。
だから子供のままできる何かを探すのも悪くない。
夕暮れに沈む神社で二人、そんな風に思った。




