『夢の終わり』・2
人のいない家には一種独特の空気がある。
埃臭いのに透き通るような。静けさが響き渡って、どこか寒々しくて。
この店のホールにもそういった空気が満ちている。だから誰に言われなくとも、本当は、此処には誰もいなかったのだと知れた。
それが少し切なく、けれど喉を通ったアルコールの熱さも、胸に残った暖かさも確かにあって。
いつかは忘れ去られる夢だとしても、それで十分な気もした。
甚夜は誰もいなくなった桜庭ミルクホールを後にする。
扉を開けば、ぎしりと錆びついたような音が鳴った。外は店内と然程変わらぬ暗さ。重苦しい雨雲に空は覆われて、一刻もすれば降り出しそうな様相だった。
「あら、今日はもうお帰りですか?」
絹の手触りを思わせる、柔らかな声。
店の外では、いつもと変わらぬ娼婦然とした振る舞いでほたるが待っていた。
考えてみれば彼女とも長い付き合いになった。
最初は偶然。死んだ女に魅かれた男を見て、横槍を入れた。
それだけの筈が、体を重ね多少なりとも心に触れ、恋慕とも友愛ともつかぬ奇妙な間柄へ落ち着いてしまった。
彼女への感情はなんとも言葉にしにくい。しかし気に入っているのは間違いない。
ほたるも同じようなものらしく、二人の関係を明確にはしないまま、つかず離れずを保っていた。
その距離感が心地良く、けれどそれももう終わりだ。
「……それは」
視線は携えた刀袋に注がれている。
いつだったか、夜のバルコニーで少しだけ語った。故郷の長から賜った大切な刀。そうと気付いたからだろう、ほたるは僅かに目を伏せた。
「もう、行かれるのですか?」
「ああ。君にも、世話になったな。今日は挨拶に来た」
着の身着のまま流れ着いた男が、大切な刀を手にし、挨拶へ訪れた。
別れを告げに来たのだと察したほたるは、けれど寂しさや悲しさを感じさせず、嫋やかに目尻を下げた。
「お世話になったのは私の方です。貴方のおかげで私達の恋は救われたのですから」
晴れやかというには穏やかすぎる、しかし曇りのないまっすぐな感謝だった。
もう娼婦としての表情はどこにもない。冬の星空のように静かで澄んだ、いつかの少女が微笑んでいる。
「すぐにでも?」
「いや、一つだけやり残したことがある。明日の朝に出るつもりだ」
そうですか、とほたるは独り言ちて、しばらく俯いて何事かを考え込んでいた。
顔を上げれば甚夜をまっすぐに見つめ、懐から取り出した小さな何かを彼の手に握らせる。
「どうぞ、これを」
手渡されたのは、くすんだガラスの小瓶。
星の砂。何もかもを捨ててきた彼女が最後まで捨てられなかった、いつかの想いの欠片だ。
それが彼女にとってどういう意味を持っているか知っている。
無為に失われた生涯の中、それでも残った唯一の本当。
何故渡そうとするのか。僅かに目を細めれば、微笑みのままにほたるは小さく頷いて見せる。
「あげる訳ではありません。ちゃんと、明日返してください」
「明日?」
「はい。……私はこの街を出ることができませんから。せめてお見送りくらいはさせてください」
星空にまつわる恋の話は終わりを迎え、ほたるの未練はなくなった。
にも拘らず、最後の最後まで鳩の街に残ったのは、つまりそういうことだ。
彼女は既に死んでいる。
帰る場所もなく、この街が消え去れば同じく消えていくだけ。
だからこそ、救いを与えてくれた名も知らぬ誰かに。
有り得ぬ出会いを与えてくれた鳩の街に感謝していた。
同時にそれが、最後の未練だった。
ほたるは彼を見送る為に鳩の街に残った。
見送った後には、この街と共に終わりを迎えることが、彼女の望みだったのだろう。
「なんとも義理堅いことだな」
「娼婦ですから」
一夜の間だけ夢を魅せて、朝日と共に消えていく。
日常の中に埋もれて、柔らかな記憶さえいつかは消え失せて。
ほたるは、夜の女だった。
夜にしか生きられない、夢の如き女だ。
「成程。君は確かに夜の女だ」
「ええ。結局、普通の女ではいられませんでした」
その在り方を綺麗だと思う。
儚さ故の美しさではない。いずれ散り往くと知りながら、それでも最後まで咲き誇ろうとする心をこそ眩しいと感じる。
甚夜は苦笑を零す。ごく自然に刀へ手を伸ばし、ほたるへと差し出していた。
「……あの?」
「星の砂の代わりだ」
刀の銘は『夜来』。
曰く千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀。
産鉄の集落葛野において、社に安置され、火の神の偶像と崇められた御神刀である。
「以前も言ったが、そいつは故郷の集落の長から賜ったものでな。共に苦難を乗り越えた、私の半身だ。……君の心に見合うだけのものは、この刀くらいしか思いつかなかった」
「そんな大切なものを、受け取る訳には」
「いいんだ。明日返してくれるのだろう?」
星の砂の代わりに預けるだけ。
明日もう一度会い、この街を出る。その時に返してくれればいい。
見送りの約束をつける為だけに彼女は星の砂を、心を渡してくれた。ならばこれくらいせねば釣り合いが取れない。
甚夜は刀を差し出したまま微動だにしない。その様子に引く気はないと悟ったのだろう。
ほたるは恐る恐る手を伸ばし、大切に、赤子を抱き留めるように優しく胸元へ引き寄せた。
「分かりました。では明日まで、預からせていただきます」
「ああ、頼んだ。失くしてくれるなよ」
茶化すように甚夜が言えば、ほたるは真剣に頷いて返す。
互いに名前さえ知らない。
なのに夜来を、星の砂を安心して預けられる。その関係が奇妙に思えて、見つめ合い、二人静かに笑みを交わした。
「不安なら、指きりでもしましょうか」
「それは……風情がある、と言うべきかな」
「ふふ。私とて、本当に指を切り落とすつもりはありませんよ」
子供たちが約束と共に交わす指切りは、元々は遊女の習わしである。
金で抱かれる女だ、口先の愛に信頼など寄せられない。だから不変の愛を誓い、それを示す為に遊女は自分の小指を切り落とし男へ渡したという。
娼婦であるほたるが指切りをしようというは、そういった由来を知ってのこと。
指を切り落とすまではしないが、それでも比肩するだけの覚悟で約束を守るという表明だ。
或いは、結局は言葉にしなかった想いが僅かながらあるのだと、彼女は伝えたかったのかもしれない。
しかしそれを指摘するのも無粋だろう。
甚夜は黙って頷き、差し出してくれた白魚のような小指に、自身の小指を絡める。
「ゆーびきりげーんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった」
歌うように交わされた約束。
子供っぽいようで、彼等らしいような気もする。
そっと離れた小指がなんだか妙に照れくさい。ほたるは目が合うとくすぐったそうに笑い、つられて甚夜も笑みを落とした。
この街はもう終わりを迎える。
彼女との触れ合いも、一場の春夢に過ぎない。
けれど残るものはあると知っている。だから悲しいとは思わなかった。
日は雨雲に隠れて、心地よい午後とは言い難い。
それが寧ろ今は嬉しい。
二人はしばらくの間、言葉もなく微笑み合い、ただ静かに空を見上げていた。
◆
こうして彼は鳩の街に別れを告げて。
最後の最後、“やり残したこと”に向き合う。
ほたると別れた後、雨は降り始めた。
しばらく娼館の軒先を借りていたが一向に雨足は弱まらず、雨の中を走ってきたせいでアパートへ戻る頃にはそれなりに濡れてしまった。
部屋に帰れば濡れた甚夜を見て、わたわたと青葉が慌てている。
今朝とは打って変わって邪気のない年頃の娘といった印象だった。
「うわぁ、甚さんびしょ濡れじゃないっすか。ほらほら、とりあえず入ってください。タオル用意しますから」
水を含んだ衣服は重くなり、肌にまとわりついて気持ち悪い。
手を引っ張られ室内に入った甚夜は、下は然程濡れていない為取り敢えず上着だけを脱いで腰を落ち着けた。
体を休めているとタオルを準備した青葉が後ろに回り、子供にするような優しい手つきで甚夜の頭を拭き始める。
「自分で出来るが」
「まぁまぁ、ここは私に任せて」
こちらの言い分など初めから聞く気はないらしく、手は止まらない。けれど乱雑になることもなく、ゆっくりと丁寧に髪の水気を取っていく。
頭を拭き終えると新しいタオルで次は背中。されるがままというのも案外心地良い。母親がいなかったから、誰かに頭を拭いてもらうなどあまりない経験だった。
不意の感慨に耽っていると、背中を拭きながら青葉がぽつりと呟く。
「ねぇ、甚さん。そのままでいいんで、話聞いてほしいっす」
頼りない、弱々しい声。
タオル越しに手の震えが伝わってくる。緊張か、怯えかは分からない。
背後にいる青葉はいったいどんな顔をしているのだろう。もしかしたら、泣くのを堪えているのだろうか。そう思わせるほどに、彼女の呟きは暗く沈みこんでいた。
「ああ、構わないよ」
けれど甚夜は静かに笑みを落としながら返した。
父親を思わせるゆったりした物言い。本当は、何を言おうとしているのか分かっていたのかもしれない。
だから殊更穏やかに答えた。
青葉の過去を知らない甚夜では正確なことまでは把握できない。
それでも、彼女が時折向ける感情が何なのか、彼は知っていた。
知っていて、今まで傍にいたのだ。
「すみません、なんか」
安堵から漏れた吐息が肌に触れる、そのくらい距離は近い。
ほたるに語った、“一つやり残したこと”。
なんだかんだ青葉には世話になった。ならば受けてやらねばならないと思った。
そうしなければ、多分彼女は前に進めない。
だから、あと一日。朝までは待つ気でいた。明日の朝に街を出るといったのは甚夜の都合ではなく青葉の都合。彼女の心の準備が整うまでの猶予だった。
「私、ずっと迷ってました。けど、やっぱり一度家に帰ろうと思います」
彼女はようやく胸の内を曝け出してくれた。
それを嬉しく思うと同時に、甚夜の体は僅かに強張った。
背中を拭く手が止まり、そっと離れる。室内の空気がぴんと張りつめたのは、多分気のせいではないだろう。
「家業を継ぎたくなくて飛び出した、という話だったか」
「はい。継ぐかどうかは置いといて、一度はちゃんと戻らないといけないっすから」
いつだったか、青葉は語ってくれた。
彼女の家には古くから続く家業があり、厳しい祖父には「お前も家業を継げ、その為に生きるのだ」と教えられていたこと。
それを不満に思い、衝動的に家を飛び出して鳩の街へと流れ着いたこと。
七緒の下で、見習い娼婦として幸せな毎日を過ごしていたこと。
“お爺ちゃん、死んじゃったんで”
けれどその間に祖父は身罷り、死に目に会えず、逆らって家を出た手前その後も帰れなかったこと。
「結局、色んなものから逃げてたんすよね、私。家業を継ぎたくなくて、娼婦としても中途半端で。……なによりお爺ちゃんのことから、ずっと逃げてました」
嫌いだったから逆らったのではない。
しかし祖父に家を継げと言われるのが嫌で出ていった。
それが祖父をどれだけ傷つけたのかは想像するしかないけれど。
後継をなくし、無念のうちに亡くなった祖父。そんな死に様を与えたのは、間違いなく自分なのだ。
祖父の期待を裏切り逃げて、安らかな死を奪った輩が、どうしておめおめと帰れるのか。
そう思っていたから、青葉はずっと帰れなかった。
「私がもうちょっとしっかりしてたら、お爺ちゃんは安心して逝けたのに。未練ってやつっすかね。それがずっと引っかかってました」
けれど忘れることもできなかった。
後悔はいつだって彼女を苛む。祖父の願いを切り捨て、一人だけ幸福に生きてきた。届いた訃報に青葉が何を考えたのかは想像に難くない。
願いを拒否して得た平穏な日々こそが、祖父を無念のうちに殺した。少なくとも彼女にはそう思えてしまったのだ。
“お爺ちゃんの為に、なにかしてあげたかった”
それが青葉の未練。しかし過去に手を伸ばしたところで意味はない。
既に死んだ祖父の為に出来ることなどなく、もはや取り返しはつかない。
だから彼女は最後の最後まで、この街に囚われ続けていた。
「でもこの街で過ごして、思ったっす。私が、お爺ちゃんを失望させてしまったことに変わりはない。今更後を継いだところで自己満足に過ぎなくて。……けど、私がお爺ちゃんの遺志を継がなかったら、お爺ちゃんがずっと抱えてきた想いってどこに行っちゃうんだろうって」
雨足が強くなったのか、つんざくような雨音は室内でもよく響く。
今日の空模様はやはり彼女の心のようだ。激しく騒ぎ立て、なのに芯から冷えるくらいに冷たい。
雨が強くなったと甚夜は感じた。
強くなった雨は、外と彼女、どちらだったのか。
「私馬鹿だから長いこと悩んで、いっぱい考えてました。ですけど甚さんが帰るって聞いて、やっと心が決まりました。私、家に帰ります。もうお爺ちゃんには何もしてあげられないけど、せめてその想いくらいは残してあげたいって、叶えてあげたいって。……そう思えたんです。だから──」
語り口にはいつの間にか熱がこもり、確かな決意が宿っていた。
青葉は、「だから」と一際強く言葉を発し。
ちゃきり、と。
どこか乾いた声と、背後で鳴った刀を構えた音が重なった。
何故、と問う暇はない。少女は既に刀を振るっている。ほとんど反射的に体は動き、座っていた筈の甚夜は間合いの外へ。すぐさま立ち上がり青葉と正対する。
彼を捉える筈だった一太刀はむなしく空を切った。
「……一手、遅れたか」
いや、避け切れなかった。
左腕には、ほんの僅か血がにじむ程度の小さな傷。
隠し事があると最初から知っていたのだ、動揺などある筈がない。命を狙われることもまた想定の範囲内でしかない。
なのに、ほんの一瞬動くのが遅れた。避けられ筈の一刀で手傷を負ったのは、共に暮らしたが故の感傷だろう。
想定内ではあったが、信じたくなかったのかもしれない。
こうやって刃を向ける青葉の姿など、本当は見たくなかったのだ。
「むむ、いけると思ったのに逃げられちゃったっす」
向かい合った少女には殺気どころか害意すらない。震える手には迷いが映し出されている。
いつもと変わらず明るい、そう見えるような軽い微笑みを張り付け、青葉は小柄な娘には似合わぬ武骨な太刀をだらりと構えていた。
手にした刀には、見覚えがあった。
「夜刀守、兼臣……」
「さっすが、よく知ってますね。鬼を封じる鬼哭の妖刀。お父さんがくれました」
夜刀守兼臣は戦国の刀匠兼臣が鍛え上げた人造の妖刀。四口の刀それぞれが特異な<力>を有している。
彼女の手にした妖刀が宿すのは<鬼哭>。
その能力は「刀身に鬼を封じる」。かつては甚夜の義母、いつきひめたる夜風を封じていた刀だった。
「それにしても甚さん、すごいっすね。避けられるなんて思ってなかったす」
能面のように笑みを張り付け、しかし垂れ下った目尻は泣いているようにも見える。
できれば、慰めて頭を撫でてやりたい。しかしそのような状況ではなく、彼女が受け入れることもないだろう。
離した間合いが今の彼らの距離。これを縮める時は、多分最後の一瞬だけだ。
「そう、褒められたものではないさ」
避けられたのは可能性の一つとして「青葉が敵である」と考えていたから。
その癖青葉を信じたくて、自身の判断に身を委ねられず、一瞬躊躇い傷を負った。
つまり左腕の傷は中途半端な心の表れ。なんとも濁った男だと、表情には出さず内心毒づく。
「いやいやご謙遜を。……でも、そうやってすぐ動けるってことは、もしかして気付いてました?」
「どうだろうな。可能性として考えていただけで、確信はなかった。……君はいつも笑っていた。それが演技とは思えなかったんだ」
だから、何か企みがあると知りながらも、こうやって直接的に命を狙ってくる可能性を低く見ていた。
今も殺気や敵意の類を青葉は感じさせない。
刃を向けながら、斬りかかっておきながらも、彼女には負の感情というものが一切なかった。
「もう、甚さんってば。女の子は嘘つきっすから、簡単に信じちゃ駄目っすよ? じゃないと騙されてポイって捨てられちゃうんすから」
「私は。騙されたとは思っていないよ。隠し事があるのは互いに承知の上。……たとえ私をこの街に誘き寄せたのが君だとしても、恨み言などある筈もない」
そこまで読まれているとは思っていなかったのか、青葉の表情に動揺が揺れる。
そもそも甚夜が鳩の街へ訪れたのは、藤堂夫妻の長男である甚悟が一つの与太話を持ち込んだからである。
曰く、鳩の街には奇妙な 娼婦がいる。
花の名を持つ彼女は大層素晴らしい女性で、男なら誰でも夢見心地になれるくらい不思議な雰囲気を纏っているという。
その話を聞いたから鳩の街へ赴き、結果として確かにマガツメの娘はいた。
しかしそれでは道理に合わない。
鳩の街にいたマガツメの娘は“七緒”と名乗っていた。つまり噂になるような「花の名を名乗る不思議な娼婦」など存在してはいなかったのだ。
「知って、たんすか?」
「一応はな。マガツメの娘がいたのは単なる偶然。花の名の娼婦は、その意味が分かる者を誘き出す為の寄せ餌に過ぎなかった。ならば、釣り人が待ち構えていると想像して当然だろう」
そしてそいつは、甚夜と何らかの形で決着をつけない限りこの街から出られない。
端的に言えば、この街に最後まで残った誰かこそが、甚夜を誘き寄せた張本人ということだ。
「そこまで分かってて、なんで私と一緒に居たんすか?」
「君が正面から向かい合おうとするなら、受けねばならないと思った。そうしなければ、互いにしこりを残す」
「あ、はは。甚さんって大概のこと器用にこなせるくせにほんと不器用っすね」
「性分だ、今更変えられるものでもない」
不器用だろうが面倒だろうが、今までそうやって生きてきた。
口にしたのは掛値のない本音で、しかしそれだけが理由という訳でもなかった。
初めから嘘を吐き、企みをもってこの街へ誘き寄せようとした少女。
だというのに正面から向き合おうなどと思ったのは、性分だけではなくて。
「そして多分。それ以上に、気に入っていたんだ」
「え?」
「君との微妙な距離も、この暮らしも。なにより、君自身のことを。私は案外気に入っていたらしい」
少なくとも、正面から向き合おうと自然に思えるくらいには。
そう言って笑みを落とす甚夜に、青葉は僅かに目を伏せる。しかしすぐさま顔を上げ、にこにこと満面の笑みを浮かべる。
「私も、甚さんとの同棲生活楽しかったっす、ほんとに。これは、嘘じゃないっすよ」
「ああ、君がそう思っていてくれるのは知っていた」
お互いに嘘を抱え、決定的なところには踏み込まず。
表面だけの関わりだったかもしれない。けれど彼女はこの奇妙な共同生活を楽しんでくれていた。
甚夜も、傍から見れば娼婦のヒモのような暮らしを、そんなに悪くないと思っていた。
「だが普段の生活で、君が私を見る目は時折。本当に時折だが、迷っているように感じられた。その理由は、最後まで分からなかったが。……こういうことだったんだな」
青葉は、やはりにこにこと笑っている。
過剰なまでに作った笑顔が、刃を向けたのは彼女の本意ではないのだと教えてくれる。
彼女は最後まで鳩の街に残った。
つまりは最後まで迷っていたのだ。
討つか見逃すか、選んだのは前者。それが彼女の意思だった。
しかし甚夜の命を狙ったのは彼女の意思であっても、心からの願いではない。そうと知れたから、刃を突き付けられながらも穏やかな心持で青葉を見ることができた。
「なぁ、青葉。狙ったからには、相応の理由はあるのだろう? 聞かせてくれないか」
「そっす、ね。ちゃんと話さないと駄目っすよね」
朗らかに話しているつもりなのだろう。
しかし僅かに声が翳る。それでも自身を奮い立たせるように、青葉は刀を持つ手にぐっと力を籠め、しっかりと前を向く。
「ああ、でも勘違いしないでくださいね? 別に私は甚さんに恨みなんてないっすから……それに私、甚さんのこと好きっすよ。もっと嫌な奴だったらよかったのに、って思うくらいには」
青葉は張り付けていた笑みを脱ぎ捨て、一転真剣な表情で甚夜を見詰めた。
やはり害意の類はない。ただ真摯に向き合おうとしているのが分かったから、何も言わず小さく頷いた。
しかし彼女の言葉はなくただ時間だけが過ぎる。
一時間、或いは十分も経っていなかったのか。
二人きりの室内に静寂が鎮座する。空気が粘土を持ったような居心地の悪さが続く。
無言の室内に響く雨音が強くなった。
そこでようやく、青葉は向き合わねばならぬ過去をゆっくりと語り始める。
「家業の話、してませんでしたよね? うち、浅草にある骨董屋なんすよ。でも普通の骨董屋じゃなくって、物に憑いたあやかしとか、年月が経って化生になった器物とかを取り扱う退魔の家柄でして。まぁ、勾玉の久賀見とか付喪神の秋津とかと比べたら地味な家っすけどね。屋号は古結堂。古きと縁を結ぶ、って意味らしいっす。で、元々は細々とやってたって話なんすけど、お爺ちゃんの代からちょっと変わっちゃったみたいっす」
軽い語り口だが、その内容に甚夜は固まっていた。
古結堂。実際に言ったことはないが、四代目秋津染吾郎から何度か聞いたことがあった。
大正の頃、まだ華族の屋敷で庭師をしていた頃の話。すれ違う程度の縁ではあるが、甚夜は古結堂の面々と確かに顔を合わせていた。
「お爺ちゃんは若い頃、鬼に恋人を殺されちゃったそうで。それから人が変わったって、お婆ちゃんが言ってました。鬼を封じる道具を集めたり、恋人殺した鬼を探したり、色々してたみたいっす。家業を継げっていうのは、お前も古結堂を継いでその鬼を討つために生きろってことでして。そんなんやってられるかーって逃げちゃいましたけど」
そこまで聞いて、合点がいってしまった。
青葉が何故こうもよくしてくれたのか、繋がりを保とうとしたのか、その理由がすとんと胸に落ちる。
「でもお爺ちゃんが死んじゃって、私思ったんです。恋人を殺されて、何もできなくて。最後の言葉が“無念”だったなんて、あんまりじゃないですか」
甚夜は軽い眩暈を起こした。
この偶然をなんといえばいいのか。
運命と呼ぶほど綺麗ではなく、不運では他人事過ぎる。
では奇縁かと考え、それ以上にしっくりくる言葉を見つけて奥歯を噛み締める。
「だから私、その鬼を討つっす。討って家に帰って、お爺ちゃんの墓前で報告して。それくらいしなきゃ、お爺ちゃんの人生がほんとに無意味なものになっちゃう」
これは“ツケ”と呼ぶべきだろう。
いつかの行いが、巡り巡って返ってきた。ただ、それだけの話だ。
「お爺ちゃんの恋人を……三枝小尋を斬り殺し、その死体を喰らった悪鬼。“鬼喰らいの鬼”をこの手で討って、家に帰るって決めたんです」
三枝小尋。
直接の面識はほとんどなかったが覚えている。
何の咎もなくマガツメの娘に喰われた少女の名を忘れる筈がなかった。
けれど青葉の語る“死体を喰らった悪鬼”が古椿を指しているのではないこともまた知っていた。
何故なら彼こそが斬り捨てた。
三枝小尋を取り込み、同一の容姿となった古椿を斬り捨て、その身を喰らったのは他ならぬ。
「今更ですけど、ちゃんと名乗ってなかったっすね」
そう前置きをして、青葉は甚夜に切っ先を突き付ける。
「本木青葉。お爺ちゃんの……本木宗司の無念、今ここで晴らさせていただきます」
その5 本木宗司の孫娘 青葉について




