『迷い道の彼等』・2
始まりに、なにもかもを失った。
愛した人も家族も守り切れず、自分自身さえ踏み躙られ。
沸き上がる憎しみに突き動かされて一歩目を踏み出した。
“人よ、何故刀を振るう”。
突き付けられた問いの答えは、見つからないままだった。
江戸の頃、憎悪に身を任せ生きていた。
ただ強くなりたくて、それだけが全てで。
しかし間違えたままでも救えるものはあると。
花のように笑う彼女が、ゆっくりと歩くことを教えてくれた。
明治の頃、傍にいてくれる人がいた。
家族でありたいと願ってくれた娘。いつだって手を貸してくれた親友。
穏やかな日々に、力ではない強さの意味を知って。
けれどその価値を示すことができなかった。
積み上げてきたものを再び奪われ、憎しみは更に募る。
大正の頃、必死になってしがみついた。
大切なものを守れたためしがない。そんな弱い自分が嫌だった。
今度こそと躍起になって、ようやく最後に笑顔を見た。
守ってくれてありがとう。
何気ない言葉にどれだけ救われたか、きっとあの子たちには分からないだろう。
そうして辿り着いた昭和。
憎しみと共に歩んできた道のり。その途中、拾い集めてきた、小さな小さな欠片達。
失くしたものは多かったけれど、手に入れたものは確かにあって。
けれど、まだ答えは見つからない。
あの頃から、ずっと、迷い続けている。
◆
娼館の空気は独特だ。
鳩の街では風呂のある店が少ない為比較的薄いが、どことなく甘ったるい蒸れた匂いが漂っている。
鼻腔を擽るそれは、花の盛りよりも熟した果物が近いだろう。カフェー街だの特飲街だのと新しい名称を使っても、夜の街の匂いは何処も然程変わらない。
夜は深まり日付も変わり、ここからが花街の本領。桜庭ミルクホールでも、甘い香りに誘われた男達が好色な視線で女給を物色している。
からん、と氷が溶けて涼やかに響く。
青年は相変わらず一人カウンターに寄りかかり、淡々とグラスを傾けていた。
「今日もお酒だけ?」
「ああ、済まない」
「私はいいけど」
たまには女の子たちの方もね、とミルクホールの店長は意味ありげに含み笑いを浮かべる。
視線の先を追えば、一人の女給が不機嫌そうにこちらを睨め付けていた。
確か、あけみと言ったか。目が合えばすぐさま逸らされる。どうやら随分と嫌われたらしい。
「からかい過ぎたか」
「大丈夫よ。あけみちゃん、プライド高いけど粘っこくはないから」
しばらくすれば治まるから放っておけと店長は笑う。
小さく頷いて、もう一度琥珀色を喉に流す。鼻を抜ける薫香は日本酒にはない風味だ。最初は顔を顰めたが今では慣れた。
続けていれば、大抵のものには慣れる。その是非は分からなかった。
「今日のお酒は美味しくない?」
何気なく零れた、一歩踏み込んだ問い。敢えて誤魔化しやすい形を選んだのは青年への気遣いだろう。
旨いと答えるのなら深くは聞かない。遠まわしにそう言った。
「目的の娼婦を見つけたよ」
誤魔化すことはできた。答えたのは、何故だったのだろう。
自分にもその理由が分からないくらい、自然に零れていた。
「あら、よかったじゃない」
「そうでもないんだ。寧ろ、見つからない方がよかった」
「へえ? その心は」
酒で喉を潤し、一度小さく息を吐く。
胃にじんわりとした熱さが広がって、その温度が冷めやらぬうちに言葉へ変える。
「件の娼婦は姪だ。……出来れば、会いたくはなかったな」
愁いを帯びた弱々しい笑みと一緒になって漏れる、事実ではあるが本質から離れた答え。
会いたくはなかった。その意味を店長は誤解するだろう。
構わなかった。全てを話せる訳ではなく、それでも吐き出したかったから零した愚痴だ。伝わるか伝わらないかは二の次だった。
「娼婦にはなってほしくなかった?」
「いいや。ただ妹とは折り合いが悪い。場所に関係なく、そもそも顔を合わせたい相手ではないんだ」
「なのに、態々探した。何故かしら」
その問いに、青年は少しだけ戸惑った。
グラスを手の中で遊ばせながら逡巡し、どこか疲れたように小さな笑みを落とす。
顔を合わせたくないのは事実。しかし青年はずっと花の名の娼婦を探していた。
何故、と問われれば答えに窮するが。
敢えて言うのなら───
「……多分、迷っているからだろう」
存在しない筈の鳩の街、その怪異の真相を突き止める以上に。
きっと、迷っていたからこそ、彼女を探していたのだ。
◆
時を幾ばくか逆戻り、青葉に連れられて訪ねた娼館イチカワ。
「それじゃ、青葉ちゃん」
「はーい。甚さん、七緒さんに変なことしちゃダメっすよ」
「変なことされるのが仕事なんだけどねぇ」
もともと噂の男を見てみたいというのが向こうの弁。初めから話がついていたのか、七緒が視線で促せば、青葉は軽い調子で部屋を出た。
残された甚夜は七緒と向き合う。腰を下ろす気にはなれず、僅かに左足を引いた。女は気怠げに横座りをしたまま。語らいにしては奇妙な対峙だった。
「匂うでしょう? 悪いね、さっきまでお客がいたもんからさ」
換気がされていないせいで部屋には随分と匂いが籠り、空気が淀んでいた。汗や他のものが混じった、すえたような。つまるは行為の後の匂いだ。
口先だけの謝罪。七緒は動くどころか着崩れた洋服さえ直さず、面倒くさそうに欠伸を一つ。にぃ、と吊り上がった口の端には、からかうような色が見え隠れしている。
「七緒というのは、どちらの名だ」
乗ってやる義理もないと、憮然としたまま話を進める。甚夜の声は青葉を相手していた時よりも一段低い。
女とはいえ仇敵の眷属。以前世話になった向日葵ならばまだしも、初対面では駆け引きを楽しむ気にもなれない。
腰に刀はないが、意識は既に抜き身。予断なく鬼女を見据える。
「体の方。でも、これだって花の名じゃない?」
此処が花街ならば、娼婦は花だと七緒が笑う。
マガツメの娘は鳩の街へ流れ着く。その時には、おそらく花の名を持つ無貌の鬼だったのだろう。
しかし白雪を、南雲和紗を、三枝小尋を喰らったように。鬼は七緒という名の娼婦を己が内に取り込んだ。
自我と人の姿を得た鬼女は、何食わぬ顔で娼婦に収まり、今もこうして鳩の街にいる。まんまと“七緒”に成り代わって見せたのだ。
知らず甚夜の目がほんの僅か細められた。所詮は同種喰い、人を喰らったとて彼女を責める言葉など持ち合わせていない。
僅かに歪んだ表情は、他事に対する懸念である。
「青葉は、誰を慕っている?」
重々しい響きは、彼自身にも予想外だった。
夜の街にそぐわぬあどけない娘は、無邪気に七緒を慕っている。目の当たりにしたからこその気がかりだ。
青葉が出会った時、既に七緒はマガツメの娘だったのか。
それとも鬼女が七緒に成り代わったと知らず、今も慕っているのか。
知ったところで何が変わる訳でもない。分かっていながら意味のない問いを投げかける程度には、あの娘のことが気に入っていたようだ。
「あらあら、お優しいこと。妹を殺そうとする男とは思えないねぇ」
短い言葉から意図を察し、しかし答える気はないらしい。
きゃらきゃらと笑う七緒は軽薄だが、悪意敵意の類は感じられない。それこそただの娼婦が男をからかうような、悪戯っぽい調子である。
「答える気はないか」
「だって意味がないだろう?」
強い詰問、返ってきたのは紛れもない事実だ。
この鬼女が七緒に成り代わった後、出会ったのだとしても。
七緒という娼婦を殺し取り込み、それを知らずにいるのだとしても。
今も青葉が彼女を慕っているのは紛れもなく、ならば真実を知ったとて然したる意味はない。
「青葉ちゃんを騙していたとして、私自身を慕っているとして。どちらにせよ、結末は変わらないじゃないか」
結局はそういう話。
真実がどうであれ、甚夜がマガツメの娘を斬れば、青葉は大切な人を失うことになる。
この鬼女が七緒となった時点で結末の構図は確定しているのだ。
「で、どうする。私を斬るかい?」
言いながら扉の方へ視線を向ける。
青葉の前で殺人犯にでもなってみるか、とおどけた風に七緒は言った。
甚夜は僅かながら眉間に皺を寄せた。冷たい目で彼女を見据えても、飄々とした態度は崩れない。
肝が据わっているのか、単に舐められているのか。どちらにせよやりにくい相手だった。
「その気はない」と短く答える。今は、と枕詞はつけなかった。
「そりゃよかった。一応言っとくけど、こうなったのは偶然だよ?」
「分かっている」
甚夜が青葉を慮るだとか、そもそも出会うかどうかも七緒には知りようがない。
偶然が重なり彼女に利しただけのこと、責めるのはお門違いだろう。
なにより責められる立場にはない。青葉がどうあれ、必要に差し迫られれば、どのみち七緒を斬る。所詮はその程度の男だ、とやかく言う気にはなれなかった。
「……何故、私を呼んだ」
それに、聞きたいこともある。彼女の処遇は後で考えればいい。
七緒はマガツメの娘、甚夜と敵対関係にある。ならば何故態々青葉に頼んでまで、こちらに接触しようとしたのか。当然の疑問をぶつけるが、のらりくらりと彼女は適当に受け流す。
「叔父との情事は退廃的でよさげだから、なんてどうだい?」
「つまり口を塞いでほしいのか」
「唇で?」
「ごめんだな」
つれないねぇ、と緩やかに微笑む
話の途中でぐっと背筋を伸ばして、女は強張った筋肉をほぐす。
地縛、東菊、古椿。妹をことごとく喰らってきた鬼が目の前にいる。だというのに、なんとも寛いだ様子だった。
「……お前が、あれの一部とは」
マガツメの娘は皆、切り捨てた心の一部。取り込んだ人間の影響も多少はあるだろうが、彼女の根本は鈴音の一側面である。
性に奔放で、余裕に満ちた振る舞い。かつての妹からは想像もできない姿に思わず呟くが、せせら笑いが返ってくる。
「まるで妹のことなら何でも知ってるって口ぶりじゃないか……何も分かってないから、こうなったのだろうに」
成程、彼女の言う通りだ。
あれを憎む以前、まだ家族でいられた頃。
二人は確かに家族として想い合っていた筈だった。
けれど結局は鈴音のことが見えていなかったのかもしれない。
だから、あんな結末になってしまった。
「道理だな。口のうまいことだ」
「そりゃあ、娼婦だからねぇ」
含み笑いには気付かないふりをした。
このままでは埒が明かない。どかりと腰をおろし、真正面から七緒を見据える。
「七緒……何故、私を呼んだ」
もう一度問えば、空気の変化を察したのか、ほんの僅か彼女の目は真剣味を増した。
気怠そうな雰囲気はそのままに、すえた匂いの部屋は幾らか室温が下がった。
「話して、みたかったんだ」
諦めた投げやりな声は、だからこそ本心を如実に示している。
先程までの娼婦の顔は鳴りを潜めた。透けてしまいそうなくらい希薄な笑み。多分あれこそが彼女の本当なのだろう。
「理由は二つ。一つは、話してみたかった。何の裏もない、ただの感傷だよ。……もしかしたら、母さんがなんか企んで私を遣わせたとでも思ってた?」
「ああ。またろくでもない企みを、とうんざりした」
「あはは、そりゃあいい」
素直に心情を吐露すれば、七緒は声を上げて笑う。
彼女は心底楽しそうだ。甚夜の言葉ではなく、馬鹿にされたマガツメをこそ面白がっている。
「けど、はずれ。私は捨てられた子供だからね、今更母さんに加担する気はないよ」
「捨てられた……?」
「そう。向日葵姉さん達は、母さんにとって大切な子供。でも私は必要なかった。いらない子が捨てられて、流れ着いた先で娼婦になった。お決まりのパターンってやつさ」
捨てられたと言いながら、そこに感慨は見いだせない。
彼女は今までの娘達とは明確に違った。弄られた古椿は別にして、向日葵らは程度の差こそあったものの、全員が母へ一定の親愛を抱き命令に従っていた。
しかし七緒からはそういったものが感じられない。親愛どころか悪意さえなく、そもそも興味自体がないように思えた。
「おかげで自由にさせてもらってるんだから、文句をいうことじゃないけどね」
「待て、だとすると」
「お察しの通り、私はこの街の怪異になんら関わってないよ。寧ろ巻き込まれた側さ」
意外な返答にぴくりと眉が動く。
花の名を持つ娼婦がいると聞いた。探していたのは彼女が、マガツメの娘が怪異の根幹にいると考えたからだ。
彼女は鬼、ならば七緒の言葉に嘘はない。此処にきて前提が覆されたしまった。
「それがもう一つの理由。あんたは、こういうのお得意なんだろう? どうにかしてくれないか」
お得意、と誇るほどのものではないが、確かに慣れはている。
江戸や明治の頃はこういう形で怪異に関わってきた。七緒はマガツメの娘、それを知っているのだろう。
すえた匂いの籠った娼館の一室。場所こそ違えど、百年は経ったというに、以前と同じことをしているのだから奇妙な話ではある。
「刀一本で鬼を討つ剣豪に依頼をしたいんだ。内容は“存在しない鳩の街の解決”。報酬は、そうだね。私の<力>、なんてどうだい?」
依頼は単純。私の命をあげるから、この怪異を紐解いてくれ。
気負いなく緩やかに、冗談の続きを語るような軽さ。
彼女の意図が分からず、思考が一瞬固まる。戸惑いを見透かしたのだろう、甚夜の反応を遮るように七緒は微笑む。
「よかったよ、あんたと話せて。役には立たないだろうけど、もし嫌じゃなかったら、これからも偶に寄ってくれないかい?」
お金払うんなら、ちゃんと相手するよ。
おどけた風にそう言った彼女は何故か晴れやかで。
だから甚夜はどう返せばいいのかわからず口を噤んだ
◆
「……多分、迷っているからだろう」
気付けばあけみにも客が付き、ホールの女給の数は随分と減っていた。
夕方に会った七緒とのやり取りを思い出しながら、グラスを傾ける。
少しだけ雑味が混じったように感じる。空になったが追加は断った。酒は楽しむもの、このような心持で呑むのは申し訳ない。
「そう……」
その一言で会話は途切れる。店長は何も言わなかった、それが有難かった。
酒を頼むでもなく、グラスを手の中で遊ばせる。ぼんやりと眺めるカウンターの中、店長は先程から細々と動いているが、僅かにぎこちなさがある。
ふと目が合えば手を止めて、誤魔化すように苦笑を零した。
「前も言ったかしら。ちっちゃい頃、病気でね。右足麻痺しちゃってるの」
「杖は使わないのか?」
「ええ、仕事の時は邪魔だから装具だけ。随分慣れたし、ちょっとした動きなら問題ないわ」
グラスを拭きながらの雑談。あまり気にしていないらしく、声の調子は軽かった。
子供の頃からだというのなら、憐憫や好奇の視線には慣れ切っているのだろう。
くくっ、と小さな笑いがこぼれるくらいには吹っ切れているようだ。
「今でこそ平気だけど、昔は悩んだのよ、これでも」
だとしても小さな棘は抜けない。
細められた目にはほんの少しの寂しさが見て取れた。
「子供って残酷よねぇ。友達はいたけど、一緒には走れないから。いつも置いてきぼりにされたわ」
かつてを語る声の響きは、懐郷よりも懺悔を思わせる。
本当は、ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。話し続けるにつれて、荷を下ろしたような、ほっとした表情に変わっていく。
「小さくなる背中を見て、こんな足じゃなければって何度思ったか分からない。でも、この足のおかげで戦地に行かずに済んだの。人生何が幸いするか分からないものねぇ」
「幸いと言う割に、嬉しそうには聞こえないが」
「……そう、かもね。だって、やっぱり置いていかれちゃったもの。友達は足が速かったから、走って走って、それでおしまい。みぃんな私のこと置いて、お国のために死んでいったわ」
それが辛いのだと彼は言う。
諦観を帯びた笑み、滲む僅かな憂い。
まるで生き残ってしまったことが間違いだと言うように、遠く、ここではない何処かを眺めている。
「一緒に、死にたかったのか?」
投げ捨てるような、粗雑で端的な問い。重くしないのがせめてもの気遣いだった。
それを察したからだろう。どうかしら、と店長は曖昧に笑う。
「……ホント言うとね、分からないの。自分がどうしたかったのか」
国民が一丸となって臨んだ太平洋戦争。みんなお国の為に死んでいった。
かつての友人達は皆戦地へと行った。
“大日本帝国は負けない”
“俺達が戦わないでどうするんだ”
誰もが必死だった。皆、命がけで走っていって。
遠くなる背中、動かない右足では追いすがれなくて。
結局、何もしないまま生き残ってしまった。
本当はどうしたかったのだろう。
友達と一緒に、戦って死んでいきたかったのか。
でも生き残ったことを喜ぶ自分もいて。
終戦から十余年経った今でも、答えは分からないままだ。
「どうすれば、よかったのかしら」
まるで迷い道に入ってしまったみたい。
店長が思い浮かべた想像は、青年の受けた印象でもあった。
四十前後の男の零す疲れた苦笑が、何故か迷子の子供と重なって見える。
どれだけ走っても追いつけなくて、お願いだから置いて行かないでと、いつかの少年が泣いていた。
「私も、似たようなものだよ」
その嘆きには、覚えがあった。
“人よ、何故刀を振るう”
突き付けられた問いの答えは今も見つからないままで。
どれだけ走っても、間に合わないことの方が多くて。
だから何となく分かってしまった。
店長が曖昧な笑みの下に隠した痛みも。
此処が、鳩の街で在り続けた理由も。
「済まない、今日はこれで」
「あらそう? 懲りずにまた来てくれると嬉しいわ」
席を立てば重かった空気もきれいになくなった。
踏み込んだ話もなかったことに。店長と客の青年、何の関わりもないすれ違いへと二人は戻る。
けれど互いに通ずるものがあって、抱いた感傷も同じだった。
“彼も、同じなのだろう”
迷い道ふたり、いつの間にか入り込んで。
きっと、今も帰れないでいる。




