『溜那の話』・3(了)
「なーんか、つまんないなぁ」
遠くで事の顛末を眺めていた吉隠は、自分の目論見が外れ不機嫌そうに頬を膨らませていた。
溜那を、嫁に迎えたかった。
当然ながら普通の夫婦の意味ではない。共に大正の世を覆す伴侶として、彼女を手にするつもりだったのだ。
だから態々こんな真似をしたというのに、鬼喰らいは溜那を助け出してみせた。
予想外と言えば予想外だ。屈辱に沈む彼の顔をこそ、楽しみにしていたというのに。
とは言えもう一度ちょっかいをかければ、後はどうとでも転がせる。
肝心の鬼喰らいも大仕事を終えたばかりで疲れているだろう。今ならば雑草を踏み躙るより容易く命を摘み取れる。
勝ちの目があるならば、そこに全てをつぎ込むが定石。
正々堂々に拘る、例えば偽久のような馬鹿な真似はしない。
だから吉隠は今度こそと一歩を踏み出した。
「相も変わらず余分に振り回され右往左往。まこと濁った男よ」
しかし眼前には、一匹の鬼。
袴に着物、足袋草履。腰には鉄鞘に収められた太刀。
大正の世に在っては古臭すぎる出で立ちで、時代遅れの人斬りは立ち塞がる。
にたりと浮かぶ笑みは凄惨で、古臭さ以上に血の匂いが鼻を突いた。
「かっ、かかっ。いや、濁りもあそこまで突き詰めればむしろ清澄か。謂わば“どぶろく”のようなもの……あれはあれで味があるのやもしれん」
空気が抜けるような気色の悪い笑い声。
視線は吉隠を捉え、左手は既に刀へと添えられていた。
「あちゃ、怖いのが来たや。一応聞いとくけど、何の用?」
問いには鍔鳴りで返す。
刀を抜き、岡田貴一は無遠慮に歩みを進める。
急に現れ滔々と語ったかと思えば、前置きもなく既に臨戦態勢。唐突過ぎる一連の流れに吉隠も思わず目を見開く。
「いやさ、なんでいきなりやる気なの?」
「なに、下衆ゆえに下衆の考えは読める。あの娘っ子に思い入れはないが、妙な横槍で結末を濁らされるのも癪でな」
つまりは吉隠の動きを察知した上での襲撃ということ。
とは言え然したる感想はない。夜風をこの身に降ろした今、十把一絡げの鬼なぞ恐るるに足らない。
思うことと言えば「面倒臭い」くらいのもの。本当に上手くいかないなと、吉隠はあからさまに溜息を吐く。
「……え?」
吐く、筈だった。
しかし溜息が零れるよりも早く詰まる距離。
貴一の身体能力は決して高くない。夜風を得た吉隠どころか、鬼喰らいよりも下。それは間違いなく。
にも関わらず、高まったはずの吉隠の反応を上回る。
それを可能とする、あまりに滑らか過ぎる挙動。
体幹の安定、適切な緩急、重心移動の妙。怖気が走る程に洗練された肉の運用が、実際の速度よりも貴一を早く見せる。
「足を止めるくらいはしておこうかの」
気が付けば、既に一挙手一投足の間合い。
速度では劣り、しかし極限まで無駄をそぎ落とした挙動をもって吉隠へと肉薄する。
振るわれた白刃は鋭く、一手にて必殺、首を落そうと迫りくる。
だが勘違いしてはいけない。
あくまでも能力値で言えば吉隠が上。
所詮は技巧故の速さ。放つ太刀筋がいくら速かろうと、今の吉隠ならば見てから避けても十分間に合う。
二丁の拳銃を取り出し、体を捌き薄皮一枚で刃を避けると共に引き鉄を絞る。
鬼喰らいでさえ、銃弾を咄嗟に避けることは出来なかった。射線からあらかじめ逃げておくことで凌いだにすぎない。
彼よりも劣る身体能力ではそれも間に合わない。だから銃弾は正確に眉間へと突き刺さる筈で。
しかし、貴一はいとも容易く銃弾をやり過ごす。
吉隠は確かに見た。
避けたのではない、防いだのではない。
この鬼は至近距離から飛来する弾丸を正確に見切り、これ以上ないという瞬間を狙いすまし横から刀身を添え。
信じ難いことに、銃弾を“逸らした”のだ。
馬鹿な、と思う暇などない。
刀はすぐさま翻り、袈裟掛け。違う、そこから更に可変、刺突へと転じ喉を穿とうと牙をむく。
その反応速度故に吉隠は始めの袈裟掛けを視認し反応し、そのせいで刺突に対しては一手遅れた。
だが<織女>がある。
避ける必要はない、薙ぎ払えばいいだけのこと。
最短距離、放つ銃撃。
更には立ち昇る黒い瘴気を鞭へと変え、刺突を繰り出した貴一へと襲い掛かり。
「あがっ!?」
けれど、それも遅い。
銃弾は空を切る。刺突さえも囮、既に貴一はその場にはいない。
刃に意識を集中させて、本命は死角から放つ鞘による殴打だ。
<織女>こそが失策だった。至近距離からの鞭が僅かに視界を遮り、死角を生んでしまった。
見事に顎を打ち抜かれ、体が揺れる。
対する貴一とて無傷とはいかない、幾ら彼でも黒の瘴気を防ぐ手立てはない。無数の鞭を体捌きでやり過ごし、それでも数か所は皮膚が破れる。
とは言えその程度織り込み済み。
脳を揺らされた吉隠には刹那の硬直。
肉に食い込み、骨を断つ感覚。
僅かな隙を逃さず、一瞬で右腕を斬り落とした。
「いがっ、こ、の……!」
なんだ、こいつは。
弱い。明らかに鬼としての実力は、下なのだ。
なのに何故こうも上をいかれる、見下される。
残った左腕の拳銃。避ける為に貴一は射線から外れ、その瞬間を狙っての<織女>。
無数の黒い槍は彼の鬼を貫かんと唸りを上げ、しかし吐息がかかる程の距離まで詰められる。
この距離では自分に当たる。銃を使うにも鞘で腕を叩き落とされた。
苦し紛れの蹴り。動きは小さく鋭く、速度も威力も頭蓋を砕くには十分。
それさえも意味はない。ほんの僅か距離を空け、肘を支点に小さく刀を振るう。
走る痛みに吉隠は苦悶を浮かべる。
「力量に反し内が拙い。動揺なぞ態々凌ぎ合いに持ち込むようなものではないぞ、小童」
狙われたのは、踵の腱。
斬られたと思ったが、実際は軽く峰で打たれただけ。
その気になれば斬れた。そう示す為だけの一撃だ。
人を愚弄するようなその所作に、少なからず吉隠は苛立つが、すぐに心を落ち着ける。
そんな余裕を見せた為に、二者の距離は僅かに開いた。この好機を逃しはしない。
隙間を埋めるように黒い瘴気を練り上げ、鉄塊と化し脆弱なその体を砕く。
渾身の一手、しかしむなしく空を切る。
繰り出した吉隠の一撃を、やはりというべきか、貴一は悠々と後ろに退いて躱した。
あくまでも身体能力は吉隠が上。初めから予見していなければできない回避だった。
「ふむ、この程度で十分か」
退屈そうに呟き、貴一は刀を鞘に収める。
それが癪に障った。止めも刺さず刀を仕舞うなど、とるに足らない、お前には価値が無いと言われたも同然だ。
張り付いた笑顔はそのままに、吉隠は歯噛みをして問うた。
「……なんのつもりだい?」
「言ったであろう、端から足止めよ。人斬りとて分別はある。斬るべきを斬れぬは無様、ならばこそ獲物の横取りなどと濁った真似はせん」
言いながら興味なさげに背を向ける。
本当に、舐められている。いい加減にしろ、感情のままに銃を構えようとして。
「ぬしを斬るは儂の役割ではない……のう、夜叉よ」
その途中、気圧される程の殺意に腕が止まった。
一歩一歩、緩慢な歩み。靴音がやけに響いて聞こえる。
能面のような表情は一見冷静。しかし目だけが異常に鋭く、隠し切れない激情に当てられた吉隠は僅かな動揺を見せた。
「……何度も世話になる」
「なに、大した手間でもない。酒の一杯で手打ちとしよう」
「いくらでも奢ろう……ゴミを片付けた後でな」
振り返ることなく貴一は立ち去る。交わした遣り取りに笑みはない。
笑えるはずがない。憎々しい鬼がこうやって目の前にいてくれるのだ。
感情の昂ぶりに肌が泡立つ。
有体に言えば、葛野甚夜は冷静ではなかった。
湧き上がる憎悪と絶殺の意をもって、彼は再び吉隠の前へと姿を現した。
「鬼喰らい……」
足止めとはこういうことか。
ああまで煽ったのだ、甚夜の怒りは尋常ではない。
こちらは腕を斬り落とされ、血液は今も流れ体力の消耗も激しい。
逃げるのも難しいこの状況で、明確な殺意を抱いた敵が現れた。
流石の吉隠も焦りを覚え、張り付いた笑顔を引き攣らせた。
「さて、吉隠よ。先程の借り、早々に返させてもらおうか」
一歩を進み、同時に甚夜の体がめきめきと気色の悪い音を立てる。
出し惜しみはなしだ。肌は鉄錆の黒に変色し、左腕は異常に発達し、四肢は在れど人からかけ離れた異形へとその身を変える。
鬼としての姿を晒したのは、人目が無い以上に自分を抑えられなかったから。
芳彦や溜那への所業、希美子を泣かせた。
もはや呼吸をして生きている、ただそれだけで忌まわしい。
この手で命を刈り取らねば気が済まない。
「あはは、随分怒ってるね。普段冷静そうなのが台無しだよ?」
張り付いた笑みに演技染みた声。
尚も吉隠は態度を変えない。寧ろ有難かった。これで遠慮する必要もない、気兼ねなく“やれる”というものだ。
「元来、私は頭に血の昇り易い“たち”でな。年齢を重ねて相応の振る舞いは身に着けたつもりだが、噛む馬は終いまで噛む。幼い頃の性格というのは、中々治らないようだ」
「えーと、つまり?」
「……その小奇麗な顔を潰さなくては、気が済まないと言っている」
和やかな語り口から、ぞっとするほど冷たい声色に変わる。
それが皮切り。語るには飽いた、もはや一寸も待てぬと甚夜は地を這うように駈け出す。
吉隠にはもう余裕がない。片腕を斬り落とされ、多くの血を失った今、前回の立ち合いと同程度の動きは出来ないだろう。
更に相手は、厄介な鬼喰らい。
激昂したように見せて幻影を使い、背後から隙を狙う。そういう抜け目ない真似を平然とする輩だ。愚直な突進と侮る訳にはいかない。
身構え、冷静に対応する? いや、後手に回るのは拙い。
表情からは笑みが消え、左手には銃を、同時に立ち昇る黒い瘴気。
此処にきて吉隠は、初めて自分から攻めに出た。
その警戒こそが甚夜の打込んだ楔。
鬼と化し、平然を装って入るが本調子でないのはこちらも同じ。溜那を助ける為、瘴気の槍を全て体で受け止めたのだ。実のところ甚夜もまた満身創痍であった。
疲労と痛み、血も失った。
挙動の精度は低下している。
長引けば不利、短期決戦で一気に勝負を決める。
奇しくも二者の思惑は一致した。
一挙手一投足の間合いを互いに侵す。
まず動きを見せたのは吉隠。
銃を構え、<織女>で造り上げた黒の槍。
避ける隙間は与えない。四方八方から襲い掛かる槍と弾丸、確実にその命を奪い取る。
至近距離からの致死の一手、甚夜がとった方策はただ一言に尽きる。
“知るか”
「あぐぅ!?」
尋常ではない速度で振るわれた異形の腕、放たれた拳は吉隠の顔面に突き刺さる。
相手の方が格上。貴一のような技もない。
憎々しい相手を屠ると決めたが、甚夜に取れる手段は多くない。
先の戦いを顧みてもそれは明らか。
だから避けない、逃げない。
多少の痛手は覚悟の上。銃弾を<織女>をその身に受けながら、<剛力><疾駆>、一歩退かずに拳を振り抜く。
「おえ、あぎゃ」
甚夜の持つ手札の中でも最高に近い威力の一枚、だが吉隠は生きている。
奴自身の能力もあるが、踏込が浅かったせいだ。いくらなんでも無茶をし過ぎた。全身を走る激痛、めり込んだ銃弾。体が上手く動かなかった。
一瞬でも気を抜けば、意識を失ってしまいそうだ。
そうなる前に蹴りを付ける。
流れた血液から<血刀>、大刀を生成。<不抜>で硬度を上げ、残る力を振り絞り、袈裟掛けに真紅の刃を振るう。
これが最後の一手、防がれたら、もう次は無い。
決死の斬撃を、しかし吉隠はしっかりと視認している。
後がないのはあちらも同じ。手を伸ばし、練り上げる黒い瘴気。形は持たない、瘴気はそのまま分厚い膜となって吉隠の盾と為る。
「……キミから、学んだ使い方だよ」
<不抜>と<地縛>の組み合わせ、盾として使ったのをちゃんと見ていたらしい。
黒い膜が斬撃を阻む。それも、知ったことか。無理矢理、力任せにぶった斬る。
「お、あああああああああああああああああ!」
らしくもなく咆哮を上げ、裂帛の気合と共に刃を押し込む。
数秒の拮抗。そして、それは崩れた。
断ち切ると言うよりは引き伸ばし、そのまま斬撃が吉隠の体に触れる。
これで本当に限界。
駄目押しとばかりに体重をかけ、大刀を振り抜く。
「ちょ、うそ、だろ……!?」
ざしゅう、と肉を裂く音が響く。
手応えは、あった。
それを確信すると同時に四肢から力が抜ける。ぱきん、とガラス細工が砕けるように真紅の大刀は霧散し、踏ん張りをなくした体は無様にその場で崩れ落ちる。
首だけを動かして吉隠を睨み付ける。
手応えはあった。確かに肉を斬った。
だが、骨を断つには至らなかった。
甚夜が視認したのは、斬り付けられ鮮血を撒き散らしながらも、最後の力で逃げようとする吉隠の姿だった。
「ま、て……!」
「待た、ない。死ぬのは嫌だからね、悪いけど、逃げるよ……!」
声を絞り出しても体は動いてくれない。
掛け値なく全身全霊だった。使い切った今、指の一本さえ動かせない。
しかし相手の痛手も相当だったらしい。腕を失い、顔面の半分が潰れ、胸元を大きく斬り裂かれた。生きているのも不思議な状態だ。
動けない甚夜に止めを刺そうとはせず、潰れた顔面に苦悶の表情を浮かべ、一目散に逃げていく。
追いすがることは出来ない。
ここまで来て、逃すとは。
あと一押しが足らなかった。
荒れた呼吸、胸に宿る悔恨。決死の形相で吉隠が去って行った先を睨み付け、しかし意識は次第に薄れ。
甚夜は、為すすべなくその場に伏した。
◆
「爺や、お食事を持ってきましたよ。さ、いっぱい食べてはやく元気になってくださいね」
「……ん」
それがもう三日前の話。
満身創痍。見るに堪えない程の傷を負った甚夜だがそこは鬼。命に別状はなく、とはいえ本調子とは程遠く、三日経った今でも布団で横になり養生をしていた。
場所は暦座、住み込み従業員用の空き部屋の一室である。
関東大震災の被害は大きい。渋谷にある暦座は無事だったが、赤瀬の屋敷は大層な被害で、改装というよりも立て直しが必要になるだろう。
幸い充知も志乃も無事だったが屋敷の方は使えず、今は適当なホテルを借りている。
甚夜も仮の寝床を探さねばならず、それならと芳彦が暦座の館長に掛け合い部屋を貸してくれたのだ。
ちなみに溜那と希美子も暦座に一室を借り受けた。看病をしたいという理由だったが、実際に住み込むまで充知がごねにごねたのは言うまでもない。
そういう経緯で寝たままの甚夜の世話を二人の少女が受け持っていた。
吉隠を逃がしたのは痛かったが、腕を斬り落とされかなりの重傷だ。しばらく動くことはないだろう。
今は養生が先決だと、甚夜は大人しくしている。
看病は流石に恥ずかしいのでと最初は断っていた。しかし彼女達は引き下がらない。終いには彼が折れ、心配をかけたこちらが悪いと諦めることにした。
「ありがとう。希美子、溜那」
「いつもたくさんお世話になっているのですから、これくらい当然です! はい、あーん」
「あーん……」
「それは流石に恥ずかしい。勘弁してくれ」
不満気に頬を膨らませる二人。
断っても、最後にはやはりこちらが折れる羽目になるのだろう。その光景がありありと想像できた。
食事を終え、包帯を交換し、再び横になる。
ただゆっくり寝ているだけでもない。
気を遣われているのか、一日に何度か誰かしら様子を見に来るのだ。
「おう、鬼喰らい。ちょっとはよくなったか」
「爺やさん。なにかあったら遠慮なく言ってくださいね」
暦座の従業員も時々顔を出してくれる。
館長などは染吾郎と懇意らしく、話に聞く甚夜という男がどんな人物かと、好奇心から何度も訪ねてきた。
傷にはこいつが一番だと酒を持ち込んだ井槌と岡田貴一を、芳彦が思いっ切り叱ったこともあった。
井槌はともかくあの人斬りに真正面から説教できる彼は案外大物なのかもしれない。
更に数日が経ち、体の調子が戻ってきたこともあり、甚夜は久しぶりに起き上った。
多少筋肉の強張りはあるが痛みは抜けてきた。
これなら散歩くらいは出来そうだ。思いながら部屋で少しずつ体をほぐしていると、ホテルでの生活が落ち着き、ようやく時間を持てた充知が訪ねてきた。
「やあ、甚夜。調子はどうだい」
「充知か。悪くない、上げ膳据え膳はどうにも性に合わんが」
「はは、怪我をした時くらい甘えればいいじゃないか」
あの地震の後だ、見舞いの品も用意出来ず済まないと謝り、充知は畳の上に座り込む。
甚夜の顔色を確認し、意外と元気そうだと軽く笑った。
「しかし今回は随分無茶したみたいじゃないか」
「ああ、正直綱渡りが過ぎたな」
「とは言え結果は上々。希美子を守ってくれた。溜那ちゃんを助け、傷こそ負ったが君も生きている。万々歳というやつだね」
どうだい、私の言った通りだ。君はちゃんと誰かを守れるんだよ。
言外の意味を取り違えることはない。充知の優しさを確かに受け取り、しかし黙り込んでしまう。
それが不思議でもう一度甚夜の顔を覗き込む。
「ん、どうしたんだい?」
「いや……」
曖昧な表情を浮かべ、歯切れも悪い。
戸惑ったような様子。何事かと思い言葉を待っていると、躊躇いがちに甚夜は口を開いた。
「溜那の、ことだ」
「溜那ちゃんの……何かあるのかい?」
充知も事の顛末は聞いている。
甚夜が<力>を使い、暴走を止めた。一度はあやかしとして堕ちたのだ、暴走が抑えられたとて彼女はもう人ではない。
とはいえ、それは甚夜に井槌、岡田貴一も同じ。
人より寿命が長く老いないだけ。爺やと同じになれたと、溜那自身も納得している。
然して問題は見当たらない筈だが。
「……誤魔化しても仕方がないな。あの時、私は溜那に向かって手を伸ばした」
「うん、聞いたよ。それで溜那ちゃんに触れて、君が暴走を止めたんだろう?」
全てが終わってから、井槌に聞いた話だ。
しかしそうではないと甚夜は首を横に振る。
「届かなかったんだ」
「え?」
「伸ばした手は、届かなかった」
あの時、甚夜は全力で手を伸ばした。
だが吉隠の妨害を受け、全身に黒い槍を受けた。
勿論されるがままではない。
<疾駆>を使い、最短距離を突っ切り、打てるだけの手を打って。
それでも僅か。
本当に僅か一寸だけ、手は届かなかったのだ。
「最後の最後。ほんの一寸手前で私の手は止まり、後は殺されるのみ。……そうなる筈だったにも関わらず、何故か溜那に触れていたんだ。届かなかったのに、触れていた。その理由が、分からない」
溜那が助かったのは素直に嬉しい。
けれど思い返しても不可思議で、穏やかに息を吐く。何故か自然と笑みが浮かんでくる。
聞かされた充知は、柔らかい空気に触れたせいか、実にあっけらかんとしていた。
「はは、あれだね。前に鬼は嘘をつかないとか言ってたけど、甚夜は嘘吐きだね」
「充知……?」
「私には理由は分からない。でも、君は多分、推測ぐらい立っているんだろう?」
付き合いの長さか、穏やかな表情から読み取ったのか。
きっぱりとした物言いには確信が籠っている。
む、と甚夜は唸った。確かに、推測はある。それを口にしなかったのは、なんというか、恥ずかしかったからだ。
「ああ、お前の言う通りだ。理由は分からない。だが推測くらいは立っている。いや、理論的思考などまるでない想像だ」
だとしても、甚夜にはこれ以上の答えは思い付かない。
うん、と頷き充知は続く言葉を待っている。
だから静かに語る。それは推測でも想像でもなく、願いだったのかもしれない。
「動かない体を動かす<力>なら、私の内に在る。届かなかったほんの少しを、“彼女”が補ってくれた。……背中を押してくれたと考えるのは、流石に都合が良すぎるだろうか」
かつて妻と名乗った誰かの優しさが、届かなかった手を届かせてくれたのだと。
彼女の想いはちゃんと胸に在るのだと、そう信じていたかった。
「そんなことはないんじゃないかな。君は危なっかしいし、妻としては居ても立ってもいられなかったんだろう、きっとね」
「そうか。……そうだと、いいな」
充知は、下らない妄想だなどと笑わず、そういうこともあるだろうと肯定してくれた。
酷く嬉しくて。甚夜はそっと自身の左腕を眺める。
ありがとう、兼臣。
お前のおかげで大切なものが守れたと、心からの感謝を妻へ捧げた。
◆
「ほほう、君が芳彦君かい? うちの希美子がお世話になっている。甚夜のことも、ありがとう。ここでお礼を言わせて貰うよ」
「い、いえ、そんな」
「ところでうちの娘とはどんな関係かな? 返答によってはこちらも対応を考えないといけなくてね」
「ええっ!?」
一頻り話し終えた後、散歩にでも出かけようと甚夜達は部屋を出た。
そして玄関先で仲良さげに掃除をしている芳彦と希美子を見つけ、充知は大人気なく絡んでいる。
理由自体は親だから、つまり大人故の苦悩なのだが、年若い少年ににじり寄る中年の姿はかなり絵面が悪い。
先程まで話していた相手と本当に同一人物か疑いたくなるくらいだった。
「悪い、希美子、芳彦君。体を解しがてら散歩に出かける。充知、ほどほどにしておけよ」
「はは、分かっているよ甚夜。ああ、一応溜那ちゃんについて行ってもらうといい。もしものことがあるからね」
そういうところはちゃんと冷静だった。
え、ちょ、爺やさん!? などという叫びが聞こえた。多分気のせいだ。
結婚ともなれば充知を説き伏せねばならない。ここは経験ということで芳彦と希美子に任せるとしよう。
決して面倒くさくなった訳ではない。
強いて言うなら、一度溜那と二人になりたかった。
「溜那、悪いが少し付き合ってもらえるか?」
「んっ!」
力強く、嬉しそうに頷く。
相変わらず溜那はあまり喋らない。しかしよく笑うようになった。
その理由は今一つ分からない。だがなにか心境の変化があったのだろう。それも含めて、話をしたかった。
渋谷の被害は少ないとはいえ建物には所々ヒビが入っており、他の区から投げ出された被害者が公園に集まり、復興のため駆け回る人も多く雑然とした印象を受ける。
あのような災害に見舞われても、翌日にはすぐ動き出す当たり人間の行動力というのはすさまじいものがある。
「“人はしぶとい”……か」
口をついて出たのは三代目秋津染吾郎、親友の口癖だ。
あいつはいつも言っていた。鬼程長くは在れないが人は不滅だと。この景色を見ていると、確かにと納得もする。
人はしぶとい。おそらく東京の町は遠からず元通りに、或いは前以上に発展するだろう。忙しなく走り回る人々の姿に自然とそう感じられた。
「……ん?」
ちらりと横目で見れば、歌い出しそうなくらい溜那の機嫌はいい。
散歩が楽しいだけではない。爺やと一緒に居られて嬉しいと、彼女は全身で表現している。
視線に気づき、どうしたのと溜那は不思議そうに首を傾げる。
目は逸らさない。ここでしっかりと話しておこうと、甚夜は佇まいを直した。
「溜那、済まなかった」
「じいや?」
「無事でよかったと思う。だが、私は結局お前を守りきれなかった」
今の彼女は鬼と変わらない。
不死ではないし寿命もある。しかし年老いることなくこれから長い歳月を過ごしていく。
もはや彼女は人の時間から切り離されてしまった。
それを甚夜は申し訳なく思い、しかし謝罪しても溜那は首を横に振って否定する。
「もともと、わたしは人じゃなかった。それに、じいやと長くいられるようになった。だから、うれしいよ? じいやはちゃんとわたしを守ってくれた。……あの暗い地下牢から、つれだしてくれた」
それは取り繕ったものではなく、間違いなく彼女の本心だ。
真っ直ぐな想いが胸に届く。溜那の言葉に救われた。
本当に守られたのは、甚夜だったのかもしれない。
「……ありがとう、溜那」
感謝に余計な装飾はいらない。
まっすぐの、混じり気のない心が伝わるように、出来るだけ簡素な方がいい。
何故礼を言われたのか分かっていないようだが、頬を僅かに赤く染め、溜那はとても嬉しそうだ。
「わたしね」
<同化>でごく短い時間だが両者は繋がり、その時に記憶を覗き見てしまった。
逆に彼女も少なからず甚夜の心を知っただろう。
だから今更隠し事は意味がない。
それが分かっているからか、溜那は胸の内を素直に吐露する。
「あの地下牢が怖くて、戻りたくないって思ってた。同じくらい外の世界が怖くて、出たくないって思った。わたしはずっと、あの暗い場所に繋がれてた。でも、いまはね。怖くないの。もしも次があるなら、またあの地下牢に帰りたい」
彼女の真意が上手く掴めず、怪訝そうに甚夜は顔を顰める。
足早に溜那は前へ一歩二歩と進む。
そうして空を眺める。彼女の後ろ姿は細く小さく、けれど頼りないとは思わなかった。
「帰りたい……? あの場所は、お前にとって辛いだけだと思っていたが」
「そんなことない」
振り返ることなく、溜那は首を横に振った。
しゃんと伸びた背筋は今までにない強さを感じさせる。
表情は見えない。抜けるような空を見上げる彼女は、広がる青に何を映しているのだろう。
「もしも生まれ変わったとしても。わたしはもう一度、何度でも。あの地下牢に帰りたいと思う」
そう言った彼女の声は、まるで空に溶けていくようで。
「だって、じいやが迎えに来てくれたから。わたしはなんど生まれ変わってもわたしになりたい。それで、なんどでもあの地下牢に帰って。こんどは楽しみに待つの。それで、笑顔で言うんだ……ついていきたいって」
振り返り浮かべた、花が咲くような、鮮やかな笑顔。
空に溶ける少女があまりに眩しくて、甚夜は思わず目を細める。
「わたしは、どんなに怖くても、あなたといっしょにいたいって」
それで、今までの全ては報われた。
彼女の笑顔が本当に綺麗だったから。
選んだ道に間違いはなかったと、そう自惚れることができた。
「そう、か……」
言葉に窮し、気恥ずかしくて頬を掻く。
そんな彼が微笑ましかったのか、溜那はくすくすと笑う。
どちらからともなく手を伸ばし、自然に二人は手を繋ぎ、散歩の続きへ。
掌から伝わる暖かさに、らしくもなく心浮かれて。
横目で彼女を見れば、はたと目が合って、くすぐったさに彼女はまた微笑んだ。
一人の、少女の話である。
物心がつく前に父母を亡くし。
昏い地下牢に繋がれ。
人としての在り方を奪われ。
あやかしへと身を落した。
数奇な運命に弄ばれた彼女について聞かれた時、葛野甚夜はまず一番にこう答える。
『笑顔の綺麗な女の子だ』
他事など全ておまけに過ぎない。
様々なことを乗り越えて。
少女は彼の知る限り、誰よりも綺麗に、誰よりも優しく笑えるようになった。
それが、彼の語る『溜那の話』だ。
『溜那の話』・(了)




