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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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『溜那の話』・2




 一人の、少女の話である。



 別段、出自は特別ではなかった。

 彼女の父母はいわゆる庶民で、どちらの家も食うに困るほど貧乏ではなく、考えのない贅沢が許されるほどに裕福でもない。

 年頃になって二人は見合いをし、夫婦となった。互いに純朴で激しい愛情は終ぞ持ち合わせなかったが、案外と相性は良かったらしい。

 鮮烈な花火の熱情ではなく、まるで冬場の湯たんぽのようなじんわりと伝わる暖かさ。

 言葉にする機会は少なかったけれど、夫婦は確かに愛し合っていた。

 穏やかに歳月は流れ、けれど二人は相変わらず、特別なことなど何もなく。

 何処にでもいる夫婦として当たり前に暮らし、いつしか子供が生まれた。

 名前はどうしようかなんて、真剣に顔を向き合わせて。

 何の変哲もない日々、ありきたりな幸せ。それで二人は十分に満足していた。


『ふむ、素体は“それ”でよいか』


 けれど夫婦は気まぐれで選ばれた。

 或いは、新しい時代を緩やかに生きていく二人が、癪に障ったのか。

 南雲叡善は夫を妻を惨殺し、赤子を攫った。

 父母が考えた、愛情にあふれた名前を赤子が知ることはない。

 彼女には代わりの名が与えられた。

 

 溜那。


“溜”とは「糞尿を貯蔵しておく“こえだめ”」、そして「力をためる」の意。

 彼女の未来はここに決定する。

 魍魎をその身に溜め込み力へと変換する人造の鬼神。

 魔を孕み大正の世を滅ぼす毒婦。

 そういう存在になるのだと、溜那の人生は最初から決められていた。 






 物心がつく前に、胎を子宮を作り変えられた。

 後は育つのを待つばかり。家畜と何も変わらない。少女は結末ありきで育てられる。

 育てると言っても地下牢に繋がれ、定期的に餌を与えられるだけ。時折調整の為に体を弄られ、気分次第で蹴られ転がされた。

 それを不幸だと思ったことはなかった。

 だって比較対象を知らない。

 幸せを知らない彼女にとって、如何な不幸も日常に過ぎない。


 からだをさわられるのきもちわるい。

 いたいのは、いやだな。

 おなか、へったな。


 快や不快は感じても、彼女の中ではそれが当たり前。苦痛であっても逃げたいとは思わないし、そもそも思えない。

 逃げるも何も、溜那にはこの地下牢だけが全て。

 彼女にとって生きるというのは、こういうことだ。

 痛みも気色悪さも当たり前で。それ以外を知らない溜那は「この地下牢を抜けだせばこんな目に遭わないで済む」なんて考えもしなかった。


『や、溜那ちゃん元気ー』


 時折やってくる変な鬼もいる。

 吉隠といったか。この鬼だけは、目的もなく地下牢を訪れ、なにをするでもなく帰っていく。

 それもどうだっていい。

 ただ少し気になるのは、吉隠は必ず昼に来た。

 だから地下牢へと繋がる扉から、ほんの少しだけ光が漏れる。

 ロウソクの灯りとは違う眩しさ。

 あれはなんなのだろうと考える。

 僅かな憧れだったのかもしれない。

 外はどうなっているのか。 

 そんなことを、想像するようになった。



 一日のごく短い時間だけ、外の世界に意識は傾けられる。

 しかし想像は想像。形にならないまま霧散していく。

 結局、彼女は鎖に繋がれたまま。出られるなんて思っていない。 

 とはいえ小さな変化はあった。

 外の眩しさを知ったから、この地下牢が暗いのだと理解できた。



 いったいどれだけの時間が流れたのか。

 父母の記憶もなく、本当の名前も知らず。少女は溜那として、牢に繋がれ家畜のように飼われている。

 外への僅かな憧れさえ、いつの間にか忘れ去った。

 どうせ意味のないものだ。

 彼女は、暗いところにいる。

 閉じ込められたまま出られない。

 意味もなく生かされている籠の鳥。そして多分意味もなく、孤独なままに死んでいくのだろう。

 怖くはない。死を怖いと思えるほど、彼女は生きることに対して執着していなかった。

 どうせなにもすることはない、起きたら眠くなるまで時間が過ぎるのを待つ。

 時折与えられる苦痛さえ暇潰し以上の意味を持たなくなった。

 幸福ではないが、不幸ではない。普通の、ありきたりな日常だ。

 彼女は知っている。

 ちゃんと吉隠から教えられた。

 自分はいつか、現世を滅ぼす化生と為るのだと。

 それさえも興味はない。

 結局は何もしないのだ。今迄だって、生きているから生きてきた。化生と為ったところで、流されるままに生きるだけ。

 ならば地下牢の日々と、どれだけの違いがあるというのか。

 つまり彼女には何もなかった。

 過去もなければ未来もなく、貫くだけの自分もなく。

 ただ其処に在るもの。

 南雲叡善が与えた器という役目だけが、溜那の存在価値だった。



『ここで死ぬか、付いてくるか選べ』



 だから、突然目の前に現れた男に、選択を突き付けられたその時。

 溜那は喜ぶより驚くより困惑した。

 今迄何かを選んだ経験なんてなかった。男の言葉の意味が、本当は分からなかったのだ。

 地下牢を訪れるものなど限られている。餌を持ってくるか、体を弄るか。

 人が来ると、痛い思いをする。

 溜那にとってはその程度の認識で。

 手を差し伸べたのは、彼がはじめてだった。 

 それも、本当はどうでもよかったのかもしれない。

 生きていても、死んでいても、何も変わらない。

 なにかの間違いで、ここから離れられたとしても。

 私はきっと暗い場所から逃げられない。

 その為に作り変えられた。  

 それ以外に価値はないと、初めから決められているのだから。


『よし、ならば行こう』


 そう思っているのに、手はいつの間にか彼の手を握っていた

 差しのべられた手を取った理由は、彼女自身にも分からない。

 牢を出ていくことを選んだのではなく、目の前に手があったから触れてみただけ。理由なんてその程度だと思う。




 なのに彼は穏やかに、暖かな笑みを落とす。

 なぜ、この人は笑ったのだろう。

 それが溜那には分からなかった。

 



 ただ、ごつごつとした手が。

 なんだかとても安心できたことを、今でも覚えている。




 ◆




 空っぽな表情。

 なのに似ていると思った。

 白雪にか、それとも私自身にだったのか。

 初めに抱いた感情は憐憫だろう。

 体を作り変えられたことに対してではない。 

 南雲叡善の策謀に巻き込まれ、己の意味を失くした。

 親の愛情を受けて然るべき年頃の少女、だというのにここまで何もない。

 意志というものが欠片もなく、彼女に残されたのは叡善の用意したコドクノカゴとしての役割だけ。


 その在り方に遠い面影が重なって、ほんの少しだけずれる。

 似ていると思ったのは、彼女には与えられた役割しかなかったから。

 少しのずれは、選んだが故の今ではなかったから。

 かつては私も与えられた役割にしがみ付いた。

 白雪の傍にいる為、巫女守として最後まで在ろうと誓った。

 おそらく本当の望みは別にあり、しかしその道を選んだのは確かに私自身で。

 けれど彼女は違う。

 選んだ末の今ではなく、流されるままに、こんなところまで来てしまった。

 なによりもそれが悲しくて。

 何者でも在れなくなったことをこそ、憐れと思った。

 だからだろう。

 気が付けば私は手を差し出していた。



 少女───溜那には、困惑があった。



 その意味を知る。

 彼女は今まで何も選んでこなかった。

 選択肢など初めから存在していなかった。

 そもそも誰かの手を取ってこの地下牢を抜け出すなど、想像もしていなかったに違いない。



 ───ああ、だから似ていると思ったのか。



 彼女には何もなかった。

 だから似ていると思った。

 失くしたものが多かったからだろう。何も持たない彼女といつかの自分が重なった

 戸惑ったままの少女。

 無理に連れ去ることはせず、手を差し伸べただ待つ。 

 私が無理に力付くで外へ連れ出したとて、何も変わらない。彼女は変わらず流されるまま、場所が牢から外に移っただけだ。

 一歩目は、この娘の意思で選んでほしかった。

 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。

 差し伸べた手は、彼女に与えられた初めての選択肢。



 そうして少女は。

 恐る恐るではあるが、この手に触れてくれた。



 だから決めた。

 選んだのなら、彼女の助けになろうと。

 何も映さない彼女の瞳が、これから先続いて行く日々で、大切なものを見つけられるように。

 色々な人に貰った沢山の暖かさを、今度は私が伝えようと思った。




 ……そうすればきっと。

 理不尽に失われた過去にも、意味を見出せると思ったのだ。




 ◆




 連れ出された先で知る眩しさは、たくさんあった。

 見上げた空、降り注ぐ陽射し。

 花の美しさ、誰かの笑顔。

 甘いお菓子、冷たいお水。暖かいお布団。

 繋いだ手に、頭を撫でる優しい手。

 数え上げればきりがないくらい。痛いことも気持ち悪いこともなくて、初めて経験する外の世界は幸せで満ち溢れていた。

 けれど、時々立ち止まって振り返る。

 背後には暗い地下牢に繋がれたままの溜那が、こちらを見ている。

 勿論ただの妄想だ。

 なのに、べったりと張り付くような視線に宿る悪意は、やけに真に迫っていて。

 だから、泣きたくなった。 



 ───ああ、かつての私が、私を見ている。



 そいつの眼は、まるで与えられた幸せに溺れている今の自分を妬むようで。

 それが怖かった。

 溜那は、初めて怖いと思った。

 あの暗い地下牢にいる自分が、なによりも恐ろしかった。



 初めての外は楽しかった、嬉しかった。

 それは今まで触れたことのない幸福だった。

 けれど背後から見つめるかつての自分に気付いてから、次第に怖いものが増えていった。

 たくさんのものに触れるほど、たくさんのものが怖くなった。

 見上げた空の青さがあまりに綺麗だから、星のない夜の空の暗さを不安に思った。

 花の美しさに見惚れたから、散り往く花弁が寂しくなった。

 暖かいお布団に慣れたから、冷たい床が辛くなって。

 繋いだ手の暖かさを知ったから、いつか離れる時が怖かった。

 またあの地下牢に戻ることが、たまらなく恐ろしくて。

 本当は、外に出ない方がよかったのではないだろうか。

 時折、そんなことを考えた。


『けれど、どうかそれを嘆かないでほしい。いつか分かる。取りこぼしてきたものの価値も、手の中に残った小さな“なにか”の意味も』


 だけど、爺やは静かに笑った。

 臆病者だから、自分も色々なものが怖い。

 色んなものを失くしてきたから、守れないことが怖い。

 けれど大切なものを持たなければいいと思ったことは一度もないと。

 怖いから、今も必死にあがいていると言った。


 爺やの語る価値も意味も、よく分からなかった。

 分からないことが増えて、怖いものが増えた。

 同じように、大切なものも増えた。

 今の溜那には、それがいいことなのかはやはり分からなくて。

 けれど、あの地下牢に戻りたくないと思えるようになった自分は、そんなに嫌いではなかった。



 だから願う。

 できれば、こんな日々が長く続きますように。

 神様は聞いてくれないだろうから、伝わる暖かさに、小さく祈りを込めた。




『や、溜那ちゃん。また会ったね』




 けれどやっぱり、祈りは届かなかった。

 吉隠に再び出会い、なにか黒いモノを注がれ。

 そこで人としての彼女の時間は終わる。




 ───おかえり、なさい。




 今迄、ずっと背後から眺めていた、かつての自分が追い付いた。

 冷たい手に捕えられ、溜那は再び暗い場所へ引きずり込まれた。

 いや、違う。

 きっと本当は、あの地下牢から抜け出せてなんていなかったんだろう。

 今迄のは全部夢だったんだ。

 外の世界の幸福なんてただの想像で。

 助けてくれた誰かなんて、初めからいなくて。

 化け物になる私は、人の中にいては駄目で。

 だからこれは、きっと当然のこと。

 結末はなにも変わらない。




 この身は、現世を滅ぼす災厄と為る。




 そうだ、こうなると最初から知っていていた。

 ……なのに、なんで、泣きたくなるんだろう。

 分からない。

 分からなくていい。

 どうせ、

 結局、どんなに頑張っても、あの暗い地下牢からは逃げられなかった。

 それだけの、ことだった。




 また地下牢に戻る。

 それが辛くて、泣きたくて。

 なのに何故か、少しだけ、安心した自分がいた。




 ◆




 変わらないものなんてない。

 元治さんの言葉が、今になって響いてくる。

 本当に、あの人の言う通りだった。

 変わらないものなどない。そして、それは悪いことばかりでもなかった。



 初めは、似ていると思った。

 何も持っていない彼女と、何もかもを失ったかつての自分が重なった。 

 その程度の気持ちで手を伸ばした。

 溜那を助ければ、理不尽に失われた過去にも、意味を見出せると思ったのだろう。

 結局のところ差し伸べた手が向けられた先は溜那にではなく自分自身。

 本当に助けたかったのは、何一つ守ることの出来なかった、かつての己だ。

 けれど心は変わる。

 始まりは間違っていたかもしれない。

 それでも共に過ごした。

 仕事を手伝うと言って後ろについて回り、一緒に寝たいと甘えるようになった。

 今まで知らずにいたことを知り、大切なものを増やしては怯え、けれどそんな自分を嫌いではないと笑った。

 始めは、似ていると思った。

 だが違った。

 あの娘は、私とは違う道を自分で選び、恐る恐るではあっても一歩ずつ歩いていて行こうとしている。

 溜那は辛くても怖くても、ちゃんと前を向ける強い娘だ。

 それが私には嬉しかった。

 他でもない彼女のこれからを、素直に見たいと思えたのだ。


 積み上げた長く短い日々は、緩やかに心を変えて。

 もはや溜那に過去の面影は重ならない。

 真っ直ぐに、あの娘が見えている。

 だから、今一度手を伸ばす。



『じぃ、おおおおおぁあああぁ』



 今度は、今度こそ真っ直ぐに。

 迷いなく、ただ溜那を救う為だけに手を伸ばす。

 この手が、この心が。

 暗い場所で怯えている少女へ、届くように。



 そうして。

 伸ばした手は、彼女に───




 ◆




 私は、あの地下牢の中にいる。




 そうだ、結局逃げられなかった。

 今も心は暗い地下牢に繋がれている。

 外の世界での幸福なんて、夢だったのだ。

 なのに、どうして泣きたくなるのだろう。


『溜那、待っていろ。……今助ける』


 どうして、貴方は、そんなことを言うの?

 痛い思いをして、血を流してまで、手を伸ばすのか。

 手が届いたとしても変わらない。

 私は結局、あの暗い場所にいて。

 私は結局、化け物になって。

 何一つ変わらない結末が待っているだけ。

 なのに、なんで。

 ああ、もう、どうでもいい。

 暗い地下牢に戻ったなら、きっと色んなものがどうでもよくなる。

 外の世界の眩しさに憧れた心も、いつかは消える。 

 また、何も感じない日々が始まる。

 それが今は、少しだけ安心する。

 そう、これでよかったのだ。

 どうせ私は。

 どこにも逃げられないのだから───






『……本当に?』






 ───なのに繋がれた心には、暖かい何かが触れて。

 

 気付けば。

 私の目の前には、見知らぬ女の人が立っていた。


「……え?」


 突然のことに、目を見開く。

 結わった髪に深い青の着物。切れ長の目をした彼女は、静かに微笑み牢に閉じ込められた私を見ている。


『本当に、それでいいのですか?』


 どこかで聞いたことのある声。見覚えのない女の人。

 見透かすような言い方に私は俯く。

 それでいいもなにも、何を選ぼうと結局は変わらない。

 最後には化け物になって、一人になる。

 だから私は此処にいたい。

 地下牢にいれば喜びはなくても怖くないから。


『今まで知らなかったことを知る度に、色々なものが怖くなって。しかし怖くなった反面、暖かいと思うようにもなった。だから貴女はもう此処には戻らないと決めたのでしょう?』


 それは。

 口を噤んだのは、彼女の言う通りだったから。確かに、そう思ったこともあった。

 でも結局は此処に戻ってきてしまった。

 今更どうしようもない。戻らないと思ったのだって、外の世界に連れ出されて、気が大きくなっていただけ。

 もうどうでもいい。

 此処にいれば安心できる。変わらない日々を重ねていければそれでいい。


『そうやって、一人で?』


 だから、やめて。

 なにも言わないで。

 辛くなることを、思い出させないでください。


『どうにもならないから諦める。成程、それも一つの選択でしょう。ですが、あの方はそれを望みましたか? よく思い出してください』


 あの方、といわれて浮かんだのは一人だけ。

 爺やは、言っていた。

 臆病者だから、いろんなものが怖い。

 たくさん失くしてきたから、守れないことが怖い。

 けれど大切なものを持たなければいいと思ったことは一度もないと。

 怖いから、今も必死に足掻いていると。

 優しくだっこしながら、私に伝えてくれた。


“なあ、溜那。お前はこれからも多くの怖いものに出逢う。どうしようもないくらい辛くて、全てを投げ出したいと思うこともあるだろう”


 やさしい声。触れ合った体から伝わる暖かさ。

 心地よくて、瞼が重たくなるけれど。爺やの声を聴いていたくて頑張って目を開ける。


“けれど、どうかそれを嘆かないでほしい。いつか分かる。取りこぼしてきたものの価値も、手の中に残った小さな「なにか」の意味も”


 彼だけだった。

 彼だけが、私の未来を願った。

 私さえ信じていないものを、信じてくれた。


「あ、ああ……」

『もう一度、聞かせてください。本当に、これでいいのですか。一人で地下牢に閉じこもり……暖かさに触れることなく、価値も意味も得られず。そうやって死んでいくのが貴女の望みですか?』


 そんな、訳がない。

 分からないことが増えて、怖いものが増えた。

 でも、大切なものも増えた。

 今の私には、それが、いいことなのかは分からないけれど。

 彼は、いつか分かると言ってくれた。

 みんな分かるって、嘆くなって。

 私にも、分かる時があると言ってくれた。

 私にも先があると、彼だけが信じてくれた。


「ちが…でも……」


 けれど、まだ何も返せていない。

 何も言えてない。

 だからこんな所で諦められない。

 わたしには、つたえたいことがたくさんある。

 でも、言葉は形にならなくて。

 どうすればいいのか分からなくて。

 私はやっぱり、動けないままこの牢に繋がれている。


『いいんですよ。決意とか、信念とか。そういう話ではありません。素直に、貴女が思うことを吐露してください』


 私の、想うこと。

 いつの間にか、肩が震えていた。

 ああ、そんなの、決まっている。

 本当は、怖かった。

 あの暗い地下牢に戻るのが怖かった。

 だって、たくさんの暖かさを知ったから、もう耐えられない。

 そんな私が口にしたのは、信念でも決意でもない、ただの弱音。



「やだ…もう、ひとりはやだよぉ……」



 いつか在った暖かさを思い出す。

 零れた言葉はひどく情けないもので。

 けれど、それをこそ聞きたかったのだと、見知らぬ女の人は静かに頷いた。


『よかった、貴女がそう望んでくれて』


 気付けば、私は牢の外にいた。

 どうなっているのか分からなくて、私は思わず「なんで?」と問うた。

 自分でも何を聞こうとしているのか分からない質問。女の人は目を細め、満足げに微笑む。


『夫の無茶を妻が支える。……これも、内助の功というものでしょう』


 返ってきた言葉はやっぱり分からないもので。

 でも彼女の声には覚えがある。

 あれは、いつ聞いたのか。

 夫と妻。

 そう言えば、旦那様と。彼を、暖かく呼ぶ変な刀が。 

 考えているうちに、女の人の姿は消えていた。

 暗い地下牢に一人残され、でも前は見えている。

 出口もちゃんとあった。

 繋ぐ鎖も消え失せて。

 ほんの少しまだ怖いけれど、今ならまっすぐ歩いて行ける。

 だから私は。




 外に繋がる、扉に手をかけ───






 ◆






 溜那が目を見開いた時見たのは、雨雲が流れて青を覗かせる空と。


「……溜那、無事か」


 静かに笑みを落す甚夜の姿だった。

 血は拭ったのだろうが傷は塞がっていない。

 ところどころ赤く滲んで、しかし表情は痛みを感じさせない。

 溜那を抱擁したまま道端に座り込み、心からの安堵に小さく息を吐く。助けたのは彼だというのに、寧ろ救われたような安らかさだった。 


「じいや……わた、し」


 疲労感が全身にまとわりつき、まともに動けない。完全に体を預けたまま、溜那はかすれた声を絞り出す。

 覚えている。

 彼が、助けようとしたこと。

 精一杯手を伸ばしてくれたこと。

 いきなり吉隠が邪魔をして、傷だらけになって。

 それでも回り道をせず、真っ直ぐ心に触れてくれたこと。

 傷付いた彼が悲しくて、感じる暖かさが嬉しくて、溜那は泣くことも笑うことも出来ず曖昧な表情を浮かべた。


「……怖かった。また大切なものを失ってしまうのかと。まったく、儘ならないな。私は相変わらず臆病者のようだ」


 溜那を慰めるように、そっと頭を撫で、手櫛で髪を梳き離す。

 穏やかに怖いと言う彼が、不思議だと感じられる。

 大切なものが増えて、その分怖いものも増えて。怯えて暗い場所に閉じこもろうとした自分では、ああやって笑うことはきっと出来ない。


「……だが、ようやく真っ直ぐお前に手を伸ばせた。それが、本当に嬉しい」


 纏う空気は穏やかなまま。

 けれど離さないよう、零れ落ちてしまわぬように、抱き締める腕の力がほんの少しだけ強くなった。

 だから、その想いに報いるような心持で、溜那は彼の手を胸元に手を添えた。

 掌から伝わる鼓動の音が暖かくて。

 傍にいると。一人じゃないと、そう思えた。


「じいや、ごめんなさい。……でも、ありが、とう」


 今迄なにも言ってこなかったから、謝罪も感謝も上手く形にならなくて。

 結局伝えられたのは、そんな簡素な言葉だけ。

 でも、きっとそれで十分だ。


「どういたしまして。さあ、疲れただろう。今はおやすみ……また、明日からは仕事を手伝ってくれるか?」


 ひどく不器用だけど、彼はこれからも一緒にいようと言ってくれた。

 それが嬉しくて、溜那は目を瞑った。

 意識は急速に眠りへと落ちていく。

 もう背後に、かつての自分はいない。

 暖かさに包まれながら、少女は思う。

 きっといい夢が見られる。

 浮かべた表情は今迄にないくらい穏やかだった。






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