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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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140/216

『溜那の話』・1




「そんなことない」


 振り返ることなく、溜那は首を横に振った。

 しゃんと伸びた背筋は今までにない強さを感じさせる。

 表情は見えない。抜けるような空を見上げる彼女は、広がる青に何を映しているのだろう。


「もしも生まれ変わったとしても。わたしはもう一度、何度でも。あの地下牢に帰りたいと思う」

 

 そう言った彼女の声は、まるで空に溶けていくようで。






 ◆






 黒い瘴気によって生まれた亡者どもは、ただ命あるものに縋り寄る。

 形になった無念。哀れと思わない訳ではないが、今の甚夜には彼等を慮る余裕はなかった。


「失せろっ……!」


 斬り伏せられ、初めから存在していなかったかのように亡者は霧散する。

 感慨はない。立ち止まらず、呼吸さえ忘れ、ひたすらに刀を振るう。

 数えるのも面倒くさい。積み重ならぬ屍を増やし、一体また一体と葬り去り、ようやっと終わりが見えてきた。

 これで、終いだ。

 最後の亡者を切り捨て残心、周囲に気配はないと確認してから、一息もいれずに駈け出す。

 大幅に時間を取られた。おそらく吉隠は溜那に追いついている……だとすれば、あの娘は。

 湧き上がる不安が胸を焦がす。

 昔から思っていた。多分、自分は足が遅いのだろう。白雪に奈津、野茉莉の時も。どんなに走っても、間に合わないことの方が多かった。

 いや、考えるな。今は余計な思考は捨てろ。

 雑念を叩き潰し、前だけを見る。雨の後のぬかるみに足を取られても、立ち止まることはしない。

 地震で倒壊した町並みも目には入らない。

 今はただ、溜那の下へ急がなければ。逸る心を抑え、それでも衝動に突き動かされ走り続ける。

 景色は糸になって流れ、遠く聞こえる泣き声も悲鳴も置き去りに。

 走り抜けた先に見えた人影。所々亀裂の入った道の真中、立ち尽くす溜那の姿に彼は足を止めた。






 ◆






「こっちはひでえなぁ……」


 渋谷はまだ被害が少なかった。

 暦座も建物にヒビが入ったとはいえ倒壊はしておらず、道もいくらか裂けてはいるが通行不能までは至っていない。

 しかし麹町への道程を進むにつれて、被害の度合いは見るからに高まっている。絢爛と呼ぶに相応しき帝都も今は瓦礫の町。液状化し崩れた場所もあり、蔓延する砂利の混じった空気に井槌は顔を顰めた。


『爺や達は……む、迎えに行かないと』

『ダメですよ、希美子さん。こんな時に動くのは危ないです』


 地震で動転しながらも、希美子の心配は自分よりも甚夜や溜那へ向いていた。

 目を離せば飛び出して行ってしまいそうなくらいだ。しかし芳彦がそれを止める。


『井槌さん。取り敢えずこの辺りは大丈夫そうですし、溜那ちゃんたちを迎えに行ってくれませんか?』

『いや、だがよ』

『お願いします。もしかしたら……。溜那ちゃんのこと、お願いします』


 頼まれた井槌は甚夜らと合流する為に、紫陽花屋敷方面へと向かっていた。

 この状況で暦座を離れるのは多少不安だったが、吉隠の動向も気にかかる。それは芳彦も同じだったらしい。

 濁した言葉の先を、なんとなくだが察していた。

 互いに吉隠とは浅からぬ付き合いがあった。だからだろう、彼もまたこの地震をただの災害とは思っていなかった。

「私もついて行く」と言い張る希美子を抑え、井槌一人で行くよう願ったのもその為だろう。

 つまるところ芳彦は、この機に吉隠が動くかもしれないと考えた。

 その上で、何かあるとしたら希美子よりも溜那が危ない、そう判断したのだ。


「ま、恋愛事以外なら芳彦先輩は勘がいいしな。……案外当たりかもしれねぇ」


 実際、南雲の家での悶着の際、芳彦だけが吉隠の奇襲に気付いた。

 こう言っては何だが、頭の悪い自分の考えよりはよっぽど頼りになる。鬼喰らいも近頃は溜那の傍にいることが多いらしく、それが芳彦の推測を押し上げた。

 結果として井槌は芳彦に従い、小走りで倒壊した町並みを抜けていく。

 きょろきょろと辺りを見回しながら進めば、視線の先に見慣れた少女の姿があった。


「おお、嬢ちゃん無事か。一人か? 鬼喰らいはどこだ?」


 なぜか道の真中で一人立ち尽くす溜那。不思議に思い井槌は声をかける。

 それでも相変わらず、彼女は黙したままで。






 ◆






「おーい、嬢ちゃん。本当にどうしたよ。どっか痛いのか?」


 話しかけてもぼーっとしたまま。

 心配そうに顔を覗き込んでいた井槌は、怪訝そうに眉を顰めた。


「溜那っ!」 


 遅れて甚夜もまた溜那の下へたどり着いた。

 それを横目で見て、井槌は助かったとばかりに表情を綻ばせた。どうすればいいのか分からず困惑していたところだ。彼の登場は素直に有難かった。

 甚夜の方も僅かに口元が緩む。いるのは吉隠とばかり思っていた。そのせいか、傍らにいる井槌を見て、小さく安堵の息を吐いた。


「井槌……そうか、お前が保護していてくれたのか」

「おお、鬼喰らい。いや保護ってほど大層なことはしちゃいねえがよ。それより、なんか嬢ちゃんが変なんだ」


 溜那の方を見れば、往来の中心で俯いたまま微動だにしない。

 声が聞こえなかった、ということもないだろうに、何の反応も見せなかった。

 周囲にはまったく意識を向けず、本当にぼんやりと立っているだけ。

 それが奇妙で、嫌な予感は一気に膨れ上がる。


「どうした……?」


 しかし溜那への心配が勝った。

 周囲に吉隠の姿はない。警戒を解かぬまま、傍らへ寄って手を伸ばす。

 見たところ外傷はなく顔色も正常。ただ反応があまりにもなさすぎる。

 いったい、どうしたというのか。


「……っ!?」


 伸ばした手が溜那に触れる直前、甚夜は井槌の襟首を掴み、弾かれたように後ろへ退いた。

 体は衝動に追い立てられ、考える暇もないほど迅速に動いていた。


「げほっ、おま、なにしやがんだ!?」


 急に襟を引っ張られ、引きずられるように溜那との距離を離された。

 首が閉まって苦しかったこともあり井槌は不機嫌そうに怒鳴り付ける。

 しかしそれに構っている余裕はない。

 甚夜は、じっと溜那を見据えていた。


「おい、聞いてんのか!」

「話は後だ。構えろ」

「あぁ!? なに言ってやが……!?」


 直感が体を動かしたと言えば聞こえはいい。しかし内実はまるで違う。

 死ぬ、そう思った。

 退くのが一歩でも遅れれば死ぬ。溜那の放つ気配に当てられた甚夜は、濃密な死の匂いに、殆ど反射的に逃げたのだ。

 その判断は正しかった。


「ちょっと、待てや。何の冗談だこれ……」


 長い黒髪を結い、品のよい着物を纏った少女。

 整った顔立ちは、十人に聞けば八人は美しいと答えるだろう。

 贔屓目はあるが、甚夜も彼女の容貌は素直に綺麗だと思っていた。

 それが、歪む。

 表情が変わったのではなく、骨格が肉が形状を変えていく。

 めきめきと嫌な音を立てながら肥大化し、異常なまでに筋肉は膨張し、皮膚はくすんだ白へと変色する。

 もはや面影など何処にもない。

 いつも上目使いで見上げていた少女を、今は甚夜が見上げる形になった。

 獣のように四肢で立ちながら、それでも見上げなければいけない程に溜那の体躯は巨大だった。


 ───ああ、どこかで見た景色だ。 


 積み重なった瓦礫と打ち捨てられた死骸。

 目に映る景色は、どこか郷愁さえ帯びている。

 化生はだらだらと唾液を垂らしながら、餌を探しているのだろうか、ぎょろりとした赤目で周囲を見回す。

 その姿には、確かに見覚えがあった。

 これも因果というものなのか。

 眼前の化生はかつて葛野の集落を襲った鬼に───夜風に、よく似ていた。


『おぉぉ、あぁああああああああ……』


 雄叫びが上がる。

 鳴き声、或いは泣き声か。空気を震わせる叫びは重く低い。

 それを慟哭だと思うのは、きっと元の姿を知っているからだろう。

 言葉数の少ない無邪気な少女。少しずつ明るくなり、甘えてくれるようになった。

 南雲叡善と敵対し、その過程で奪取した娘だ。特別な繋がりはなく、しかし日々は過ぎ、距離は近付いて。

 今では、素直に守りたいと思える。守りたいと、願ったのに。


「りゅう、な……」


 たどたどしく名を呼んだのは動揺よりも信じたくなかったからだ。

 彼女は、最悪の化生となった。

 纏う気配だけで押し潰されそうだ。

 肌に感じる圧力が教えてくれる。今の溜那は、これまで相手取ってきた鬼の中でも最上位に位置するあやかし。

 放っておけば尋常ではない被害が出ることは容易に想像できた。


「あれ、嬢ちゃん、か? なん、で」


 井槌もまたひどく動揺している。

 眼前で少女が化生へと変わったのだ。混乱のせいでうまく頭が働いていないようだ。


「……吉隠の目論見に嵌ったらしい」

「吉隠の。つまり、あれが。あいつの狙いだって言うのかよ。……何が人を殺したくないだ。お前のやってることの方がよっぽど悪辣じゃねえか」

 

 眦強く、溜那を睨み付ける。

 怒りはここにはいない者へと向けられていた。

 かつては肩を並べた仲間が、眼前の化生を造り上げたという。その事実に井槌は耐え難い怒りを覚えし、後から後から沸いてくる激情に歯噛みする。


「溜那! 聞こえるか……私が、分かるか?」


 縋るような想いで声を絞り出せば、化生の視線が甚夜を捉えた。

 或いは溜那の意識が残っているのでは。儚い希望は瞬時に崩れ去る。

 感情の宿らない虚ろな目。敵意はなく、悪意殺意、それどころか興味さえもない。

 ただ目の前にあった。多分邪魔だと思ったのだろう。

 その程度の、そこいらに落ちているゴミを片付けるような、部屋に入ってきた蟻を踏みつぶすような気軽さで。

 溜那の右腕は甚夜へと振るわれた。



 呆けていた頭に活を入れ、気を引き締め直す。

 咄嗟に井槌の傍を離れたのは、彼では溜那に届かないと思ったから。 

 化生と為った溜那はその巨体にあるまじき身軽さで跳躍し、甚夜の間合いを恐ろしいほどの速度で侵す。

 大きく飛び退くも僅かに遅かった。突進自体は躱したが、すれ違いざまに爪で胸元を裂かれた。

 焼けるような熱さ、鮮血。しかし溜那は止まらない。四足獣の動きで逃げる甚夜を追い、再び爪を振るう。

 体を捌いて避ける? 駄目だ、相手は尋常ではない。

 あの巨体に、能力も未知数。ぎりぎりで避けるのは悪手。まずは様子見。<疾駆>で横へ飛び、一気に距離を開け。


「がっ……!?」


 しかし溜那は容易に並走し、振り上げた左腕を甚夜へと叩き付けた。

 判断自体は間違っていなかった。単に溜那の身体能力が、甚夜の想定を遥かに上回っていただけのこと。

 ありきたりな表現だが、まさしく予想外だった。

 尋常の相手ではないことくらい初めから織り込み済み。最上級のあやかしと認識していた。

 更には実際に挙動を見て、戦力評価を上方に修正した。

 油断も慢心もない。格上だと完全に理解して臨み、尚も想定を凌駕する。

 それだけの差が溜那と甚夜の間には在った。


「っ、ぐ」


 上から抑え付けられる形で甚夜は地に伏す。

“地面にめり込む”を比喩ではなく可能にする、それだけの膂力。

<疾駆>を使って尚も振りきれぬ速度。

 純粋な身体能力、単純な膂力ならば吉隠どころかマガツメさえも上回る。

 今の一合だけで否応なく理解させられた。

 真っ向勝負ならば十回やって十回負ける。

 経緯は些か違ったが、彼女は確かに為った。

 大正の世を覆すだけの妖異にして魔を孕む毒婦

 溜那は、此処に“コドクノカゴ”となったのだ。


「ぬ、あああああああああ!」


 どうにか<不抜>が間に合い、命は繋いだ。

<剛力>。膂力を高め、地に伏した状態から溜那の手を持ち上げ、無理矢理払い除ける。

 潰したと思っていた虫が生きていた。それを意外と思えるほどの自意識は、今の彼女にはない。やはり溜那は動くものに反応し、再び腕を振り上げた。


「それなりに強くなったつもりではいたんだが……まったく、嫌になるな」


 自嘲気味に口の端を釣り上げる。

 マガツメ、岡田貴一、吉隠。そして溜那。

 鍛錬を怠ったつもりはない。修羅場も幾度となく潜ってきた。

 だというのに、こうも簡単に上をいかれる。己の脆弱さに呆れてしまう。

 とはいえこの程度の苦難もまた、幾度となく乗り越えてきた。今更、一寸先の死に尻込みするほど初心でもない。

 放たれる一撃を前に出ることでやり過ごす。続く攻撃も付かず離れず、間合いを調節しながら至近距離で掻い潜る。

 ぐおん、と空気を抉り取りながら振るわれる鋭い爪。直撃はせずとも間近を掠めていくだけで背筋が凍った。

 ただ振り回すだけの拙い動きでさえ必殺。彼我の戦力差は歴然だ。

 故に、怯まず前へ出る。

 あの巨体だ、小回りは利かない。なにより発達したむき出しの筋肉が幸いした。皮膚から見て取れる筋肉の動きで、おおよそだが攻撃の瞬間と方向は読める。

 そこから二手先三手先を予測し、回避に全霊を傾ける。

 読み違え仕損じればすぐさま命が散る。無表情を作り冷静ぶって見せてはいるが、その実綱渡りの攻防である。

 まとわりつく小さな虫が鬱陶しいのか、溜那の動きは次第に激しくなり、勢いがついた分大雑把にもなった。

 狙い時だ。

 雄叫びと共に振り上がる腕、筋肉が伸びきった瞬間を狙っての<地縛><不抜>。

 四本の鎖を用い、攻撃の瞬間、一時的に体勢が崩れた状態で四肢を固定する。

<不抜>は、<合一>で他の<力>と合成し使用する場合は、単体で扱う時のように“壊れない”と呼べるほどの強度は得られない。

 もともと「壊れない体が欲しい」という願いから生まれた<力>。本来の意図から離れれば、本来の性質から離れるのは道理だ。


<不抜>と<地縛>を合成しても、「壊れない鎖」ではなく「頑丈な鎖」程度。それでも、黒い瘴気は兎も角、単純な力を相手取るならば<不抜>は効果が高い。

 いくら溜那でも易々とは破れない。

 この隙に、


「……っ」


 この隙に、どうするというのか。

 斬り捨てる? まさかだろう。あの化生は、溜那なのだ。彼女に刃を向けるなど、出来る筈もない。

 考えねばならぬのは、打ち倒す方法ではなく暴走を抑える手立て。

 守ると決めた。ならば、この程度の苦境で諦めるなど有り得ない。

“溜那を守る”。

 為すべきことはちゃんと見えている。


『おぉぉ、あああああああああああああ!』


 逡巡が甚夜の動きを止めた。

 四肢を拘束されたまま、やおら溜那は口を大きく開く。

 なにを、と思う暇はない。瞬くような輝きが目を焼いたかと思えば、開かれた口から撃ち出される光の束。

 無論、この時代にレーザーだの光線だのといったものは認知されていない。

 だから溜那の放ったそれがなんであるか、甚夜は微塵も理解していなかった。 

 ただ積み上げた経験が囁いた。


 あれは、まずい。


 その瞬間、甚夜は飛び退いていた。

 彼が今の今までいた場所は、照射された光にどろどろと溶け、煙か蒸気かもわからない白い靄が湧き上がっている。

 地面を溶解させる程の熱線。直撃すれば骨も残るまい。


「……桁外れにもほどがある」


<不抜>で防げるか? 浮かび上がった疑問を試す気にはなれない。

 繰り出された熱線はそれほどのものだ。

 更に溜那は全身を躍動させ、絡まりつく鎖を振り払う。拘束は解かれ、しかし刹那の無防備が生まれる。

 距離を空けるには十分すぎる。取り敢えず考える時間が欲しい。甚夜は後方へ飛び退き、だがやはり動きは相手の方が上、溜那はそれを虚ろな目で追い。

 再び、甚夜に向けて口が開かれ。 


「うらぁ!」


 粗雑な掛け声が響く。

 突如と飛来した大きな瓦礫に、今度は彼女が弾かれたように退く。

 瓦礫程度当たった所で傷には成り得ないだろう。彼女が避けたのは、良すぎる反応故に。殆ど反射に近い動きでそれを避けていた。

 投げたのは、当然井槌である。どうやら今まで機を見計らっていたらしい。おかげで甚夜は悠々と距離を空けることができた。


「すまん、助かった」

「どうだかな。……悪いが、俺じゃ割り込めそうにねえ。ちくしょう、こんな時に岡田の野郎どこいってやがんだ」


 無力感に苛まれ、悪態にも力はなかった。

 ある意味当然だろう。ガトリング砲を失った今、井槌は単なる下位の鬼に過ぎない。

 溜那を相手取れるほどの身体能力も技もなく、できた援護もそこいらに転がっている瓦礫を投げ付けるのが関の山。この状態で平然としていられる程、井槌の面の皮は厚くなかった。

 それでも助かったことには変わらない。甚夜は素直に感謝し、溜那に目を向ける。

 二者の距離は開いた。彼女が次の動きを見せる前に、すぐさま<犬神>を放ち纏わりつかせる。

 更に<地縛>、四肢に枷を填めた。溜那の意識は跳ね回る黒い犬に向けられている。これで多少の時間は得られた。

 まずは一息、次に取るべき方策を練る。


「んで、どうするよ鬼喰らい。嬢ちゃんを、斬れるのか?」


 井槌は無遠慮に、殊更無関心を装い、投げ捨てるように言った。

 その言葉には二つの意味が含まれている。

 物理的に、そして心情的に。

 お前の刃は届くのか。届いたとして、守りたいと願った者をお前は斬れるのか。

 投げやりな物言いは甚夜の心境を慮ってのもの。

 しかし今更迷いはない。突き付けられた問いに、甚夜はきっぱりと断言する。


「斬らん。あの娘を、守ると決めたのだ」


 意外な返答に井槌は表情を曇らせた。

 甚夜にとっては一緒に暮らしてきた相手だ、気持ちは分からんでもない。だがここで溜那を討たねば被害は帝都中に広がる。

 残念だが“大切な相手だから”と見逃せる状況ではないのだ。


「そら、気持ちはわかるがよ。そんなこと言っている場合じゃ」

「考えなしではないさ……方法ならば、一応はある」


 気負いなくそう告げた。

 現状を打開できそうな方法は一応ある。

 とはいえ推論に推論を重ねて辿り着いた手立てだ。実際に効果があるかどうかは試してみるまで分からない。

 だとしても、やるしかない。


「マジか?」

「さて。実際に出来るかどうかは、試してみねば分からん」

「不安になる物言いじゃねえか。どうするつもりだ?」


 曖昧な態度に一抹の不安を覚えたのか、井槌は眉間に皺を寄せる。

 しかし甚夜に動揺はない。静かに一呼吸、心を落ち着け淀みなく語る。


「<合一>───<同化>、<御影>、<古椿>。三種合成。<同化>で繋がり<御影>と<古椿>で溜那を操り、暴走を止める」


<同化>

 普段は鬼の<力>を喰らう為にしか使わないが、その本質は文字通りの同化。他者と己を繋げる<力>。


<御影>

 対象を傀儡と化し、肉体を操る<力>。


<古椿>

 忘我へと追いやり人を制御する。即ち、人間を操る<力>。

 

 三種の複合をもって溜那を操る。

 為すべきことちゃんと見えている。後は最善を尽くすだけ。

 伸るか反るか、あの娘を救う可能性があるというのならば、先の見えぬ博打に興じるのも偶には悪くないだろう。


「上手く、行くのか?」


 信じたい、しかし信じられない。

 井槌は曖昧に目配せをする。これで断言してやれるのならば多少は格好がつくのだが、生憎とそこまでの確信は持てない。

 だから肩を竦めて返す言葉は、ひどく頼りないものだった。


「それも分からん」

「おいおい……」

「仕方ないだろう、そもそも三種合成など初めて、<古椿>も試したことがない。……だが決して無謀ではない筈だ。秋津染吾郎が、稀代の退魔と謳われているのならば」

「は?」


 なにを言っているのだ、この男は。

 何故いきなり秋津染吾郎の名が此処で出てくるのか、井槌は目を丸くする。

 まったく関係ない様に思える二つの事柄。

 しかし甚夜にとっては十分に意味があった。





 南雲叡善の目的は南雲家の再興、並びに退魔の復権だった。

 大正の世に至り価値を失った退魔。その存在価値をコドクノカゴ、南雲にしか倒せぬあやかしを産み出すことで高める。


 しかし其処には陥穽がある。

 秋津染吾郎は稀代の退魔と謳われた。端的に言えば、南雲よりも強い。

 であれば、南雲に倒せるあやかしならば、秋津にも倒せて然るべき。その時点でコドクノカゴは“南雲にしか倒せない”という最低条件を満たすことができない。

 そもそもの話として、南雲叡善の目論見は、南雲が退魔の頂点でなければ成り立たないのだ。

 

 ならば、どうすれば条件を満たせるのか。

 南雲よりも強い退魔でさえ討てぬあやかし。しかし南雲ならば倒せる。

 コドクノカゴはそういう存在でなくてはいけない。

 つまりは他の退魔に討てなくとも南雲には討てるよう、弱点が設定されている筈。

 そうでなければ南雲叡善の目論見は達成されない。


 

 それが大前提。

 その上で幾度も仮説を立てては棄却し、甚夜はふと考える。

 何故、南雲叡善はコドクノカゴを作るうえで、溜那を弄り器へと仕立てあげ、そこに化生を降ろすという回りくどい方法を選んだのか。

 マガツメの娘を捉え、その技術を手に入れたというのならば。

 突き詰めていけば、自身が望んだ通りの鬼を造ることも出来た筈だ。

 なのに何故。

 思索を深め、可能性を浮かべては消す。 


『コドクノカゴが強すぎれば南雲でも倒せなくなる。弱すぎれば、退魔ならば誰でも討てる。この矛盾をどのようにして解消すればいいのか』


『なぜ無から鬼を造らなかったのか』


『叡善の目的の為には、ある程度コドクノカゴの行動は操作できなければならない。奴は一体どうするつもりだったのか』


 倒せない敵を倒す方法。態々手間をかける理由。操作する……操作、あや、つる?

 そこまで考えて甚夜は唐突に理解する。

 ある。

 ちゃんと存在している。

 今迄の矛盾をすべて、一気に解決する方法が。 


「倒せない敵を倒す方法……簡単だ。相手が、“負けてくれればいい”。その為に、古椿はいた」


 コドクノカゴは鬼ではなく、人が鬼を降ろし怪異と化した存在。

 起点はあくまでも人だ。

 これならどれだけ強くなっても構わない。他の退魔どころか、南雲を越える程の力であっても差し支えはない。

 なぜなら南雲には従順なしもべと為った古椿がいる。

<古椿>は人を操る<力>。

 つまり叡善は初めから、コドクノカゴの人としての部分を操る腹積もりだった。

 だから人に鬼を降ろすなどという回りくどい真似をした。

 生まれた怪異は南雲より強い退魔には倒せないが南雲ならば討てる。彼等が操っているのだ、討てて当然だ。

 最初から操っているのだから行動の制御も容易。

 南雲叡善の目論見は全て繋がっていた。

 だとすればおそらくは出来る。

 目の前にいる化生がコドクノカゴであるのならば。

<古椿>を使えば、溜那の部分を操れば止められる筈だ。


「すまん、どういうこった?」

「説明している時間はない。お前にも力を貸してもらうぞ」

「お、おう。訳分からねえが……嬢ちゃんを助けるってんなら手伝うさ」


 問題は、マガツメの娘の<力>は甚夜が喰らった時点で劣化すること。

 補強の為の<同化><御影>だが、何処まで操れるものか。

 なにより<同化>と<古椿>は相手に触れねば発動できない。

 その上、発動の瞬間は完全に無防備。桁外れの化生となった溜那相手に、それだけの隙を晒す。

 更にはよしんば成功したとしても、人に戻せる訳ではない。

 暴走状態を抑え、自我を取り戻したところで、彼女があやかしへ堕ちた事実は変わらない。

 ちょうど人の姿で生きる甚夜と岡田貴一らと同じような存在になるだけだ。

 懸念は幾つもある。敗色濃厚、勝っても見返りは少ない。

 だが、それを含めての博打。今更手を引くつもりはない。


「こちらには他の<力>を使う余裕がない。僅かな時間でいい、溜那の気を引いてくれ。近付き触れられれば片が付く」

「下手したら死ぬな、それ。いや、やるけどよ。芳彦先輩にも頼まれちまったしな」

「悪いな」

「いいさ」


 ふうと大きく息を吐き、自身の頬を力強く叩き、井槌は気合を入れ直した。

 甚夜も静かに呼吸を整え、溜那をじっと見つめる。



『じいや……』



 あの娘の声が、聞こえたような気がした。

 ならばいつまでも立ち止まってはいられない。

 何一つ守れなかったと嘆いていた日々は既に終わったのだ。


「溜那、待っていろ。……今助ける」


 助けると、言葉にする。

 逃げ道を塞ぐように、揺らいでしまいそうな覚悟の輪郭を縁取るように、はっきりと。

 深く息を吸う。埃っぽい空気が肺に満ちる。

 一気に熱を吐く。もう迷いはなかった。


「うらっ、よっとぉ!」


 井槌は既に動いていた。<地縛>も<犬神>も消え自由になった溜那の前に躍り出て、唯一誇れる膂力をもって大きな瓦礫を投げ付ける。

 勿論、そんなものが溜那に通じる訳もない。

 だが一瞬でも気が逸れれば上等、後はひたすらに距離を取る。

 あまりに滑稽な方法ではあるが、今は格好を気にしている場合ではない。

 どんなに無様でも、役目は果たす。井槌にとっては命懸けの戦いだった。


「有難い」


 小さく感謝の言葉を漏らし、甚夜は溜那の死角から全力疾走する。

 操るならば思考を司る頭部、そこに触れれば決着がつく。

 あまりもたもたしていると井槌が死ぬ。しかし<疾駆>や他の<力>を使って肝心の一手の精度が鈍っては元も子もない。

 逸る気持ちを抑え、ひたすらに走る。

 まだ溜那の意識は井槌に向いている。

 あと少し。

 もうほんの少しだけでいい、近付ければこの手が届く。

 最後の一歩に力を込める。

 そして跳躍、甚夜は溜那へと目掛けて───






















 最上の戦術とはなにか。

 ある者は答えた。


『漁夫の利。手を汚さずに戦果をかっさらうことだ』


 またある者はこう答えた。


『奇襲。相手が気付かぬうちに全てを終わらせればいい』


 中には目先の勝利に拘らない者もいる。


『うまく負け、うまく逃げること。衝突の回避は勝利よりも価値がある』


 最上の戦術とは何か。

 無論、これは明確な答えのない問いだ。

 何を最上とするかは人によって変わり、そこに優劣はない。

 故に、この答えもまた、一つの意見でしかない。


『最小の労力で相手の最大を潰すこと、かな』


 自身の損害は可能な限り小さく、相手の損害は可能な限り大きく。

 それこそが最上の戦術だとある者は言う

 分かりやすく例を挙げて言うのならば、最大を潰す最小というのはこういうことである。


『んー、そうだね。つまり気力は充実、準備万端。絶好の機会を逃さず、完璧な状態で走り出した人がいるとする』


 最上の戦術とは何か。

 その問いに。


「……そういう前しか見てない人の、“足を引っ掛ける”こと。ボクは、それが最上の戦術だと思っている」


 吉隠は、そう答える。

 甚夜は全力で走り抜け、全霊で跳躍し、必死に溜那へと手を伸ばす。

 もはや途中で止まることは出来ない。

 そういう状況を見計らって、吉隠は姿を現した。

 全力で走ったものの足を引っ掛けて転ばせれば、もう立ち上がれない。

 絶好の機会を潰した理由がほんの小さな横槍だとしても。

“次の機会”などというものは、決して訪れないのだ。


「なっ……!?」


 だから、思考が固まる。

 突如として中空に表れた黒い瘴気は、凝固し槍と為った。

 数は六本。決して多くはないが、全て前方から迫り来る。跳躍した瞬間を狙われた。空中では身動きが取れない。

 あれを受ければ、溜那に手は届かなくなる。

 しかし避けてもそれは同じ。

 例えば、<疾駆>ならば発動の瞬間ならば空を蹴って走り出せる。避けること自体は可能。

 可能、だが。


『お、おぉぉぉ』


 溜那に、気付かれた。

 この状況で“空を蹴って”黒の槍を躱したとしても、代わりに至近距離で無防備を晒すこととなる。

 今もって彼女の目は、確実に甚夜を捉えている。

 ゆっくりと、咢は開かれ。

 次に来るのは恐らくあの熱線。

 槍を避けても熱線に焼かれる。避けなくても身動きが取れなくなれば同じ。

 完全に間合いを外せば、今度は吉隠が参戦する。もう溜那を救う機会は得られない。

 つまりは詰み。避けても避けなくても甚夜の目論見は潰れる。吉隠はそういう瞬間を狙いすまし突いた。

 立ち行きのいかない袋小路。

 どうすればいい。

 窮地を前にして、思考はいやに澄んでいた。

 本当は考えるまでも無かったからかもしれない。


『貴方はいつまでも此処にいられる人じゃないよ』 


 行くも地獄、退くも地獄。

 ならば選ぶ道は決まっている。


『だって甚太は私と同じだから。貴方は自分の想いよりも自分の生き方を優先してしまう人。だから立ち止まれない。今まで貫いてきた生き方を変えられない』


 遠く、耳を擽る懐かしい声。

 ああ、そうだ。

 長くを生きた。色々なことを学び、色々なことを知った。

 けれど、結局不器用なまま。生き方だけは曲げられなかった。


 だから選択肢など最初から決まっている。

 何を選んでも間違いだというのなら“真っ直ぐ”だ。

 溜那を助けると決めた。

 そこからは揺らげない、それだけは曲げられない。


「……<疾駆>」


<合一>の精度を気にして温存していたが、これを乗り切らねばお話にならない。

 誰よりも、なによりも速く。

 かつてとある女が抱いた、夫の下にはやく帰りたいという願い。

 今なら彼女の心が少しは分かる。

 はやくあの娘の下へ。頭の中はそれしかない。

 甚夜は<疾駆>を使い、空を蹴り、人ならざる速度で一気に駈け出す。



 避ける為ではなく、前方から迫る槍に、自ら当たりに行った。



「ずっ、あ、がぁ……!?」


 全身を走る激痛、意識が飛びそうだ。

 けれど避けない、すべて受ける。代わりに最短距離は貰う、勢いも殺させない。

<疾駆>で加速し、その慣性を維持したまま溜那へと肉薄する。

 体中の筋肉が断裂し、神経が抉り出されるようだ。

 尋常ではない痛み、噴出する血液。しかしここで意識を繋ぎとめれば、溜那の熱線よりもはやく手が届く。


『じぃ、おおおおおぁあああぁ』


 開かれた口。先程と同じく、光が集まる。

 体はもうほとんど動かない。

 間に合うか。

 手が届けば。

 あと少し。 

 あと少し手が届けば、それで。

 最後の力を振り絞り、甚夜は精一杯手を伸ばし────








 ─────意識が、白色の光に呑み込まれた。








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