『妖刀夜話~鬼哭~』・4(了)
どうということのない、昔話である。
とある集落での一幕。
鬼の血をもつ巫女は狂い、民を襲う。
暴れ狂う怪異の前に立ち塞がるは集落の守り人。
今は昔と語られる、ありきたりな英雄譚。
すれ違い、報われることのなかった、小さな小さな想いの欠片。
◆
『……所詮、鬼は鬼ということだ。貴方を想う心すら薄汚れて。今となっては双眸に映り込む全てが醜いと感じられる』
蝋燭の灯りが風もないのに揺れる。
朱塗りの社で向かい合う二人。重苦しい静けさが鎮座する本殿からは、以前のような心地好さはまるで感じられなかった。
ぎしりと板の間が鳴った。或いは、本当に軋んだのは二人の間にあるなにかだったのかもしれない。
『もはや葛野の為には祈れない。望みは一つ、焼け爛れ燃え尽きる人々の姿。火の神を崇める産鉄の民ならば、焼かれ死ぬも本望だろう』
夜風は諦めたように虚空を眺めていた。
事実、彼女は諦めたのだ。巫女には戻れず、元治の妻としても在れず。今まで確かに幸福だと感じた全てを、憎しみの為に捨て去った。
彼女は既に一個の鬼。生き方なぞ、曲げられる筈もなく。
鬼として、己が望みのままに生きて死ぬ。それが本懐と彼女は語る。
『そうやって憎しみのままに滅ぼすってのか、かえで。誰よりも葛野を愛したのはお前だろう。そのお前が』
何故、と元治は縋るような心で問う。
けれど知っている。その問いに何の意味もないことは初めから、彼女の夫となったその時から知っていた。
『そうだと言った』
だから彼女の答えもまた、最初から知っていた。
『この身は悪鬼へと堕ち、此処に守り人が在る。ならば如何な問答も、譫言と然程変わらぬ。……そういう約束だったでしょう、元治』
覆らぬ条理だ。
もしも、いつきひめが集落に仇なす怪異へと堕ちるのならば、巫女守は火女を斬らねばならない。
彼女の願いは一つ、集落に住む全ての者の死。
白雪も、甚太も鈴音も。元治すら要らぬ。
ならば巫女守として、父として……なにより彼女の夫としても、止めねばならない。
そんなこと最初から分かっている。
分かっているのに、弱気の虫が顔を出す。
『……なんでだ』
元治の声は震えている。
夜風は鬼へと堕ち、集落を壊そうとしている。
だから巫女守として斬る。彼女自身それを願い、約束を交わした。
もしもの時はこの手で止めると、ちゃんと約束した。
だというのに出てくる言葉は、ひどく弱くて。腰に携えた刀を抜くことも出来ず、俯き立ち尽くしていた。
『なんでお前は何も言ってくれなかったんだ……。一言、一言でよかったのに。“私の味方をしてくれ”って、“一人は嫌だ”って。そう言ってくれさえすれば』
お前がそう言ってくれたなら、幾らでも死体を積み上げた。
一緒になって、目に映る全てを滅ぼしてみせたのに。
馬鹿な考えだ。そもそも夜風はそんなことを望んではいない。
かつて愛したものを、憎むようになってしまった。
醜悪に捻じ曲がってしまった己を斬り捨てて欲しかった。
そして、叶うのならば。
それが誰よりも愛した人であってほしいと、彼女は願ったのだ。
『……ああ、やはり。私は貴方を巫女守に選ぶべきではなかった』
夜風の心を知りながら、それでも味方でいたかったのだと元治は嘆く。
そんな彼だから、ほんの少しだけ胸にはしこりが残る。
彼女のたった一つの後悔は、元治を選んだこと。
集落で一番腕が立つから。その程度の理由で護衛役を任じた。
ただ彼は、少しばかり敬意というものが足りないらしく、いつきひめである夜風に対して遠慮やら気遣いといったものを持ち合わせてはいなかった。
感情を露わにすることの少ない夜風と、直情的な元治はよく衝突した。
数えきれないくらい喧嘩をして、それでも彼はいつだってまっすぐで。
衝突を繰り返したからだろう。いつしか殻は壊れて、奥に隠れていた今迄誰も見ようとしなかったものを、彼だけが見つけてくれた。
それを幸福と呼んだことも、確かにあった。
『かえで……俺は、お前を』
だけど、もうおしまい。
言葉を返すこともない。ただ冷酷に見据えれば、元治は口を噤んだ。
彼だって本当は分かっている。
元治は夜風を愛した。愛したから、彼女の愛する葛野を守りたいと願った。
守りたいと願ったから、巫女守の本当の役目を受け入れた。
受け入れたからには夜風を斬らねばならない。
もしもお前が鬼と堕ちるならば、その時はこの手で。
それが元治の誓いであり、夜風との約束。
彼が夜風を愛したというならば。
斬る以外の道は初めから存在していないのだ。
“神様、神様。どうか私のお願いを、叶えてください”
だから願う。
俯き震える元治の姿に、夜風は静かに祈りを捧げる。
もはや葛野の為には祈れない。彼女の祈りは、ただ元治の為だけに。
彼は私を愛してくれた。想いは今も変わらず、優しい彼は私を斬りたくないと思っていることだろう。
そんな彼を、やはり彼女も愛した。
集落の民への憎しみは消えず、けれど彼を傷付けるのは不本意だ。
せめて、彼が少しでも傷付かないように。
夜風は醜い化け物になりたいと願った。
人を殺すことになんの疑いも持たず、存在するだけで災厄を呼び、誰からも憎まれる害悪。
もしも神様がいるというのなら、この身をそういう醜悪な異形へと変えてください。
そうすればきっと、私の愛する貴方は。
役目を果たしても、悲しまないで済むから。
だから願う。
私は、醜い化け物になりたい。
切り捨てた貴方がそれを後悔しないように。
あんな化け物、死んで当然だと思えるように。
転がる死骸を見て、涙を流さないように。
私がいなくなった後、それでも続いてく日々が。
───あなたにとって、しあわせなまいにちで、ありますように。
巫女の切なる祈りは成就する。
体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。
揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。
もともと、鬼とはそういう生き物。なにより彼女の<力>はそういうものだ。
こうしてありきたりな英雄譚は、最後の局面へと辿り着く。
いつきひめの社は、突如として現れた鬼に襲撃された。当代の巫女、夜風は鬼に食われたらしい。
それを止める為に集落の守り人、巫女守は鬼へ立ち向かう。
息子を娘を守り、己が命と引き換えに、強大な鬼を封じたという。
……つまりは、どうということのない昔話である。
夫婦は変わらずに愛し合い、けれどそのままでいることは出来ず。
ありふれた悲恋、ありきたりな英雄譚を経て妖刀には逸話が付加される。
“鬼を封じた刀”。
後代の者にとって、鬼哭の妖刀を表すにはその一文が全て。
そこに在った筈の想いは、誰にも知られぬまま、長い長い歳月に果てに消え去った。
◆
今は昔と語られる、古臭い英雄譚は歳月に押し流された。
辿り着いた現在、夜風の<力>は此処に顕現する。
「神降ろし……古き時代の巫覡の力か。まさか大正の世で見るとは思わなかった」
吉隠のあれは<同化>のような鬼の<力>とは違う。
半月の持つ、器としての特性。
神の託宣を受ける為、或いは疫病や災害を鎮める為に、対応する神霊・悪鬼をその身に降ろす。
近代化に伴い廃れてしまった、万象に宿る霊威と繋がる“かんなぎ”の業だ。
「せーかい。流石に江戸生まれだね、甚太くん。ボクも知ってるとは思わなかったや」
“甚太”という名称を使ったからには、夜風の記憶もある程度継承しているのだろう。
何処の馬の骨とも分からぬ軽薄な鬼が、葛野の為に尽くした義母をその身に宿し、<力>と記憶を手にする。
目の前の現実に、甚夜は知らず奥歯を噛み締めた。
「ボクはミヅチの巫女。霊威を降ろし、その力を引き出すなんてお手の物。多分それ用に弄られた溜那ちゃんよりも上手いんじゃないかな」
何気ない声に、全てを踏み躙られたような気がした。
無論、甚夜は鬼哭の妖刀に纏わる義父母の物語の全てを知っている訳ではない。
何故、夜風が鬼へと堕ちたのか。どのような気持ちで元治は彼女を封じたのか。そんなもの、神ならぬ彼では知りようもない。
それでも遠い雨の夜を思い出す。
衝動的に家を出て江戸から離れ、けれど行く当てもなく、路頭に迷い雨に打たれて。 そんな馬鹿な子供に、元治は手を差し伸べてくれた。夜風は受け入れてくれた。
優しい義父母の想いを踏み躙った。それだけで、怒りを覚えるには十分すぎた。
ぎろりと、隠すこともせず吉隠を睨み付ける。
長い間マガツメにしか向けられなかった憎悪の感情が、ふつふつと沸いてくるのを甚夜は自覚した。
「分からないな」
しかし怒りに任せ、不用意に仕掛けるような真似はしない。というよりも、できない。
身体能力はあちらが上。南雲叡善の操った黒い瘴気もある。ここにきて彼我の戦力差が浮き彫りとなった。
甚夜とてそれなりに修羅場は越えてきた。だから分かる。
「え、なにが?」
真っ向勝負なら十中八九負ける。目の前で朗らかに笑う吉隠は、それほどの難敵だ。
岡田貴一、マガツメ。かつて甚夜に土を付けた彼等と比肩するもしれない。
だとしても逃げるという選択肢はなかった。
溜那を狙っている以上逃げたところで意味はない。なにより、あれだけ抜け目のない輩が、易々と逃がすような下手は打つまい。
つまり生存と打倒は同義。生き残る為には、あれを打ち倒す必要がある。
「全てが、だ。夜風さんを喰らい、溜那を狙い、態々私の前に姿を現す。いくらこの娘が愛らしいとはいえ、“嫁にしたい”が本音でもないだろう。……私には、お前の意図が読めん」
腰を僅かに落とし、脇構え。相手の一挙手一投足に注意を払う。
甚夜は小刻みに間合いを調整しながら、吉隠へ疑問をぶつける。
元治の刀を奪い、夜風をその身に降ろし、溜那を嫁にするなどとほざき、甚夜の前に立ち塞がる。
こちらを愚弄し、挑発しているとしか思えない行動。そこには明らかに甚夜への悪意がある。だからこその問いだった。
「えー、溜那ちゃん狙いは結構本気だし、意図って言われても……あ、もしかしてアレ? ボクがキミに恨み持ってて、その復讐でこんなことしてるとか思ってる? あはは、ないない。鬼喰らい、キミって案外自惚れ屋さんなんだね」
しかし吉隠は軽い調子を崩さないままに一蹴した。
大した意図はない、お前に恨みがある訳でもない。語り口や所作は相変わらず演技染みてはいるが、その眼に暗い色はなく、それが嘘ではないのだと知れる。
「復讐みたいなねちっこいのは、あんまり好きじゃないんだ。だからまぁ、こういう形になったのは偶然だよ」
それだけに、次の言葉に脳を揺さ振られた。
「けど、面白そうくらいは思ってたかな」
平然と口にした言葉はやはり嘘がなく、あまりの軽さに思考を止められる
気負いのない吉隠の立ち振る舞いが、何故かひどく癪に障った。
「ボクはただ大正の世には不満があって、覆す為の力が欲しかっただけ。あとのことは趣味とか娯楽とか、そういう個人的な嗜好だよ。キミが憎いから苦しめてやろう、なんてつもりはないんだ」
大正の世に一石を投じたい、その為の力が欲しい。
しかし偶然にも、求めた力は甚夜の義母であり、それを封じたのは義父だった。
偶然にも、手を組んだ南雲の爺様は彼と敵対していた。
偶然にも、前々から狙っていた女の子は彼の下にいった。
そうやっていくつもの偶然が重なった。折角だから目的のついでに楽しもう、その程度の考えしか吉隠にはなかった。
「ならば、お前は」
「分かりにくかった? 恨みなんて何一つない、ただ楽しそうだからやってみただけ。実際結構楽しかったしね」
つまり全ては自分が楽しむため。
元治の想いを踏み躙り、夜風を喰らったことも。
そうやって得た力をわざわざ見せびらかしたことも。
必要性や効率を考えたものではなく、ただの暇潰し。娯楽に過ぎないと吉隠は言ったのだ。
「あはは、そうそう、それが見たかったんだ。キミのお義父さんが必死になって封じたお義母さんをボクにとられて、内心ムカムカしてるくせに冷静ぶってる君の顔はすっごく笑えるよ?」
本当に、心から楽しそうに、吉隠は声を上げて笑う。
心の奥底からどろりとした感情が込み上げてくる。勤めて冷静であろうとはしているが、果たしてそのように振る舞えているのか。
甚夜には、自分が今どんな顔をしているのか分からない。
「そんなことの為に、鬼哭の妖刀を欲したというのか」
「そんなことって失礼だなぁ。毎日を楽しく生きようとするのは当然でしょ。復讐だとか言ってるよりよっぽど健全だと思うけど。後ろばっかり見てないで、ちゃんと前を向いて歩いて行かないとね」
くすくすと見た目には柔らかく、しかし口元を小さく歪め吉隠は嘲笑する。
無意味な復讐に身を窶すお前よりは遥かにマシだと、言葉にはせず語っていた。
ああ、本当に苛立たしい。
確かに吉隠の悪意は甚夜へ向けられていた。しかしそれは因縁に起因するものではない。
意味はないけれど人の持ち物に傷をつける。女の子のカバンにセミの抜け殻をいれる。そこいらの壁に落書きをする。
吉隠の悪意はそういう、子供がするような無邪気なもの。
つまりこの鬼は、ちょっとした悪戯気分で、元治と夜風の想いを踏み躙ったのだ。
「成程、正論だ」
もはや語ることはない。
苛立ちは頂点にまで達していた。ここまでの昂ぶりは久しぶりだった。
マガツメに対する憎しみとは違う。しかし濃密な憎悪が甚夜を急き立てる。
あれを殺せと、全身の細胞が叫びをあげていた。
「だが気に食わん。二度と戯言を吐けぬよう、ここで死んでいけ」
身を屈め、一気に駈け出す。
地を這うような疾走は、並みの使い手ならば反応さえ出来ない速度。ただし何の警戒もせず、ただ速いだけ。
甚夜の目には明確な殺意。逆に言えば、そこには殺意しかない。衝動に突き動かされた、感情に任せた無謀な突進に過ぎない。
「甚太くんってば、昔っから変わらないなぁ」
元治から聞いた通り、すぐかっとなる直情的な性格だ。こんな安い挑発で我を失うのだから。
吉隠は鬼喰らいの愚かさをせせら笑い、銃口を合わせる。
躊躇いなく絞られた引き鉄。たんっ、と軽い音が響き放たれた弾丸が甚夜の額に突き刺さった。
そしてすり抜け、甚夜の姿が陽炎のように消え失せる。
吉隠の余裕は、一瞬にして戸惑いへと変わる。
怒りに任せて突っ込むなぞ、そんな若い時分はとうに過ぎた。
<隠行><空言>、同時行使。
姿を消し、幻影の己をもって攻め入る。
所詮はまぼろし、傷を与えられる訳もない。しかし虚を突ければ十分。その隙に背後へと回り、<剛力><飛刃>、特大の斬撃を放つ。
隙だらけの無防備な背中に、致死の一手。
しかし届かない。
黒い瘴気が鞭となって飛来する斬撃を叩き落す。
致命傷どころか掠り傷さえ与えられなかったが、振り返った吉隠の顔には明らかな動揺がある。
「あんな演技に騙されるとは。存外に単純だな、吉隠」
「……ずるいなぁ、後ろからとか卑怯じゃないか。鬼は嘘をつかないのが鉄板のはずだろ?」
「元より尋常の勝負でもなかろう。卑劣、卑怯大いに結構。お前の首を取れるなら、その程度の誹り安いものだ」
今度は甚夜が吉隠を見下し、あからさまな嘲笑を浮かべて見せた。
すぐさま溜那へ向けて静かに指示を出す。
「溜那、逃げておけ。“これ”を片付けたら直ぐに追う」
「んっ」
頷いて、一瞬の躊躇いもなく溜那は走り出す。
彼女自身も分かっているのだ。吉隠は、自分を守りながらでは戦えるような安い相手ではないと。
だからこそ脇目も振らず逃げる。
目指す先は暦座、あそこにならば井槌がいる。爺やも多少は安心して戦えるだろう。
「……言ってくれるじゃないか」
物扱いをするような甚夜の言葉が癪に障ったのか、吉隠は表情を歪めた。
溜那を追うことはせず、反撃に転じる。近距離での格闘と銃撃の複合、更に黒い瘴気を組み合わせた技。確実に殺そうと襲い掛かる。
それは寧ろ望むところ。甚夜もまた仇敵を見据え、振るう刀に絶殺の意を込めた。
内心、甚夜は安堵していた。
溜那は頭のいい娘だ。ちゃんと暦座まで逃げるだろう。それが、安堵の半分。
もう半分は、吉隠が甚夜を殺そうと狙い定めてくれたことに対してだ。
どれだけ大口を叩いたところで、こちらの力量が下だという事実は変わらない。
逃げに回られては追い縋れず、溜那を狙われれば守りきれない可能性の方が高い。
だから相手が甚夜のみを狙う今の状況は寧ろ有難かった。
更に今の一合で多少なりとも苛立ち、どんな手を使ってくるか分からない奴だと刷り込むことも出来た。
打込んだ楔は後々になって効いてくる。不利は変わらず、しかし出だしは上々といったところか。
劣った実力は他の部分で補わねばならない。
虚を突き、冷静さを奪い、思考する時間を与えない。つまり吉隠との戦いは、情けないことだが、どれだけ相手の足を掬えるかにかかっている。
「ちぃ」
「このっ」
交錯する刃と銃弾、繰り広げられる攻防は熾烈を極めた。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。
既に十数合の死線を乗り越え、尚も甚夜は止まらない。
踏み込むと同時に<疾駆>、剣戟の瞬間のみの<剛力>。複数の<力>と体術を組み合わせ、<合一>を駆使し、息を吐く暇もないほどに攻め立てる。
夜来を振るい、<地縛>や<犬神>を放ち、<血刀>で攻め手を増やし。
───それでも尚、戦況は拮抗していた。
使える手札の殆どを晒しておきながら、僅かな一瞬さえ吉隠を出し抜くことができていない。
そもそも身体能力ではあちらが上、更に黒い瘴気がある。抜け目ない戦術も厄介。
相手が格上と理解はしていた。だが、まさかここまでとは。
表情は変わらず冷静を演じてはいるが、胸中には焦りが芽生え始めていた。
「ああ、もう。キミは本当に厄介だね!」
立ち昇る硝煙、銃弾は空しく空を切る。
皮肉なことに、焦りは吉隠も同じだった。
夜風をその身に降ろし、実力を上げたつもりでいた。事実、並みの鬼なぞ歯牙にもかけぬ力を吉隠は得たのだ。
にも拘らず、甚夜は喰らいついてくる。
ここまで力量を上げながら、圧倒できない。それほどまでに強大な敵。
いつの間にか吉隠の表情からは、演技染みた笑みが消えていた。
「いい加減、大人しくしてほしいものだが」
「それはこっちのセリフだってば」
軽口を躱しながらも、繰り出すは互いに致死の一手。
甚夜には見た目ほどの余裕はない。銃弾も黒い瘴気も当たれば致命傷、通常よりも大きく回避せねばならず、そのせいで踏み込み切れていない。
自然、動作は僅かながらに大きなものとなり、隙は生まれる。
ぎらりとした眼光は猛禽のようだ。崩れた体勢、狙いすましたように吉隠は蹴りを放つ。
「づっ……!」
左腕で何とか防ぐも、骨が軋んだ。
現状は、拮抗している。焦燥は互いに同じ。
しかし其処にも格差はあった。
甚夜の焦りは「僅かさえ上回れない」から。
吉隠の焦りは「圧倒できない」から。
胸に在る感情は同じでも、意味合いが違う。あくまで力量は吉隠が上。故に、焦りながらも、精神的にまだ余裕があり。
「駄目だ。キミ、強いや」
だから吉隠は相手の強さを認め、僅かな隙を見計らって大きく退く。
真っ向勝負ではなく、別の手段をとる。甚夜にはない余裕が奴に選択肢を与えた。
拮抗はあくまでも動揺があってこそ。一度でも冷静になられれば、本当に勝ち目はなくなる。
逃してはならない。多少の手傷は覚悟の上。<疾駆>を用い、一気に距離を詰めようとして。
「ごめんねー、皆。協力してもらうよ」
だが連続する銃声に、驚愕に足を止められた。
「な……」
吉隠は演技染みた笑みを取り戻し、銃弾を放ち続ける。
驚愕に一瞬呆けてしまう。自分へ向けられた攻撃なら反応することも出来た。
しかし銃口は甚夜にではなく。
「いぎゃあ……!」
「ひぃ」
「助け、てっ」
地震が治まり、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた人々へと向けられていた。
鉛弾が死骸を増やしていく。
倒壊した建物から逃げ遅れた人を助けようとしている男。
町中で殺し合う甚夜達を遠巻きに眺めていた女。
おとーさん、おかーさんと親の躯に縋りつく子共。
腰を抜かし立ち上がることのできない老人。
関係ない。平等に銃弾は人々を貫き、屍を積み上げていく。
「なにを、しているっ……!」
突如として行われた虐殺。
正気を取り戻し、<疾駆>で距離を詰めて斬り掛かる。
しかし吉隠は何故そんなことを聞くとでも言いたげに笑っていた。
「なにって、見れば分かるでしょ? そこら辺の人を撃ってるの。ほんとは、あんまり人を殺したくないんだけどねー。でも仕方ないや、キミ強いし。つまり間接的には君のせいってことだよね?」
袈裟掛け。横薙ぎ。逆風、可変し、刺突で心臓を抉る。
動きはあくまで小さく無駄を削ぎ落とし、それでも吉隠は紙一重で回避していく。
表情には、張り付いたような笑みが戻っていた。
まずい。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
論的な思考からもたらされた予測ではなく、単なる直感でしかなかった。
それでも甚夜は己の内に広がる嫌な予感を信じた。
折角の攻勢を無理矢理に止め、弾かれたように後ろへ退く。
「<織女>」
結果として、その選択は間違いではなかったが、無意味だった。
退避は僅か数歩に留まる。そこで、甚夜の動きが止まった。
一瞬、なにが起こったのか分からなかった。
しかし皮膚を這いまわる感触に異変を悟る。
手、だ。
自身の体を見れば。墨染めの手がいくつも、全身にまとわりついている。
なんだ、これは。疑問が浮かぶも考えるだけの時間はなかった。
数多の手に拘束され、動けない状態。
それを見逃すような相手ではない。
間に髪をいれぬ追撃。
吉隠を取り巻いていた黒い瘴気は数え切れぬ程の鞭となり、四方八方から振るわれた。
「ちぃ……!?」
銃弾ならば<不抜>で防げた。しかし黒い瘴気に対しては効果が薄いと、叡善との戦いで把握済み。
故に襲い来る鞭を<犬神>で迎え撃つも、あまりに数が多い。
防ぎきれず血飛沫が舞う。気色の悪い風切音が聞こえる度に皮膚は切り裂かれ、鋭い痛みが走る。
それだけでは止まらない。鞭が霧散したかと思えば、今度は収束、凝固していく。尋常ではない密度となった瘴気はまるで鉄塊だ。
止めとばかりに放たれた腹部への一撃。あれを貰ってやるわけにはいかない。
<合一>───<地縛>、<不抜>
鎖を編んで盾に代え、同時に<疾駆>を用い、拘束されたまま一気に横へ飛ぶ。
無惨に鎖は砕け、けれど今度は一歩甚夜が早かった。腹に突き刺るはずだった凝固した瘴気は、脇腹を掠める程度で済んだ。
「ぐっ、が」
思わず苦悶の声が漏れる。
掠めただけでも炸裂するような激痛が全身へと広がる。皮膚が裂け血塗れ。満身創痍でも動けるのならば問題はない。
歯を食いしばり、吉隠を見据えれば、眼前の光景に目を見開く。
黒い瘴気が立ち昇っていた。
それも吉隠からではなく、先程殺されたばかりの人々の体から。
「よく、逃げられたね。正直びっくりしてる」
言葉通り、吉隠は意外そうな顔だ。
あちらにしても今の攻防で終わらせるつもりだった。あの状態から逃げ切った甚夜に対する驚きと、素直な賞賛が目に宿っていた。
そんなものを嬉しいと思う筈もない。あれは、あの<力>はいったい。甚夜の胸中には疑問と焦燥が渦巻いている。
「なんか、すっごい不思議そうな顔してるね。あ、もしかしてキミ。お義母さんの<力>知らなかったの?」
<織女>。はたおりめ、というのが夜風の<力>なのか。
甚夜が鬼としての義母を見たのは、元治が彼女を封じた時のみ。あの巨大な鬼が夜風だというのは分かるが、如何な<力>を有しているのかは知らなかった。
沈黙を肯定と取ったのか、吉隠はこくこくと何度も頷く。
「うーん、そっか……なら教えてあげるよ! 義理とはいえ息子のキミには知る権利があるもんね」
朗らかに笑う吉隠は、傍目にも楽しそうだ。
敵に自身の<力>を教えるなど自殺行為。だというのに、早く語りたいと言わんばかり。紡ぐ言葉は歌い上げるような軽やかさだった。
「この<力>の名前は<織女>。<力>の範囲がすごく広いから表現しにくいんだけど、なんというか、“想いを集めて形に変える力”、って言えばいいのかな? 願いを物理的な干渉に変換する。形のないものに形に形を与える。祈りを現世利益へと還元する。説話に語られた、神に祈りを捧げる巫女の力だよ。後ろ暗い方向でしか形に出来ないんだけどね」
想いを形に変える。
いかにも綺麗な表現ではあるが、その本質は中々に悪辣だ。
吉隠の説明でようやく理解した。
南雲叡善が、吉隠が操った黒い瘴気。あれは想いの塊なのだ。
想いというのはなにも美しいものばかりではない。
後悔無念、悪意殺意、嫉妬憎悪。負の感情もまた、想いであることには変わりない。
<織女>は、自身の、そして他者の想いを取り込んで物理的な干渉へと変換する<力>。
例えば南雲叡善ならば、喰らった人間の。
吉隠ならば、今の今積み上げた屍の。
無惨に死んでいった者達の“無念”を集めて、武器として操って見せた。
物理的な威力を持つにまで至った負の感情。
それが黒い瘴気の正体であり、想いを形にするという<力>の本質。
つまり<織女>とは、比喩表現ではなく、悪意で誰かを傷付ける<力>なのだ。
「でも意外だったな、目の前で見たのに知らなかったなんて」
「目の前で、見た?」
「うん、そう。キミは見た筈だろ? 醜い化け物になって集落を襲うお義母さんの姿を」
記憶の片隅に残る景色。
突如として集落を襲った鬼の姿。
獣のように四足で立ちながら、それでも元治よりも巨大な鬼。
皮膚がなく、筋繊維がむき出しの体。
だらだらと唾液を垂らしながら、餌を探しているのだろうか、ぎょろりとした赤目で周囲を見回している
当時は気付かなかったが、その正体は夜風。義母が、鬼へと堕ちた姿だった。
けれどよく考えればおかしい。
土浦も直次も、自分自身も。人から鬼に堕ちても、あんな化け物染みた姿にはならなかった。
もともと鬼の血が流れていた夜風が暴走したところで、ああなるものなのか。
「あれも<織女>の<力>だよ。彼女は、強く願った。“化け物になりたい。人を殺すことになんの疑いも持たず、存在するだけで災厄を振りまく害悪になりたい”ってね。だから願い通り、そういう存在になったんだ」
浮かんだ疑問は、吉隠のあまりに軽い声で吹き飛ばされる。
夜風が、化け物になりたいと。人を殺したいと、そう願った?
ふざけたことを。
この鬼は、本当に苛立たしい。甚夜は沸騰しそうになる思考を無理矢理冷まし、冷酷に吉隠を睨み付ける。
「何を、馬鹿な……。夜風さんが、そんなことを考えるものか」
「でも実際彼女は化け物になって集落を襲った。それが全てじゃない?」
絞り出した言葉はすぐさま否定される。そこを指摘されれば、口を噤むしかなかった。
吉隠には夜風の記憶がある。甚夜以上に、義父母のことを知っているのだ。
ならば、もしかしたら。差し込んだ疑念が晴れることはない。
「まあ、どっちでもいいんだけどね」
しかし指摘した本人は大して気にした様子もなく、明るい調子でいきなり話を変える。
「どころでさ、気付いてないみたいだから言っておくけど。さっきの話、大事なのは、この<力>を使えばそれに相応しい存在なら化け物に変えられるってことなんだよね」
何の話をしている、とは問えなかった。
本当は何となく察していたのかもしれない。だから、追及することは出来なかった。
「例えば、もともと器として存在する巫女さんとか半月とか……後は、災厄になるよう作り変えられた女の子なんかも」
垂れ流される吉隠の言葉に、思考が凍り付く。
「なら、溜那ちゃんもそうなれるって思わない?」
嫌な予感というやつは、こうも簡単に現実となる。
想像は間違っていなかったと、突き付けられて。
アレがなにを言いたいのか、はっきりと理解してしまった。
「お、まえ……!?」
「あはは、意味もなく自分の<力>を教える訳ないじゃん。その顔が見たかったんだよ」
柄にもなく叫び声を上げるも、それこそが見物だと吉隠は哂う。
ああ、そういうことか。嫁が欲しいという言葉は、確かに冗談ではない。掛け値のない本音だった。
吉隠の目的は最初から。おそらくは南雲叡善の下についていた時から変わっていない。
夜刀守兼臣を手に入れ、そこに封じられた夜風の<力>を得る。その為に、叡善の配下に甘んじた。
溜那を奪い、その身に宿した<織女>で化生へと変える。その為に、徹底してあの娘には手出ししなかった。
求めたのは半身。
共に現世を滅ぼしてくれる、片時も離れぬ伴侶。
吉隠は、溜那をそういう化生に仕立て上げると言っている。
「さて、と。ボク、もう行くね? 今ならまだ溜那ちゃんも遠くに行ってないだろうし」
追えば間に合うかな、などと呑気に呟く。
させるか。瞬時に駈け出そうとして、またも墨染の手に阻まれる。先程よりも数を増やした手が足首を掴み、甚夜の体を完全に固定する。
今度は手だけではない。黒い瘴気は集まり、次第に人の形を成していく。とは言っても下肢はなく、上半身だけ。呻きを上げることもなく縋りつく姿は、地獄の亡者を想起させた。
いや、想起もなにもこれはそういうものだ。死者の無念を取り込み形にしたのならば、まさしく彼等は亡者。理不尽な死、無念に突き動かされ、生者へと群がる存在だ。
「邪魔、だっ!」
「あはは、もう少し出てくるよ。その為に一杯殺しといたんだし。しばらくはそれと遊んでてね。その間に溜那ちゃんのこと口説いてくるから」
振り払えない。いくら斬ろうとも次から次へと沸いて出てくる。
その光景を眺めながる吉隠の表情は、柔らかく、随分と楽しそうだ。事実、楽しいと思っている。無様にもがく甚夜を、心から楽しいと笑っていた
四方八方からしがみ付く亡者を切り裂き、殴打し、振り払う。<疾駆>で逃げようにも数が多すぎる。
吉隠が態々<力>の詳細を教えたのは、娯楽の一環。
“全てを知っていたのに止められなかった。”
そういう状況を作るための演出だ。
このままでは、奴の望む通りの絶望が待っている。
だから早くこいつらを蹴散らし、追わなくては。頭の中はそれしかない。
けれど、背を向けた吉隠は立ち止ることなく去って行き。
その後ろ姿は、完全に見えなくなった。
◆
以前の隆盛は見る影もない。
崩れ去った東京の町を、溜那はひたすらに走った。
逃げたのではなく、今は走り続けることだけが彼女に出来る最良。爺やの邪魔にならない。そうすれば、あんな奴になんか負けない。
そう思って、走って走って。
息は荒れ、疲労から少しずつ足取りは重くなり、ついには立ち止った。
「はあ……」
肺の中に空気を取り込む。
辺りを見回せば見るも無残。咽び泣く声が絶え間なく聞こえてくる。
酷い景色だ。こんなにも簡単に、いろんなものが壊れてしまう。それが悲しいのか、寂しいのか。よく分からない感情に溜那は俯いた。
ああ、でも。今は走らないと。
息も整った。とにかくこの場から離れようと溜那は再び足を前に出そうとして、がっしりと右肩を掴まれる。
この状況で、自分を呼び止めるような人は一人しかいない。
彼が追い付いたんだ。
溜那は笑顔で振り返り、
「や、溜那ちゃん。また会ったね」
浮かぶ微笑みに、恐怖の声を上げた。
妖刀に纏わる物語は既に終わりを告げた。
歳月はあらゆるものを風化させる。今や守り人と巫女の心を知る者は誰一人としていない。
古い物語は、どうということのない昔話と切り捨てられ。
おそらくは、美しかったであろう、二人の想いは。
此処に、新たな化生を産んだ。
『妖刀夜話~鬼哭~』・了




