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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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138/216

『妖刀夜話~鬼哭~』・3




「じいや……」

「大丈夫だ、怯えなくていい」


 溜那の震えは地震だけが理由ではなくなっていた。

 眼前に立つ鬼は嘘くさい笑顔を浮かべている。この場においては、柔和とも取れるその表情が、いやに不気味と感じられる。


「やあ、鬼喰らい。お久しぶりだね」


 揺れる地面に足元さえ覚束ない。

 地盤ごと液状化し、溶けるように消え去る場所さえある。ほんの一瞬で、数多の命が呑み込まれていく。

 次第に大きな地震は治まり、しかし混乱は続いていた。泣き叫ぶ人々、建物は倒壊し道には地割れ、走っていた車はそこかしこに衝突し炎が立ち昇る。

 阿鼻叫喚の様相を示す東京の町で、そいつだけは切り取られたように穏やか。友人にするような気軽さで片手を挙げ、自然体で崩れ去った町並みを眺めている。

 吉隠。

 かつて南雲叡善の配下として在った性別不詳の鬼は、腰に刀を携えていない。奪った夜刀守兼臣は何処へ。

 訝しげに目を細めれば、問うより早く吉隠は早く答える。


「ああ、あの刀なら古結堂……知り合いの骨董屋さん売っちゃった。もう必要ないからね。ついでに、宗司君にキミのことも話しておいたよ。小尋ちゃんを斬った、人に化けた鬼がいるってね。ほんと、可哀想だなぁ。古椿に食われて、何の罪もないのにキミに斬られて。ちなみに聞くけど、女の子を平然と斬るとか、男として思うところってないの?」


 挑発だ、乗るな。

 自身に言い聞かせ、冷酷なまでに鋭い視線で吉隠を見据える。

 黒の学生服に学帽、外套。纏う衣服だけを見れば高等科の男子学生。

 しゃなりとした立ち姿は、線の細い中性的な容姿だからか随分と様になっている。

 どこか演技染みた笑みを浮かべ、こちらを捉える瞳は濁った赤色。軽妙な調子を演じながら、嘲笑うような色が滲んでいた。


「お前は……」

「吉隠。覚えておいてね、名前を聞くのが流儀なんでしょ?」 


 何気なく語られる内容は、お前のことはちゃんと調べていると知らしめる為のもの。

 成程、井槌が何度か漏らしていたが、確かに性格が悪い。自然と溜那を抱きしめる力が強くなった。


「……狙いは溜那か」


 叩き付けた問いに、溜那は強く甚夜へとしがみ付き、吉隠は意外そうに目を見開いた。

 三枝小尋を古椿に喰わせた。藤堂芳彦の腹を抉り<戯具>で操り、叡善の爺に赤瀬希美子を捧げた。

 にも拘らず、溜那にだけは直接的な手出しをせず、それどころか南雲の家から逃げる手伝いまでしてみせた。

 その意味は、いくら考えても分からず。しかし吉隠の目論見として思い当るものはそれくらいしかなかった。


「え、いきなりバレてる? 井槌辺りだったら絶対気付かないのに」


 殆ど当て推量だったが、どうやら間違ってはいなかったらしい。

 吉隠は両の掌を広げ、大げさに驚いて見せる。割に顔はにこにこと作り笑い、ひどく楽しそうだ。


「あ、そっか。だから最近ずっと溜那ちゃんの傍にいたの? 何処に行くにもべったりでさ。キミの目を盗んで会おうと思ってたのに、できなかったじゃないか」

「何が目的だ」

「目的って程大袈裟じゃないけどね。……強いて言うなら。あのね、ボクさ、お嫁さんが欲しいんだ」


 大地震に崩れた町並み、誰も甚夜達の方を見ることはない。

 それほどの災害だ。だからこそ、吉隠の平然とした態度がひどく奇妙に映る。

 声の調子は茶飲み話のような気軽さで、けれどその眼に嘘はなく、僅かな戸惑いに甚夜は言葉を失う。


「花嫁、いいよね。男の子にとっても女の子にとっても憧れの響き。やっぱりかわいい子がいいなぁ、うん」


 こくこくと一人で何度も頷く。

 かと思えば急に動きを止め、じっとりとした、粘つくような視線を甚夜へと投げ掛ける。

 なにを言っているのか、理解できない。

 この期に及んで出てくる言葉が『お嫁さんが欲しい』。ふざけているとしか思えない。甚夜は不快げに眉を顰めた。


「まあ、つまり。ボクの目的は」


 そして次の瞬間、睨み付けていた筈の吉隠の姿を。

 一度たりとも目を逸らさなかったというのに、見失った。


「“お義父さん、娘さんをボクに下さい!”ってヤツ?」


 ぞっとした。

 声は、近く聞こえる。あまりの驚愕に一瞬体が固まった。

 気を抜いたつもりはない。油断もなかった。にも拘らず、吉隠はいとも容易く間合いを侵してみせた。

 惚けたような口調に潜んだ絶対の自信。

 明らかに、以前とは違う。

 何気ない所作だけで、彼の者の力量を否応なく理解させられる。

 気楽な調子で懐から取り出される拳銃。

 あまりにも突然すぎる。いや、吉隠にとっては狙い通りなのか。

 地震で倒壊した建物、身近な人々の死に上がる悲鳴。混沌の様相を呈す町中で両者は対峙し。


「ならばこう答えよう。“娘が欲しいのなら、私を倒してからにしてもらおうか”」


 引き鉄にかかる指。

 ぎり、と強く柄を握り。


「あはは、キミ、案外ノリいいね」


 二匹の鬼は、当たり前のように戦端を切った。

 向こうからの接触はある程度予測済み、竹刀袋なんぞを用意して刀も携帯したのは交戦を想定していたからだ。

 手は流れるように夜来へ。溜那を抱きかかえたまま鯉口を切り一気に抜刀、左足を軸に体を回し、横薙ぎの一刀に繋げる。

 しかし吉隠は涼しい顔。半歩後ろに下がり白刃を躱し、銃口を甚夜の眉間に定めた。

 手にした銃は以前見せた握り鉄砲ではない。二十六年式拳銃、明治時代に作られた大日本帝国生まれの回転式拳銃である。


 たんっ、と軽い音が響くよりも早く射線から外れ、溜那を突き飛ばすように離し、吉隠へと肉薄する。

 気色の悪い風切り音を立てて銃弾がこめかみを掠めていくが、怯むことはない。

 袈裟掛け。軌道を読んだのか、吉隠は刀の腹を銃把で叩くと同時に懐へ潜りこみ、勢いを殺さぬまま左掌底。

 甚夜が上体を起こし避ければ、それこそが狙いと崩れた体勢に追い打ち、霞むほどの速度で蹴りが放たれる。

 銃撃と体術を合わせた近接戦闘。江戸の頃には見られなかった戦い方だ。

 問題はない。初見だからと後れを取るような愚昧ならば、とうの昔に死んでいた。

 頭蓋を砕くだけの威力が込められた一撃を、左腕で迎える。蹴りは受けない。防ぐのではなく、叩き落とす。

 脛へ向けての裏拳。蹴りを止め、足を砕くつもりだった。硬い、鉄でも殴ったような感覚だ。相手も鬼、そう易々とは壊せないらしい。

 お互い目論見通りにはいかず、一瞬だけ動きが止まる。

 交錯する視線、吉隠は中性的な容姿を歪め、獰猛に笑っていた。


 硬直は一瞬、お返しとばかりに銃口はこちらへ。硝煙と火薬の匂いを漂わせ、鉛弾が迫る。

 躱した、と言うよりは逃げた。こうも動きながらでは<不抜>は使えない。銃口の向きから着弾地点を想定し、“初めから逃げておく”くらいしか対策はなかった。

 ちゅいん、と嫌な音が耳元で聞こえる。

 これが、厄介だ。

 どれだけ体勢を崩していても、引き鉄を指で絞るだけで致死の一撃を放てる。銃とはそういうものだ。

 相手にはいつでも逆転を狙える手札があり、それが二十二円(現代では4万4000円ほど)で買えるというのだから、井槌ではないが嫌になる。

 とはいえ、それを嘆いても仕方がない。

 甚夜は銃弾から逃れると同時に前へ出た。

 二十六式拳銃は回転式、次弾を放つには撃鉄を上げねばならず、一拍の隙が出来る。危険を顧みない踏み込みはその隙を逃さない為。

 無論、その程度は吉隠も承知の上。だから空だった筈の左の掌には、拳銃がもう一丁。銃口はこちらを向いている。

 甚夜に動揺はない。握り鉄砲を使う輩が、外套なんぞを纏っている。暗器の三つや四つ備えているとは思っていたし、不意打ちは初めから織り込み済み。

 ならば次の一手もそれに即したものとなる。


 拳銃を取り出した時、甚夜は既に動いていた。

 左手には鉄鞘。下から救い上げるように振るえば、鈍器代わりにはなる。狙いは吉隠の左手、握られた拳銃。銃把を打ち据え、弾き飛ばす。

 弾き飛ばす、筈だった。

 全力で打ち据え、しかし吉隠の握りは解けず、腕は僅かに流れた程度。

 それで充分。相手は決定的な隙を晒している。

 振るった鉄鞘を後ろに引く、同時に右足で大きく踏み込み<疾駆>。人では為し得ぬ速度をもって肉薄し、勢いを殺さぬまま切っ先を吉隠に向ける。

 今この場で命を刈り取る。

 様子見、手加減、温情、躊躇。刃を鈍らせるものは一切ない。

 絶殺の意を込めて繰り出すは、喉元を穿つ紫電の刺突だ。


「わ、わっ」


 緊張感のない声を上げるも、動き自体は非常に鋭利だ。 

 腕を大きく振るい、その勢いで体を捌く。勘や反射ではない。<疾駆>を用いての刺突を、吉隠はちゃんと視認して、回避を選んだのだ。

 技術的には際立ったものにはなく、ただ純粋な身体能力のみに支えられた動作。

 喉を貫く筈だった刃を躱し、反撃することなく吉隠は素早く体勢を立て直し後方へ大きく退いた。

 その上、踏み込もうとした甚夜の足元に銃弾を一発、追撃をも制限してみせる。


「あー、危なかった。いきなり殺しに来るとか怖いなぁ」


 動きがいいだけでなく、抜け目もない。

 距離を取った吉隠は、一安心といった様子でほっと息を吐く。

 甚夜とて決して弱くない。百年を生き、体を鍛え、技を練磨し、己が<力>にも目覚めた。生半な鬼なぞ歯牙にもかけぬだけの腕前がある。

 少なくとも以前の吉隠ならば今の攻防で確実に殺せた筈だった。

 だというのに、甚夜が殺すつもりで放った一手を、「視認してから」動き始めて避ける。並みの身体能力と反射速度では到底できない芸当だ。

 こちらに気付かれず間合いを侵したことといい、単純な力量だけを見れば明らかに吉隠が上。悔しいが、それは認めざるを得なかった。


「……随分と、力をつけた」

「そりゃそうだよ。キミね、なにか勘違いしてない? 強くなったり、土壇場で新たな力に覚醒するのが自分だけだと思っちゃダメだよ。成長や強化は、なにもキミの専売特許じゃない」


 以前とは明らかに違う。

 動作、膂力、反応。全てが段違い。言葉の通り、吉隠は一年という短い期間で、信じがたいほどに強くなった。

 その事実になんとも言えない奇妙さを覚え、甚夜は値踏みするようにじっくりと吉隠を観察する。

 確かに、以前とは明らかに違う。吉隠は強くなった。

 身体能力だけを見れば、甚夜を越えているかもしれない。

 しかしそれだけだ。

 数多の鬼と戦ってきた経験、練磨してきた剣術、通常の鬼であれば有り得ない複数の<力>の運用。

 能力値としては下でも、こちらにも強みがある。

 有体に言えば真っ向から甚夜を打ち倒すには、吉隠ではまだ足らない。


 それは、吉隠も分かっている筈なのだ。

 だからこそ違和感がある。

 あれだけ抜け目なのない輩が、強くなったからといって彼我の戦力差を計り違え、勝ち目もなく戦いに臨むような真似をするだろうか。

 まさか、だ。浮かんだ考えをすぐさま否定する。

 其処まで迂闊ならばもっと早くに決着はついていた。

 つまり奴には“なにか”があるということ。

 危険だ。

 根拠のない直感、言いがかりに近い推測。なのに全身が奴は危険だと訴えている。


「だいたいさ、鬼喰らい。キミね……って!?」


 何事かを語ろうとしていたようだが関係ない。

<合一>───<疾駆>、<地縛>。

 己が<力>によって生み出した、尋常ではない速度で奔る四本の鎖。決着は早急に、長引かせてはいけない。

 じゃらじゃらと音を立て、縦横無尽に駆け巡り襲い掛かる鎖は蛇のようだ。致死の毒を持って彼の敵へと牙を剥き。


「もう、話も聞かずに失礼だなぁ」


 その全てが、吉隠に触れることなく瓦解した。

 動揺を見せれば隙となる。そう考え、甚夜は戦いの最中では殊更表情を隠そうとしていた。しかし虚を突かれ、思わず目を見開く。

 こちらの攻撃を防いだことに驚いた、などとほざく程自惚れてはいない。驚きの理由は見下して笑う吉隠にこそある。


「……そうか。確かに、もはや妖刀は必要ないな」


 一瞬にして理解する。

 何故お前がそれを。なにをした。

 問うまでもない、目の前の現実が全てだ。


「あれ、おっかしーなぁ。もうちょっと驚いてくれると思ったんだけど」


 十分に驚いている。

 貴様の所業に、はらわたが煮えくり返りそうだ。

 無表情の下に若き日の激情を抑え込み、研ぎ澄まされた刃のような殺気を吉隠へと向ける。


「驚いているさ……その分、腹も立つ」

「そう? それならお披露目した甲斐もあるね」


 しかし吉隠はまるで涼風のようにそれを受け流す。

 友人と雑談をするような気安い立ち振る舞い。

 奴の周囲には、“黒い瘴気”が立ち昇る。

 南雲叡善の比ではない。密度を増し、もはや肉の一部かと思わせる程だ。

 吉隠は襲い来る鎖を、黒い瘴気を操り、全て砕いて見せたのだ。







 ……ここで、もう一度半月はにわりについて説明しておこう

“はにわり”とは弦月・弓張り付きの異称である。

 同時に古い時代、半陰陽やふたなりと呼ばれる男女両性の特徴を備えた、或いは両性の特徴を持たないなど、分類できない性をさす言葉だった。

『古事記』では、天地開闢の際に現れた三柱の神、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神を造化三神と呼ぶ。この神々はいずれも性別のない独神ひとりがみ、即ち男でも女でもない神だとされている。


 男でもあり女でもある。男でもなく女でもない。

 実存の性から逸脱した特質は、古来日本では尊きものだと信じられた。

 独神は“国を産む神”を産む尊い存在。

 故に、独神と同じく男性でも女性でもない“はにわり”は完璧な性であり、現世において最も神に近しいと考えられた。

 そしてその特性から、神降ろしを行う巫覡に最も相応しいと言われる。

 男神女神、独神。

 はにわりはあらゆる神性をその身に降ろせる器であり、取りも直さず現世に神仏の加護を伝える使者であった。



 つまり、その身に何かを下す憑代よりしろとして。

 はにわりは、造られた器であるコドクノカゴなどよりも、よほど相応しい存在であると言えるだろう。






「あ、そうだ。お礼、言ってなかったね」


 元々あの黒い瘴気は、鬼哭の妖刀に封ぜられた鬼の<力>、それが形となったもの。

 奴が使える理由など一つしかない。

 ぎりっ、と甚夜は奥歯を強く噛んだ。

 しかし吉隠は朗らかな笑みを向け、底抜けに明るい調子で言う。


「ありがとね、甚太くん。キミのお義母さん、ごちそーさまー!」


 つまり吉隠は、夜風をその身に宿したのだ。





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