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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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136/216

『妖刀夜話~鬼哭~』・1




 どうということのない、昔話である。




 ◆




 これまで何度も語ってきたように、大正の世において活動写真は大衆娯楽の王様だった。

 ところで、キネマ館の前身をご存じだろうか。

 まだキネマ館が無かった時代、唯一活動写真を見ることのできた場所があった。

“見世物小屋”。

 日本におけるキネマ館は、劇場の発展したものと、江戸時代から続くこの興業から派生したものが主流だといえるだろう。

 見世物小屋は、読んで字の如く、珍しいものを見せる為の小屋である。

 ヘビ女やタコ女といった奇妙なもの、動物の曲芸などの珍しいもの、鬼やカッパのミイラなど。普段は見られないものを見せてくれる、歴史の古い娯楽だ。

 見せる演目は数多い。近代化を経て、舶来の文化を紹介したり、海外の珍獣を見せたりといったことも増えて行った。

 その中には欧米諸国からもたらされた、初期の活動写真も含まれている。

 見世物小屋で流されたこれらは受けがよく、そこから派生し、いつでも活動写真を見られる場所が作られた。

 これがキネマ館の前身の一つである。



 以上の経緯をもって設立したキネマ館は、大正時代には大層持て囃された。

 反面、その元となった見世物小屋は数を減らしていく。演目の中には、人道的ではないものも多くあったからだ。

 見世物小屋は何でも見せる。例えば奇形(障害者)や性行為、動物を殺戮する様をショーにすることさえあった。

 近代化に伴いそれらは社会的に批判され、いつしかこの興業は廃れていき、平成の時代には数える程しか残っていない。

 栄枯盛衰は世の常。

 隆盛を誇るものの影には、打ち捨てられたものが必ず在る。

 だから例えどうということのない昔話に思えても。

 踏み躙られた彼等は、誰に忘れられようとも、今も怨嗟の呻きを上げているのだろう。




 ◆




 大正十二年(1923年) 八月




「溜那、済まないが霧吹きを」

「ん」

「ありがとう」


 そっと虫除けの薬が入った霧吹きを差し出してくれ溜那に礼を言い、甚夜は今日も今日とて庭の紫陽花の手入れをする。

 今年の花も、二十年前と変わらない。誰にも理解されない誇りを紫陽花に写し、表情も変えず一つ頷く。

 夕暮れの別れから一年。

 帝都は相変わらず騒がしく、新しい文化に民衆は沸き立っている。

 しかし赤瀬家の周辺は一時期を考えれば非常に穏やかだった。

 芳彦と希美子は以前よりも更に仲良くなり、時折デイトなんぞに出かけているらしい。

 それを知って歯ぎしりする充知と、そんな夫をなだめる志乃の姿は最早定番となっている。

 南雲叡善を討ち、マガツメも大した動きは見せず、甚夜は鍛錬と仕事に精を出す毎日。

 後ろをちょこちょこと付いてくる溜那は、以前と変わらずあまり喋らないが、よく甘えてくるようになった。

 向日葵も未だに赤瀬の屋敷を訪れる。「お母様も、今は動く気が無いですから」と彼女は言う。その理由は教えて貰えなかったが、取り敢えずは安心というところだ。

 ようやく訪れた平穏な日常、しかし甚夜には懸念があった。

 吉隠、そして<鬼哭>の夜刀守兼臣。

 一年前姿を消した鬼と妖刀、その足取りは依然つかめないままだ。

 そもそもの始まりとして、甚夜はあの妖刀を取り戻す為に叡善と相対した。目的を果たせず夜刀守兼臣を奪われた事実が、心中に暗い影を落とす。

 なによりあの鬼の狙いも、妖刀を奪っていった理由も、何一つ分からない。

 南雲叡善から離れた以上、希美子や溜那を狙うような真似はしないと信じたいが、はっきりと言えない現状は中々に辛いものがある。

 ふと生温い風が吹いた。嫌な肌触り、流れゆく先を追うように、低い夏の空を睨みつける。照り付ける夏の日差し、反して背筋を走った冷たいものは気のせいだろうか。


「さて、そろそろ一休みしようか」


 嫌な予感を振り払うように、ぽんぽん、と溜那の頭を二度三度撫でれば、嬉しそうに頬を緩ませる。

 この一年で彼女は随分と表情豊かになった。もう少し喋ってくれれば言うことはないのだが、と彼も小さく笑みを落とす。

 願わくは、いましばしこの平穏が続きますように。

 掌から伝わる暖かさに、そう願った。






 ◆






「あー、まだまだあっちぃな……」


 八月の終わり、井槌は夜でも衰えないじめじめとした熱気にやられ思わず呻いた。

 暦座での仕事を終え、適当な店へ呑みに行った帰り道。結構な量を呑んで気分が高揚しているせいか、自然と鼻歌が出る。

 最近のお気に入りはビールで、炭酸が心地好くつい飲み過ぎてしまう。大正という時代を覆そうとしていた井槌だが、ビールとアイスキャンディの存在はまさに近代化さまさまといった感想である。


「しかし毎度毎度一人酒ってのもなんだ。次は鬼喰らいの奴でも誘うかな」


 そんであわよくば奢らせよう。

 こちらはキネマ館のモギリ・清掃員だがあの男は華族様お抱えの庭師。結構貰っている筈だ。

 その想像に軽く笑みを零し、見上げれば名残りの夏の重たい夜空。うすぼんやりとした街灯に照らされた夜道を歩く

 渋谷は日が落ちても街灯と夜遅くまで開いている店屋のおかげでそれなりに明るい。 だからかつての黄昏とは違い、道行く人の顔も見える。


「や、井槌。久しぶり」


 そうなれば自然、人に紛れた鬼の顔を見ることもあるだろう。

 気の利いた少年風の少女か、すらりとした少女風の少年か。

 今一つ判別のつかない中性的な容姿。その顔には見覚えがあった。

 カンカン帽にスラックスに革靴。夜に映える白の洋装に身を纏い、一見すれば流行に乗っかった軟派な学生だ。

 しかし井槌はその正体を知っている。一年程前、南雲叡善に従った高位の鬼。吉隠は呑気に手を上げ、軽い調子でにこやかに挨拶をした。


「……吉隠、てめえ」

「あっついねー。今日だけでアイスキャンディ二本も食べちゃったや」


 睨み付ける井槌を余所に、ぱたぱたと手で自分を仰ぐ。

 どこか演技臭いその所作を警戒し構える。下位とはいえ井槌も鬼、ガトリング砲を失ったが相応の膂力と体術がある。対して吉隠はあの線の細さ、<力>も戦い向けではない。この場でやり合ったとしても遅れは取らないだろう。


「あれ、なんでいきなりやる気? 酷いなぁ、元とはいえ同僚なのに」

「赤瀬の嬢ちゃんを狙ったこと、芳彦先輩への仕打ち。警戒すんなってのが無理だろ」

「なんかすっかりあの子達の味方だなぁ。ま、そっちの方が井槌には合ってるのかもだけどさ」


 少しだけつまらなそうに口先を尖らせる。

 吉隠の態度は、叡善配下として一緒に酒を呑んでいた頃とまるで変わらない。だから警戒しながらもほんの少し複雑な心境だった。


「なあ吉隠よ。お前、なに考えてやがる」

「え? 明日のご飯なにしよっかな、とか?」

「茶化すな。なにを企んでんだって聞いてんだよ」


 偽久は井槌と同じく、大正の世をひっくり返したかった。

 古椿は脳を弄られ操られていた。

 しかしこの鬼だけは読めない。なんの為に叡善に従っていたのか。何故あの妖刀を奪っていったのか。一年前に姿を消しておきながら、今になって姿を現した理由も、何一つ分からなかった。


「なにって、ボクの目的は最初っから変わってないよ」


 吉隠は平然と、作り物の笑みで朗らかに語る。


「あのね、ボクはお茶が好きなんだ。いろんな娯楽があるけど、やっぱり縁側でのんびりお茶を啜ってるのが一番」


 見当外れな返答に、井槌は眉間に皺を寄せた。

 歌うように軽やかで、けれど目は真っ直ぐで。笑顔で語るその内容に嘘は感じられず、だからこそ戸惑う。


「新しいものが嫌いなんじゃないよ。コーヒーだって飲むし、洋装もお気に入り。洋食大好き、キネマだってまぁいい感じで……でもさ、古いものが古いっていう理由で虐げられるのは、なんか癪じゃない?」


 答えにならない答えを高らかに語る吉隠は舞台上の役者もかくやだ。

 流れるように手は腰へ、携えた太刀にそっと触れる。無骨な鉄鞘に収められているのは、ただの刀ではない。


「ボクもキミと同じ。今の世の中が気に入らない。復讐とかそういうネチネチしたのは好きじゃないけど、八つ当たりくらいはしたいってだけだよ。……幸い、そのための手段も手に入ったしね」


 夜刀守兼臣。

 燃え盛る南雲邸から奪い去った、鬼哭の妖刀である。 


「もともと叡善さんの下についたのはこれが欲しかったから。あの人のことはそんなに嫌いじゃなかったけどね。時代にいろんなものを奪われた、言ってみればお仲間な訳だし。仇くらいはとってあげようかなと思ってる」

「仇……ならお前は、鬼喰らいを」

「違うよ、あの人の仇は“今”。大正の世こそが、ボクたちの敵だ」


 南雲は、人の為に在った退魔でありながら、人に時代に刀を奪われた。

 鬼もまた近代化によって居場所を奪われた。

 故に吉隠は語る。

 己の敵は鬼でも人でもない。鬼が時代に捨てられていく存在なら、敵対するべきは捨てようとする時代。

 かつてを踏み躙ってのうのうと繁栄する、大正という時代こそ敵だと、無邪気に語る。

 いや、無邪気なのは表情だけ。その眼は憎しみではなく、隠しようのない狂気で濁っていた。


「ねえ、井槌。キミも手伝ってくれない?」


 吉隠は、以前と変わらぬ笑顔のままで、井槌へ手を差し伸べる。


「大丈夫、希美子ちゃんや芳彦くんを狙うことはもうしないからさ。キミだって、現状に満足してる訳じゃないよね? だったら、もう一度立ち上がろう」


 その申し出に、ほんの僅か、体が固まる。

 井槌が南雲叡善についたのは、大正の世をぶっ壊したいと願ったから。

 時代に負けて居場所を失くした鬼が、変わらず強く在れる今を望んだ。鬼が鬼である為に、彼は何かできることをずっと探していた。

 そして吉隠は、自分を必要だと言ってくれる。

 時代に居場所を奪われた無様な鬼だ。それを嬉しいと思わない訳ではない。


「悪いな、そらできねえよ」


 しかしきっぱりと。

 井槌は真っ直ぐに吉隠の目を見て、その申し出を拒否した。


「……理由、聞いてもいい?」

「俺が、弱いって分かったからさ」


 自嘲めいた言葉を、どこか誇らしげに井槌は語る。

 吊り上った口の端。顔付きには以前よりも余裕があって、それが癪だったのか、吉隠はつまらなさそうに目を細めた。


「居場所を追われたのは鬼だからじゃない。俺が、弱かっただけ。今更世間様に恨み言もねえさ。それに、今はいろんなものが悪くねえって思えるんだ」

「そっ、か」

「軟弱だと思うか?」


 大正の世をぶっ壊したい。

 その願いを捨て、今に併合する生き方。どれだけ言葉を弄しても、傍から見れば理想を掲げながら敗北し諦めた愚昧にしか映るまい。

 井槌自身そう思うからこその問いだったが、吉隠は軽く笑って首を横に振った。


「キミがそれで納得できるならいいんじゃない? でも……あーあ、偽久も古椿も死んじゃったし、ボク一人かぁ」


 男とも女ともつかない中性的な顔立ちが、寂しさに曇る。

 しかしそれも僅かの間、瞬きの後にはいつものような張り付いた笑みへ変わり、演技染みた振る舞いでで吉隠は手を振った。


「ま、いいけどさ。それじゃね井槌」

「おい、どこへ行くつもりだ」

「あはは、大丈夫。どうせすぐ会うことになるよ」


 颯爽とでもいうべきか。

 吉隠はそれこそ瞬きの速さで、この場を去った。

 眼前の光景に井槌は思わず目を見開く。

追うつもりだった。追って、なにを企んでいるのか明らかにして、それを止められたなら、と思った。

 なのにできなかった。

 心情的に、ではなく物理的に。追おうにも、あまりの速さにそれが出来なかった。井槌の知る吉隠は、あれ程の身体能力は持っていなかった筈だった。


「吉隠、お前……」


 呟きが夏空に消える。

 去り往く背中を追うことさえ出来ず、井槌はただ立ち尽くしていた。

 吉隠は何かを企んでいる。遠くない将来、事を起こす。

 それが真っ当ではなく、且つ大正の世に大きな被害を齎すことは考えるまでもないだろう。

 だというのに、胸を過る感情。

 手を取ってやれず、背を見送ることも出来なかった。

 それがひどく寂しく思えたのは、何故だったのだろうか。






 ◆






 翌日、朝も早くから井槌は甚夜との接触を図った。

 赤瀬家の離れ、家内使用人に与えられた部屋の一室で、二匹の鬼は向かい合う。出された茶を喉に流し込んでから、井槌は昨夜のことを話し始めた。 

 はっきり言えば井槌は頭がよくないし、自身もそれを自覚している。下手の考え休むに似たり、ならば頭を使うのは他に任せた方がいいと考えた。

 吉隠が姿を現したこと。夜刀守兼臣を携えていたこと。なんらかの企みを抱え、井槌を仲間に誘ったこと。一つ一つ細かく説明する。

 全てを聞き終えた甚夜は普段通りの無表情で思索に耽り、一呼吸置いてから口を開いた。


「吉隠、か……」


 甚夜自身は吉隠と殆ど接したことがない。しかし向日葵が随分と警戒していたことを思い出す。

 もしかしたら一番の敵は南雲叡善ではないのかもしれません。マガツメの娘をしてそうまで言わせる鬼だ、並みではないと思っていたが、如何やら腹に一物抱えた厄介な相手らしい。


「どう思う?」

「残念ながら私はそいつを殆ど知らない。お前が考えている以上のことは分からん」

「そりゃ、そうか」


 吉隠は何かを企てていて、大正の世に打撃を与えようとしている。

 分かることと言えばその程度。圧倒的に情報が足らない。

 少しでもあれの目論見を読もうと、井槌はない頭を最大限働かせる。なんでもいいから考えるきっかけになればと、思い付くまま口に出していく。


「あの妖刀が目的で、使えば大正の世に嫌がらせできるみたいなことも言ってたな。それに、以前からは考えられねえくらい動けるようになってやがった。たぶんあれは、刀に封じられた鬼の力だ。もしかしたら吉隠は、そいつで何かしようとしているのかもしれねえ」

「そうか、鬼哭の妖刀を……なんとも、不愉快な真似をしてくれるものだな」


 何か引っかかるところがあったのか、甚夜は妙な反応を示した。

 井槌は怪訝そうに眉を顰める。そういえば、何故かは分からないが吉隠も鬼喰らいも鬼哭の妖刀に執着していた。

 或いはそこに何かがあるのではと、気付けば強い口調で問うていた。 


「おい、鬼喰らい。お前なんか隠してんだろ」

「なにか、とは?」

「とぼけんなよ。秋津の四代目から聞いてんぜ、お前の目的は叡善の爺様を討つことと夜刀守兼臣を奪うこと。吉隠の奴もあれが目的だと言った。……あの刀はなんだ?」


 空気が張り詰めたような感覚。

 しかし甚夜は平然と、何でもない事のように返す。


「夜刀守兼臣。戦国時代の刀匠、兼臣の作。人為的に造られた四口の妖刀がうちの一つ。その<力>は<鬼哭>。刀身に鬼を封ずる刀だ」

「そんなことを聞いてんじゃねえ。お前らがあれに執着する理由いや、違うな。あれには、どんな秘密がある」

「期待に沿えず申し訳ないが、本当に大したことは知らないんだ。深く理解していたであろう人物も既にいない」


 鬼哭の妖刀の力を引き出し戦った南雲叡善は既に死んでいる。

 だからお前が期待するような秘密は知らない。そう言ってもまだ疑いの目を向けていた。

 いや、疑いというよりも確信だ。本当のことを話せと食い下がってくる。


「お前が何も知らないってんなら、なんであれを欲しがった?」

「私情……いや、感傷だな」

「いい加減、誤魔化すのは止めようや」


 はっきりしたことを口にしない甚夜に苛立ち、井槌は奥歯を強く噛んで睨み付ける。

 引き下がる気はないらしい。その硬質な態度に諦めたのか、諦めたように一つ溜息を吐く。


「……初めに言っておく。私は、本当に大したことは知らない」


 だが、確かに隠していることはある。

 充知にも染吾郎にも話していない、ごく個人的な過去だ。

 そう前置きしてから、すっと目を細め、重々しく口を開いた。


「私は夜刀守兼臣を、南雲叡善から奪い返したいと思っていた」

「奪い返す? つまり、あれは元々お前のもんだったのか?」

「いや、違う。ただ以前の使い手とは懇意だった。だから、あれを取り返したかった」


 ああ、だから私情で感傷か。

 井槌は納得したように頷いた。甚夜は鬼哭の妖刀を求めたのは、その力を欲したのではなく、その力を南雲叡善のような化け物に使われるのが我慢ならなかっただけ。

 つまり吉隠が夜刀守兼臣を求めた理由とは根本的に違い、故にその目論見は見当がつかないというも本当なのだろう。


「成程な。ん? じゃあ、お前の隠し事って」

「何度も言うように、あれの秘密など知らん。ただ以前の使い手と、封じられた鬼の名を知っているだけだ」


 偶然が重なり、それを知った。

 説話として残る使い手と鬼の名を聞き、甚夜はかつて葛野に住んでいた頃を思い出してしまった。

 どうということのない、昔話である。

 甚夜はあの刀をもって鬼が封じられる瞬間を見ている。だから本当は、説話など関係なく知っていたのだ。

 井槌はその辺りにも興味があるらしく、大人しく甚夜の言葉を待っている。

 本当は、隠しておきたかった。だが吉隠が何かを企んでいる以上、僅かな情報でも共有しておくべきだろう。

 仕方ない、と表情を引き締め、若干低くなった声で言葉を紡ぐ。


「鬼の名は“かえで”という」

「……なんか、封じられた悪鬼にしちゃ随分可愛らしい名前だな。ああ、いや。植物の名前、もしかしてマガツメの娘か?」

「いいや、違う。そもそも彼の鬼が封ぜられたのはマガツメが生まれる前だ」


 関係ないという訳ではないかもしれないが、とまでは言わなかった。

 何故マガツメは娘に花の名を付けたのか。

 疑問には思っていたが、案外、鈴音は知っていたのかもしれない。

 鈴音は鬼と人の間に生まれた娘。本能的に“かえで”のことを、同胞の存在を感じていた。だから、鬼の名前は花の名をつけるのだと勘違いしたのではないか。

 確かめようのない、知った所で何にもならないことだ。だから口にはせず、表情も変えず、何でもないふりをして話を続ける。


「なんか、人伝に聞いた、って訳でもなさそうだな。お前、もしかしてその鬼に会ったことでもあんのか?」

「ああ、一応な。言葉を交わしたのは数えるほどだが、彼女は恩人だ。……もっとも、妖刀に封じられたと知ったのは随分後の話だが」


 以前の使い手は、あの鬼を“かえで”と呼んでいた。

 幼かった頃のことだ、気付かなかった。しかし歳を取り、様々なことを知り、推測ではあるがおそらく真実であろう答えに甚夜は辿り着く。


「私は、知っている」


 かつて葛野にいた頃。

 長の息子である清正は、夜来を鞘から抜くことができなかったという。

 集落を襲った<遠見>の鬼もまた同じ。

 しかし人と鬼の子である鈴音や、人から鬼に堕ちた甚夜は抜くことができた。

 白雪は、当たり前のように抜いていた。


 これらは全て集落の長から聞かされた事実。

 当時は何の話をしているのかさえ分からなかったが、その意味に気付いた時、彼はようやく理解した。

 夜来は、どのようなからくりかは分からぬが、鬼と人の両特性を持った者にしか抜けぬ刀。

 それが抜けるのならば白雪──いつきひめの家系には、鬼の血が流れていたのだろう。

 

 その辺りを踏まえれば、様々な事柄の意味合いが変わってくる。

 当たり前のように信じていた在り方の裏側にも気付く。


 いつきひめは長と巫女守以外に姿を晒さず、社から出ない。

 巫女守(いつきひめを守る者)が鬼切役(集落に仇なす鬼を斬る)を兼任する。

 それはあくまでも表の顔。

 そもそも鬼切役とは、いつきひめ──鬼の血を持つ火女が集落に仇なす鬼となった時、被害が広がらぬよう即座に斬り捨てる為の役。

 即ち、いつきひめは斎の火女。

 そして“居付きの緋目”。

 集落に住んだ鬼の末裔を意味する言葉でもあった。 

 故に巫女守は、暴走した鬼を封じる役割を負っている。

 遠い記憶の景色。暴れ狂う鬼を前に逃げることなく戦った義父の姿は、つまりそういうこと。


「鬼哭の妖刀。その以前の使い手の名は、産鉄の集落である葛野の先代巫女守、元治。そして封ぜられた鬼の名はかえで……」


 一瞬の躊躇い。

 苦渋に顔を歪め、甚夜は声を絞り出す。

 かえで……楓は木へんに風と書く。だから彼女は、夜来を継いだ時にこう名乗った。


「いつきひめ、夜風という」






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