余談『夏雲の唄』・1
2009年 7月
「こんなもの……かな?」
みやかは自室の鏡の前で服装をチェックする。
今日はホワイトのハイネックノースリーブにスキニージーンズ。
スカートよりもパンツルックの方が動きやすくて好みに合っている。トップスもレースやリボンで飾るよりシンプルがいい。
うっすらと茶色がかった腰まである長い髪を櫛でしっかりと梳いて、前髪も軽く直す。
よし、と一言。鏡の中にいる自分の姿を確認し、満足げに頷く。
「あっと、そろそろいかないと」
今日はクラスメイトと買い物の予定。しかも、男の子と二人きり。なにぶん初めての経験で、心持ち恰好にも気合が入った。
時計を確認し、余裕を持って家を出る。
約束の時間には早すぎるかもしれないが、慌てるよりはいいだろう。外は雲一つない晴天、今日も暑くなりそうだ。
夏休みを前にした日曜日、お気に入りの服に身を包んでみやかは町へ繰り出した。
梅雨が終わり陽射しは強まり、しかし盛夏はまだ遠い。初夏の暑さに少しだけ汗ばみ、その分涼やかな風を清々しく感じる。
腕時計をちらりと見れば10時43分。ちゃんと時間前に来れた。
待ち合わせは11時に駅前の噴水。ちょっと早かったな、と思っていたが件の人物は既にそこで待っている。
デニムジーンズに黒のインナー、薄手の長袖ジャケット。意外と小奇麗にまとめているのが少し意外だ。
向こうもみやかに気付いたらしい。ここだ、と言うように軽く手を上げる。
返すように片手を上げて、ゆっくり彼の元へと歩いて行く。
「ごめん、待った?」
「いや」
短い遣り取り。お互いそれほど明るい性格でもなく、挨拶はそれで十分だった。
クラスメイトの男の子と待ち合わせして買い物。
邪推したくなるようなシチュエーションだが、実際のところそんな色っぽい話ではない。このくらいの接し方で当然だろう。
どちらからともなく促し、二人は目的の場所へと向かうことにした。
噴水の前で待っていた彼の名は、葛野甚夜という。
戻川高校へ入学する一か月前、三月の初めくらいだったか。
みやかは友人である梓屋薫と共に、不可思議な事件に巻き込まれた。
そこを助けてくれたのが彼である。
しかも高校に入学して見れば、何の因果か偶然か、驚いたことに同じクラス。以来それなりに交友を持ち、ちょくちょくオカルトな出来事に巻き込まれ、気付いてみればクラスで一番仲のいい男子になっていた。
「すまんな、付き合ってもらって」
「いいよ、別に。というか発案は私達だし」
あと、いつも助けてもらってるから、そのお礼。
それくらい言えれば可愛げがあるだろうに、素っ気ない返ししか出来な自分が少しだけ恨めしい。
日曜日、みやかは甚夜と電気屋を訪れていた。
事の発端は数日前。もうすぐ夏休みということで、クラスメイトで遊びに行く計画を立てていた。
勿論甚夜も誘い連絡先を聞いたのだが、ケータイ自体を持っていないと発覚。
連絡手段がなく、ケータイを買う流れになったはいいが、自分ではよく分からないので一緒に見て欲しいと頼まれた。
大抵のことを卒なくこなす甚夜だが、家電の類はどうにも苦手らしい。ゲームやパソコン、ケータイなどはとんと疎い。
冷蔵庫やテレビ、電子レンジなどは普通に使えている辺り、苦手というよりも興味がないのだろう。
本人曰く “この手のものは進歩が速すぎてついていけない”。
その発言を聞くと、こいつ本当に高校生かと思わざるを得ない。いや、彼の話を信じるなら高校生なんて年齢ではないのだけども。
「そっちこそ、私でよかったの? 正直あんまり詳しくないけど」
「私よりはマシだろう」
「それはね」
実際彼に負けているようでは、女子高生は名乗れない。
文句はないようだし、取り敢えず駅前のデジタルショップへ。店に入れば、ずらりと陳列された色とりどりの携帯電話、それを見た甚夜が若干眉間に皺を寄せていた。本当に苦手なんだなと、みやかは思わず吹き出してしまう。
「どうする?」
「そう、だな」
二人並んでサンプルを手に取ってみる。どの会社のケータイも機能に大差はない。結局は本人の趣味が決め手になる為、いくつかお勧めを上げてから好きなデザインを選んでもらう。
結果、甚夜が手にしたのはみやかが全く勧めていないもの。
シルバーフォン……高齢者向けの、本当に電話機能しかついていないケータイだった。
「おい待て高校生」
「……駄目か? 使い易そうだと思ったんだが」
「いけなくはないけど……ごめん、やっぱりないわ」
そんなケータイ愛用する男子高校生がいてたまるか。
予定変更。結局デザインも色もみやかが選ぶことになった。
つい先日、スマートフォンという新しいタイプの携帯が発売されたが、普及率はまだ悪い。
タッチパネルをこの男が使えるとも思えないし、既存のタイプを勧めた方がいいだろう。
選んだのは無難なブラック。飛んで跳ねて斬った張ったが当たり前みたいな彼だ、生活防水がしっかりしていて頑丈なものにした。
「助かった。ありがとう、みやか」
「あとは使い方ね。分からないとこは聞いて」
「ああ、その時は頼らせてもらう」
ケータイ一つで大仰な、と思わなくはないが、まっすぐな感謝の言葉は素直に嬉しい。
案外早く決まったので時間が結構余っている。ついで昼ご飯を食べて行こうという話になり、二人で適当な店を探す。
その途中、通りすがったCDショップでみやかは足を止めた。
「ちょっと覗いていい?」
構わない、と甚夜が頷く。
それならと遠慮なく店へ入る。目当てのものがある訳ではないが、せっかくの機会だし新譜を見ておきたかった。
普段なら視聴コーナーに行くが、二人で来ているのだからそれは失礼だろう。新作コーナーに並べられたマキシシングルを見ながら軽く雑談を交わす。
「そう言えば甚夜って音楽聞くの?」
「正直あまり聞かないな」
「へえ……興味ない?」
「贔屓の歌手がいないだけだ。流れている曲を綺麗だと思うことはある」
つまりBGMとしてなら聞くけれど、敢えて自分から買うこともしない程度だろうか。
イメージ通りと言えばイメージ通りだ。彼がアイドルやバンドに熱をあげている姿なんて想像つかない。
「君は?」
「んー、私は雑食だから、視聴で気に入ったのがあれば。あとはCMとか有線で流れてるのを適当に。最近のはラブソングが多すぎてあれだけど」
実際、トップ10の殆どが愛だの恋だのを歌ったものだ。
もちろんいい曲ではあるのだが、こうまで多いと他に歌うことはないのかと思ってしまう。
むう、と唸れば甚夜は落とすように笑った。微笑ましげというか、まるで小さな子供を相手するような。その辺りちょっとだけ不満ではある。
けれどまあ、彼もそれなりに楽しそうだから良しとしよう。みやかの口元も知らず緩んでいた。
しばらく店内を見て回り、今度は甚夜がDVDコーナーで足を止める。
横顔は、興味を引かれた程度ではない。いやに真剣な表情で手を伸ばしたのは、一枚のモノクロパッケージのDVD。
「夏雲の唄……」
ゆっくりと呟いた声は、とても柔らかな響きだった。
「知ってるの?」
「ああ、古い活動写真だ」
すっと目を細め、懐かしむように甚夜は答える。
大正時代のキネマの中でも『夏雲の唄』は特に評価が高かった。
これは大正三年(1914年)に発表された日本製の短編映画で、作中で使われた同名の楽曲『夏雲の唄』は大正初期の流行歌として持て囃された。
楽曲の作詞は本田風月、作曲は新田晋平。往年の歌姫である金城さおりが歌唱し、翌年の大正四年に発売されたレコードは一万六千枚を超える大ヒットとなった。
キネマが大衆娯楽の王様として持て囃されていた時代、夏雲の唄は大層な人気で、初上映から十年近く経っても愛好するものは多かったという。
活動写真が日本に入ってきた最初期の作品であり、技術的な点では古臭く、物語の主題も「少年少女の甘酸っぱい恋」と決して目新しいものではない。
それでも王道を丁寧に描いた映像と、場面場面を盛り上がる劇中曲、そして件の『夏雲の唄』など今も愛されている作品である。
「へぇ……もしかして、見たことある?」
「一応は」
みやかも『夏雲の唄』を手に取って見る。どうやら大正時代のものではなく、後代のリメイク作品のDVD化のようだ。
どうする、買う?
声をかけようと思って、しかし口を噤んだ。
遠くを見るように透き通った目に、何故だか声をかけてはいけないような気がした。
DVDのパッケージを見つめながら、甚夜は暖かな息を吐く。
ふと目を瞑れば今も思い出す。
遥か遠く、しかし今も色褪せぬ優しい記憶。
あれはまだ東京が帝都と呼ばれていた頃。
静かに咲いた、夕暮れの花のこと───
鬼人幻燈抄 余談『夏雲の唄』
赤瀬希美子は体の変調を察していた。
南雲叡善の屋敷に攫われたあの夜から、時折心臓がおかしくなる。
突如早まったかと思えば、締め付けられたり。
心臓が自身の意思に反して動く。
初めて味わう奇妙な感覚。
原因は分からない。
分からないから、希美子はひどくうろたえていた。
◆
大正十一年(1922年) 八月
南雲叡善の事件から二か月。
帝都東京では表も裏もこれといった大きな騒ぎはない。夜刀守兼臣を奪い去った吉隠も別段動きは見せず、平穏な毎日が続いていた。
あの一件に巻き込まれた藤堂芳彦もようやく傷が完治し、長らく休んでしまったこともあり、心機一転とばかりに業務をこなす。
「暑いなぁ」
暦座の玄関口を掃除していた芳彦の額には、玉のような汗が幾つも浮かび上がっている。
いくらやる気があってもこの気温は流石に辛い。正午を過ぎ、渋谷の町は道が揺らめくほどの熱気に満ちていた。
叡善の事件以後も彼の生活に然程の変化はない。
住み込みである為三食と寝所は心配しなくていいが、働かなければ金は貰えず、金が無ければ何もできないのは事実。
非現実的な出来事に遭遇しても、その後には日々の生活が続いていく訳で。
今日も今日とて芳彦は、以前と変わらず仕事に精を出していた。
それでも僅かながら変わったこともある。
暦座には新たな人員が入った。住み込みの清掃員で、歳は芳彦よりも上だが一応は後輩となる。
先輩という立場になったのだ、仕事を教える自分が手抜きは出来ない。
とはいえこの暑さはたまったものではない。せめて手早く終わらせようと全力で掃き掃除に取り組む。
玉の汗が倍に増える頃ようやく掃除は終わり、これで日陰に行けると小走りで暦座の中へと入った。
「バカにしないでくださいっ!」
瞬間、空気を震わせるほどの大きな叫び声と、乾いた音が響いた。
何事かと思って劇場の方へ行けば、着物姿の若い女と軟派な格好をした男が何やら言い争っている。
芳彦よりも幾分か年上の軟派な男、その横っ面には赤いモミジが。
ああ、またかと溜息が出た。
大正時代、映画館は若い者にとって格好の遊び場だった。あからさまな言い方をすれば、素行の悪い男にとってはナンパしやすい場所なのだ。
当然暦座にもそういった客は訪れる。
上手くいく分には別にいいが、時折こうして無理な誘惑をして悶着を起こす男も出てくる。
中には諦め悪く、女性に暴力を振るおうとする見っとも無い奴も。
目の前にいる男もその類だったようで、怒りから真っ赤な顔で拳を振り上げていた。
そうなると当然、割って入らざるを得なくなる。
「お客さーん、困りますよ。うちでそういうのは」
いやいやながらも遮るように一言。
貧乏くじを引くのは、半ば芳彦の役割となってしまっていた。
「ああ?」
軟派な男の視線が芳彦に移った瞬間、強引に言い寄られていた女は、逃げるように去っていった。
男の顔が激情に歪む。女に声をかけたがうまくいかず、殴るのさえガキに邪魔され、しかも逃げられた。
勿論自業自得なのだが、やり場のない怒りを燃え上がらせ、男は芳彦を睨み付ける。
「なんだこのガキっ!」
「いえ、ですから他のお客さんの迷惑になることは」
頭に血の昇った若者だ、正論など通用する筈もない。
ものの見事にフラれた鬱憤もあり、男は殆ど衝動的に行動へと移った。
女にフラれたのもこいつのせいだ。生意気なくそガキ、殴り飛ばさなければ気が済まない。
芳彦の胸ぐらを掴もうと鬼の形相でその手を伸ばし。
「おう、何してんだてめえ?」
後ろからぬっと現れた本物の鬼に、伸ばした手首を掴まれてしまった。
「い、井槌さん」
「うっす、芳彦先輩。お疲れさん」
この筋骨隆々とした大男こそ新しくできた後輩である。
南雲叡善の配下であった井槌は、その後暦座の住込み清掃員となった。
もともとは大正の世を覆そうなどと考えた鬼、最初は警戒していた。しかし意外にも真面目に働き、芳彦を“先輩”と呼び従っている。
働き始めた二か月経ち、今では立派に暦座の一員である。
「なっ、なんだてめえ!? 関係ない奴は引っ込んでろや!」
「関係ならあるさ。俺はそのお人の後輩だ。芳彦先輩に上等こくんなら相手になんぜ」
睨み付けると共に、掴まれた腕がぎしぎしと鳴った。
人に化けていても本質は鬼。井槌が本気で掴めば一般人の腕など一瞬でひしゃげる。その意味では十分手加減しているのだが、それでも尋常ではない膂力だ。軟派な男の流す脂汗は、夏の暑さだけが理由ではなかった。
「痛っ、て。いてええ、離せよっ!」
「できねえなぁ。取り敢えず話をしようか、兄ちゃん」
もはや完全に井槌が脅す側、その構図は男が可愛そうになるくらいのものだ。
井槌は、仕事関係では素直に従ってくれるし、なんだかんだ芳彦を立ててくれるため助かっている。
助かっているのだが、どうにも過剰に先輩を立てすぎているような気が。
「って、井槌さん!? そこまでしないでいいですって!」
「だがよ、こういうのは放っておけばつけあがるぜ?」
井槌は至極真面目にそう言った。
その最中も腕を掴まれている男は苦悶の表情、しかも彼の苦難はまだ終わっていなかった。
「ふむ、言うておることに間違いはない」
近頃は見慣れてしまった顔が、空気も読まず暦座に姿を現す。
はっきり言って、今でも「なんでこの人ここにいるんだろう」と芳彦は頭を悩ませている。
出て行け、と思っているのではない。ただあまりにも場違いすぎて、どうにも奇妙な気分になる。
「あ、お、岡田さん」
「おお、藤堂。息災か」
「あ、はは……一応」
岡田貴一。
南雲叡善を討つ為に助力してくれた彼は、聞けば江戸時代から生きる人斬りらしい。
力を貸してくれたとはいえ、そもそも然して面識のない相手だ。当初は一貫して小僧呼ばわり。とてもではないが打ち解けられるような相手には思えなかった。
しかし井槌にとってはそうではないらしく、一緒に酒を呑むこともあるという。その為か、時折酒瓶を抱えて暦座に訪れることがある。
こうして井槌と貴一、二匹の鬼と芳彦は知り合いになった。
合縁奇縁とはいうが、ここまでくると神様の悪戯ではなくもはや嫌がらせに近い。
「さて、それはよかろう。そこな男、なにやら藤堂に手を出そうとしていたと見受けるが?」
ぎょろりとした目で、先程の軟派な男を覗き込む。
おう、と短く井槌が答えれば、空気の漏れるような気色の悪い笑い声が漏れた。
「かっ、かかっ。ならば儂も助太刀しよう」
いつの間に取り出したのか、手には鈍い光がある。
刀ではなく、懐に納まる程度の短刀。しかしこの男ならば、それで十分すぎるほど人が斬れる。
助太刀など間違いなく嘘だ。顔は血生臭い愉悦に満ちている。
突き付けられた刃物に、軟派な男の顔が真っ青になった。
青くなったのは芳彦もである。やばい、とひどく慌てていた。
いつものように、迷惑な客に注意をした。それだけの筈が大事になってしまっている。
こんな所で喧嘩なんていけない。大変なことになってしまう、主に絡んできた軟派な男の命が。
というか死ぬ。間違いなく死ぬ。
「……何を騒いでいるんだ、お前達は」
どうすればと、あたふたしていると鉄のような声が聞こえてきた。
視線を向けて、芳彦は心から安堵する。
そこにいたのは心底呆れたと行った様子の甚夜と、こんな状況でも丁寧にお辞儀をする希美子と溜那だった。
知り合った鬼の中でも、常識のある男がやってきてくれたのだ。
「御機嫌よう……お取込み中ですか?」
「ん……」
状況をよく理解できず、惚けたような挨拶をする二人の少女も今は救いの神に見えた。
芳彦は挨拶もそこそこに甚夜へと訴える。
「じ、爺やさん助けてくださいっ。このままじゃ大変なことに!」
言われて甚夜は腕を掴まれた軟派な男、刃物を手ににじり寄る貴一、腕を掴んだままの井槌の順に視線を送る。
最後に芳彦を見て、成程と小さく呟いた。
「厄介事に巻き込まれたか」
どうやら状況を把握してくれたらしく、ずいと前へ進み、すれ違いざま芳彦の頭をポンポンと二度三度優しく撫でる。
向かう先は諍いの大本。よかった、助かった。気が緩んだせいで情けない声を上げてしまう。
「爺やさぁん」
「分かっている」
希美子の面倒をずっと見てきたというだけあって、外見は十八かそこらとしか思えないのに、その背中はとても頼りになる。
甚夜は子供達に悶着の場から離れるよう目配せし、安全を確保してから男達に言葉を突き付ける。
「井槌、岡田貴一。そこまでにしておけ」
振り返った二匹の鬼が怪訝そうに眉を顰めた。
おいおい、いきなり来てなに言ってんだ。口にせずとも井槌の視線が語っている。
しかし揺らがない。更に一歩二歩と前に進んだ甚夜は、軟派な男を睨んだまま落ち着いた調子で言った。
「殺すと迷惑がかかる。やるにしても四肢を砕く程度だ。二度と芳彦君に危害を加えぬよう、きっちりと型にはめるぞ」
「違いますぜんぜん分かっていません爺やさん!?」
止めるどころか一番現実的かつ残虐な提案だった。
「ふむ、それが無難か」
「おお、成程。よっしゃ、お前も手伝えや鬼喰らい」
しかも貴一や井槌まで同意する始末。突飛過ぎる発言に頭が痛くなってくる。
芳彦の隣ではその様を見ている希美子が朗らかに微笑んでいた。
「大変です芳彦さん。キネマ館にあるまじき過剰戦力ですわ」
「……洒落になってませんよ、希美子さん」
なぜそんな面白そうにあの光景を眺めていられるのか。
結局甚夜達の登場は騒ぎを大きくしただけ、芳彦は途方に暮れるしかなかった。
◆
「済まなかった、芳彦君。少し騒ぎ過ぎた」
「ほんとですよ、爺やさん……」
普段通りの調子で謝る甚夜に、芳彦は項垂れたまま答えた。
一応あの軟派な男は特に怪我もなく解放され、叫び声を上げながら逃げ帰った。泣き崩れた顔はこちらが申し訳なくなる程である。
「ていうかなんですか、四肢を砕くとか。怖いですよ」
「後で見当違いの復讐なぞされても困るだろう? あの手の輩は二度と牙を剥く気にならぬよう、徹底的に叩いた方がいい」
つまり井槌や甚夜がいなくなった後、もう一度芳彦に手出しせぬよう気を使ったということらしい。
その心遣いは非常に有難いのだが、方法があんまりにもあんまりだ。
向日葵から甚夜が歴戦の鬼だとは聞いていた。その言葉に間違いはなく、邪魔するものは叩き潰すが彼の基本思考なのだろう。
「助けてくれてありがとうございます。でも、流石にあれは物騒すぎますって」
「安心しろ、ただの脅しだ。無論、井槌や岡田貴一もな」
「え? そうなんですか?」
「そもそも、あの人斬りが本当に斬るつもりならば、瞬きの間に首が落ちている。私では止められん」
あまりに恐ろしいことを平然と告げる。
それの何処に安心できる要素があるのか、なんて言える筈もなく、芳彦は疲れた表情で肩を落とした。
「というか、希美子さんは案外落ち着いていますね……」
「当然でしょう? 爺やですもの」
「んっ」
溜那もこくこくと頷いている。
二人は最初から危害を加える気が無いと分かっていたらしい。何故か上気し頬を赤く染め、希美子は柔らかく微笑みかける。
これも付き合いの長さなのか、意外に肝が据わっているとなんだか感心してしまった。
「……それで、ですね」
「そうなんですか?」
「はい」
貴一は井槌と酒の約束だけをして早々に帰った。
その後、午後の上映が始まっても劇場には入らず、彼等はしばらく受付辺りで話し込んでいた。
特に希美子と芳彦は傍目から見ても仲が良く、思わず微笑ましい気持ちになる。
他愛ない会話は次の回の上映が終わるまで続き、それでも終わる気配がなかった為、適当なところで一端止めに入る。
「さ、話しもいいがそろそろ」
「あっ、そ、そうですね。すみません、爺や」
ようやく周りに意識が向かい、恥ずかしそうに希美子は俯いた。
思いの外長く話し込んでしまった。少し反省、「それでは今日は失礼しますね」とお嬢様らしく丁寧にお辞儀をする。
どうやら今回の目的は活動写真ではなく、ただ顔を見に来ただけらしい。
「なんだよ、結局今日は冷やかしか?」
笑いながら井槌がそう言えば、返す甚夜は口の端をどこか楽しげに吊り上る。
「そう言ってくれるな。お嬢様がどうしても芳彦君に会いたいとな」
「じ、爺や!?」
いきなりの発言に顔を赤くする。
からかいではない。今日は本当に、会う為だけに暦座を訪ねた。
理由の一つは芳彦の体調の確認。
二か月経った今、体に何か異常がないか知りたかった
もう一つの理由は、希美子の体調の確認だ。
結果は両方とも問題なし。もっとも初めから分かり切っていたこと、漏れるのは安堵よりも暖かな苦笑だ。
「では、な」
「もう、爺やは。……では今度こそ、失礼しますね、芳彦さん」
小さく手を振る希美子と、それを真似る溜那。まるで姉妹のような二人に芳彦は頬を綻ばせた。
そうして三人はキネマを見ずに帰っていく。
良く分からなかったが、楽しかったしいいか、と彼等を見送った。
暦座を離れ、しばらく歩いてから希美子はぽつりとつぶやく。
「爺や、分かりました。原因」
「そうか、それはよかった」
答えた甚夜の声は父性さえ感じさせる優しげなものだった。
今日三人が暦座を訪れた理由の一つは、芳彦の体調の確認。
もう一つは、希美子の体調の確認である。
『爺や、もしかしたら私、叡善様に何かをされたのかもしれません……』
泣きそうな顔で希美子は昨夜相談を持ち込んだ。
内容が内容だ、甚夜も冷静ではいられない。すぐに彼女の状態を聞き、しかしその途中でその原因に思い当たり気が抜けてしまう。
おそらく、というか間違いなく、それは南雲叡善の仕業ではない。
不安げな希美子を諭し、それを確かめる意味もあり彼等はこうして暦座を訪れた。
少女は言う。
南雲叡善の屋敷に攫われたあの夜から、時折心臓がおかしくなる。
突如早まったかと思えば、締め付けられたり。
心臓が自分の意思に反して動く。
初めて味わう奇妙な感覚。
原因は分からない。
ただそれは、よく芳彦がいる時に起こるのだと。
もう此処までくればオチは言うまでもないだろう。
「爺やの言う通りでした……」
そうして希美子は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに瞳を潤ませる。
「やっぱり心臓が変です。芳彦さんを見ると、なにか胸がきゅぅってなるんです!」
……まあ、有体に言えば。
今回の話に危険な出来事は何一つなく、誰かが死ぬような結末はあり得ない。
というか大層なことはまったくない。
つまるところ、一人の少女がちょっと大人になろうとしている、ただそれだけの話である。




