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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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127/216

『終焉の夜』・1




 時間は一週間以上前に遡る。

 場所は帝都東京。渋谷にある小さなキネマ館『暦座』。

 上映中、客足の途絶えた正面玄関で向かい合う少年少女。その表情は重苦しく、空気はぴんと張りつめていた。 


「それが、貴方の選択なのですね?」


 向日葵は静かに、感情の色を消したままそう言った。


“芳彦君が、決めてください。短い生に縋り、吉隠につくか。それとも死んでも希美子さんのために動くか。私はどちらでもいいと思います……ですから、貴方が望むように”


 いつか問うた、その答え。

 正直に言えば向日葵としてはどちらでもよかった。

 彼女にとって重要なのは甚夜の無事。それさえ確保できるのならば過程は問わない。

 希美子がどうなろうと芳彦がどうなろうと、良心の疼きはあったとしても、大切なおじさまに害が及ばぬのならば、どうでもいいというのが本音だ。


「……はい」


 藤堂芳彦は声を絞り出す。

 彼は吉隠の命に従い、鬼すら動けなくするという薬を赤瀬家の者達に飲ませるという。

 腹の臓器を軒並み切り裂かれ、体は既に生きられる状態ではない。それでも命を繋いでいるのは吉隠の<力>故に。

<戯具>……対象一人を“死なせない”<力>。

 言葉面は綺麗だが、その本質は死なせぬまま弄ぶためのもの。事実芳彦の命は吉隠に握られている。<力>を解かれた瞬間、彼は重傷を負った状態に戻りそのまま死亡する。

 吉隠に従わない限り、彼は生きることが出来ない。


「その結果、どうなるかは」

「分かって、います」


 力ない笑み、今にも泣き出しそうだ。

 しかし芳彦にはそうするしかなかった。他の選択肢など端からない。

 鬼すらも動けなくする強い薬。命に別状はないが、一晩は動けないままだ。

 そして甚夜には、希美子自身が薬を仕込む手筈になっていた。

 吉隠の悪趣味だ。守るべき対象に裏切られ、薬を飲まされ何も出来ず。

 目覚めた時には全て終わり、溜那も希美子も取り返しがつかない。

 それを知った時甚夜がどんな顔をするか、吉隠はその瞬間を楽しみにしているのだ。


「だから、協力をお願いします」

「はい、それは、構いませんが。おかげで私は飲むこともありませんし、こちらにとっても好都合です」


 戸惑いながらも向日葵は頷く。

 芳彦の目は暗く、けれどそこには確かな意思が、揺らがぬ強さが垣間見えた。


「あと、すみません、このこと。爺やさんには黙っていてほしいんです」

「言いませんし、言えません。知ればおじさまは、余計に無理をしますから。それに、多分伝えても薬を飲むと思います。だから、あんまり意味はないんですよ」


 向日葵の想像は恐らく外れておらず、それがちょっと悔しくはある。

 希美子は芳彦を人質にされ、吉隠に従うだろう。

 けれど甚夜は、彼女の差し出す薬を、そうと分かっていながら呑み乾す。

 少女の愚かな選択を誰が否定したとしても彼は認める。

 そしてその決意を汚さぬ為に、敢えて自身を窮地に追いやる。

 馬鹿な人だから。そこに合理などなくても、曲げられぬ生き方の為に、あの人は間違いなくそういう選択をしてしまう。


「知っていても薬を飲んで、その上で希美子さん達を守ろうとします。それなのに、失敗したら自分を責めて……本当に馬鹿なひと


 言葉面は辛辣でも響きは暖かい。

 幼げな容姿、にも拘らず浮かべた微笑みは慈しみに満ちている。そこにはほのかな愛情が見て取れて、だからこそ余計に芳彦は申し訳なくなった。


「ごめんなさい、僕」

「いいえ、芳彦さん。おじさまが希美子さんの選択を尊く思うように、私は貴方の選択を尊く思います。誰に否定されても、私は貴方を蔑むようなことはしません」


 零れる弱音を遮り、芳彦の手を両の掌で優しく包み込む。

 希美子の選択が間違いなら芳彦の選択もまた間違い。

 人はそうやって正しさも間違いも積み重ねて生きていく。それはきっと自分には出来ないことで。

 だから、彼を責めない。寧ろその在り方をほんの少し羨ましくも思う。

 向日葵が抱いた感情は、一種の憧憬だったのかもしれない。



 こうして芳彦の現状は甚夜に伏せられることとなった。

 向日葵はその選択を後悔しない。

 甚夜は甚夜で、芳彦は芳彦で、為すべきを為すと決めた。


「ならば私も、そう在るべきでしょう」


 小さな声は涼やかに消える。

 赤瀬家襲撃の前に起こった、小さな語らいである。




 ◆




 南雲の再興。

 時代の流れに負けた退魔の名跡を、今一度大正の世に打ち立てる。当初より僅かも揺らがぬ南雲叡善の目的である。

 彼が目指すのはつまるところ究極のマッチポンプだ。

 大正の世において退魔が重用されなくなったのは、近代化を背景とした怪異・あやかしの減少にある。

 ならば『この世を滅ぼしかねぬ、南雲にしか討てぬあやかし』を己が手で造り上げればいい。

 大正の世を覆し、魔が跋扈しそれを退魔が調伏する、古き日の本の国へと戻す。

 溜那と夜刀守兼臣はその為に必要だった。

 彼が持つ夜刀守兼臣の<力>は<鬼哭>。あやかしを刀身に封印する、封魔の妖刀。

刀に封ぜられた鬼を溜那へ降ろし、コドクノカゴは完成する。

 生まれるのは蠱毒にして狐毒。男を誑かし魔を身籠る。少女はそういう、現世を滅ぼす毒婦となる。

 即ち玉藻前をその手で作りだすことこそが叡善の目論見であった。

 ならば赤瀬希美子はなぜ必要だったのか。

 その理由だけは、甚夜にも読み切れなかった。


「おお、希美や。よう来た。嬉しいぞ」


 だから眼前の老翁が何を考えているのか、希美子には分からない。

 それでも彼の目論見が真っ当でないくらいは知れる。

 東京郊外にある叡善の私邸、燈の灯りだけが揺れる奥座敷には、攫ってきた溜那が転がされたまま眠っている。

 近くには監視として吉隠が、その傍には芳彦もいる。

 護衛なのか、叡善の後ろには複数の鬼が控えていた。

 逃げることは出来ない、そもそも芳彦の命は吉隠に握られている。

 甚夜は希美子自身が薬を飲ませた為動けない。

 つまり打開の手立てはない。状況は既に詰んでいた。

 自分で選んだ道とて恐怖はある。これから私はどうなってしまうのだろうか。あまりの不安に瞳は潤んでいた。


「ようやった、吉隠よ。溜那を奪われた失態、これで帳消しとしよう」

「あー、それまだ覚えてたんですね」


 しつこいなぁ、とでも言わんばかりの吉隠の態度。しかし今はそんなことで気分を害することもない。それほどに叡善は高揚していた。

 溜那を取り戻し、目の前には希美子がいる。鬼喰らいは動けない。

 素晴らしい、まさに千載一遇の好機。

 それに比べれば吉隠の無礼も、井槌や偽久の無能など気にもならなかった。どうせ終われば用済みになる駒だ。何を言おうと心に残る筈もない


「で、溜那ちゃんを早速?」

「いや、まずは希美よ。何事にも順番と言うものがあるのでのう」


 びくりと芳彦の体が震える。

 それを目敏く見付けた吉隠は優しく笑い、そっと彼の耳元で囁いた。


「余計な真似はしないでね。希美子ちゃんの最後くらい見ておきたいでしょ?」


 死にたくないのなら、妙な動きは見せるな。

 穏やかな脅迫を受けて、芳彦は俯いた。逆らえば死ぬ。何も言えなかった。

 俯いた彼の姿が痛ましくて、希美子は恐怖に怯える心を奮い立たせ、揺れる瞳のまま叡善を睨み付ける


「叡善様……なぜ、このようなことを」


 む、と叡善は意外そうにしている。

 捧げられた贄の反抗的な態度は予想していない。そもそも人格など端から興味もなかった。


「溜那さんに、芳彦さんにひどいことをして。叡善様は何をなさろうとされているのですか……?」


 芳彦を人質にされ吉隠に従った。その時点で命はとうに諦めている。

 それでも問わずにはいられなかった。希美子にとって叡善は、実の祖父である誠一郎以上に“優しいお爺ちゃん”だった。

 なのに、なぜこんな酷いことを。

 それは問いではなく縋っていただけなのかもしれない。話せば分かってくれるのではないか。また優しい叡善様に戻ってくれるのではと、淡い希望が込められている。


「儂の目的は初めから何も変わっておらぬ。南雲の再興……ただそれだけよ」


 けれど、そんなものは簡単に砕かれた。


「あれは今宵、人から鬼神へと姿を変える。コドクノカゴ……男を誑かし魔を産む毒婦となって、大正の世を滅ぼすのだ」


 そこまでは甚夜から聞いていた。

 だけど信じていたかった。優しいお爺ちゃんが、そんなことする訳ないと、心のどこかでまだ思っていた。

 なのにこの人は、本当に溜那を化け物へと作り変えようとしている。


「しかし足らぬ。魔が跋扈するならば、それを討ち払う退魔が必要となる……それには、儂では役者が足らぬ」


 しわくちゃの顔を更に歪ませ、断続的に声を発している。

 おそらくは笑っているのだろう。しかし眼を大きく見開き、狂ったように体を震わせる叡善は、とてもではないが正気とは思えなかった。


「だからお前が必要なのだ、希美や」


 やけにぎらついた、けれどねばつくような視線。

 それがあまりにもおぞましい。


「儂は人ぞ。命を喰らう異形の業こそ得たが、人を捨てることはできなんだ」


 技術的にではく、心情的に。

 退魔として、和紗の父として、仇敵たる鬼に身を落すなど出来なかった。

 だからこそ南雲叡善には限界がある。

 幾ら命を溜め込んでも、年老いた体は日に日に衰え、いずれ死へ至る。

 その時には蘇生も意味をなさない。

 古椿から<力>を得て、人の枠から食み出ているように見えるが、叡善は未だ人のまま。

 故に<力>の及ばぬ範囲では人の理に従わねばならない。 

 殺されても生き返れるが、自然死ではそれ以上生きられない。蘇った先から死んでいくだけ。

 彼が人である以上、寿命だけはどうしようもない。


「いやはや、間に合わぬかと思ったが、結局のところ全てが上手くいった。そしてお前は今年で十六。まさに僥倖と言うものであろう」


 それこそが新しいコドクノカゴを準備せず甚夜からの奪還を企んだ最たる理由。

 叡善には時間がなかった。既に八十を超す老体。人外染みた蘇生により甚夜も気付いていなかったが、本来ならばいつ死んでもおかしくなかったのだ。


「それは、どういう」

「寿命を迎える前に新しい体を手に入れた。これで再び命を繋ぐことができようぞ」


 頭が、まっしろになった。

 叡善は希美子を新しい体と呼んだ。その意味を考えようとして、しかし思考が全く動いてくれない。

 ただ背筋に冷たいものが走り抜け。体がガタガタと震えだす。

 強烈な不快感に胃が逆流してきそうだ。


「なに、安心せい。ちくとばかり脳を入れ替えるだけよ。現代の医学では出来ぬだろうが、今の儂には古椿から得た異形の業がある……失敗はあり得ぬて」


 ようやく思考が巡り初め、同時に理解する。

 ああ、だからなのだ。

 祖父である誠一郎が、学校へ行かせず屋敷に閉じ込め、自分を大切に大切に育ててきた理由が。

 叡善が会う度に希美子の体を気遣っていた理由が分かってしまった。


「それでは、いつも私を気遣ってくれたのは……」

「傷ついたり、途中で死なれては困るのでな。いや、まったく、よう健やかに育ってくれた。嬉しいぞ、希美や」


 つまり私は。

 最初から彼に捧げられる贄として。

 命を繋ぐ為の新しい体として育てられたのだ。


「そん、な」


 その事実に思い至り、堪え切れず涙が零れる。

 以前開かれた夜会、叡善は“新しい当主を紹介する”と言っていた。今になってその言葉の意味を理解する。

 南雲叡善は、希美子の体を乗っ取り、自らが南雲の新たな当主となるつもりだったのだろう。

 自分を支えていたものが足元から崩れていくような錯覚。違う、錯覚ではない。

 事実として希美子は立っていられなくなった。全身から力が抜けて、ただ涙を流すしか出来ない。


「しかし、その体になってまで“叡善”と名乗る訳にも行くまい。さて、どうするか……そうじゃのう、和紗と名乗ろう! 大正の世を滅ぼさんと暴れ狂う鬼神、コドクノカゴを葬り去る退魔。南雲家の再興を成し遂げた偉大なる当主、南雲和紗! おお、なんと心踊る!」


 もはや希美子のことなど見ていない。

 妄想としか呼べぬ戯言を垂れ流し、笑い続ける叡善は狂人にしか見えない。

 従っている吉隠でさえ、ぎこちない微妙な顔をしていた。


「うわ、気持ち悪ぅ……希美子ちゃんの中身があの妖怪爺とか、あんまり想像したくないなぁ」


 そもそも忠誠を誓っていた訳でもない。

 吉隠は吉隠で目的があり、取り敢えず下についたというだけ。流石に叡善の目論見は気持ちのいいものではなかったらしい。

 舌をぺろりと出して、あからさまに肩を落としていた。


「やだね、頭のおかしい爺さんって。ねえ、芳彦君……芳彦君?」


 芳彦は転がされたままの溜那の傍らで事の成り行きを見る。 

 声をかけても反応は薄い。何事かをぶつぶつと呟き、俯いたり二人の少女を交互に見たりと落ち着きがない。


「どしたの、大丈夫?」


 顔を覗き込んで見れば、恐怖に怯えている訳でもなく、存外目はしっかりとしている。

 だからこそ多少奇妙であり、そうこう考えているうちにせわしない様子も収まった。

 かと思えば、走り出す。

 逼迫したこの状況で、何の力も持たぬ少年は希美子の下へ駆け寄り、堂々と南雲叡善の前に躍り出た。


「芳彦、さん?」


 なんで彼が。

 涙で揺らいだ視界に映る背中。小さく頼りなく、けれど微動だにしない。

 吉隠に命を握られ従っていた筈の芳彦が、すぐ近くにいる。守るように立っている。

 突き付けられた事実に打ちのめされ淀んだ思考では、彼の行動の意図が理解できない。


「……何のつもりだ、小僧」


 理解できないのは叡善もまた同じ。

 塵芥風情がなにを立ち塞がるか。

 大切な新しい体の近くに立つ何処の馬の骨とも知らぬ小僧を不快だと一瞥する。

 歴戦の退魔にして人喰い。狂気さえ孕んだ眼光は身の毛がよだつ程に恐ろしく、それにも怯まず芳彦は口を開く。


「……向日葵ちゃんの<力>って、一度触ったことのある人の位置を知ることが出来るそうなんです」


 意味の分からぬ譫言に叡善の嫌悪は強まり、反して吉隠は感心し小さく吐息を漏らした。

 吉隠は、芳彦を情報源としては期待していない。ただ希美子を良い様に操る為の人質でしかなく、そこまで把握しているとは思っていなかった。

 とはいえ、だからどうという話でもない。

 向日葵は古椿の姉、情報は簡単に得られた。

 長姉とはいえ容姿は九つばかりの童女。直接的な戦闘力はなく、せいぜいがマガツメから与えられた階の鬼に命令を下す程度だ。

<力>の名は<向日葵>、触れたことのある対象一人への遠隔視である。

 そのため迂闊に希美子らを攫うことは出来なかったが、今は最大戦力である鬼喰らいが臥せっている。

 もはや彼女の<力>になんの意味もない。 

 しかし芳彦は勝ち誇るように口の端を釣り上げる。


「だから、向日葵ちゃんも最初からこの家のこと知っているんですよね。だって、僕は吉隠さんに連れられて何度もここに来てるから」


 何を、と問うまでもない。

 芳彦の言葉が何を意味しているか、叡善も吉隠もすぐさま理解した。


『おぉぉぉぉ……!』


 襖や障子を破り、奥座敷に飛び込んでくる下位の鬼ども。当然、叡善の手のものではない。

 同時に鼻腔を擽る煙の匂い。気温が少し高まっていると気付く。ぱち、ぱちと音が聞こえてくる。

 そして、一気に赤々とした炎となって部屋を襲った。

 何者かが屋敷に火を放ったのだ。

 それだけではなかった。幾らなんでも、こんなに早く火の手が回る訳がない。火薬か油か、仕込みが無ければこうはなるまい。


「小僧……!」

「駄目ですよ、お爺さん。部屋に閉じこもってばっかりじゃ。この屋敷女中さんいないし、吉隠さんも僕の自由を許してくれたから、すごく小細工しやすかったです」


 へへっ、と悪戯っ子のように笑う。

 しかし額には汗、顔色も悪い。恐怖に負けそうな心を無理矢理奮い立たせているのは簡単に分かった。


「あれ、おっかしーなぁ……芳彦君、ちゃんと選んだんじゃなかったの?」


 自分が生きる為に、吉隠に従った。

 吉隠はそう思っていたし、そこは希美子も同じ。それでも彼を救いたいと思ったから、叡善の所へ行くと決めた。

 けれど、どうやら勘違いだったらしい。 


「はい、僕はちゃんと選びました。どうせ死ぬんなら、元凶を一発殴ってからにしようって」


 呼応するように、八尺はあろうという一際大きな鬼が現れた。

 狙いは吉隠、大鬼は剛腕を振るう。避けようと飛び退き、その時点でこちらの勝ち。

 大鬼の手は軌道を変え溜那へと伸び、そのまま彼女を掻っ攫う。

 

「やりました、芳彦君っ」


 戦いの場にはそぐわぬ明るく無邪気な、喜びを抑えきれない声。

 大鬼の肩には当然とでも言うべきか、向日葵の姿があった。


「向日葵ちゃん! よし、希美子さんはこっちに!」

「え、あ。手! 芳彦さん、手、手が!?」


 溜那は眠ったまま、しかし無事は確保できた。

 叡善の気が逸れた隙に希美子の手を引っ張って、芳彦は向日葵の下まで走る。

 状況が状況だが、年齢の近い男の子に手を握られた希美子の顔は赤い。勿論芳彦にその辺りを慮る余裕はなく、微妙に噛み合わない少年と少女は、けれど一目散に逃げ出す。


「この、糞ガキめがぁ!」


 一連の無礼が癪に障ったらしい、こめかみに血管を浮かび上がらせ、激昂のままに叡善は叫ぶ。

 傍らに控えていた護衛の鬼達が、二人の背後から襲い掛かる。

 ここまでは見事にはまった。従っている筈の芳彦が屋敷に仕掛けをして火事を起こし、向日葵が配下の鬼を持って溜那を助ける。希美子の無事も確保をする。

 まさしく目論見通り、しかし足らない。

 向日葵に戦闘能力はなく、芳彦は言わずもがな。造られた下位の鬼程度では、妖刀を操る叡善はおろか吉隠にも及ばない。

 戦いとなればあちらの配下の鬼にさえ殺される。つまり奇襲をしても、それを成功させるだけの力が彼等にはなかった。


「芳彦さん、後ろ」

「止まっちゃダメです!」


 必死に走り、それでも簡単に追いつかれる。

 重圧がすぐ後ろに迫っている。

 配下の鬼共は芳彦の頭蓋へと爪を伸ばし。


「かっ、かかっ。なんとも澄んだ小僧よの、彼奴を殴る為ならば命はいらぬと抜かすか」


 そんなことは、百も承知。

 向日葵とて敵の本拠地に斯様な戦力で挑むほど愚かではない。多少癪に障るが、腕のある鬼に頭を下げて、どうにか助力を乞うた。

 芳彦は赤瀬家の者に薬を飲ませろと命じられた。だから、彼に呑ませていなかったとしても命令に背いたわけではない。 

 刹那に斬り伏せられ積み上がる死体。それを為したのは、大正の世には見合わぬ古めかしい恰好をした小男である。


「貴様は」

「なに、時代遅れの人斬りよ」


 問われるよりも先に、余裕綽々といった態度で岡田貴一は答える。

 彼に溜那や希美子を助ける義理はないが、斬れるならば何でもいいという男だ。喜んで芳彦たちに協力をした。

 ここまでが芳彦と向日葵の策略。

 現状を甚夜には話さない。代わりに二人で協力して、叡善を潰す。

 どのみち死ぬのだ、ならば一矢報いたいと願った芳彦。

 甚夜の安全を確保し、更には古椿を造り変えた怨敵を討てる向日葵。

 二人の利害は完全に一致し、斬れれば満足だという貴一の欲求も満たせる。吉隠に命を握られた芳彦が頭を捻って考えた、全てを終わらせる最後の一手である。


「よいのか、儂にかまけてる暇はなかろう」


 貴一が気色の悪い笑みを浮かべた。

 ここからは、向日葵と芳彦の思惑から外れている。

 叡善の背後の炎が揺らめいたかと思えば、一気に距離を詰める人影。反応出来る筈もない、唐竹一閃、頭蓋から叩き割られる。


「ぐがぁ……!?」


 意識の外から命を刈り取られ、奇妙な声を上げる。

 それを為した男は更に老翁の心臓を抉り、枯れた木のような体を蹴り飛ばした。


「……やっぱり、来ちゃいますよね。本当に、馬鹿なひと


 向日葵の呟きはひどく暖かい。

 こちらの気遣いを無視して動く彼が、しかしたまらなく愛しい。そういう男だから、向日葵は母のことなど関係なく彼が大好きだと公言して憚らない。


「あ、あ……」


 漏れた声は誰のものか。

 燃え盛る屋敷を、男は場違いなくらいゆっくりと進む。

 彼の姿が此処にある。それが意外で、けれどそうでもない気がして。整理できない感情に、希美子も芳彦も言葉を失っていた。


「芳彦君……済まなかった。私は君を見くびっていたようだ」


 自分の命を犠牲にしてまで希美子を守ろうとしてくれた。

 しかも何の力も持たない一般人が、である。

 多分本当に強いというのはこういうことを言うのだろう。浮かぶ表情は戦場の最中に在ってとても穏やかだ。


「……爺や」


 ようやっと動いた口で呟く。希美子はまたも涙を流した。

 守ろうとしてくれた、なのに裏切ってしまった。それでも、彼は此処に来た。

 理由なんて考えるまでもない。

 葛野甚夜は動ける筈もない体で。いつか交わした約束を守る為に、ここまで来てくれたのだ。


「私、爺や、わた、し」


 貴方はいつだって私を守ってくれたのに。

 溢れ出そうになる希美子の後悔を、甚夜は小さく首を横に振って塞き止める。目は優しい。其処にいるのはいつも傍にいてくれた、昔変わらない爺やだ。


「お嬢様、貴女は間違っていない。芳彦君の命を守ろうとしたのでしょう。ならば、それを後悔してはいけません」


 分かっていて飲んだのだから。

 貴女は間違っていない。その選択が尊いと思ったからこそ、止めることも拒否することもしなかった。

 後悔はしていない、裏切られたとも思っていない。それどころか甚夜は嬉しかった。

 幼かった希美子が、大切なものを選べるようになった。本当に大きくなったものだと、口元を綻ばせる。


「……何より、する必要もない」


 一転、声色が低くなった。

 希美子達を庇うように立てば、叡善は既に蘇生し、こちらに際限ない敵意を叩きつける。

 対する甚夜の視線も鋭く、射殺さんばかりである。


「どのみち、結果は変わらない。気に病むこともないだろう」


 少女の選択を否定しない。

 そもそもどのような道を選ぼうが、甚夜の為すべきは変わらず、結果も変わらない。

 希美子も溜那も零さず守り切り、最後には大団円。過程が変わったとしても、結局はそうなる。いったい何を気に病むことがあるのか。


「鬼喰らい、やはり来るか」

「斬らねばならぬ相手がいるのだ。寝てもいられまい」


 そうだ、南雲叡善だけはこの手で斬らねばならぬ。

 希美子を溜那を傷付け、マガツメの娘をも弄んだこいつだけは。

 為すべきはちゃんと見えている。ならば迷うこともない。

 決意を胸に、二刀を構え、甚夜は高らかに宣言する。


「南雲叡善……お前との付き合いも随分と長くなった。だが、今宵で終いとしよう」




 そうして、終焉の夜が始まる。





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