『去りてより此の方、いつかの庭』・6(了)
重い瞼を抉じ開け、ぼやけた視界に映る夜の空。
星の光も滲んで、幻想的というよりも濁って見える。
身動ぎすればぎしぎしと筋肉が痛む。体がだるい。血を失ったせいだろうか、頭が上手く回らない。
「死んで、ねえ……」
けれど生きている。
どうにかではあるが井槌は命を繋いだ。
その是非は、今の彼には分からなかったが。
「おう、目ぇ覚めたか」
紫陽花屋敷の庭で大の字に倒れ込んでいる井槌を見下ろすのは、四代目秋津染吾郎である。
先程の戦いでは姿を見せなかったが、どうやら鬼喰らいに協力しているらしい。事の顛末はあらかた把握しているようだった。
「秋津の四代目……」
「おう、久しゅう。悪いな、伏兵はみぃんな片付けさせてもらったわ」
そもそも井槌らは陽動。今回の目的は甚夜らではなくマガツメの娘にあった。
派手に暴れて戦力を集中させ、その隙に向日葵を殺害する。
しかし目論見はものの見事に看破され、つぎ込んだ鬼共は容易く壊滅。流石は秋津の四代目。見事なものだと井槌は舌を巻いた。
「そやけど、お前さんもしぶといなぁ」
まさか生き残るとは。染吾郎はからからと笑う。
一応は敵対関係だというのに、旧友に語り掛けるような調子である。
対照的に井槌の気分は沈み込んでいて、命が助かったからといって笑う気にはなれなかった。
「俺は、生かされたのか……」
全霊の勝負だった。
なのに、鬼喰らいにはこちらの命を慮る余裕さえあった。
尋常の立ち合いで情けを掛けられ命を繋ぐ。
なんと滑稽なことか。無様にも程がある。遥か格上の相手だと理解しながらも、井槌は悔しさに奥歯を噛み締めた。
「いやぁ、あいつは殺す気で斬った思うで? 予想よりお前さんが頑丈やったって話やろ」
年の功か、内心を察した染吾郎はやはり軽い調子で井槌の懸念を否定した。
半分事実で半分嘘だ。
甚夜が殺す気で斬ったのは間違いない。野茉莉の為になら、東菊を殺せてしまう男だ。然程面識のない鬼に手加減はしない。
だが相手の死を確認せず気を抜くほど迂闊でもない。
ならば「殺す気で斬ったが、死ななかった。生き残ったなら止めを刺すこともない」という判断だ。
手加減をした訳ではなく、けれど態々殺そうとも思えなかった。つまり甚夜は、その程度には井槌を気に入ったのだろう。
「やると決めたら誰でも斬る、そういう男や。情けで生かすような甘いことはせん。あいつは全力で、お前さんも全力。……ちゃんと全霊を賭した尋常の勝負やった。そいつは間違いない」
「そう、か」
手加減されたのか。
ふと過った引っ掛かりはそれで消えた。鬼喰らいと浅からぬ付き合いであろう染吾郎の太鼓判だ。素直にそれを受け取り、井槌は寝転がったまま大きく深呼吸をした。
それでも気は晴れないのか、表情はどこか疲れて見えた。
「んで、どうする。納得いかんのなら今度は俺が相手になんで」
「いや、そいつは遠慮しておくさ。素手じゃ勝てる訳もねえ」
染吾郎の提案を弱々しい笑みで拒否する。
ガトリング砲を失った今、井槌は<力>を持たぬ下位の鬼に過ぎない。
稀代の退魔と謳われた四代目秋津染吾郎に追い縋れるとは到底思えないし、なにより体が動かない。怪我のせいではなく、心が沈み込んでしまって、動こうという気にはなれなかった。
「俺は」
ぽつりと呟く。
大の字に横たわり夜空を見上げ、誰に問われることもなく井槌は話し始める。
誰かに聞いてほしかったのかもしれない。絞り出す声は懺悔に似ていた。
「鬼が、時代に負けて淘汰されていくのを見ていられなかった。文明が発達し、夜が明るく照らされ。刀が捨てられ銃器が横行し。俺達あやかしの居場所はなくなっちまった。強い鬼なんて物語の中だけだ。……今や俺たち鬼は、人間に負けるくらい弱い」
文明が発達した大正の世において、多くのあやかし達は取るに足らぬ存在でしかなく、鬼もまたかつて語られたような絶対の暴威ではなくなっていた。
弱い鬼達は近代化の波に押されて、時代の隅っこに追いやられ。打ち倒されぬよう逃げて、身を隠して。
多分いつか誰からも忘れられ、おとぎ話でのみ語られる架空の存在になる。
「悔しかったんだ。人にすら負けるあやかしに何の価値がある? だから今をぶっ壊したかった。鬼は鬼として、いつの時代であっても強く在りたかった」
それが認められなかった。
だからこそ井槌は南雲叡善についた。方法は何でもいい。ただあやかしが、誰の目から見ても脅威であってくれさえすれば。
願ったのは、人が人として、鬼が鬼として生きられる場所。
かつて確かに在った景色───人が鬼を恐れ、神を敬う、当たり前の形を取り戻したかった。
「だが違ったな。今の時代にも強い鬼はいた。弱かったのは鬼じゃない、ただ俺が弱かっただけだ。情けねぇ……そんなことにも気付かず、てめえの弱さを認められないで。はは、これじゃ癇癪を起こすガキとなにも変わりやしねえ」
鬼喰らいは強かった。
大正という世にも、銃火器にも負けない古き鬼は確かに存在していた。
それを知った今、南雲叡善に与した自身が、ひどくちっぽけに感じられる。
悔しくて、情けなくて、色んなものに顔向けできないと井槌は掌で顔を覆い隠す。
「ちくしょう。弱いってのは、惨めだなぁ……」
もしも自分に鬼喰らい程の力があれば、違う生き方をしていただろうか。
少なくとも溜那や希美子を生贄にしてまで目的を為そうとはしなかった筈だ。そう考えれば殊更己の弱さが醜悪に思えて、湧き上がる感情に肩を震わせる。
「ははん、分かった。お前さん、案外若いやろ?」
そんな井槌を前にして、染吾郎は微笑ましいものを見るように目じりを下げた。
事実微笑ましく、懐かしい気分だった。目指すべき理想と、それを為せぬ弱い己。かつての自分を見るような不思議な感覚に、自然と言葉尻は優しくなる。
「焦り過ぎや。あいつは修羅場潜ってここまで来た。百年を経てもいないお前さんが届かんのは当たり前やろ」
人のことを言えた義理ではないが、と染吾郎は内心苦笑した。
若かりし頃は三代目と自分を比べて、自分は“秋津染吾郎”に相応しくないのではと随分思い悩んだものだ。
それでもこの歳までどうにかやってきた。だからこそ見えてくるものもある。
「鬼の寿命は千年、まだまだ時間はあるやろ。自分が弱いって思うんなら、悩みゃええ。悩んで悩んで、いろんなことを経験してみぃ。弱い自分に失望すんのはちいとばかり早い。先達に比肩する答えを求めるには、お前さんはまだ若すぎるわ」
そう締め括った染吾郎が、井槌には眩しく見えた。
稀代の退魔の名は伊達ではない。改めて思う、秋津染吾郎は強かった。それは能力が高い、術に優れるという意味ではなく。歳月を重ねた人間としての、確固たる在り方である。
それは無駄に生きてきた今の自分にはないものだ。
こういう強さもあるのか。
知らなかった強さの形を見せつけられ、井槌は小さく溜息を吐いてから口の端を釣り上げた。
「……なんつーか、お前も相当な変わりもんだな。鬼に、しかも敵に説教する人間なんざ初めてだ」
「ジジイってのは説教臭いもんや。あと、鬼ってのはともかく敵やないと思うけどな」
余裕めいた態度の裏にある確信。染吾郎は、もはや井槌は敵ではないと考えている。
それが不思議で井槌は眉を顰めた。
「どういう意味だそりゃ」
「どういうもなにも、ここまで来てあんの腐れジジイに従うような阿呆ちゃうやろ、お前さんは」
まあ、これはあいつが言っとったんやけどな。
そう付け加えた染吾郎は、なんとも誇らしげだった。
「ああ、そうだな……確かにそうだ」
成程、鬼喰らいの予想通りだ。
身命を賭し戦いに臨み敗北した。大正の世にも古き鬼はいるのだと知れた。
願いは叶ったのだ。ならば年端もいかぬ娘達を利用しようとする妖怪爺に従う道理もない。
鬼喰らい達と敵対する気もなくなった。
力は及ばず、己の弱さを見透かされ。
けれど鬼喰らいは“古き鬼”と認めてくれた。秋津の四代目は弱さの先、積み上げた物の価値を見せてくれた。
だから井槌は、驚くほど素直にそれを受け入れた。
「完全に俺の負けだ。今更抵抗はしねえよ」
敗北が心地いいなんて初めて知った。
倒れ込んだまま井槌は全身の力を抜いて快活に笑う。
清々しい心持で夜空を見上げる。星の瞬きがいつもよりきれいに見えたのは、多分気のせいではないだろう。
◆
暗い部屋にはランプの灯が滲んで揺れている。
透き通るような静けさに、灯りの音さえ聞こえてきそうだ。
「静かに、なりましたね」
自室のベッドの上で膝を抱える希美子は、陰鬱な表情で窓を見る。
カーテン越しでは夜の星さえ見えなくて、それに少し安堵する。外の様子は気になるが、同時に知りたくないと思ってしまう。
今、自分を守るために爺やが戦っている。静かになったということは決着がついたのだろう。
どちらが勝ったのかは分からない。だから、知りたくない。もしかしたらの想像が希美子には怖くてたまらなかった。
「ふふ、大丈夫ですよ、希美子さん。おじさまは負けません」
無い胸を張って、にっこりと微笑む向日葵。希美子より年下に見えるが彼女は鬼、しかも爺やが言うには鬼神の娘であるという。
正直なところ、とてもではないが信じられない。淡い色合いの柔らかく波打つ髪、細面の整った顔立ち。年齢は九つか、十くらいだろうか。向日葵は細面の綺麗な少女にしか見えない。
「ですが、向日葵さん」
「分かってます。自分が狙われていることより、おじさまの無事が心配なんですよね」
しっかりと見透かされていた。
向日葵の言う通りだ。希美子は自身に迫る危険よりも、そんなものの為に無理をする甚夜の方が心配だった。
幼い頃からずっと世話をしてくれた爺やが、自分のせいで命を落したら。頭の中で嫌な考えがぐるぐると回っている。
「心配いりません。数ではあちらが上ですが、それを含めても勝算あり。そう読んだからこそおじさまは動いたんですよ。だいたい、おじさまを真っ向から殺せる鬼なんて探してくる方が難しいです」
幼げな容姿にそぐわぬ物騒なことを、さらりと口にする。
成程、その様子は確かに彼女が外見通りの少女ではないのだと思わせる。同時に、鬼神の娘でありながら、気遣いを忘れぬ優しい子であるのだ。
「……凄いですね、向日葵さんは」
「なにがですか?」
「このような状況なのに落ち着いてて。私は、不安でどうにかなってしまいそうなのに」
希美子は陰鬱そうに瞼を伏せる。
幼い女の子がこうまで悠然と振る舞えている。だというのに平静でいられない自分が、ひどく情けなく思えた。
「一応言っておきますけど私、希美子さんよりだいぶお姉さんですからね?」
「つーか、婆さんの域やろお前は」
ノックもなくガチャリとドアを開け、入って来るや否や、秋津染吾郎は皮肉気に笑いながらそう言った。
彼は今夜の護衛。甚夜が遅れを取った時、希美子と向日葵を逃がす為に控えていた。
見た目はただの老人だが稀代の退魔と謳われた使い手だ。その腕前は折り紙つきである。
「むぅ。本当に、秋津さんは失礼ですね。前の秋津さんはもっと優しかったのに。それに、女の子の部屋に“のっく”もなしに入ってくるなんて最低です」
鬼であってもやはり女性。年齢の話は嬉しくないのか、不服そうに頬を膨らませた。
しかし向日葵の怒りなぞ何処吹く風、軽く受け流し染吾郎は希美子に向き直る
「俺はお師匠ほど人間ができとらんからな……っと、嬢ちゃん、みぃんな終わったで」
軽い調子で伝えられた言葉、あまりに軽すぎて一瞬反応が出来なかった。
きょとんとする希美子が面白かったのか、ゆったりと笑い染吾郎はもう一度言い直す。
「襲ってきた鬼は全滅、井槌……生き残った奴にも戦意はなし。そんで、あいつも今帰って来たわ」
言いながら立ち位置をずらせば其処にはもう一つ、いや、もう二つ人影がある。
人影は一歩二歩と進み、ランプの明かりに照らされて、段々と輪郭が見えてきた。少女を抱き上げた、六尺近い男性。その姿に安堵の息が漏れる。
「ただいま戻りました」
「ん……」
いつも通りの仏頂面で、何の気負いもなく。こちらの心配なぞ意も解せず、当たり前のように甚夜は立っている
着物はところどころ破れているが怪我は見当たらない。腕に抱えている溜那にもだ。
疲労の色さえ見せず、散歩帰りのような気軽さで彼は戻ってきた。
「爺や……」
抱えていた溜那を下し、小さく一息を吐く。
甚夜もまた希美子の無事を知り安堵したのだろう。纏う空気は微かに和らいだ。
どれだけ必死になっても守れないことの方が多かった。だからこそ、すべて終わった訳でもないというのに、ほんの少しだけ気が緩み微かな笑みとなって零れ落ちた。
「御無事で何よりです、希美子お嬢様」
「それ、私のセリフ、です。本当に、よく無事で……」
思わず目が潤み、溢れ出る感情に艶やかな唇が揺れている。
よたよたと、まるで子供だった頃のような拙い歩みで甚夜の元まで近寄る。
「いつもは窘める側なのに、自分ばかり無茶をして」
「まったくです。これではお嬢様に強く言えませんね」
「……ばか」
吐息のかかる距離。きゅっ、と弱々しく彼の衣服の袖口を掴む。
震えた指先から伝わるのは、色恋の甘やかさよりも迷子の頼りなさだ。
「でも、お帰りなさい…爺や」
上目遣いで甚夜を見る希美子は、涙に瞳を濡らしながらも、心からの笑顔を見せてくれた。
今も時折、あの頃を思い出す。
沢山のものを失くしてきた。
本当に大切で、なによりも守りたくて。
それでも、この指の隙間をすり抜けて行った愛しい欠片達。
失くしたものは確かに多かった。けれどまだ残っているものがある。
だからどうかこの笑顔を失わぬようにと、甚夜は誰にも気付かれぬよう小さく己の心に誓った。
「でも、正念場はこれからですね……」
呟いた向日葵の声は、誰にも届かなかった。
◆
襲撃は凌いだが夜も遅い。
向日葵は一応の護衛として希美子の部屋に泊まり、井槌の見張りとして染吾郎も滞在することとなった。
溜那も離れへ戻り既に就寝している。井槌との戦いに、<合一>の連続行使。流石に疲れた為甚夜も風呂場で軽く汗を流し、自室のベッドに就こうとしていた。
「……爺や、まだ起きていますか?」
ちょうどそのとき控えめなノックの音が響いた。
扉を開ければ、お盆を手にした希美子がおずおずといった様子で立っている。寝間着姿、少し肩が震えているのは寒いからか、それとも他の理由があるのか。
「お嬢様、どうされましたか」
「いえ……あの。今夜は」
恥ずかしそうに、けれど同時にとても寂しそうな微笑みを希美子は浮かべる。
「その、爺や、の部屋で。爺やと一緒に眠らせて欲しいのです。……ダメ、でしょうか」
その言葉に思わず面喰ってしまう。
普段ならば“十六になる女子がはしたない”と諌めたかもしれない。
しかし希美子の目は不安に揺れ、縋るようでさえある。その願いを拒否することは甚夜には出来そうもなかった。
「向日葵さんも、おじさまの部屋なら護衛も大丈夫だと」
「……分かりました。今夜は色々ありましたから、不安だったのでしょう。眠るまでの話し相手を務めさせていただきます」
「ありがとう、ございます。そうだ……代わりと言ってはなんですけど、爺やに、お茶でもと思って用意してきたんです」
たどたどしく、俯きながら希美子はそう言った。
部屋の前で立たせたままというのもよろしくない。どうぞ、手振りで招き入れば、遠慮がちに恐る恐る足を踏み入れる。机の上にお盆を置いて準備を始めた。
「どうしたのですか、急に」
「爺やに、その。今夜のお礼を。お母様からお茶の入れ方教えて頂いて。まだ慣れてないですが、爺やにも味わってもらいたいなって。少し待っていてください」
かちゃかちゃと音を立てる茶器。
甚夜はベッドに腰を下ろし、部屋の机で紅茶の準備をする少女の背中を眺めている。確かに慣れてはいないが、その後ろ姿はどこか志乃と重なった。
「……大きく、なられましたね」
甚夜が感慨深げにそう呟けば、一瞬動きが止まった。
褒められてもあまり嬉しそうではなく、寧ろ困ったように希美子ははにかんだ。
「そうでしょうか……いえ、きっと、そうなんですね。お待たせ、しました」
緊張しながら、震えた手でカップを甚夜に差し出す。
ふわりと優しく花のような香。
受け取り、淹れられた透き通る琥珀色を見れば少しだけ穏やかな気分になる。
「ありがとうございます。……希美子お嬢様手ずから入れて頂けるとは思ってもみませんでした」
「そう、ですか?」
「ええ。私も歳をとるものです。あんなに小さかったお嬢様が……」
それは言ってはいけなかった言葉だったのか。
振り返りこちらを見る彼女の瞳は、寂しげに揺れている。
だから甚夜は悟った。
───望む望まざるにかかわらず、生涯には選択の時というものがある
誰にだって訪れる。
心から大切に思う沢山のものの中から、たった一つを選ばなければならない時というのは、必ずある。
そして希美子は、ちゃんと選んだのだろう。
「やめてください、爺や。……さ、どうぞ召し上がれ」
勧められ、甚夜は紅茶に口をつけようとして、ぴたりと手を止めた。
震えた指先の意味、不安そうに揺れる瞳の理由。気付かないほど彼は鈍くない。
けれど、だからこそ静かに落すような笑みを見せた。
「本当に、大きくなられた」
しみじみと思う。
まるでこの行為を褒めるような穏やかさに、希美子は思考を止められた。その瞬間を狙ったように、彼女が声を出すよりも早く紅茶を一気に飲み干す。
どうして、と。言えはしなかったが、希美子の目はそう問うていた。
「お嬢様が淹れてくださったのです。残しはしませんよ」
全てを肯定するような力強い声で、甚夜は堂々と言い切る。
まぎれもない本心だ。だからこそ目は逸らさない。
嘘偽りのない想いならば、真っ直ぐそれが伝わるように。
「……さあ、もう夜も遅い、そろそろ休みましょう」
静かな、落すような笑み。カップを机の上において、甚夜は床に就いた。
遅れて希美子も同じベッドに入る。外見だけで判断すれば、十八の青年と十六の少女。そういった関係に見えなくもない。
しかし優しく少女の髪を梳く手は、男のそれではなく父か祖父といった風情である。
「そういえば、以前も我儘を言って爺やの布団に潜り込みました。よく覚えています」
「そうでしたね。怖い夢を見たと言って、震えながら私にしがみ付いていました。あの時はまだまだ子供だった……歳月の流れとは不思議なものです」
懐かしい思い出を語る希美子からは、少しだけ硬さが取れていた。
反対に頭を撫でる甚夜の手はぎこちなくなり、途中で止まってしまった。
「本当に……あの頃のままいられたら、幸せだったのかもしれませんね」
希美子の声がぼやけてくる。
頭が上手く働かず、とても眠たい。
腕も足もぴりぴりと痺れて、うまく動かせない。
けれどそれを気付かせぬよう、必死に意識を繋ぎとめる。
「変わらないものなんてない。私の養父はそう言っていました。良しにしろ悪しきにしろ、あらゆるものは変わるのだと」
動かなければ何も変わらない何なんて大嘘だ。
本当は変わらないものなんてない。
なんの対価もなく幸福の日々が続くなぞ妄想に過ぎない。相応の努力が無ければ、現状は劣化する。どれだけ必死に積み重ねても、簡単に壊れてしまう
「そう、ですね」
「そして、だからこそ価値があるのだと思います。変わらずに在るための努力も、変わろうともがく日々にも……」
だけど後悔はしていない。
失くしたものは多かったけれど。失くすのは今も怖いけれど。
手に入れたものの価値だけは、今も見失ってはいない。
「ですからお嬢様。どうか変わることを恐れぬよう、変わらないことに焦らぬように。選んだ道を間違いだと後悔はしないでください」
変わっていくこと、変わらないこと。その是非は誰にも分からず。
それでも間違えた道の途中、拾ってきたものは、本当に大切だったと胸を張って言える。
「爺や……」
「大丈夫です、貴女が選んだ道ならば。他の誰が否定しようと、私は受け入れます。辿り着く先が幸福であるように願います。わたしだけではない。貴女には、あなたを想うたくさんの人がいる……それを忘れないでいてください」
希美子もまた、道の途中に出会った大切な人。
だから彼女が選んだ道を肯定しよう。
その言葉が彼女にとって意味あるものとなったかは、甚夜には分からない
けれど大丈夫だと。貴女は間違ってなどいないと、伝えられるよう、真っ直ぐに彼女の目を見て。
それでも段々と瞼は重くなってくる。
「爺や……爺や?」
問いかけても返ってくるのは安らかな寝息。
疲れのせいもあるだろう。しかし希美子の淹れた紅茶によって、無防備に甚夜は眠りこけていた。
「うん、希美子ちゃんご苦労様」
それを見計らっていたかのように、中性的な声が響く。
いつの間に部屋に入っていたのか、暗がりに人影がある。
学生服に外套、典型的な書生の格好をした性別不詳のそいつには彼女も覚えがあった。
吉隠。
南雲叡善に従う、半月の鬼である。
「ちゃんとお薬いれてくれたんだね。いやあ、よかったよ。これでボクも芳彦君を殺さないで済んだし。ねっ、芳彦君?」
傍らには、希美子にとって見慣れた男の人。キネマ館で働いている藤堂芳彦が立ち尽くしている。俯いた表情はひどく冷たく、そこからは何も読み取れない
「ほんと、助かったよ。芳彦君のおかげで素直だったからね。希美子ちゃんもそんなに気にしないの。キミの選択は間違っていないよ。ボクが太鼓判押してあげる」
希美子さん、爺やさんや屋敷の人にこの薬を飲ませてください。
大丈夫です、ちょっと眠くなって動けなくなるだけで。命に別状はないそうですから。
そう言って芳彦は小瓶を渡した。
それが妖しい薬であることは分かっていた。けれど彼女に選択の余地はなかった。
“別にやらなくてもいいよ? 芳彦君が死ぬだけだから”
当たり前のように、あまりにも軽く言いのける吉隠に、それが嘘ではないのだと感じ取れた。
だから希美子は選んでしまったのだ。
誰が考えても間違いだと言い切れる、最悪の選択を。
「吉隠さん……本当に、大丈夫なんですよね。爺や達は、死んだり」
「言ったでしょ? ボクはね、あんまり殺しは好きじゃないの。彼等は眠ってるだけ。途中で目が覚めても体の痺れはとれないだろうけど。幾ら鬼でも絶対動けないってくらい強い、南雲謹製の薬だから」
だから、と吉隠は朗らかに笑う。
「少なくとも今晩中は動けないよ。鬼喰らいが動けるようになるのは全てが終わった後。追ってきてもあとの祭りってヤツ。ボクじゃ彼には勝てないけど、目的を果たすのは叡善さん。ふふ、楽しみだなぁ。起きた時、鬼喰らいはどんな顔をするんだろう?」
吉隠は、心から現状を楽しんでいる。
命を奪うのも人を殺すのも嫌だ。それは間違いなく事実。
なぜなら遊べなくなるから。吉隠にとって他者の命は、最高に楽しいおもちゃでしかなかった。
「さあ、希美子ちゃんいこうか。あ、芳彦君は溜那ちゃんを運んでもらえる? 眠ってるからっておっぱいさわっちゃダメだよ」
冗談めいた物言いに芳彦は短く「はい」とだけ答えた。
希美子は言葉もなく吉隠の後ろについて行く。部屋を出ようとして、しかし足を止め、振り返って眠る甚夜へ視線を送る。
いつも自分を気にかけ、世話をしてくれた爺や。
今夜だって守るために命懸けで戦ってくれた。
それを裏切り、希美子は屋敷を去ろうとしている。
「ごめんなさい、爺や……さようなら」
ばたん、と無慈悲に扉は閉まる。
それが彼女の選択。希美子は、自身の安全よりも周囲の努力よりも、芳彦の命を選んだ。
ただそれだけの話だ。
そうして吉隠たちは誰に止められることなく赤瀬の屋敷を後にした。
誰一人として、振り返らずに去っていった。
だから気付かなかった。
僅かに滲む血の色、強く噛み締めて切れた唇に。
「う、ぁ」
呻く。
なんとか口は動いた為、血が出る程に唇を噛み、どうにか意識を繋いだ。
しかし吉隠の言ったように体は痺れて指一本動かない。
「きみ、こ……」
疑念はあった。
ぎこちない態度に何かがあると想像はしていた。
それでも拒否をすることなく飲み乾したのは相手が希美子だったからだろう。
騙されたとも裏切られたとも思わない。
ただ彼女は、ほんの少しだけ大人になったのだ。
希美子は選んだ。
大切なものの中から芳彦を生かす道を。叡善の元へ行けば彼が助かるというのならば、それでいいと考えた。
周囲の者が彼女を助けようと必死になっている中、他人の為に己を犠牲にする。
あまりにも身勝手で、どうしようもなく愚かな選択だ。
きっと多くの者が彼女を責めるだろう。
しかし甚夜はその選択を尊いと思う。
───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。
私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。
去っていく希美子の背中に、遠い日の白雪の決意が重なる。
遠い昔、そんな愚かしくも美しい在り方に、憧れたこともあった。
ならば彼女の選択をどうして否定できるのか。
だから責めはしない。
後悔もしない。させる気もない。
そうだ、現状に何の問題もない。
確かに希美子は叡善の元へ行った。だが彼女を救い、芳彦を助ければ済むだけの話。
約束も、想いも、どちらも漏らさず守りきる。
ぎり、と甚夜は強く唇を噛んだ。
必ず、守る。ぼそぼそと零れた小さな呟きは暗い部屋に消えていった。
『去りてより此の方、いつかの庭』(了)




