『去りてより此の方、いつかの庭』・5
いつだって手を伸ばしていた。
でも届いたことはなかった。
ただ、それだけの話だ。
『つまらねえなぁ』
それが偽久の口癖。
彼の物語にはありふれた悲劇も使い古された幸福もない。ただただ退屈なだけのものだった。
偽久は強かった。
もともと才能はあったし、見合うだけの鍛錬を重ねられる真面目さも持ち合わせていた。
傷付けることを躊躇わず、殺すことにも抵抗はなかった。
だから彼は当然のように強くなり、戦いにおいて多くの退魔を殺し、歳月を経て<力>に目覚め。
ただ大正において、退魔を屠る強い鬼になど価値はなかった。
近代化という大きな流れを前にして、多くの“古き鬼”達は身を隠した。
刀が駆逐され重火器が台頭し、街灯は夜道を明るく照らし、人はあやかしを恐れなくなった。
その中で相変わらず強い偽久は、強いだけの男だった。
大正になっても変わらず鬼も退魔もいる。しかし一般人にとっては、鬼と人の戦いなどもはや読本の中だけの世界となってしまった。
幾ら強くとも警察や軍隊を纏めて相手に出来る筈がなく。
鬼への畏怖は失われ、さりとて理不尽な暴虐を振るうには良識があり過ぎて。
彼の強さは必要のないものとして床に転がされていた。
だから彼は南雲叡善に付いた。
井槌が「弱い鬼として時代に駆逐されていく」ことに耐えられないのであれば、偽久は「強い鬼として価値を見出せない」ことに耐えられない。
二匹の鬼は正反対の理由から同じ動機に辿り着く。
“今の世の中をぶっ壊したい”。
壊したという結果ではなく、その過程に従事することこそが望み。
偽久は退屈で、毎日がつまらなかった。
だから目的は何でもよかった。
散々鍛え上げても意味のなかった己の強さに、価値が欲しかったのだ。
そうして彼は望み通り、戦いへと身を窶し───
◆
首を刎ねる。
腹を裂く。臓物が飛び散る。袈裟掛け、血飛沫が舞う。
赤々と燃える建物、周囲の火勢は勢いを増し、それを映して橙色に染まる刀身。翻る度に斬り伏せられる。
偽久が連れてきた配下は全て古椿によって操られた普通の人間である。南雲叡善によって改造もされていない。つまりは支配から抜ければまた普段の生活に戻ることができる、“取り返しのつく”者達ばかりだ。
「ふむ、自我は既にないか。惨いことよの」
しかし岡田貴一と出会った時点で、既に取り返しは付かない。
息をするように斬り捨てられ、数を増やす死骸達。溜那を守る為ではない。彼にとってはごく当然の成り行きだ。
断っておくが、貴一は人を殺すことに快楽を覚える性質ではない。
彼が人を斬るのは快楽ではなく矜持の為。
人に生まれ、鬼に堕ち。剣へと至ると強く望むが故に。
だから岡田貴一は人を斬る。
刀を抜いた、前に立った。ならば斬らない筈がない。
刀を抜くとはそういうこと。抜いたからには斬らねばならぬ。立ち塞がるならば斬らねばならぬ。生きている以上斬らねばならぬ。
流れゆく時代の中、刀を捨てられなかった男の末路。
岡田貴一は、大正に至って尚も人斬りであった。
最後の一人が地に伏せり、貴一はふうと静かに息を吐く
あまりにも手際よく雑魚を切り捨て、ぎょろりとした目で偽久を覗き見る。視線は挑発しているようにも思えた。
『口だけじゃねえって訳か』
今まで傍観に徹していたのは、この無礼な男がどの程度できるのかを見極めたかったから。結果はこの有様。転がる死骸が答えである。
偽久もまた突如現れた人斬りを冷静に観察する。
改めて見れば岡田貴一なる男は実に珍妙な出で立ちをしていた。
羽織、袴。足袋に草履。腰には鉄鞘に収められた太刀。確かに時代遅れ、大正時代に在っては骨董扱いを受けるような古臭い召し物である。
しかしなにより時代遅れと感じさせたのは、服装よりも貴一自身である。
首回りの発達した筋肉はあの男が練磨に練磨を重ねてきた証。着物に隠れているが全身余すことなく鍛え上げられているのだろう。
囲まれた状況で、寧ろ楽しげ。余裕を持ち、無防備に見えて周囲に視線を飛ばし、立ち位置を小刻みに調整していた。
振る舞いを見るだけで分かる、潜った修羅場も並ではあるまい。
更にはこの躊躇いのなさ。操られただけの一般人を何の躊躇いもなく斬り捨てた。
偽久自身がそうであるから気付く。あの男は命を奪うことに慣れ過ぎている。
つまりは偽久と貴一は同じく人殺し。息を吸うように誰かを殺せる、同種の屑である。
知らず、凄惨な笑みが零れた。
これは有難い。おあつらえ向きに、強者が敵となってくれた。小娘をいたぶるよりも余程気楽だし、なにより鍛え上げた力を振るえる場こそ彼が望み。その為に、南雲叡善などという妖しげなジジイに傅いたのだ。
溢れ出る闘争心のままに偽久は右半身となり、軽く拳を握り構えた。
「ほう、心地好い殺気よ……しかし、奇妙ではあるな」
すぐさま戦いになるかと思えば、貴一は構えを取らぬまま意味の分からないことを呟く。
動きを止められ、偽久は眉を顰めた。警戒を解かぬまま、相手の出方を窺いながら、視線でその真意を問う。
「ぬしは南雲叡善とやらに仕えていると聞いた。ならば主の命を優先すると思ったのだが」
偽久の目的は溜那の奪取。
であれば貴一との立ち合いなぞ余分。余計なことはせず、溜那を奪えば目的は果たされる。
しかし貴一が雑魚を斬っている間も偽久は傍観に徹していた。もしもお前が南雲叡善に従っているのならば、何故命令を優先しなかったのか。
『決まっている。お前の方が与し易いってだけのことだ』
返るのは不敵な笑み。
強者を殺すことに躊躇いはなく、しかし弱者を甚振る趣味はない。女子共であれば尚更だ。その意味で、岡田貴一は溜那よりも遥かにくみし易い相手だ。
「ほう?」
『護衛が無惨に死にゃあ、抵抗する気も薄れるだろう』
そうすれば手荒な真似をしないで済む。
偽久は強かった。けれど強さに価値を見出せなかった。
だから南雲叡善に従ってでも、力を振るえる場所が欲しかった。
しかし命を奪えど弄びはしない。数少ない偽久の信条である。
「……そうか。下らぬことを聞いた。これ以上は無粋よの」
偽久の言葉に何を思ったのか、貴一の目が薄らと細められ、溜息が零れた。
それをきっかけに空気が一変し、ぴんと張り詰める。
意識が研ぎ澄まされ、他事は全て意識の外となる。如何に殺すか、如何に斬るか。彼等にとって、それ以外の思考に価値などなかった。
故に対峙など在ろう筈もない。
言葉もなく、互いが互いに距離を詰め、一挙手一投足の間合いへ至る。
先手は偽久。地面が揺れるかと思うほど力強く大地を蹴る。踏み込みの速度を維持したまま、早さと体重を乗せた拳で鳩尾を穿つ。
しかし空を切る。体を捌き、大きく右摺足、貴一は左側面へと回り込んでいた。
『ずっ!?』
その時には、既に斬っている。
回り込むと動作と横薙ぎの一刀は同時。あまりにも無駄のない所作、ごく自然に振るわれた刀。滑らか過ぎて避けるどころか身動ぎさえ偽久は出来なかった。
岡田貴一の身体能力は歴戦の鬼と比べれば決して高くない。
人の限界を遥かに超えているのは事実だが、甚夜らには速度も膂力も劣る。
しかし彼はただ剣を以って数多のあやかし、高位の鬼すらも上回る。
剣に至る。
その願いの元、ただひたすらに練磨を重ね、ただひたすらに人を鬼を斬ってきた。
挙動の無駄を削ぎ落としてきたが故に速く、心の余分を切り捨ててきたが故に早い。
動きに迷いはなく、思考に躊躇はなく。
呆れる程に繰り返してきた鍛錬と、数えられないほど切り捨てて来た命。
濁りのない在り方こそが彼の強さを支えている。
『ちぃ……っ!』
息を吐く暇もなく追撃。袈裟掛け、避けきれない。ならば皮一枚は切らせてやる。
偽久は最低限、致命傷にならない程度に体を斬らせて反撃に移る。
貴一の動きには驚いたが傷は浅い。左腕も胸元も多少血が滲む程度だ。動きを阻害するほどではない。
お返しとばかりに偽久は右足を踏み込み、最短距離、最速で放つ右正拳。
「おお、元気なことよ」
それを貴一は造作もなく柄で受ける。
袈裟掛けの後の隙を狙った。速度、威力も申し分なかった。なのに柄という面積の極端に小さな部分で受ける。
つまりは完全に見切られた。その事実に驚愕し、だがこちらの攻め手はまだ終わっていない。
右は囮。肝心の左腕は、既に“消えている”。
一筋縄でいかないのは承知の上、ならば放つ一手は理外が前提。
偽久の<力>は<伸手>。あと一歩届かない場所に手を伸ばす<力>である。
短い距離ならば瞬間移動の如く全身を移動させられるが、それはあくまで余技。
本質は空間と空間を繋げること。
──貴一の背後に現れる、左腕。
とった。
確信し偽久は勝ち誇る。
腕が消えたように見えるのは、その空間が切り取られ、任意の空間と繋がっているからだ。
繰り出される拳は偽久自身のもの。牽制ではない、頭蓋を砕くに足る必殺の一手である。
「ふむ」
しかしそれすらも無意味。
柄で右拳を受け、その勢いを流す。刀を後ろへ逸らしたかと思えば、一歩を退くと同時に、振り返りもせず背後に現れた左腕を一閃。
完全に不意を打った。
打った筈が貴一は当然の如く反応し、狙いすましたように腕を切り落とす。
<伸手>は空間と空間を繋げる。ならば、ぼとりと落ちた腕もまた、彼自身のもの。
偽久の前腕は本当の意味でなくなり、傷口から血液が流れ出た。
痛みを堪え、掠れた息を吐く。
微妙に距離が空いたことで、二匹の鬼の動きが止まった。
そうでなくても偽久は動けない。理由は痛みや出血よりも驚愕にある。
何の冗談だ、これは。
腕に自信はあった。にも拘らず完全に見切られ、不意打ちの<力>さえ意味をなさなかった。
その事実が信じられず、偽久は立ち尽くしている。
「肉の動かし方は上々、よく練磨されておる。しかし空気の流れを消せぬのであれば不意打ちとは呼べぬな」
貴一は偽久の腕が背後に現れた瞬間、僅かな空気の流れを感じ取り、不意打ちを読み切ったと言う。
なんの前情報もなく、命の取り合いの最中、たったそれだけの違和で能力を看破する?
練磨した技が、己の<力>が。こうも容易くあしらわれるなど、それこそ冗談ではない。
『……何もんだ、てめえ』
「既に名乗った。時代遅れの人斬りよ」
ゆるりとした立ち振る舞い、それが癪に障った。
だからだろう、考える間もなく体は動いていた。
片腕を失っても動揺はない、偽久は痛みなど無視して攻め立てる。
対する貴一は決死の猛攻を柔らかな動作で流し、振るわれた拳に合わせて刀を潜り込ませ、ほんの僅か軌道を狂わせる。
そうしてできた隙間を穿つ。
眉間、心臓、喉。一息で三撃、放たれる紫電の刺突。
眉間。頭を揺らしどうにか躱す。
喉。どうにか避ける、いや避けきれない。頸動脈を抉られ。
心臓は、もはやなす術なく───違う、まだだ。
全身の移動はあくまで余技。瞬間的な発動は出来ない。
しかし本来の使い方ならば、千も万も繰り返してきた。
心臓を狙う刺突、あわやというところで偽久はそれを止めた。軌道を逸らされた右腕が消え──<伸手>──迫る刺突の前に出現し、刃を素手で掴んでいた。
全力で刃を握り、激痛が肉へ食い込み骨に達する。代わりに刃を固定、いや、固定できたのは一瞬だけ。瞬きの間に指を切り落とされた。
固定された状態から無理矢理刀を振るい、偽久の指を切ったのだ。
ああ、そうでなきゃいけねぇ。
流石の貴一も微かな一瞬無防備を晒している。
好機はここしかない。隙は与えぬ、刹那の内に踏み込む。
これが最後の力。雄叫びと共に偽久の体が躍動する。
『ら、ああああぁぁぁっ!』
もう両腕は使えない。
左足を軸に旋回、全霊を持って放つ右回し蹴り。大振りでは駄目だ。小さく、鋭く。刃の如く研ぎ澄まされた蹴りが放たれる。
全身の筋肉を余すことなく活用した、積み重ねた鍛錬の結晶。
当たれば頭蓋が吹き飛ぶ、渾身の力を込めた。
「……濁っておるな」
しかし当たらない。
貴一は一片の動揺もなく蹴りを裏拳で受けた、否、蹴りに裏拳を“添えた”。
右足を大きく前へ滑らせる。同時に、ぞっとするほど優しく、添えた拳で蹴りの軌道を変え、威力をそのまま後方へと逃がす。
そのまま体を入れ替え、何事もなかったように偽久の最後の一撃を受け流してしまった。
もはや唖然とするしかなかった。
当たらない。掠らせることも出来ない。
積み上げてきた筈の強さが、何一つ届かない。
「過剰な力、余分な所作。浮動する心。なによりその在り方……まこと、濁っておる。ぬしには不純物が多すぎる」
『黙れ……っ』
見透かすような科白が偽久を苛立たせる
万全で挑み遅れを取った。両腕を失った、勝機などあるものか。
分かっていながらも止まらない、しかし大振りな蹴りなど掠りもしない。
偽久は強かった。それを生かす場所が欲しかった。
望んで選んだ道だった。けれど女子供を殺すのは、好きではなかった。
ただそれだけの話。
強い鬼であることに価値がない。それの事実が、耐えられなかった。
良識を持ちながら悪辣を是としてしまう程に、彼には自分という存在が無価値に思えてならなかったのだ。
だから、ある意味この結末は当然だったのかもしれない。
偽久の蹴りを造作もなく躱し、今まで以上の速度で貴一は間合いを侵す。
単純な身体能力ならば偽久の方が上。しかし踏み込みはあまりに早い。脚力ではなく、体重移動の妙と体幹の安定が速度以上に貴一を速く見せる。
怖気が走るほどに滑らかな剣技。気付けば刃は取り返しのつかない距離まで迫っている。
力に価値を求めた。命を簡単に奪ってきた。
ならば力に屈することも、命を奪われることも当然の帰結。
今までの所業が、巡り巡って帰ってきただけの話だ。
近付く終りに景色がぼやけて見える。
(ああ、俺は)
夜に翻る橙色の刃は偽久の首に食い込む。
(結局何が出来たのだろうか)
筋肉を裂き、骨を容易く切断し。
(命令も果たせず、力も示せず。俺は、なにを、まちがえたのか)
脳裏に過る疑問。
答える者はなく、しかし最後の瞬間は訪れる。
刃は風のように通り抜けたかと思えば、血の雨を降らせ、ごとりと生首が地面に落ちた。
遅れて、偽久の体が地に伏せる。それを侮蔑の目で見下し人斬りは呟く。
「力に価値を求めながら力に身を委ねられず、良識にしがみ付きながらそれを貫くことも出来ぬ半端者。この末路は当然であろう」
結局偽久は、岡田貴一に掠り傷一つ負わせられず、溜那にも痛みを与えなかった。
もし彼が何かを間違えたというのなら、おそらく己のみの力に価値を求めながら、己の所在を他人に預けてしまったことだろう。
力に拘り、悪辣に染まり、手段を選ばなければ。
或いは良識を是とし、正しさを旨に生きることが出来れば、結末は違ったものになったかもしれない。
しかし仮定に意味はなく、現実は此処に転がっている。
力に拘り、悪辣に染まることも出来ず。
何一つ為せぬまま、偽久は死に絶えた。
「あ……」
その終わりを遠巻きに見ていた溜那は、小さく声を上げた。
かける言葉など在る筈もない。あれは南雲叡善の配下なのだから、自分にとっては敵でしかなかった。
それでも彼女を傷付けることを良しとせず、その覚悟を認めてくれた偽久の死には、何か感じるものがあったらしい。
胸を締め付ける感覚の理由は、今の彼女には理解できない。
また一つ、分からないものが増えた。
この痛みの意味も、いつか時が来れば分かるのだろうか。
赤々と燃える町並みに佇み、溜那は俯いて目を伏せた。
◆
古椿とは古来より語られる、女性の怪異へと変じる花である。
鳥山石燕の今昔画図続百鬼に曰く、「ふるつばきの精怪しき形と化して、人をたぶらかす事ありとぞ、すべて古木は妖をなす事多し」。
あらゆる植物は相応の年月を経てあやかしと化し、人を誑かすという
「はぁ、はぁ……!」
とはいえ、恐怖に怯え逃げる古椿に、そのようなおどろおどろしい印象はない。
マガツメの娘として生まれ、南雲叡善に造り変えられ。しかし三枝小尋を取り込んだせいだろうか、一心不乱に逃げる姿はただの少女にしか見えなかった。
息が荒れるのは走ったからではない。鬼喰らいの鬼、そのあまりの恐ろしさに心が乱れたからだ。
怖かった。叡善に作り変えられた彼女が怖気づいてしまうほどに、あの鬼はとても怖かった。
あまりにも怖くて、逃げた。見ていられない、今の私を見られたくなかった。
「逃げなきゃ、はやく。逃げないと」
私が駄目になる。
色々なものが怖くて、誰かに会いたくなって、向かう先は深川の方面。
あちらには偽久がいる。南雲叡善の配下である四匹の鬼、その中でも最も強いのが偽久だ。今頃は溜那を奪取しているに違いない。
それに、自我を持たぬ頃は彼が古椿の護衛をしていた。誰かを、と頭に思い浮かべて一番に出てくるのは偽久だった。
「違う、なにこれ……」
なのにふと過る、別の誰かの面影。
いつも仏頂面で、でも優しい。あの人の手が好きで。
それさえあればなにもいらなかったのに。
「なにこれ、知らない。こんなの知らない……!」
十分な距離をとってから、古椿は立ち止った。
頭の中が混乱している。おかしな考えが浮かんできて、思考を邪魔してしまう。
逃げたのは怖かったから、なんで“見られたくない”などと思ったのか。あんな男は知らない。知らない筈だ。
「私は叡善様の配下。叡善様のために生まれたの……その筈、なのに」
だから怖いなんて思うことはない。違う、怖いのはあまりにも強すぎたから。
そうだ、すべて勘違いだ。
“あなたに今の私を見られたくなかった”なんて、混乱していたから浮かんできた考えで。
“私以外の人の想いを大切にするあなたを見たくない”なんて、恐怖からくる錯乱にすぎない。
だってそんなことを思う理由がないと、古椿は何度も首を横に振る。
「私は知らない。あんな男、甚太なんて知らない。だから全部勘違い、そうよ。勘違いなの」
逃げたのは、怖かったから。そうじゃないといけない。そう思わないと、私は壊れてしまう。
私は叡善様の忠実な手駒。それ以外の何者でもないし、それ以外の何かであってはいけない。
古椿は何度も自分に言い聞かせ、繰り返し深呼吸をして荒げた息を整える。
ようやく落ち着いてきたところで。
「追いついたぞ、古椿」
心臓が、止まった。
「ひぃ……!?」
聞き覚えのある、聞き慣れない、懐かしく馴染みのない声。
振り返れば、そこには一匹の鬼が。
「<犬神>、<隠行>……つけられていたことにも気付かなかっただろう?」
服は所どころ破けているが傷自体はそれほどない。彼が其処にいるのなら、井槌は既にやられたのだろう。
その上で追ってきたのならば、意図など一つしかない。
体が震えた。古椿は見た目通り、ただの少女として怯えてくる。
ゆっくりと近付く甚夜の所作が恐ろしくてたまらなかった。
「正直に言えば、多少は同情している。マガツメの娘として生まれながら南雲叡善に作り変えられた。己で在れないというのは、なかなかに辛い。私にも経験があるよ」
とくん、と心臓がなった。
顔が熱くなり、恐怖に目がちかちかとしている。
近付かないで。嬉しい。恐ろしい。足が竦んで動けない。
「だがお前を逃がす訳にはいかない」
「あ、あ……」
「……恨むならお前の母のように、私を恨めばいい」
ゆっくりと夜来を抜刀し、甚夜は脇構えを取った。
死への恐怖からか、古椿は譫言のように何事かを呟き続けていた。
それを痛ましいとも、哀れとも思う。
怯える姿にちくりと胸が痛む。マガツメの娘とはいえ、古椿は本当にただの少女だ。
「ちが…、そ…じゃない。……で、なんて」
しかし止める気はない。
染吾郎は本木宗司や三枝小尋と懇意だったらしい。真実を知れば傷付くだろう。
ならばこそ甚夜は追ってきた。今の古椿を染吾郎に知られてはならない。
血に塗れるのは下衆だけで十分、染吾郎が……平吉が。これ以上辛い思いをすることなどないのだ。
───風を切る音と、舞う血飛沫。
霞むほどの速度で振るわれた一刀は、か細い少女の体を一瞬で切り裂いた。
それだけでは終わらない。崩れ落ちる古椿の首を左腕で掴む。
平吉の為だなどと、言い訳はしない。此処から先は自身の為、目的を果たす為だ。
死人に鞭を討つような真似だがこちらも余裕はない。悪いが使えるものは使わせて貰おう。
「お前の<力>、私が喰らおう」
人を操るという<力>に興味はないが、情報が欲しい、
東菊の時も地縛の時も、マガツメの娘を喰らっても得られる記憶は殆どなかった。
しかし藁にもすがる思いで甚夜は古椿を喰らう。
相変わらずなにも伝わってこない。だが南雲叡善に弄られたせいか、僅かながらに記憶が流れ込んできた。
目を瞑り、意識を集中しそれを吟味する。
「ちが、う、でも、よかった……」
古椿は、最後に意味の分からない言葉を残して完全に消え去った。
同種喰らいはいつものこと。今更それを躊躇うことなどない。しかし慣れたとも思わない。何度喰っても、嫌な気分にはなる。
望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
どちらを選んでも間違い、そんなことの方が多かったような気はする。だとしても、最善ではないが、生き方だけは自分で決めてきたつもりだ。
だから古椿を喰ったことも後悔はしない。そうでなければ踏み躙ってきたものに申し訳が立たない。
血払い、納刀。心を落ち着ける為に甚夜は一度深く息を吸い、ゆっくりと肺の熱を外に吐き出した。
すると時期を見計らったように、二つの人影が姿を現した。
「おお、夜叉よ。そちらも終わったか」
岡田貴一。
かつて江戸にいた頃、剣を交わしたことのある男だ。
その時は惨敗。かすり傷を負わせることしか出来なかった。
再会したのは全くの偶然だった。江戸が東京に変わった後も、貴一はこの地から離れることはなかったらしい。
だから甚夜はこの男を誘った。
“お前に斬ってもらいたい奴らがいる”
貴一は二つ返事で甚夜の提案を受け入れた。理由なんぞ聞かずとも分かる。斬れるのならばそれでいい。岡田貴一とはそういう男だ。
見返りに金銭を少しばかり包み、短い期間ではあるが二匹の鬼は手を結んだ。マガツメを除けば唯一己を地に付けた相手だ、味方になればこれほど頼もしい相手はいなかった。
「しかし、ぬしは女など斬れぬと思ったが、存外躊躇わぬな」
先程までのやり取りを見ていたらしい。
貴一はにたりと薄気味悪い笑みを浮かべている。
「男女で区別をつけたことはない。必要ならば誰でも斬る。そうでなければ誰も斬りたくはないがな」
「ほう、なかなかに澄んだ言葉を吐く。やはりぬしは屑よ」
「態々言われんでも知っているさ」
罵倒を浴びせながら、何故か貴一はいやに楽しそうだった。
軽く言葉を交わした後、一応そちらの首尾を確認しようとしたが、その必要もなかった。
「じいやっ!」
飛び出してきた、細身の少女。
溜那は珍しく大声を張り上げて、甚夜に飛びついてきた。
「よかった、無事だったか」
「うん、だいじょうぶ」
その後も甚夜から離れようとせず、年齢からすれば不思議ではないのだが、まさしく子供のようにしがみ付いてくる。
本当に珍しいこともあるものだ。溜那の幼げな仕種が微笑ましくて、甚夜は落すように笑った。
ああ、本当に、無事でよかった
希美子も向日葵も、今は染吾郎が見てくれている。今宵の襲撃はもうないだろう。
井槌、偽久、古椿を一晩で失い、南雲叡善の手勢に余力はない
また古椿を喰らい、僅かながらに記憶を得られた。
「どうにか、しのげたな」
誰にも聞こえないよう言葉を口の中で転がし、自然に溜那の髪を手櫛で梳く。
気持ちよさそうに細められる眼と、伝わる柔らかな暖かさ。
希美子や向日葵を守れた。
コドクノカゴなど関係ない、溜那という少女を失わずに済んだ。
この夜を最上の形で終われることに甚夜は安堵し、そっと胸を撫で下ろした。
◆
怨嗟というものは知らぬところで紡がれる。
物陰から甚夜達を見る目があった。
彼は突然いなくなった少女を探す為に夜の町をさ迷い歩いていた。
そして、信じられない光景を見てしまう。
『お前の<力>、私が喰らおう』
喰らうという言葉の通りに、探していた少女は鬼の左腕から吸収された。
あいつは人なのだと思っていた。
けれど違った。人に化けた化け物だったのだ。
『ちが、う、でも、よかった……』
苦しげに彼女は呻く。
口にすることは出来なかった。でも少年は、彼女のことが好きだった。
なのに、言えなかった。助けられなかった。それどころか、化け物に見つからないよう隠れていることしか出来ない。
それが悔しくて、情けなくて。
「ちくしょう、ひろ…なんで……」
少年は。
本木宗司は涙を流す。
此処に彼の憎むものは決定した。
今は無理でもいつかは仇を取ると。
憎しみは、また生まれる。
その先がどうなるのかは甚夜も、宗司自身にも分からないことだった。




