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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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123/216

『去りてより此の方、いつかの庭』・3

 



 今も時折、あの頃を思い出す。

 沢山のものを失くしてきた。

 本当に大切で、なによりも守りたくて。

 それでも、この指の隙間をすり抜けて行った愛しい欠片達。

 失くしたものが返ることはなく。

 けれど胸には小さな何かが残り。

 そうやって今まで生きてきた。


『おふう……それに旦那も』


 それは、最後の記憶。

 まだ東京が江戸と呼ばれていた頃、甚夜は深川の貧乏長屋に住んでいた。

 毎日のように通い詰めた蕎麦屋。店主は自身の死期を悟り、愛する娘に、そして甚夜にも言葉を残してくれた。


『お前達は長くを生きる。いつか、失くしたものの重さに足を止める日も来るだろう。昔を思い出しては悲しくなって、何もかもが嫌になることだってあるさ』


『だけどお前達には、泣きたいときに泣いて、それ以外は誰かの隣で笑って。長くを生きるからこそ誰よりも“今”を大切に生きて欲しい』


『俺は、そう在ってほしいと思う』


 あの時は分からなかった。

 だけど歳月を重ねて初めて気づくこともある。

 今だから、分かる。

 失くしたものは多かったけれど、大切なものはこの胸に在ってくれるのだと。


『……なぁ甚夜、人って案外しぶといで?』


 忘れ得ぬ瞬間がある。

 死の際ですら不敵に、親友は語った。


『僕はもう終わり。そやけど、続くものがある。僕は僕のやるべきことをやった……これでも、結構満足しとるよ』


『そやから、悲しまんでええ。今度は君が、やるべきことをやらな。此処で、僕の死を看取るなんて無様な真似、さらしてくれるなや』


『人は、しぶといで。そやから、“またな”』


 遺志を継ぐこと、想いを繋げること。

 間近に迫った死を、あまりにも穏やかに受け入れた親友が教えてくれた。

 弱々しく、消え入りそうなその灯の眩しさ。

 これから先も忘れることはきっとないだろう。


『だから甚太。お前は、憎しみを大切にできる男になれ』

『これからも、家族でいてくれますか?』

『さようなら甚太。本当に、大好きだった─────』


 家族が、遺してくれた言葉。

 川の流れのように止まることなく過ぎ去った暖かい日々。


『ほら、やっぱり”それしかない”なんて嘘ですよ』

『辛い時は、辛いって言っていいんだよ』


 立ち止まっていいと言ってくれた、優しい人達。

 その度に前へ進むことが出来た。


『……失ったものがどれだけ多くても、それに遠慮して下を向く必要はないだろう?』


 何一つ守れなかった。

 だけど忘れられない言葉がある。

 ふと過る懐かしい景色がある。

 失くしたものは確かに多い、けれど手に入れたものだってあった。



 だから今も此処にいる。

 此処から、もう一度。





 ◆ 




 星も月も薄くかかった雲に隠れた、墨染めの夜だった。

 紫陽花を揺らす涼やかな風が、窓の隙間から訪ね来る。心地好い筈なのに肌が強張った。生温い筈の空気が何処か冷たく感じられるせいだろう。

 今宵は何処か金属質で、触れる感触がひどく硬い。

 こういう夜にはよくないことが起こる。

 理論ではなく単なる経験論だ。しかし残念ながら、この手の予感は外れたことが無かった。


「おう、お疲れさん」


 希美子の部屋の前、壁にもたれ掛かっている甚夜へ向けて染吾郎は軽く呼びかけた。

 薄暗い廊下。男二人、並んで壁に背を預ける。

 何となく雑談をするのは躊躇われて、染吾郎は小さく咳ばらいをした。随分と昔、秋津染吾郎でなかった頃は、もう少し気軽に話せたような気がする。

 そう考えて、若いというよりも幼い時分には、甚夜によく突っかかったと思い出す。

 鬼だから、と何も考えず嫌っていた。思えば宇津木平吉は随分と子供だった。

 それでも一度だってこいつから悪感情をぶつけられた覚えはない。

 今でも溜那や希美子の面倒を見ている辺り、厳めしい顔をしているが、この男は本質的に子供好きの世話好きなのだろうと微かに笑いが込み上げた。


「そういや、溜那ちゃんは? まだ帰って来とらんみたいやけど」


 感傷はここまで、一転して染吾郎の表情が引き締められた。

 そもそもこんな真夜中に彼らがいる理由は、叡善の襲撃を警戒してのこと。当初関わるつもりもなかったが、古椿の件で考えが変わった。今は全面的に甚夜へ協力をしていた。


「知人に預けてある」

「江戸の頃の知り合い、やったか。……南雲叡善が動こうって時にそれ、まずないか?」


 確認されているだけで南雲叡善の配下には四匹の鬼がいる。

 井槌、吉隠、偽久、古椿。

 その上、古椿は人間を操る。またマガツメの技術を得たならば鬼を産む術もあるかもしれない。

 対してこちらは甚夜と向日葵、配下に数匹の鬼。染吾郎がついたとはいえ、戦力にはかなりの差がある。

 更に言えば、一度後れを取った叡善が再び動いたというのなら、勝てるだけの算段が整った証明でもある。状況はかなり逼迫していた。


「あちらはあちらでどうにかするだろう」

「そうはゆうても、あいつら相手やとなぁ」。


 ガトリング砲、偽久の<力>、古椿に操られた人々。

 誰が行っても厄介だ。あいつらを相手取るのは並大抵ではない。古い知り合いだという鬼がどの程度できるのか知らない為、やはり不安は拭えなかった。


「はっきりゆうたるけどな、どう考えても失策や」

「ああ、私もそう思う」


 染吾郎は心底真面目に進言した。にも拘らず、甚夜はあまりにも軽い調子で同意する。

 予想外過ぎる反応だ。力を入れていた分、肩透かしを食らったような気分になってしまう。

 しかしながら相手は当然のような態度で淡々と言葉を続ける。


「向日葵に戦う力はない。配下に鬼が数匹いるとはいえ、こちらで直接戦闘を行えるのは実質私のみ。普通に考えれば、まずは全戦力でここにいない溜那を奪う。その後希美子は誠一郎を通じて搦手でかっさらうだろうな」


 それが一番手っ取り早く確実だ。

 態々甚夜が警戒している中で希美子を奪取するよりも、一人離れてまともな護衛もいない状態の溜那の方が狙いやすい。

 そんなら、なんでそないな真似を。問うより早く、甚夜がきっぱりと言い切る。


「だが南雲叡善はそうしない。こちらに向日葵がいるからだ」


 それは推測ではなく確信である。

 マガツメの妹を拐かし、その頭を弄って情報を得たならば当然向日葵の<力>を知っている。

 そして知っているからこそ、今言った手が取れない。


「<向日葵>は遠見ではなく、“設定した対象”への遠隔視。一度手で触れた相手、物体ならば何処にいても見付けられる。溜那にしろ希美子にしろ、攫われたとしても向日葵の<力>で追える」

「……あの夜会がコドクノカゴを完成させる為に必要やったんなら、溜那ちゃんを攫ってもそれで終いやない。嫌な話やけど、“手を加えな”あかん。そんなら殺さんと根城まで連れてくわな」


 そうなったら寧ろありがたい。容易に根城が知れるのだから。

 相手が希美子達を殺せない以上多少の猶予はあり、根城が知れるのならば即座に追うことも出来る。

 成程、と染吾郎はこくんと頷いた。正直に言えば、当初向日葵との協力体制に意味が見いだせなかった。

 しかし甚夜にはない“目”を持つ向日葵と、彼女が扱う鬼を歯牙にもかけぬ力量の甚夜。こうしてみれば互いに足りないところを補い合い、うまくかみ合っている。


「そこまで言われたら分かるわ。あんの爺の狙いは一人になっとる溜那ちゃんやない」


 向日葵がいる以上うまく攫えたとしても無意味に終わる。

 故に向こうからすれば二人を切り離したい。

 つまり奴らの狙いは。 


「奴らはまず此処を襲撃する……初手は向日葵の殺害だ」


 最初から、甚夜の“目”を奪うことだ。


「つーことは」

「こうまで分かりやすく失策して見せたのだ。こちらの意図を呼んだうえで、南雲叡善はそれに乗っかる。屋敷への襲撃に六、溜那へ三。そのどちらもが陽動。残る一で向日葵を殺す、といったところだろう」


 納得のできる推測だ。

 しかし推測が正確であればある程、寧ろ追い詰められているように染吾郎は感じてしまう。


「あんたの考えは正しいのかも知らん。そやけど叡善らの戦力は侮れん。下手すると六であんたを封じ込めて、三で溜那ちゃんを奪って、向日葵の奴も殺す。総取りされるかもしれんで」

「……そこは、私の努力次第だな。以前も言ったが幾枚か切り札もある」


 言いながら甚夜は希美子の部屋の前から離れる。

 空気が変わった。どうやらお客が近付いているようだ。そろそろ出迎えてやらねばなるまい。


「染吾郎、希美子を頼んだ」

「安心せえ……俺が言っても、あれやけどな」


 軽い声、しかし染吾郎の気分は重い。

 いつかも甚夜に護衛を任された。その時は、失敗した。彼の愛娘を守ってやれなかった。

 後悔は今も染吾郎の胸にある。歳月を重ね、けれど抜けない小さな棘だ。


「卑下しなくていい。宇津木、私は感謝しているよ。……お前だから、野茉莉を託せたんだ」


 そう言えたのは、充知や志乃の、希美子のおかげだろう。

 失ったものがどれだけ多くても、それに遠慮して下を向く必要はないのだと、素直に思える。

 甚夜は落すように笑ってみせた。“平吉”の知らない、静かで落ち着いた、ゆるやかな笑みだった。


「なんや、こそばゆいな」


 甚夜の口調はあくまでも穏やか。染吾郎ではなく昔の呼び名を使う。

 染吾郎は小さく口の端を釣り上げた。宇津木と呼ばれたのがひどく懐かしく、まるであの頃へ戻ってしまったような気分になる。

 先程の言葉は四代目秋津染吾郎ではなく、宇津木平吉に向けたもの。失敗して、後悔して、わんわんと泣いているガキへの慰めだ。

 その心遣いに感謝し、だからこそおどけた調子で言葉を返す。


「そしたら、平吉って呼んでくれると嬉しいんやけどな。ほれ、俺あんたの義息子なんやし。なあ、お義父さん?」

「ふむ、確かにその通りだ。……しかし残念ではあるな」

「なにがや」

「いや、父親として一度くらいは“お義父さんなどと呼ばれる筋合いはない”と、お決まりの科白を言ってみたかった。お前相手ではその機会もなかったが」

「……勘弁してくれ。そら、ちっと照れるわ」


 くだらない雑談だが肩の力は抜けた。

 腰には一振りの刀。千年の時を経ても朽ち果てぬと謳われた宝刀、夜来だけ。兼臣は溜那に持たせてある。あれは人を操る刀、いざという時には助けとなるだろう。


「では任せたぞ、平吉」

「……へへっ。おう、任されたわ」


 短い遣り取り、甲高い音を立てて廊下、階段を下り、堂々と玄関へ。

 外に出れば宵闇の暗がり、月と星だけが灯り。目を凝らせば敷地内に、薄ぼんやりした光に映し出された“なにか”が蠢いているのが見えた。

 一つ、二つ。三つ四つ、五つ。六つ七つ八つ、九つ十を超えてまだ増える。

 人影、ではあるのだろう。四肢を持ち、頭が胴体から生えていて、ちゃんと歩行している。ならばそれは人型である。

 多少皮膚がただれており、目に生気がなく、頭や腕や足が多少増えていたとしても、然して気にすることでもない。 

 南雲叡善には弄る術があり、人を操る<力>もある。ならばこの程度は想像の範疇だ。


「当家では、深夜の来客は受け付けていない。お引き取り願おう」


 庭には埋め尽くさんばかりの異形。甚夜は既に囲まれていた。

 抜刀、だらりと全身から力を抜く。言葉も淡々としていて気負いは感じられない。

 平静な表情に隠れて、しかしその内は気炎万丈。悠々とした立ち振る舞いからは考えられぬ程の気迫で満ち満ちている。


『あんたには悪いが、そいつは出来ねえ相談だな』


 異形の群れ、その奥に控えていたのは巨躯の鬼。

 井槌。

 南雲叡善の配下の鬼。既にガトリング砲を装備し、臨戦態勢。手下の鬼は数を増やす。十、二十、三十、明らかに過剰な量である。

 だがこれでも“六”。おそらくは、ここより数は少ないが溜那の方にも敵の手は回っているだろう。

 薄目で辺りを見回し、井槌は拍子抜けしたように肩を落とした。


『……秋津の四代目はいねえのか。残念だ』

「つれないな。私では足らないか」


 逃げ場はない。しかし甚夜は僅かな動揺さえ見せなかった。

 虚勢だ、勝ち目などある筈もない。葛野甚夜という男がどうという話ではない。そもそもこれだけの数に一人で立ち向かおうというのが間違っている。

 少なくとも井槌にはそう思えた。にも拘らず余裕の態度は崩れない。その理由が分からなかった。


『そうじゃねえ、だが』

「ええ、足りません」


 井槌は言葉を濁したが、被せるように女の声が聞こえた。

 どこかで聞いた声、静々と歩み出た小柄な少女の容姿もまた、どこかで見た覚えがあった。


「三枝、小尋さひろ……だったか」


 口にしてから、間違いに気付く。

 あの夜会で、秋津染吾郎が助けた若者の片割れ。

 しっかりと顔を見たのは本木宗司とキネマ館を訪れた時だけだが、短い黒髪と活発そうな雰囲気が印象に残っている。

 だが目の前にいる少女は、寸分たがわぬ容姿ながらあの時とはまったくの別人だった。

 活発そうな雰囲気は完全に消え去り、気だるげな、少女とは思えぬ空気を纏っている。

 強気だった目は虚ろに濁り。

 そして、その色は赤。


古椿ふるつばき叡善様の配下にございます」


 浮かべた微笑みには、全く見覚えが無かった。


「まさか一人でこの数をひっくり返せるとでも? それは流石に自惚れが過ぎるでしょう」


 古椿……そうか、“喰われた”か。

 誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。

 南雲和紗のように、白雪のように、マガツメの娘に三枝小尋は取り込まれた。

 それだけならまだマシだったかもしれない。しかし古椿は南雲叡善に造り変えられている。

 マガツメの想いではなく、当然三枝小尋でもない。

 つまり彼女は何者でもなく、ただ叡善の意のままに動くだけの存在と成り下がった。

 もはやあの鬼には、少女の残滓すら残っていないだろう。

 それが痛ましく、同時に安堵した。

 あれは何者でもなく、ならば斬るに躊躇いもない。

 

「ふむ、確かに数は多いな」


 異形は少なく見積もって三十を超える。既に井槌はこちらへ銃口を合わせている。

 多勢に無勢だ。三枝小尋……古椿が勝ち誇る理由も分からないではない。

 だがその程度で怯む様であれば、そもそも此処には立っていなかった。 


『……まあ、そういうこった。卑怯だとか言ってくれんなよ?』


 ぎこちない態度は井槌の性格をよく表している。

 寧ろ彼こそがこの状況を快く思っていないのだろう。敵ではあるが、甚夜はそういう不器用な男が決して嫌いではなかった。


「勝つ為に最善を尽くすのだ。寧ろ正々堂々だろう」

『ああ、そうかい……』 


 乾いた笑いが零れた。

 井槌の願いはただ一つ、鬼が鬼らしく在れる世だ。

 だというのに、それを願う筈の己が重火器を使い数に任せ、眼前の敵こそ己が腕のみ頼りに立っている。なんとも皮肉な話である。

 弱いというのは、本当に惨めだ。しかし退く気はない。彼は南雲叡善に加担した。その先に、自身の望む場所があると信じた。

 ならばちっぽけな意地で戦いを捨てるなど在り得ない。


「では参りましょうか。状況の見えぬ白痴を片付ける、簡単なお仕事です」


 井槌は答えなかった。古椿の科白が不愉快だったからだ。

 それでも、戦うことには変わらない。

 相手は歴戦の古き鬼だ。年若い彼とは比べ物にならない程の修羅場をくぐっている。

 刀と重火器。獲物はこちらの方が上だとしても油断はしない、手加減も様子見もない。

 クランクを回せば連動して機構が回転する。炸裂する火薬、鉛弾が雨あられと降り注ぐ。

 弾丸が撃ち抜いたのは、甚夜が立っていた場所だった。しかし当たらない、斉射されるより早く射線から逃れていた。


『甘えよ!』


 だがすぐさま銃口が向けられる。

 銃撃は止まない。避けられたが、同時に追い込みもした。

 逃げた先には異形の群れ。所詮は人を改造して作った下位の鬼だ。甚夜の腕ならば十分斬れる。

だが斬るには足を止めねばならず、止めれば井槌のガトリング砲で蜂の巣となる。

 他の鬼達は轟音などまるで無視して屋敷へとにじり寄る。その為の物量、一人でこれだけの数を防ぎきるなぞ端から無理だったのだ。

 呆気ないが、詰みだ。井槌は勝利を確信する。


「……三十九年だ」


 窮地にあって、甚夜は意味の分からぬ呟きを漏らした。

 何を、と問うこともない。どうせこちらの勝ちは揺るがぬ。

 弾丸の雨に異形の群れ。逃げ道はない、これで終わりだと井槌は銃口を向ける。

 更に一斉射。甚夜は、避けるどころか身動ぎ一つしなかった。

 延々と撃ち続け、舞い上がる硝煙と土埃で視界が遮られる。しかし人影は確かに煙の向こう側にあり、放たれた弾丸が全て直撃したのだと知れる。


『所詮、こんなもんか……』


 銃撃を一度止めば、疲れたような声が漏れる。

 ガトリング砲に身を晒し、避けることさえ出来なかった。見慣れた光景だ。

 井槌は既に幾人もの退魔を屠っている。名のある術師も剣術の達人も、近代兵器の前に為す術もなく敗れ去った。それと同じように、あの鬼も時代の流れには敵わなかったのだ。

 そう思い、しかし一瞬でその考えは打ち破られる。


 

 屋敷に向かっていた異形達が、一斉に吹き飛んだ。



 爆発が起こった訳ではない。何かに殴られたということもない。

 ただ、吹き飛んだ。井槌にはそうとしか見えなかった。

 何が起こった。動揺し、思い至り土煙の向こうを睨み付ける。“何が”もなにも、何かをしたとすればあの男以外に考えられない。

 しばらくすれば土煙も晴れてくる。そうすれば動揺は更に強くなった。


「自負は結構だが、あまり舐めてくれるな。これでも案外としぶといぞ」


 銃撃をすべて受けた筈の男は無傷のまま、何も起こっていないかのように悠々と立っていた。


「うそ、でしょう……?」


 零れた古椿の声に、同意せざるを得なかった。

 あれだけの銃弾を受けて、まさか無傷とは。

 顔の筋肉が引き攣る。流石に南雲叡善と事を構えるだけはある。鬼喰らいもまた、一個の化け物だ。


「<不抜>……<隠行>、<地縛>」


 井槌の動揺を余所に、甚夜は刀を振るう。

 距離は随分と離れている、当然空振りだ。

 なのに、ざしゅう、と嫌な音が響く。遠くで刀を振るっただけで、数匹の鬼が切り伏せられていた。


「ふむ。<飛刃>、<隠行>。飛ぶ刃を消す……隠剣、といったところか」


 まただ、何も起こっていない。起こっていないのに、異形が斬られた。

 それだけでは終わらない。甚夜が左腕を翳すと、何処からか四本の鎖が現れ。

 

『ぅいぁ』

『がぁじゃ……』


 目に見えぬ程の速度で鎖は走り、群れ成す鬼共を打ち据える。

 正に一瞬。瞬きの内に五匹の鬼が死に絶えていた。


「<疾駆>、<地縛>。速い鎖……いかんな、いい名前が思い付かん」


 事も無げに鬼を葬るが、井槌には甚夜が何をしているのかまるで理解できていない。

 得体の知れない敵に向き合い、動揺のままに声を荒げる。


『なんだ、それは……!?』


 甚夜は無表情のまま。

 気負いなく、戦いの場にあるまじき穏やかさで答えた。


「マガツメに敗れてから三十九年……私とて、何もしてこなかった訳ではないさ」


 今も時折、あの頃を思い出す。

 本当に大切で、なによりも守りたくて。

 それでも、この指の隙間をすり抜けて行った愛しい欠片達。

 失くしたものが返ることはなく。

 けれど胸には小さな何かが残り。

 そうやって今まで生きてきた。


 間違いだと思ったことはない。しかし後悔は尽きない。

 本当はもっとうまいやり方があったのではないか、正しい道があったのでは。

 迷いはいつだって付き纏う。

 葛野甚夜という男は、今まで大切なものを何一つ守れたためしがない。

 自分が正しいと言い切るだけの〝なにか”を、彼は持っていなかった。


『そうかい、そいつがてめえの切り札って訳か』

「ああ。喰らったものではない、私自身の<力>だ」


 だけど忘れられない言葉がある。

 ふと過る懐かしい景色がある。

 失った過去を思い出して悲しめるならそれを誇れと言ってくれた。

 人はしぶといと、想いは繋がっていくのだと教えてくれた。

 憎しみを大切に出来る男になれと、この胸に在る感情を肯定してくれた。


 ───失くしたものは多かったけれど、手に入れたものだって確かにあった。


 ならば、失ったものに足を取られて立ち止まるのはもう止めだ。

 過ぎ去ったかつてを大切に思うのなら、それを理由に逃げてはいけない。


 だから誓った。今度こそ強くなろう。

 敵を倒す為ではなく、憎しみを晴らす為ではなく。

 間違えた道程、その途中で拾ってきた大切なものが、確かに価値のあるものだったと言えるように。

 そうやって辿り着いた今を素直に幸福だと思えるように。

 ……これから歩む長い道のり、幸福だと信じた日々を失っても。

 その先で見つける価値あるものを、ちゃんと大切にできるように。


 そうと決めた時、甚夜は<力>を得た。

 心からそれを望み、尚も叶うことのなかった願い。

 子供のような、馬鹿な妄想。


“みんなとずっといっしょにいたかった”


 叶うことなぞ、ある筈もなく。

 けれど形を変えて願いは成就する。

<力>の名は<合一>。

 いつまで経っても情けない、人の手を借りねば立ち上がれない、そういう男に相応しいもの。

<力>と<力>を合わせる、彼にとってのみ意味のある<力>だ。


 見せつけられた<力>に、井槌も古椿も硬直している。

 関係ない。何が立ち塞がろうと、既に甚夜は〝選んで”いる。


「いつまでも立ち止まってはいられない。前へ進む……立ち塞がるなら蹴散らすまでだ」


 だから今も此処にいる

 此処から、もう一度始めよう。

 



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