『去りてより此の方、いつかの庭』・1
穏やかな午後の日のこと。
希美子は自宅の庭でのんびりと日向ぼっこをしていた。
視界には御年百歳になる庭師と、自分より年下の娘。庭で紫陽花の世話をする甚夜の傍らには溜那が控えている。最近では手伝いの為に引っ付いて回る彼女の姿は見慣れたものだ。
そもそも一人でやっていた仕事、手伝いなど別段必要ないだろうに、「ありがとう」「助かる」と声をかける彼は相当に甘い。
それが希美子には最初あまり面白くなかった。
当然だろう、溜那が来るまでは、爺やの気遣いを一身に受けていたのは彼女なのだ。あの子ばかり構われては、なんとなく爺やを取られたような気になってしまう。
とはいえそう思ったのも本当に初めだけ、ちゃんと交流を持つようになってからは、嫉妬めいた感情もきれいさっぱり消えた。
学校へ行かせて貰えない希美子にとっては初めての同年代同性の友人である。溜那との触れ合いは素直に嬉しく、父母や爺やも変わらずいてくれて、芳彦とも随分仲良くなった。
普通とは多少離れているが日々は楽しい。
穏やかな午後の日。陽だまりの庭は暖かくて、思わず笑みがこぼれるくらいだった。
「そう言えば、爺やはお母様の付き人だったのですよね?」
紫陽花の葉の痛みを調べていた甚夜は手を止めて、希美子の方に視線を向けた。
並んで腰を下ろしている少女二人は、外見こそまるで違うが姉妹のように映る。溜那は相変わらずあまり喋らないが、それなりに仲良くやっているようだ。
「厳密に言えば違いますが、そのような扱いではありました」
「それじゃ昔からこの家に?」
「いえ。元々私は充知……お嬢様のお父上に拾われた身ですので」
瞬間、溜那が顔を顰めた。
彼女は充知が苦手らしく、赤瀬の家の中で彼にだけは懐かない。そのあからさまな態度に甚夜は肩を竦める。
「そう嫌ってやらないでくれ。あれでも私にとっては恩人なんだ」
ぽんぽんと優しく頭を二度三度叩き少しだけ表情を緩める。
その穏やかさは希美子に向けるそれと同じ。見た目こそ十八かそこらの青年だが、実年齢は百歳。彼にとっては希美子も溜那も、志乃も充知も然程変わらないのだろう。
「恩人なんて大げさだね。それは私のセリフだろうに」
「ふふ、本当に……」
「志乃は昔から甚夜に懐いていたからね。少し嫉妬してしまうくらいだよ」
時期を見計らったように声をかけてきたのは件の人物。
赤瀬家現当主、赤瀬充知。そして細君である志乃だった。
充知は42、志乃は33。歳が九つ違う。並んで立っていると余計に年齢差を感じられる。
今日は久方ぶりに休みを取りのんびりとしていたのだが、庭に娘達が集まっているのを見つけ、妻と様子を見に来たようだ。
「お母様、お父様も」
「んっ」
志乃は溜那のお気に入りだ。嬉しそうに傍まで寄っていく。
ただし若干大回り。それはあからさまに誰かさんを避ける動作で、充知がぎこちなく笑い肩を落とすものだから妻も娘もくすくすと笑った。
「なんだか、私だけ嫌われてるねぇ」
「それだけ胡散臭いということだろう」
「君も、私だけ扱いが雑じゃないか?」
辛辣なことを言われても充知は楽しそうだ。
寧ろそのざっかけない遣り取りが二人の親しさを表している。
「やっぱり、お父様は爺やと仲がいいんですね」
希美子の目にはそれが雇用主と使用人ではなく友人同士の気安さに映る。
爺やがそうやって雑な言葉遣いをする相手は、溜那以外では充知しかおらず、余計に特別だと思えた。
「うん? まあ付き合いも長い、世話になってるし世話もしてきた。迷惑かけることも多かったけど、相応のものは積み重ねてこれたとは思っているね」
「迷惑だと思ったことは一度もない。感謝ならば数えきれぬ程だが」
「嬉しいことを言ってくれるなぁ、本当。でも実際、君を振り回すことも多かっただろう?」
ふむ、と一度頷いて、甚夜はしごく真剣な顔つきで語る。
「否定はしない。だが、振り回すというならどちらかと言えば志乃様の方が」
「……爺や、それ以上はいけませんよ」
いきなり矛先が向き、あわや娘達の前で過去が晒されそうになるのを強めの口調で遮る。
若かりし頃の志乃は、今とは違いおてんばという表現がぴったりとくる元気な娘で、走り回る彼女に甚夜も充知も追随するという形が常であった。
今思えば、傍若無人な小娘だったと思う。そんな幼い時分を娘達に知られるのは恥ずかしい。母親としての精一杯の自尊心だった。
「え? お母様がです?」
「ええ。幼い頃の志乃様は大層快活で、何度充知様と屋敷を抜け出したことか。その上運がいいのか悪いのか、よく騒動を起こしていました。今も覚えています、九段坂の浮世絵の時など」
「それはもういいではありませんか!?」
しかしながら甚夜は止まらず、思わず大声を上げてしまう。
いけない、その話はいけない。なんせそれは幼い頃の失敗の中でも最大級に恥ずかしいものだ。怖い体験や鬼との戦いはなく、平穏無事に終わった事件ではあるが、今思い出しても顔を赤くしてしまう。
面白かったのは今の慌てぶりか、過去の醜態か。ちらりと横目で見れば充知が笑いをこらえながら、嬉々として話に加わってきた。
「私もよく覚えているよ、うん。まさか志乃があんな」
「あなた……」
「いや、冗談。冗談だよ。そんな悲しそうな顔をしないでくれ」
怒られるより不機嫌になられるより、そういう悲しそうな顔が一番弱い。
充知はそれ以上何も言えなくなるが、やはり血は争えないようで。好奇心を刺激されたのか、希美子は身を乗り出して興味津々といった様子だ。一緒になって溜那までも話を聞き出そうとしている。
「爺や、爺や。なにがあったんですか?」
「ん、ん!」
「希美子、溜那ちゃんもそんなに興味持たないで、お願いだから……」
娘達の予想外の反応に、普段の淑女然とした表情を崩しおろおろとする志乃。
視線で夫に助けを求めるが、妻と娘どちらの味方をすればいいのか分からずこちらも戸惑った様子だ。
夫婦は困っているようだがこれも平和の肖像だろう。
甚夜は静かに、穏やかな笑みを落とした。
穏やかな午後の日のこと。
ゆったりと流れる時間、欠伸でもしてしまいそうになるくらい柔らかな幸せ。
ぬるま湯に浸かるようなその感覚に、甚夜はふと昔を思い出す。
二十二年前、充知と志乃は婚約した。
当時充知は二十歳、志乃は十一歳。分かり易いほどの政略結婚である。
彼を婿にと選んだのは誠一郎だった。知人が薦める男どもの中で一番有能。人品骨柄卑しからず、赤瀬の家が続く為、子爵を譲っても構わないと思えた男だ。
或いは、南雲叡善が永遠の命という釣り餌を見せなければ赤瀬の家は万事うまくいっていたのかもしれない。
しかし現実はそうならず、そもそもなる筈もなかった。
因縁は断ち切らぬ限りついて回る。
結局は、今は過去が造り上げた必定だったのだ。
充知と甚夜の出会いは更に四年を遡る。
明治29年(1896年)。
彼等の物語は今より実に二十六年前、人喰いとの対峙に端を発する。
鬼人幻燈抄『去りてより此の方、いつかの庭』
君塚充知は上流階級の人間であった。
今年で十七歳になる彼は、日本郵船に勤める父を持ち、真っ当な教育を受け、生まれた時から何一つ不自由のない生活を送っていた。
父は爵位なぞ持ち合わせていない。いわゆる成金で、しかし落ちぶれた華族が増えた大正の世において君塚はそこいらの由緒正しい家とは比べ物にならないほど裕福だった。
そういう家に生まれた充知は、自分が上流階級の人間であると自覚していた。
反面、華族のような、生まれながらに貴くある人間にはなれないことも十二分に理解していた。
周囲からの充知の評価は、真面目だが肩の力の抜けた青年といったところだ。
成金者の息子のくせに優秀である為、華族の子息からは嫉妬混じりの侮蔑の視線を向けられている。
しかし庶民の親を持つ者達からの評価は上々で、勉学に勤しむ時は真面目だが、いい意味で軽い性格をした彼の周りには人が集まった。
態度も言葉も軽いせいで真剣みが無いと取られることはあったが、勉学に関しては真面目であり、師範(教師)らも概ね好意的だった。
とはいえ彼も若い、偶には羽目を外したくなる時もある。
ある日、充知は高等学校の友人と共に夜の町へ繰り出した。夜の町、と言っても色町ではない。夜遊びして級友が知らないような町並みを見て、大人の仲間入りをしたような気分に浸れれば十分だ。
酒や女遊びは相応の年齢になり、自分のケツを持てるようになってから。
充知は不満気な級友をなだめすかし、それなりに楽しい夜を過ごし、彼等は解散し各々帰路につく。
ただ若い彼等には、知りようもないことがある。
明治は江戸の名残りの色濃い時代。
故に夜は、未だあやかしの時間である。
夜に紛れ女が一人。
薄ぼんやりと浮かび上がる影。
もう暗いのに女性一人では物騒だな。呑気にそんなことを考えていたが、女の容姿を知った瞬間、全身の筋肉が固まった。
白装束に白粉を塗り、乱れ髪に羅刹の形相。
手には鎌。刃の波打つような錆が、赤黒い跡が、その用途を教えている。
あの出で立ち、まさか街娼という訳ではないだろう。
纏う空気は冷たすぎて、見るだけでぞくりと寒くなる
なのに目を逸らすことは出来ず、充知は、女の顔を見てしまった。
耳元まで大きく裂けた口。
浮かぶのは、にたりと表現するには、あまりにも凄惨すぎる笑み。
「ひぃ……!?」
充知はこの夜、はじめて怪異というものに遭遇した。
金縛りにあっていた体がようやく動く。女の体が微かに揺れ、こちらを向くよりも早く、脇目も振らず近場の建物の影に身を隠した。
どうやら見つからなかったようだ。
息を潜め、あの化け物がいなくなるよう必死に祈る。
鬼女は何かを探すように、辺りを見回していた。
掠れた笑い声がはっきりと聞こえ、それは少しずつ大きくなる。
違う、大きくなったのではない。
近付いているのだ。
それを意識した瞬間、心臓が飛び跳ね、なのに動きが鈍くなった。
恐怖が空気を押し固め、呼吸するのもままならない。滲む汗。遠かった足音は近くなる。
こっちに来るな。頼む、来ないでくれ。
願っても甲高い足音は響き、笑い声どころか吐息まで聞こえるようになって。
体が震え、どうしようもなくて、恐怖に身を竦ませて。
ざしゅう。
肉の裂ける音、舞う鮮血に終わりを迎えた。
「……あら?」
いつまで経っても、口の裂けた女はやってこない。
おかしい。状況が理解できない充知は、恐る恐る盾も物陰から覗けば、そこにあったのは思ってもみなかった光景だった。
「うお、なんだこれ……」
鎌を振り上げたままの体勢で、胴を真っ二つに切り裂かれた女。
既に死に絶えているのだろう、死骸は白い蒸気となって溶けていく。
非現実的な現実。女の存在が、端からなかったもののように失われる。
最後には、血すらも霧となって失せ、身に着けていた衣服と鎌だけが転がっていた。
* * *
明治29年、近代化の波に押されあやかしの絶対数は少なくなり、そもそも怪異を信じる人間が減った。
信じる者が減った理由は実に単純である。
江戸の頃から生きていた人が寿命で亡くなり、明治の世に生まれた大人が増えたからだ。
故に若い世代が怪異譚を「老人の作り話だ」と鼻で嗤うのも、ある意味で当然だと言えるだろう。
「いつの時代の話だそれ」
「作り話にしても面白みに欠けるね」
「君塚君、冗談もしつこいと悪質だよ」
「所詮成金者の息子か……」
翌日、充知は高等学校で級友たちに昨夜の事件を語った。
彼の経験した怪異とそれが何者かに斬り殺された話は、当然の如く誰にも信じてもらえなかった。
「あー、なんでだよ。俺は嘘言ってないってのに」
言いながらも分かってはいる。
今のご時世、化け物が出たー、なんて騒いでもまともに取り合ってくれる訳がない。
しかし確かに怪異は存在し、そいつは討ち倒されたのだ。
信じ難いが、おそらくは刀か何か、刃物で一閃。胴を切り裂かれて絶命した。
とはいえそれを証明する手立てはない。
そもそも充知は直接見た訳ではなし、口の裂けた女の死骸は蒸気になって消え失せた。
眼に焼き付いた溶ける死骸と、僅かに鼻腔を擽った血の香りが残るのも彼の記憶の中のみ。
確たる証拠は何一つなく、このまま真実だと言い続けたところで意味はない。
あれは夢だったのだと思った方がいいのかもしれない。充知はそう自分に言い聞かせ、普段通りの生活に戻ろうとした。
「おいっ、聞いたか!? 充知」
しかし級友が告げた言葉に背筋が寒くなる。
“あの夜、共に町へ繰り出した友人が姿を消した。”
それを単なる失踪だと思うには、残った血の香りは強すぎた。
* * *
父の目を誤魔化して、充知は連日夜の町に繰り出した。
明治に入っても、東京にはまだまだ江戸を思い起こさせる建物が見られる。近代的なビルヂングが立ち並ぶにはもう少し時間を要するだろう。
「うわぁ、なんかいやだなぁ畜生」
「怯えてないで、さっさと探すぞ」
級友は語調も荒く、ずんずんと前を行く。
昨夜出かけた店を訪れ、繁華街から外れ、人通りの少ない裏道へ。
店で話を聞いてみたが失踪した級友の足取りはつかめず、薄暗い裏路地まで来てしまった。
純和風の建築が、青白い月に染まる。真昼に見ればなんてことのない景色も、月夜に映えた姿はいかにも不気味で、昨夜のこともありおっかなびっくりといった様子で歩みを進める。
充知は決して正義感の強い性質ではなかった。
寧ろ人並みに善悪の基準は持っているが、なにかあったとしても「残念だが、仕方ない」と早々に諦めてしまう男だ。
上流階級の人間で、華族ではなく成金者の息子だから、金があってもどうにもならないことがあると身に染みて知っていた。
だからこうやって級友を探しに夜の町へ繰り出したのは、やはり正義感ではなかった。
「いなくなったアイツを探す」
そう言った級友をどうにか止めようとした。
それでも止められず、ならばせめてと付いてきた。正義感ではなく弱腰な不安が理由だ。
「なあ、そろそろ帰ろう。あんま出歩くのは危ないって」
怪異の存在、それを討った何者か。
昨夜見た光景はまだ脳裏にこびりついている。
それを恐ろしいと思わない訳がない。充知は本当ならばすぐにでも逃げ帰りたかった。
「五月蠅い、臆病者!」
しかし級友は充知の言葉に耳を貸そうともしない。
自分こそがあいつを見つけるのだと息巻いて、当てもなくさまよい続けている。
歩みはどんどんと早くなり、足手まといだとばかりに先へ進み、ついには背中も見えなくなってしまった。
「おい、待てって!」
彼はそれを見捨てられない程度には善人であり良識も持っていた。
だから級友を追う形で夜を往き。
「夜遊びはいかんな、小僧っこ」
最悪に出会う。
それは、全くの偶然だった。
「今宵はこれで終いと思っていたが」
東京、夜の町。
ここで人喰い……南雲叡善に出会ったのは全くの偶然で、叡善にとっても襲う相手が充知である必要はなかった。
理由は、どちらにとっても“そこにいたから”以上のものはない。
南雲叡善が、君塚充知に目を付けたのは餌を食べていたら新しい餌が来たからで。
君塚充知が、南雲叡善に出逢い逃げられなかったのは、ついさっきまで一緒にいた級友が、そいつに首根っこを掴まれていたからだ。
「見られたからには仕方あるまい」
どくり。首を掴む老人の右腕が胎動する。
掌から、喰われている。水分を失った野菜のように、友人の体がしなびていく。
それだけではない。肉も皮も骨も、右腕から叡善へと溶け込む。
気持ち悪い。しかし目を背けられない。
昨日まで普通に暮らしていた、同じように高等学校へ通った友人が、人の姿をしたなにかに喰われていく。
おそらく充知も同じ運命を辿る。
おぞましい予感が彼の足を止めた。
きっとそれは間違いではない。食事を終えた老人は、まだ足りないと彼を凝視していた。
「これも巡りあわせよ……その命、儂が喰ろうてやろう」
必然と呼べるものは何もなく、単なる巡り合わせで。
しかし充知は、南雲叡善の餌に選ばれた。
「あ、ああ……」
人喰いはその年齢に見合わぬ速度で近付く。
それを避ける術など持ち合わせていない。
分かっていた。夜には“そういうもの”がいるのだと彼は知っていた。
そして自分では、そいつから逃げられないということもちゃんと理解していたのだ。
なのに出会ってしまった。
跋扈する魔に遭遇した者が迎える最後なぞ決まり決まっている。
古き時代から人は魔に蹂躙されてきた。
故に末路は揺らがない。
襲い掛かる化生を前に、充知は目を瞑ることさえできず。
ざしゅう、と嫌な音が聞こえた。
目の前、霞のように血が舞う。
おもちゃのように放り出された老人の腕。
叡善の手が充知の命に届くことはない。
伸ばした腕は、瞬きの間に切り落とされていた。
「ぬぅぁ」
左腕を失った叡善の行動は的確だった。
年老いた外見からは想像もできない反応で、弾かれたように退いた。退こうとした。
「いい動きだ。ただの化生ではないか、老翁」
しかし遅い。
ひゅっ、と風を切る音。
星明りを受けて鈍く光る刃。
僅かに一太刀、老翁の首は跳ね飛ばされる。
充知は驚愕する暇もなかった。なにせ、あまりにも早すぎた。
何処から現れたのか、眼前に悠然と立つ男。
雑な洋装、手にした無骨な刀。
おそらくはこの男が老翁を斬ったのだろう。現状から逆算して起こったことを想像せねばならないくらい、一瞬で終わっていた。
「え……あ?」
血の滴る刀を手に、夜を見据える大男。
あまりにも非現実的な立ち振る舞いに、充知は呆けたように男を眺める。
叡善に餌と定められたのが偶然なら、この男と出会ったのまた偶然。
「昨夜の女といい、あやかしに好かれる男だ」
揺るぎない鉄のような声。
君塚充知は、本当にただの偶然で、葛野甚夜という男と出会った。




