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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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120/216

幕間『りゅうなのはなし・そのに』(了)




【りゅうなのはなし】



「ああ、おはよう溜那」

「ん……」


 朝起きて、いつものように爺やとあいさつ。

 ごはんを食べて、お手伝い。これもいつものこと。

 あの地下牢を出てからずっと続いている毎日には、まだまだ慣れない。

 きたない私に優しくしてくれる爺やに志乃さん、希美子。

 ときどき気にかけて顔を出す向日葵。

 優しくされるのは嬉しいけど、ちょっとだけ苦手。どういう顔をすればいいのかわからなくなる。


『溜那さん、今日はこちらでお留守番ですか?』

「……ん」

『ああ、あの方の所に』


 今日はお手伝いを少しして、向日葵に連れられてあいつの所に行く。

 爺やの昔からの知り合い。でもすっごくいやなやつで、私はあまり行きたくない。

 それを言ったら爺やが困るから言わないけれど。

 爺やは頭も体もいっぱい使って、私を希美子を守ろうとしてくれている。あんまり文句は言いたくない。それでもあいつは大嫌い。


『大丈夫です、私がついていますから』


 おっくうな私に兼臣はそう言ってくれる。

 兼臣は、実は一番いっしょにいる。

 部屋にいるとき、爺やのむかしの知り合いのところに行くときは、いつもいっしょ。

“案外とこいつは頼りになる。もしもの時の為に肌身離さずいてくれ”

 そう言って爺やは兼臣を渡してくれた。


『他ならぬ旦那様の頼み。この身を賭して溜那さんを守りましょう……もっとも、私に身はありませんが』


 おもしろくない冗談を言うけど、兼臣は優しい女の人。

 刀なのに変な感じ。でも、嫌いじゃなかった。


「さ、それではいきましょうか」


 向日葵。鬼の子は私の護衛をしてくれている。

 この子は私を守るためにいるけど、私のためにいる訳じゃない。


「私がしっかり働いてるところ、おじさまに伝えておいてくださいね。あ、今の言葉は内緒ですよ?」


 爺やのことが大好きで、爺やのために動いているだけ。

 びみょうに、この子のことも好きじゃない。


『向日葵さん、叡善さま……南雲叡善の動きはどうなっているのでしょう』

「先日、おじさまに話した時から目立った動きは。ですが、そろそろだと思います」

『では、やはり』

「近く、“こと”を起こす……おじさまもそう見ているようです」


 一鬼と一本で話しながら、私はそれを聞きながら歩く。

 そんなこんなで家に付く。嫌いなあいつがいるばしょだ。


「それでは、失礼しますね」

『会われないのですか?』

「はい、これから行かないといけない場所がありますから。……それにあの鬼、あんまり好きじゃないですし」


 そこだけは、向日葵と気が合う。

 にっこり笑顔でさよならを言い、向日葵はどこかに行ってしまう。

 しばらくそれをみていたけど、そろそろ、嫌だけど家に入らないと。

 私は溜息をついて、あいつの家の玄関をくぐった。







【芳彦の話】


 仕事は、毎日ある。

 僕は今日もモギリをしている。そんなことできるような状態じゃない筈なのに、今もすごく痛いのに、体が問題なく動いている。

 包帯と布で無理矢理止血して、僕は普段通りの顔で働いている。なけなしのお給金で花をたくさん買ってきて飾った。匂いの強い花を選んだ。少しは怪我を誤魔化せるだろうか。

 館長も息子さんも、奥さんもみゆきさんも変には思っているだろう。

 でもこんなこと話せる訳がない。

 昨日、僕を殺した吉隠さんから聞かされた。


『だから、分かってよ。キミはボクの<力>が解けない限りは生きていられる。だけど解いた瞬間に死ぬ』


『死にたくないよね? ボクも芳彦くんが死ぬなんて嫌だなぁ。だから、お願いを聞いてくれる?』


『叡善さんは、希美子ちゃんと溜那ちゃんが欲しいんだって。一応配下ってことになってるから、お手伝いはしないといけなくってさ。キミにも協力してほしいな』


『まあボクが欲しいのは爺様の刀なんだけどね。でも途中までは目的が一緒で、鬼喰らいが邪魔なのも一緒だしねぇ』


『大丈夫、キミの言うことなら希美子ちゃんは信じてくれるよ』


『ちょっとボクを手伝うだけで、キミは死なないんだ』




 死ぬのは、怖い。

 当たり前だ。なんでこんな訳分からないことで死なないといけないんだ。

 泣きそうになる。ナイフで刺されたところは傷が塞がっていない。ずたずたに、内臓も腸も切り刻まれている。

 放っておいても治らない。でもこんな傷、病院で見せることも出来ない。

 どうすればいいのか分からない。

 違う、僕はどうすればいいのか知っている。吉隠さんが態々教えて行ってくれた。

 希美子さんに近付いて、うまいこと騙して、おびき出せばいい。

 そうすれば僕は生きていられる。だけど僕にこんなことをした人が、希美子さんに何もしない訳がない。

 きっと、ひどいことをする。

 でも、なら、どうすれば。

 訳が分からない。何を考えても、答えなんて出る訳なくて。

 僕は泣き叫びたくなった。

 そうして苦しさに声を漏らした時、ちょうど暦座にちっちゃな女の子が現れた。






【向日葵の話】


 このキネマ館はよく知っている。

 希美子さんが何度も訪れているから、<向日葵>を通して見ていた。正直に言えば活動写真、特に恋愛ものなんかは見てみたかったし、機会があればおじさまと一緒に、なんてことは考えていたけれど。

 こんな風に訪れるとは思ってもいなかった。


「はじめまして」


 にっこりと笑顔を向ける。

 芳彦君は凄く警戒していた。

 配下の鬼から情報を得てきたのだから、その理由くらい、分かっている。

 吉隠という鬼に彼は殺された。親しげに近付く名も知らぬ相手なんてとても怪しく見えるだろう。


「……誰、ですか」

「向日葵と申します。希美子さんが爺やと呼ぶ男性の、姪にあたります」


 知っている人の名前が出たからか、少し警戒が緩んだ。

 それでもまだ距離を保っている辺り、疑いはもっているみたい。それも仕方のないことだけど。


「じゃあ溜那ちゃんの、姉妹さん?」

「むぅ、違いますよ。私こそが姪の筆頭、真の姪っ子なんですから」


 あくまでも溜那さんは方便。おじさまの真の姪は私だ。お母様の娘はまだいるけれど、私以外の娘たちは何かを取り込まないと自我を保てない。

 私はなにも取り込んでいない。

 何の混じり気もないお母様の想いから生まれた私こそが、おじさまの真の姪だ。

 溜那さんが嫌いな訳ではないけれど、一緒にされては困る。


「いいですか、間違えないでくださいね」

「……はあ。で、何の用ですか」

「ああ、そうでした、ごめんなさい。芳彦君にお話をしないといけないと思って」


 お話? と怪訝そうに顔を顰める。


「はい、おじさまと南雲叡善。希美子さんと溜那さん……そして私達について」


 彼が凍り付くのを、私はははっきりと感じた。

 けれど気にせず、今回の件について話した。

 南雲叡善の企み。

 赤瀬に南雲、秋津といった家のこと。

 おじさまと私達はそれを防ごうとしていること。

 希美子さんも溜那さんも南雲叡善に狙われていること。

 吉隠が叡善の配下であること。

 そして近々、おじさま達に襲撃を仕掛けるであろうこと。

 知られてはいけないことは上手くぼかして、必要な部分は全て語った。


「……それを、僕に話してどうするんです?」


 信じられないような話。信じたのは腹を刺されても生きている芳彦君自身の体のせいだと思う。

 肩を震わせて、目に暗い光を宿らせて、芳彦君は私を見た。


「別に危害を加えるつもりはありませんよ? 単刀直入に言えば、手を組みませんか、でしょうか」

「手を、組む?」

「はい。芳彦君はきっと、言葉は違えど吉隠にも同じことを言われていますよね?」

「それは……」


 どういう<力>か、正確には分かっていない。けれど、吉隠の<力>で芳彦君は“生ける屍”にされている。

 そんな彼を上手く使う気なら。

 間違いなく、希美子さんの心情に訴える手で来る。

 おそらくそれは止められない。例え全て話したとしても、「芳彦君の命が惜しかったらこっちに来なさい」と言われた時、希美子さんは逆らえないだろう。

 芳彦君を殺して、そういう事態を避けることもできない。

 だって吉隠の許可がない限り彼は死ねないから。

 完全に失策だ。おじさまは、思った以上に追い詰められている。


「芳彦君が、決めてください。短い生に縋り、吉隠につくか。それとも死んでも希美子さんのために動くか。私はどちらでもいいと思います……ですから、貴方が望むように」


 だけど、それはおじさまに限った話。

 正直に言えば、芳彦君を人質にとられても、その結果希美子さんや溜那さんがどうなっても、私にとってはあまり問題が無い。


「……なんで?」

「私はおじさまの味方ですが、それは南雲叡善を倒すという目的が一致しているから。希美子さん達がどうなっても構いません」


 勿論、危害を加える真似や見捨てるなんてことは出来ない。希美子さん達の護衛もしっかりやっているし、二人のことは嫌いじゃない。

 でも優先度で考えれば、おじさまの安全、南雲叡善の打倒が上。その下に、ようやく二人の無事は来る。

 そこがおじさまと私の相違点。

 おじさまは「希美子さんや溜那さんの無事の為に、南雲叡善を討つ」

 だけど私は「南雲叡善を討つ為に、その過程で二人の少女を生かす」

 共通しているのは討つところまで。

 私としては敵を討てておじさまさえ無事なら、他の人がどうなっても構わないのだ。


「でも、おじさまが悲しむのは嫌です」


 だけど私は、芳彦君に手を差し伸べる。

 お母様なら「私だけを見てくれるよう、あの人の大切なものはすべて踏み潰す」。

 私は「おじさまが笑顔でいる為なら、周りのものも許容する」。

 そこがお母様と私の相違点だ。


「それじゃあ、また来ますから。考えておいてくださいね芳彦君」


 そう言って私はキネマ館から去ろうとするけれど、慌てた様子の芳彦君は「ちょっと待って」と大声で呼び止めた。


「はい? なんですか?」

「なんで」

「ですから、おじさまが悲しむのは見たくないと」

「そうじゃなくて! そうじゃなくて……」


 どうして、そんなことを僕に選ばせるの?

 強制するのではなく選ばせる物言いに疑問を持ったようで、芳彦君は訳が分からないといった顔をしている。


「希美子さんを助けたいんなら、爺やさんの為なら、もっと他にやり様があるでしょ?」

「合理的じゃない、と言う話ですか? そんなことはないと思いますけど」


 実際私は誰よりも合理的に動いている。

 寧ろ、お母様の命令に従っている時の方が不合理だ。


「でも」

「実際……そうですね。例えば芳彦君を今ここで拘束して、吉隠と今後接触できないよう監禁するとか。生きていればいいのですから、希美子さんの両足を切り落として動けなくしたり、南雲叡善と同じように頭を弄った方が早いです」

「なら、なんで。わざわざ僕に選ばせなくても、そうすればいいのに」

「そんなこと、する訳ないじゃないですか」 


 聞かれるまでもないこと。

 夏が暑いとか、砂糖が甘いとか、そういう話だ。


「おじさまはそれを望みませんから」

 

 私は笑う。

 溢れる心を映し出せるよう、誤魔化しのない微笑みを浮かべた。


「だって、私にとっての“合理”は“おじさまの意に沿う”こと。“正しさ”は“おじさまの選ぶ道”のこと。母の命令がない時は、自分の正しさ自分の理に従うだけ。ほら、十分合理的に動いてますよ?」


 だから芳彦君を無理矢理どうこうする気はない。

 希美子さんや溜那さんを弄る気も。

 私は私の正しさと合理を持って、おじさまに協力する。当たり前のことだ。

 元より私はそういう風に生まれた。


“にいちゃん、大好き”


 お母様がおじさまと敵対する上で、一番に切り捨てなくてはいけない想いが私なのだから。


「だから吉隠についたとしても何も言いません。きっとおじさまはそれを受け入れるでしょうし。芳彦君は、自分の譲れないもののために動いてくれればいいと思います。そして私は、自分の譲れないものの為に」


 きっと、私は馬鹿なことをやっている。

 おじさまの為を謳うなら、おじさまのことを無視して悪辣な策を使うべきで。

 でもそれを出来ない私が少し嬉しい。

 お母様の想いだけど、私にはちゃんと“私”が在ると思えたから。


「今度こそさようなら。おじさまに言ってくだされば、いつでも来ますから。それでは失礼しますね」 


 足取りは軽やかに、優雅な女の子を気取ってみる。


「でも、死ぬのは怖いんです……」


 背中から聞こえた言葉。

 正直、どうなるかは分からない。

 でも全てが上手くいってほしい。

 その為に、おじさまと作戦会議をしよう。

 こんな状況でも心は浮き立って、ふと空を見上げる。

 抜けるような青空に、鼻歌でも歌いたい気分になった。






【希美子の話】


 最近、すごく楽しい。

 溜那さんとお友達になって、芳彦さんとも仲良くできて、屋敷を抜け出す時は爺やがいつもついてきてくれる。

 叡善様のことは、思う所がないわけではないけれど。

 それでも、いざという時の心構えは出来ている、つもりだ。


「それにしても、本当に見えないのですね」


 きょろきょろと辺りを見回しても爺やの姿はない。

 でも声だけが返ってくる。


『面白い大道芸でしょう』

「大道芸で済ませていいのかは分かりませんけれど……でもでも、凄いと思います! 忍者みたいです!」

『いえ、鬼です』

「あの、そうではなくてですね」


 爺やは浪漫というものを分かっていないです、と頬を膨らせる。

 見えないけれど、きっといつものように落すような笑みで私を見ているんだろう。それくらい分かっているのだ。

 楽しくおしゃべりしながら向かうのは暦座。

 最近は活動写真を見に来ているのか、芳彦さんに会いに来ているのか分からないくらい。

 私のお話を芳彦さんはいつも楽しそうに聞いてくれる。だからついつい話し過ぎてしまうのは、ちょっと反省しないといけない。

 人混みをすり抜けて、通い慣れた道を行く。足早に進めば、小さなキネマ館が見えてきた。


「あら、芳彦さん?」


 辿り着いた暦座の前には、見慣れた男の子の姿があった。

 いつもは中の受付にいるのに、なぜか建物の外でぼんやりと立ち竦んでいた。

 どうしたのだろうと近付くと、壊れたからくり人形みたいにぎこちない動きで私の方に顔を向けた。


「希美子、さん……」

「御機嫌よう。今日も来てしまいました」


 あはは、希美子さんも本当に好きですねぇ。 

 そのように笑顔で迎え入れてくれると思っていた。なのに、芳彦さんは引き攣ったような顔で私を見る。どうしたんだろう、今までこんなこと一度もなかったのに。


「大丈夫ですか? 顔色がよろしくないように見えます」

「は、はは。大丈夫、大丈夫です」


 敏い方ではないけれど、大丈夫じゃないということくらい私にだって分かる。

 心配で、そっと手を伸ばせば、驚いたように芳彦さんは後ろに下がってしまった。

 ずきり。

 わたしに触れられるのは嫌なんだろうか。すこし、胸が痛んだ。


「あ、ご、ごめんなさい!」

「いえ、あの、すみません。私こそ……」


 そんな風に、お互い黙り込んでしまった。

 間に流れる固い空気、息をするのも苦しくて、逃げるように私はきょろきょろと辺りを見回す。 

 なんで爺やは出て来てくれないの、そう言おうとして、でも先に芳彦さんが口を開いた。


「希美子さん……」

「は、はいっ!」


 芳彦さんの表情は強張っている。

 力もなくて、どこか諦めたような投げやりさだった。

 それでも私から目をそらず、一度深呼吸をして。


「……もしもの時、僕を、信じてくれますか?」


 意味の分からない問いかけをした。

 でも芳彦さんは真剣で、その眼は迷子の子犬が縋りつくような頼りなさだった。

 彼はなにを聞きたいのだろう。

 分からない。けれど、この質問が簡単に答えてはいけないものだということくらいは分かった。

 だから私は目を瞑り、芳彦さんのことを思い浮かべる。

 暦座のモギリさん。

 優しくて、真面目で。ちょっと気の弱いところはあるけれど、わたしの話をいつもちゃんと聞いてくれて。

 いつだって笑顔で。

 その笑顔が、私は嬉しくて。

 もう一度目を開けた時、答えは決まっていた。


「はい。私は、芳彦さんのこと、信じます」


 きっと健やかな笑顔を見せてあげられたと思う。

 芳彦さんが私の答えに何と思ったかは分からないけれど、ようやく彼は笑ってくれた。

 うん、やっぱり。芳彦さんは笑顔の方が素敵だ。

 心からそう思って、私は余計に嬉しくなった。

 二人して、キネマ館に入らずニコニコ笑っているだけ。傍から見ればとても奇妙な光景だろう。

 でも流れる風は滑らかに抜けて、涼しさの後には暖かさが残って。

 私達はしばらくの間、意味もなく見つめ合っていた。


 


 帰り際、爺やは無言だった。

 その理由は、私には分からなかった。







【りゅうなのはなし・そのに】


 夜になって、おやしきに帰ってきて、疲れたからかすぐに眠った。

 暗いところは苦手。

 あの地下牢を思い出すから。

 夜ふと目が覚めて、まっくらで、まだあの地下牢にいる気がして。

 それがこわくて、夜は遅いけれどわたしは爺やの部屋に行った。


「どうした、溜那」


 なぜかは分からないけれど、爺やはいつ部屋に行っても起きている。

 ふしぎに思っていると「一人が長かったからな。気配には敏感なんだ」と言った。言葉の意味も、なんで私が考えていることが分かったのかも分からなかった。


「怖い夢でも見たか」

「……ん」


 こわい夢を見たことはない。

 でも、眠って目が覚めた時、またあの地下牢にいるんじゃないかと思うことがこわい。

 平気だったはずなのに、こわいと思うようになってしまった。

 その理由も、やっぱり分からない。

 爺やに手を引かれて外に出てから、分からないことが増えた。こわいものも増えた。

 あの地下牢にいた時はなにもこわいとは思わなかったのに。 

 だれもそばにいなくても。ひどいことをされても。そのまま一人で死んでいくとしても。

 なにもこわくなかった。

 なのに分からないことが増えるたびに、いろんなものがこわくなった。


「そうか、怖いのは今の方か」


 おふとんの上に座る爺や。その膝にすっぽりと収まるわ。

 なにも言わないのに、爺やはそう言う。驚いて見上げれば、いつも通りむっつりしてるのに、なんでかすごく変なかんじがした。


「……なんで?」


 なんで何も言わないのにわかるの?

 わたしの質問に、爺やが頭を撫でてくれる。


「分かるさ、私も同じだ」

「じいやも?」

「ああ。臆病者だからな、色々なものが怖いんだ」


 そんな風には見えない。だから、爺やの言うことに納得できなくて、じっと見つめる。

 だけどいつものように、なんでもないことのように爺やは言う。


「私は、今まで大切なものを守れた“ためし”がない」


 落とすように笑った。

 すごくおだやかに、やわらかく。


「たった一人の妹、遠い日に恋をした人、両親や友人、もしかしたら妹になったかもしれない少女。共に肩を並べた知己も、心から愛した娘さえ……何一つ、守ることが出来なかった」


 でもそれが、とても寂しそう。

 疲れているような、泣くのをこらえているような。


「そんな男だ。守れないことも、失くしてしまうことも。どうしようもなく怖い」


 だからわたしは、寂しくなった。

 わたしを外に連れ出してくれて、頭をなでてくれる爺やになにも言えない自分が、すごく寂しい。


「それでも、持たなければよかったと思ったことは一度もないよ」


 そう言って、爺やはやっぱりわたしの頭をなでてくれる。

 声はなんでかうれしそうだった。


「何一つ守れなかった。本当に、数えきれないくらい多くのものを失ってきた。だが、手に入れたものだってあったんだ。だから、今もこうやって足掻いている」


 少しだけ私を抱きしめる力が強くなった。

 失くさないように、言葉にしないでそう言っているみたい。

 

「なあ、溜那。お前はこれからも多くの怖いものに出逢う。どうしようもないくらい辛くて、全てを投げ出したいと思うこともあるだろう」


 やさしい声。触れ合った体から伝わる暖かさ。

 心地よくて、瞼が重たくなるけれど。爺やの声を聴いていたくて頑張って目を開ける。


「けれど、どうかそれを嘆かないでほしい。いつか分かる。取りこぼしてきたものの価値も、手の中に残った小さな“なにか”の意味も」


 見上げた先にあるのは、静かな笑顔。

 それが私にはすごく安心できて。

 気付けば、眠りについていた。




 分からないことが増えて、怖いものが増えた。

 でも、大切なものも増えた。

 今の私にはそれがいいことなのかは分からないけれど。

 あの地下牢に戻りたくないと思えるようになった自分は、そんなに嫌いじゃなかった。



 できれば、こんな日々が長く続きますように。

 神様は聞いてくれないだろうから。

 伝わる暖かさに、わたしは小さく祈りを込めた。





 幕間『りゅうなのはなし・そのに』




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