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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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『紫陽花の日々』・3




 甚夜が二人の少女を連れだした理由は、勿論彼女らを慮ってのことではあるが、それ以外にも理由がある。

 別に襲撃が無いと踏んでいた訳ではなく、何があっても護り切れるなどと自惚れてもいない。

 有体に言えば、甚夜は叡善の出方を知りたかった。

 例えば希美子と溜那を外に連れ出した時、周りの人間を巻き込んでまで襲ってくるのか。

 それとも余計な被害を出さぬよう状況が変わるのを待つのか。

 或いは甚夜達だけを狙えるような策を打ってくるのか。

 どのように動くか、それによって叡善達の態度や方針がある程度透けて見える。

 何もしてこなければよし。

 逆に人目の付くところでも何らかの動きを見せるのならば、この何気ない息抜きの時間は、「叡善が現状でどの程度までなら強硬な手段をとるか」を知るための試金石になる。

 とはいえ目算では“9対3”で動かないと考えていた。動く可能性の余分の2は配下の鬼の暴走である。

 


 ───異形の腕は甚夜の首を捻じ切ろうと、明確な意思を持って伸ばされた。



 つまり、この状況で襲ってきたのは織り込み済み。

 もしも叡善の指示ならば井槌も来る。ガトリング砲で周囲の人間を巻き込めば甚夜の動きを制限できるからだ。

 つまりこれは配下の鬼の暴走。正しく甚夜の想定範囲内の状況であり、しかし攻め手が予想外だった。

 首をへし折ろうと迫る腕。

 鬼の姿はなく、腕だけが空中から生えている。

 表情は崩さない。動揺を外に出せば付け入る隙となるし、予想外にいちいち動きを止めてやる程初心でもない。

 平静を保ち、左腕を滑らせ異形の腕の内側に、流れを殺さず丁寧に捌く。

 いや、捌いたと思った。腕が振れていたのは一秒にも満たぬ僅かな時間、刹那の内に感触は掻き消えていた。


「がっ……!?」


 そして、たっぷり三十秒近く間を空けて、背後に痛みが走った。

 体勢を崩し駆け、どうにか踏み止まって振り返る。

 勿論そこには誰もいない。

 殴打による物理的な衝撃だ。見えなかったが、先程の腕に殴られたのだろう。

 空中に腕を造り出し操る、<地縛>に近い<力>。或いは腕から先だけ、体の一部分のみの空間移動か。

 いかなる<力>かはまだ判別がつかないが、次の一手を警戒し、腰を落し身構える。


「……? 爺や、どうかしましたか」


 咄嗟に構えた甚夜を、希美子も溜那も不思議そうに見つめている。

 それが予想外。 

 白昼堂々、衆人環視の中襲い掛かってくるのは可能性として考えていた。

 だが白昼堂々、衆人環視の中、“誰にも気付かれず”襲い掛かってくるとは思っていなかった。

 腕が現れていた時間は本当に僅か。立ち上がる瞬間、希美子達には見えない位置から甚夜の首を狩りにきた。

 そのおかげで攻撃は正面からとなり対応もとれた。しかし突如として現れる腕、これが制限なく使えるのであれば厄介であることには変わらない。


「大丈夫ですか? 体調が悪いようならもう少し休んでからでも」

「いえ、お気遣いありがとうございます。ですが、少し足を滑らせ掛けただけですので」


 店内の客が僅かながらざわついている。“あれ”を見たものも中にはいるのだろう。

 これ以上騒ぎになられても困る。希美子の気遣いは有難いが、余計な心配はかけぬよう平然とした様子でレジスターへ向かう。二人の少女の周囲に気を配りながら、手早く会計を済ませた。

 同時に右の掌を口元まで運び、歯で皮膚を食い破る。ぐっと強く握れば、拳の中には血が溜まる。

 

 姿形も分からぬ鬼の襲撃。

 有り難い、と口の端をほんの少しだけ釣り上げる。

 予想外の一手に驚かされたのは事実、だが有難くもある。

 この襲撃で叡善がしばらく動かないこと、配下の鬼達は服従している訳ではないこと、鬼達も基本的に希美子と溜那を殺すつもりはないこと、様々な推測に確信が持てた。

 この状況は決して悪くはない。

とはいえ折角の気分転換だ。最後の最後に“けち”をつけられるのもつまらない。

 だから誰にも気づかれない襲撃はこちらとしても好都合。

 彼の敵の流儀に倣い、誰にも気付かれぬまま相手取るとしよう。


「では、いきましょうか。お嬢様、溜那をお願いしてよろしいですか」

「え? 私が、ですか?」

「はい。やはり同年代との交流も必要かと」

「交流も何も未だに口も聞いてもらえていなのですけど……」


 少しだけむくれる希美子。

 ゆったりとした仕種で溜那にも先に店を出るよう促す。


「……ん」


 こくりと頷く。殆ど喋らないが、案外と性格は素直で、余程変なことでなければ指示には従ってくれる。

 或いは、長い牢獄での暮らしが、彼女をそう変えてしまったのか。

 甚夜には分かりようもないが、それでも現状では指示に従ってくれるのは助かる。

 希美子、溜那、甚夜の順で店を出る。最後尾に立ち、二人の少女はこちらを見ていない。おあつらえ向きというヤツだ。

 態々狙いやすい状況を作ってやったのだと、挑発するように緩慢な動作で進む。

なればこそ、それは起こるべくして起こった。

 偶然か、こちらの意を汲んだのか。

 微かに聞こえた。何かが反響するような、捻じ曲がるような、形容し難い音に知る。

 異形の腕は再び甚夜に襲い掛かった。






 ◆






「おい、待てってるだろうが」


 さっさと進んでいく吉隠の肩をがっと掴み無理矢理振り向かせる。


「あれ、付いてきたの?」


 吉隠はそんなものは意に介せずといった様子だ。

 まったく、胃が痛い。偽久も大概だが、こいつは輪をかけて自由過ぎる。もう少し大人しくしていてほしいのだが。


「当たり前だ。お前が妙なことしないか見張りだよ」

「信用ないなぁ」


 寧ろ「あると思うのか」と懇々二時間は問い詰めたい。もっとも、そんなことをしたところで吉隠は悪びれず笑うのだろう。

それがありありと想像できたから、井槌は眉を顰めた。


「というか、なんでボクの方? 偽久は鬼喰らいに会いに行くって言ってたんだし、止めるならそっちじゃない?」

「あいつは、追えねえからなぁ」


 瞬間移動めいた<力>を持っているのだ、追わなかったのではなく追えなかっただけ。

 井槌に出来ることと言えば、せいぜい何もありませんようにと祈るくらいのものである。


「胃が痛ぇ……変なことしてなきゃいいんだけどよ」

「ま、大丈夫でしょ。あいつのことは嫌いだけどさ、井槌より頭は回るしね。多分、今頃鬼喰らいは溜那ちゃんたちとお出かけでもしてるから、せいぜいちょっと挨拶に行きます、程度のことだと思うけど」


 何気なく、それこそ雑談程度の軽さで偽久の、そして鬼喰らいの鬼の行動を予測する。

 あまりの軽すぎて聞き流しそうになったが、一拍子置くと吉隠の言葉に疑問がわいてくる。


「そらどういうこった。つーかなんでそんなことが分かる」

「普通に考えれば分かるよ。現状叡善さんは動かない。だってあんだけ見事にやられたからねぇ、勝てるくらいまで命を溜め込むのが最優先。しばらく人の命を喰うことに専念すると思うよ。とすると、叡善さんの居場所を突き止めるには“不自然に人が失踪する事件”を片っ端から当たるのが手っ取り早いと思わない?」


 だから鬼喰らいは定期的に外に出て、噂やら怪異の事件の情報を集めている。

 ああ、言われてみれば簡単なことだ。現状後手に回らざるを得ない鬼喰らいが唯一取れる方策は、“叡善が関与していると思われる”事件に首を突っ込むくらいしかないのだ。


「そんでお出かけか? ならあの娘っ子と一緒ってのは」

「もしかしたら叡善さんが襲ってくるかもしれないからね。だったら一緒にいた方が安心だろうし」


 予測を話ながらも吉隠は歩みを止めない。

 それについて行く井槌は、何とも言えない心地で町並みを、先往く鬼を眺めていた。

 江戸の名残り色濃い和風の建築と近代的なビルヂングが混ざり合った町並みは、綺麗でもどこか違和感を覚える。

 そこを歩く洋装の鬼というのもまた奇妙だ。吉隠は大正という時代を是とはしていない。含むところがあるからこそ、この鬼も叡善についた。

 そう本人から聞いてはいるが、所謂モダンな洋服には興味があるらしく、見る度に違う格好をしている。

 今日はシャツにネクタイ、ロイド眼鏡。モボ(モダン・ボーイ)を気取って鼻歌交じり、随分とご機嫌だ。


「あ? お前が爺様は動かないって言ったんだろうが」

「それはボク視点の話。鬼喰らいから見ればそこまでの確信は持てないさ。あっちの目算では……そうだなぁ、9:1くらいかな。その程度には読むよ。読んで、だからこそ自分を囮にしてでもこちらの出方を見ようとする。あれは赤瀬に肩入れしすぎてるし、襲ってきてくれるなら寧ろ万々歳ってなものだろうね」


 何が面白いのか、にこにこと笑顔で語る吉隠は足取りまで軽やかだ。

 どこか嘘っぽい笑みを浮かべながら流れるように語り続ける。


「だから今頃銀ブラでもしてるんじゃない? 気分転換をしつつ、コーヒー飲みながら噂でも集めて、叡善さんの出方も見れる。その上こっちは溜那ちゃんや希美子ちゃんを殺せないからね、攫われる危険はあっても命を狙われるのは自分だけ。一割くらいだけど、叡善さんが動く可能性もある。鬼喰らいにとっては最高の状況……って、なにその微妙な顔」


 微妙な顔にもなる。

 普段万事適当にしか見えない吉隠が此処まで状況を把握しているのだ。まるで狐につままれたような気分だった。


「いや、お前、色々考えてるんだなーってよ」

「井槌に馬鹿扱いされるとか流石のボクも傷付くなぁ。一応言っとくけど、偽久だってこれくらいは読んでるからね?」


 口にするのも嫌なのか、べーっと舌を出して顔を顰めている。

 吉隠の言葉が本当だとすると、現状の理解が出来ていないのは井槌だけ、ということになる。これでは馬鹿呼ばわりも仕方ないと、眉間に皺を寄せた。

 

「あいつは鬼喰らいがどの程度できるか確かめに行っただけ。一当てか二当てかして、深追いせずに帰ってくるんじゃない? 馬鹿だよねー。適当な雑魚の鬼当てとくか、井槌をそそのかして戦わせるかすれば自分の<力>を晒さずに相手の力量計れるのにさ」

「ちょっと待てや」


 なんだ、そそのかすって。

 最後の最後にオチをつけてくる辺り、こいつは本当に性格が悪い。

 そう思いながらも井槌は、ほっと息を吐く。若干引っかかるところはあったが、偽久も無茶をやらかすつもりではないようだし、取り敢えずは安心といったところだ。


「まあなんだ。とにかく、あいつも馬鹿な真似はしねえってことか」

「まあねー。不愉快な奴だけど、そこら辺頭は回るよ。嫌いだけど。できれば鬼喰らいにやられてほしいけど」

「仲良くしろとは言わねえが、喧嘩はすんなよ。んで、お前の見立てだと、どんなもんだ?鬼喰らいの実力の程は」

「んー、ボクはあの夜ちょっとしか見てないからなぁ。でも……」


 そこで吉隠は、いっそ晴れやかなくらいの笑顔で言った。


「偽久の面白い顔が見れる程度には、“できる”と思うよ」






 ◆






 意識を外へ、薄く薄く、刃物のように研ぎ澄ます。

 腰に刀はない。明治の初期はまだ武士崩れが刀を帯びていたが、明治中期になるとそれも出来なくなった。

 今は赤瀬の家内使用人。充知や志乃に迷惑をかける訳にもいかず、人目のある場所では帯刀していない。だが散々刀に拘った男だ。今更銃を隠し持つ気にもなれなかった。

 だからと言って、武器が無い訳ではない。


「えと、溜那さん。行きましょう、か?」

「……ん」


 こくんと頷く溜那に、少しだけ表情を柔らかくし、希美子が店を出る。

 それに続き溜那。最後に甚夜が一歩を踏み出す。

 店の玄関をくぐり、客の目から離れ、少女達もこちらを見ていない。後を追い二歩目、右足が地面に付くか突かないかというところで。



 空気の歪む音が聞こえた。



 意識を集中していなければ聞き逃していたであろう微かな音。

背後、左から、狙いは後頭部。

 一撃で頭蓋を砕かれる、その姿を想像する。黙視せずとも凄惨な光景が浮かぶ、それだけの圧迫感がそこにはある。

 故に、至極分かり易い。

 踏み出した足を斜め右へ。滑らせるように進め、地に付くと同時、右足を軸に左足を引き、体を半回転させる。

 チッ、と異形の腕が頬を掠める。避けきれなかった、だが問題ない。既にこちらは反撃の体勢に移って、いや、既に反撃している。

 予見した攻撃だ。合わせることくらいはできる。

 体を回し、勢いを殺さず、流れるように小さく右腕を振るう。帯刀していない。夜来も夜刀守兼臣もない。けれど手には刀がちゃんと握られている。


『義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。

己が矜持に身を費やし、それを侵されたならば、その一切を斬る“刀”とならん。

ただ己が信じたものの為に身命を賭すのが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である』


 最後まで、血の一滴まで刀でありたいと望んだ男がいた。

 右手に握られた刀はそいつが、かつての友がくれたもの。

<血刀>───血液を媒介に刀剣を生成する<力>。

 刀に、事切れるその瞬間まで拘った、時代遅れの武士の願いだ。


 腕はまだ空中に残っている。

 刀は紫電の如く走る。

 ひゅっ、と短く空気を裂く音。刀身を見た者はいない、そう言い切れるほどの速度をもって放たれた一刀だった。
















「爺や、次は何処に行きましょうか?」

「そうですね。ではキネマでも……いえ洋品店を覗きたいのですが。この娘も年頃、衣装の一つや二つ揃えてあげたいので」

「いいですね。そうだ、溜那さんの服、私が選んでもいいですか?」


 振り返った希美子と、和やかに言葉を交わす。

 少女二人は少しばかり硬さが取れたようで、ぎこちないながらも雰囲気は悪くない。

 甚夜はというと、顔色一つ変わらない。異形の腕に一刀、振り抜いた瞬間<血刀>を消し、佇まいを直し、何事もなかったように希美子たち後をついていく。

彼女らは何も気づいていない。とりあえずは上手くいったらしい。


「ふふ、爺やは子供が出来たら子煩悩になりそうですね」

「どうでしょうか」

「……ん」

「ほら、溜那さんも頷いています」


 骨を断つ手応えはなかった。が、確かに斬った。肉の感触があった。

 攻め手が止んだところを見るに、多少なりとも手傷は与えられたようだ。

 それに肉の感触があったということは、あれは本物の腕だったということ。つまり肉体の一部を別の場所に転移させる、部分的な空間移動という線が強くなった。

 どこにいても攻められるなら厄介だが、だからこそ傷を与えられたのは幸いだった。

 不意打ちにも対応できる。そう印象付けられたなら、相手も少しは慎重になるだろう。


「さ、早く行きましょう。溜那さんに似合うドレスを選びますね」

「いえ、お嬢様。欲しいのは普段着なのですが」

「えー」


 考えはそこで打ち切る。

 叡善の手勢はなかなかに厄介だ。とはいえ、今は希美子の楽しそうな笑顔を優先するべきだろう。

 騒がしい町並み。東京は、かつて江戸と呼ばれていた頃とは全く異なる様相をしている。


「なら、どうしましょうか。そうだ、モガですね! 着物もいいですけど、スカートも似合うと思いますよ」

「…え…あ……」


 楽しそうな希美子に手を取られ、溜那も引っ張られる形で小走りになる。

 その様を甚夜は目を細める。

 大正の世は確かに生きにくい。

 刀を奪われ、あやかしは居場所を追われ、かつて全てと信じた生き方は時代に否定された。

 しかしそんなに悪いことばかりでもないと思う。

 変わらないものなんてない。

時代は流れ、街並みは移ろい、人の心さえも変わってしまうけれど。

 今がいつであれ、大切にしたいと思える景色はちゃんと在ってくれる。

 雑談に花を咲かせながら、ゆったりと東京の町を見て回る。少女達の、何処にでもある得難い幸福を眺めながら、甚夜は小さく笑みを落した。





 ◆





「んで、俺ら結局キネマ見ただけだったな」

「だから最初からいったでしょ。ボクはキネマ館に行くって。いやー、夏雲の唄、いいね。ああいう甘酸っぱい恋物語」

「お前が言うと裏があるようにしか聞こえねぇ」


 郊外にある南雲の邸宅へ戻った井槌と吉隠は、与えられた部屋で茶を飲みながら休息中である。

 見張るつもりで付いていったが、やったことと言えば本当にキネマを見るだけ。別段いさかいを期待していた訳ではないが、警戒していた分拍子抜けした気分だった。


「お前、結構通ってんのか? モギリのガキ、あー、なんだったか」

「芳彦君?」

「そうだ、そいつと随分仲がいいみたいだったが」

 

 吉隠は暦座のモギリとえらく親しげだった。

『あ、今日も来てくださったんですか?』

『うん、芳彦君に会いにねー』

『あはは、からかわないでくださいよ』

『えー本気なのにぁ』

 そんな会話をしたり、ちょっと“しな”を作ってみせたりと、随分芳彦君とやらに執心だ。


「気のせいじゃない? そんなこともないと思うけどなぁ。あ、もしかしてヤキモチとか?」

「ふざけろ」


 そもそも男か女かすら分からないのに、そこまでの執着を持つ筈もない。

 単に吉隠が普通の人間にああいう態度で接するのが、なんというか、奇妙に思えただけだ。とはいえ井槌自身、吉隠のことを深く理解しているとは言い難い。気のせいと言われればそれまでだろう。


「さって、そろそろかなー」

「あ、なにが?」


 話しの流れを打ち切って、吉隠はにまにまと含み笑いを浮かべている。

 その理由を問いただそうとして、


「ちぃ、てめぇも居やがんのか」


 いつの間にか部屋に入り込んだ偽久の声を聴いた。


「おお、偽久。つーかちゃんと障子を開けて入って来いや」


<力>を使って部屋に来ることはままある為、突如現れた偽久に驚くことはない。しかし右手に巻かれた包帯を見て、井槌は眉を顰めた。

 出て行く前にはあんなものはなかった。視線に気付いたようで、偽久は僅かに笑みを浮かべた。


「おい、その右手」

「鬼喰らいにやられた。野郎、三手で合わせてきやがった」


 赤く滲んだ包帯に、決して浅い傷ではないと知れる。

 しかし偽久は大して気にしていない様子で自身の右腕を眺めている。忌々しげに、という訳ではなく、どちらかと言えば喜んでいるように見える。


「冗談……なわきゃねえよな」

「冗談言うように見えるか?」

「ねえな」


 井槌は心中穏やかではなかった。偽久の腕前は知っている。だからこそ容易に対応して見せた鬼の存在に戦慄する。

“やれる”とは思っていたが、まさかここまでとは。


「成程、ジジイじゃ手こずる訳だ。中々楽しげな相手だったぜ」


 対して偽久は言葉通り楽しげである。

 初見で自身の<力> に対応されたとしても所詮は様子見。偽久も鬼喰らいも底を見せた訳ではない。

 屈辱やら敗北感などある筈もなく、寧ろ彼の目には相手への純粋な賞賛があった。


「嬉しそうな顔してるねぇ」


 呆れた調子で吉隠は溜息を吐く。

 こちらの目はひどく冷たい。偽久の好戦的な笑みを心底馬鹿にしている。


「そりゃ嬉しいからな。どうせ殺すなら、それに足る相手の方がいいだろうが」

「知らないよそんなの。ボクはあんまり殺したくないし、<力>も殺さないことに特化してるからね。そこら辺、ボクら一生分かり合えないと思うよ?」

「それに関しちゃ同感だ。俺もてめぇみてえな屑とは分かり合えねえな」


 互いに見下すような視線とあからさまな敵意をぶつけ合う。

 またか、と思いながらも井槌は二匹の鬼の間に入ろうとして、それより早く吉隠が引いた。


「って、今はそんな言い争いしてる場合じゃないか。不愉快だけど、偽久の<力>に数手で合わせるなんて真似ボクには出来ない。井槌は?」

「俺もだよ。そりゃ、そこら中に弾丸ばらまきゃ別だが」

「だろ? つまりボクや井槌が真っ向から鬼喰らいに挑んだら、まああれだよね」


 いとも容易く討ち取られる。言葉にしなくてもそのくらいは想像がつく。

 ガトリング砲を持たない井槌は、膂力や武技が優れているとしても下位の鬼に過ぎない。単純な力量で言えば偽久の方が上。ならば、一合の争いとは言え互角にやり合った鬼喰らいに勝てないのは道理だろう。


「ま、だからと言って手を上げて降参なんてするつもりはないけどね」


 気軽にそんなことをのたまう吉隠は、にこにこと嘘っぽい笑顔を浮かべている。

 実力で下回っていることを認めながらの余裕。その根拠が分からず井槌は眉を顰めた。


「なんだ、えらく余裕があるじゃねえか」

「別に余裕ある訳じゃないよ。でも方針は決まったからね」

「方針?」


 井槌の問いに「うん」と吉隠は頷き。


「まともにやったら負けるから、まともにぶつからないようにしようか」


 そう笑顔で答えた。







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