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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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『紫陽花の日々』・2




 井槌は鬼である。

 鬼の両親から生まれ、鬼として育った。

 嘘を吐かず己が為に生き、酒を愛し暴力を手段とし強者を尊ぶ。

 彼はそういう鬼らしい鬼だ。

 武技を嗜み、体躯にも恵まれ。平安の頃ならば絵巻物に記させる有名な鬼となれたかもしれない。


 ただ生まれた時代が悪かった。

 井槌が生まれたのは明治の中頃。刀は政府によって奪われ、警官隊は拳銃で武装し、近代化によりあやかしへの恐怖が薄れた後。現世において、既に鬼は脅威ではなくなっていた。

 源頼光、多田満頼、渡辺綱。

 鬼を退治した逸話を持つ武将は須らく礼賛される。古き時代、鬼はそれだけ強大だったからだ。

 しかし明治以降鬼退治で有名になったものは少ない。

 当然だ。子供だって知っている。


『剣で鬼に勝てなくったって、銃で撃てばいい』


 剣の時代の終わりと共に、鬼もまた終わりを向かえたのだ。





 詰まるところ井槌は、生まれたその時から自身になんの価値も見出せなかった。

 幾ら人より強くとも、体躯に優れようとも、百の銃器に勝つことは出来ない。

 百年の歳月を経ていない彼にはまだそれを覆す<力>はない。

 鬼でありながら、大正の時代においては人にすら勝てない惰弱な存在でしかなく。

 しかし鬼であるが故に、彼にはそれが許せなかった。


“今の世の中をぶっ壊したい”。


 井槌の戦う理由は実に単純だ。

 文明の崩壊を望んでいる訳ではない。

 近代化、生活様式の変化、変わる町並み。新しい娯楽。

 実に結構、国が豊かになるのは良いことだ。

 ただその中で、鬼は変わらず脅威でありたい。

 退魔に負けるのは構わない、奴らは鬼を討つ為にその生涯を捧げた者なのだから。

 しかし銃器を持っただけの人に敗北し、一般の者にさえ嘲笑われる。そんな構図を作った大正という時代は認められない。

 人にすら負けるあやかしに何の価値がある。

 鬼が鬼である為に、彼は何かできることを探していた。


 そうして辿り着いた南雲叡善という可能性に彼は賭けた。

 あの妖怪爺が目指す“コドクノカゴ”。

 現世を滅ぼしかねぬ災厄は、望んだ鬼の在り方でもあった。

 そう、手段は何でもよかった。

 ただ鬼が、あやかしが、現世における脅威として在ってくれるのなら。

 その為ならば敵たる退魔とも肩を並べよう。

 鬼の存在を貶めた重火器だって使う。

 年端もいかぬ少女が毒婦へと変えられることにも目を瞑り、気色の悪い爺にもこうべを垂れる。

 願ったのは、人が人として、鬼が鬼として生きられる場所。

 かつて確かに在った景色───人が鬼を恐れ、神を敬う、当たり前の形を取り戻したかった。


「だったのに、なぁんか、妙なことになってんなぁ」


 南雲の本家を放棄した彼らは、東京郊外にある叡善の私邸へ移った。

 私邸は南雲の本家よりは小さいが、それでも結構な規模の和風邸宅である。

 井槌も当然それについて行ったのだが、どうにも現状の方にはついて行けず、ぼやきながら酒を煽った。


「どうしたの井槌? なんか憂鬱そうだけど」

「いや、面倒くせーことになってると思ってよ」


 縁側で昼間から酒を呑んでいると、性別不詳の鬼、吉隠よなばりがいつの間にかやってきた。

 吉隠はこちらに確認を取ることなく隣に座り込み、勝手に井槌の酒を手酌で組んで旨そうに呑んでいる。

 一人酒にも飽きた。別に構わないのだが、相変わらずの傍若無人さに呆れてしまう。 


「えー? 別に単純だと思うけど。叡善さんと鬼喰らいの鬼が敵対してて、叡善さんにはボクらが、鬼喰らいにはマガツメの娘が味方してる。それだけの話でしょ?」

「そういうことじゃなくてだな。なんつーか、この争いに関わってる奴ら、皆が皆本音を言ってねえような気がすんだ。あー、やだやだ陰湿で」


 井槌は年若くとも感性は古い鬼に近い。

 だから南雲叡善のことを案外認めていた。

 あの男は下衆だが純粋だ。人を喰らって、踏み躙ってでも目的を為そうとしている。

 南雲の再興の為に他の全てを犠牲にしようとするあの爺様の在り方は、悪辣ではあるが決して嫌いではなかった。

 鬼喰らいの鬼に関してもそれなりには評価している。

 あれは古い時代の鬼。技と<力>でああも立ち回る。正直、あれだけの強さがあったらと憧れに似た感情を抱いた。

 しかし南雲の再興を謳う叡善に、南雲を潰すと言った鬼喰らい。

 どちらも嘘はないが、本音は別の所にあるような。上滑りするような、得も言われぬ奇妙さを覚えた。

 それがどうにも気に食わないのだ。


「いや、そいつは俺も同じか……」


 現状の打破に叡善を利用すると決めた時点で同類、そこに気付き井槌は眉を顰めた。

 弱いというのは惨めだ。

 もし彼に現状を打破できるほどの力が在ったなら、誰かへ縋るような真似をせずに済んだ。

 ガトリング砲になど頼る必要もなかった。

 自身の手をじっと見て、その頼りなさに小さく舌打ちをする。無駄に大きな手が少し忌々しく思えた。


「うーん、よく分かんないけど。そりゃ叡善さんも鬼喰らいも目的があるんだから、その為には頭も使うって。狙いを隠すのも当たり前でしょ? 彼等が陰湿なんじゃなくて、君が考えなしなだけだと思うよ?」


 けらけらと笑う吉隠は、しかし笑っていてもどこか空々しい。

 なんとなく一緒にいることは多いが、吉隠と叡善の下に付いた時が初見。特に友人関係という訳ではない。

 一応コドクノカゴ完成という目的の為に動く同志ではあるのだが、この鬼にもまた得体の知れないところがある。


「鬼が賢しくてどうすんだ。気に入らないことがあったら叩き潰して、力が及ばないならそこで死ぬ。鬼として生まれたんなら、そうありてえじゃねえか」

「あはは、井槌は単純でいいね」

「それ褒めてねぇだろ」


 皮肉めいた発言を半目で睨みつけても、彼だか彼女だか分からぬ鬼は平然と酒を呑む。

 まったく、と井槌は溜息を吐いた。中性的で線が細いのに、ふてぶてしいことこの上ない。吉隠の態度に呆れ、自分も盃を空ければ、横目に影が映った。


「おう、偽久いきゅうか」


 近付いてきた男は、一応同僚ということになるのだろう。

 叡善の下には、四匹の鬼がいる。

 井槌、吉隠。そしてこの偽久もまた、彼に与する鬼。井槌よりも遥かに歳月を重ねた、高位の鬼である。


「井槌。酒があんなら、俺にもくれよぉ」


 人の姿をしている時の偽久は、和装をだらしなく着崩している。

 吉隠よりも背が低く、反して細身ながらも筋肉質。服装だけ見れば文士崩れといった印象だが、目は異常にぎらついていて、筋肉質な体躯と苛立ったような表情も相まってひどく物騒な空気を纏っていた。


「ほれ」

「わりぃなぁ。ったく、あの爺もしばらく動く気はねぇみてえだしよぉ。暇で暇で仕方がねえんだ」


 杯ではなく徳利の方を差し出せば、そのまま口をつけて一気に呷る。

 随分と鬱憤が溜まっているらしい。吐き捨てるような言葉には、多分に苛立ちが含まれていた。

 しかし叡善が慎重になるのも仕方ないとは思う。

 鬼喰らいの鬼にああまでやられたのだ。再び命を貯蓄し、鬼喰らいを確実に殺す算段がつくまでは動かないだろう。事実、井槌たちにもしばらくは派手な動きはするなと命じてあった。


「叡善さんにも考えがあるんだよ。まあ馬鹿な君じゃ分からないだろうけど」

「あ? “あんまり人は殺したくないよー”だとかふざけたことぬかすモヤシは黙ってろや」

「え? 何か言った? ごっめーん、君ってば小さすぎて声が耳まで届かなかったや」


 あからさまに挑発じみた態度の吉隠に、殺気を隠さず睨み付ける偽久。

 ああ、まただよ。

 井槌は幾度となく繰り返されたこの光景に再び溜息を吐いた。

 この二匹は如何やらひどく相性が悪いらしく、顔を合わせる度に憎まれ口を叩いている。

 個々に接するときは然程問題ないのだが、一緒になると面倒なことこの上ない。


「いや、だからお前ら少しは落ち着けや」


 ずいと井槌が立ち上がり間に立ってなだめると、両者同時に舌打ちをした。


「だがよ、井槌」

「だけどさ井槌」


 こんな時だけ息が合うのだから、こいつらは。

 というか一番年若いであろう俺が何故間を取り持たねばいけないのか。

 井槌にしても多少の不満はあるが、それでも元々の性格からか、放っておくことも出来ない。


「互いに不満はあるだろうが、今は止めとけ。お前らも目指すもんがあるから此処にいるんだろう? なら内輪揉めは無しにしようや」


 殊更快活に「がはは」と笑ってみせる。

 多少演技染みているのは否定しないが、真面目に説き伏せようとしても聞く訳がない。こうして勢いに任せて誤魔化すのが一番手っ取り早い。

 井槌の振る舞いに偽久は毒気を抜かれたのか、乱暴に徳利を返し背を向けた。


「気に食わねえが、お前に免じてこの場は退いといてやらあ」


 吉隠との相性は悪いが、井槌とはそうでもない。偽久もまた井槌と同じような考えで叡善の下についているからだ。 

 友人でなければ仲間意識も薄いが、互いにある程度信用してはいた。だからだろう、今回は素直に引き下がってくれた。


「済まねえな」

「なぁに、どうせ出かけるところだ。鬼喰らいとやらの顔も見ておきたかったしなぁ」

「おい、そりゃどういう意味だ」


 何やら聞き捨てならない言葉を漏らし、吉隠の方には一瞥もくれず歩き始める。

その前方の空間がぐにゃりと歪んだかと思えば、次の瞬間には“消え去って”いた。

 偽久は百年を生きた高位の鬼。つまり、あれが彼の持つ<力>である。


「なんだありゃ。瞬間移動? いや、なんか周りが歪んでたしもっと別の<力>か。どっちにしろ羨ましいねぇ」


 井槌は未だ<力>に目覚めぬ下位の鬼、<力>を行使できる偽久が少しだけ羨ましかった。

 完全に消え去った後、吉隠はふんと鼻を鳴らし、どこか子供っぽい物言いでぼやく。

 

「ボク、あいつきらーい」

「あのな、お前はもちっとは」

「はいはい。そろそろボクも行くね」


 井槌の言葉を適当に聞き流し、吉隠もまた平然と去っていく


「ってお前は何処に」

「ちょっとキネマ館まで。いやー、面白そうな子みつけちゃってさ」

「いや、ちっと待て。叡善の爺様から派手な真似はするなって」

「じゃねー」


 制止の言葉も意味をなさない。軽く手を振って、けらけら笑って吉隠も去って行った。

 偽久の方が乱暴ではあるが、性質の悪さではこいつが上かも知れない。

 正直なところ、井槌にはあの性別不詳の鬼が何をしでかそうとしているのか想像もつかなかった。 


「胃が痛ぇ……」


 腹を押さえながら井槌はぽつりと呟く。

 折角の酒だったが、どうやらこれ以上は呑めそうになかった。





 ◆






「私は今年で百歳になります」


 そう前置きをしてから甚夜が希美子に語ったのは、一週間前染吾郎たちに聞かせたものとほぼ同一の内容である。

 南雲叡善の目的。コドクノカゴ、溜那の正体。彼等が如何なる存在であるか。

 それを説明する為に、今まで彼女に語ることのなかった、自身の過去にも少しだけ触れた。


「元々私はお父上、充知みちとも様に拾われたあやかし。まだ帝都が江戸と呼ばれていた頃に生まれた、古い鬼です」

「鬼……」

「はい。もう少し“分かり易い姿”にもなれます。もしも信じられないのならばお見せしますが」


 希美子はゆっくりと首を横に振った。


「嘘だなんて思っていません。爺やは、隠し事はしても私を騙したことなんて一度もないのですから」


 外見は十八の頃と変わらないが、既に百歳なのだと彼は言う。

 希美子はその内容に驚きはしたが、同時に納得もした。

 母の世話役であったはずの爺やの、あまりにも若すぎる容姿。

 疑問には思っていたし、おそらくは人の理解の届かぬ何かが彼には在るのだろうと想像していた。

 だから彼の言葉を疑うことはなく、正体が鬼だったとしても恐れや嫌悪はない。

 彼が何者であれ、母を、自分をずっと世話してくれていたのだ。

 そんな優しい爺やを鬼だからという理由で忌避するなど在り得ない、寧ろ若さの理由が明確になり、すっきりとした気分でさえあった。


「……あの、爺や」

「なんでしょうか」

「それは、鶴の恩返しのような話ではありませんよね?」


 それよりも気になったのは話した後のこと。

 鶴の恩返しもそうだが、説話において正体を話したあやかしは姿を消すのが常である。

 爺やが話したのは姿を消す為ではないかと疑い、上目遣いで彼を見る。

 しかしそれは杞憂だったらしい。甚夜は静かに、落すように笑った。


「今のところはここを離れる気はありません。充知様よりお嬢様を守れと仰せつかっておりますので」


 それを聞いて、安堵の息を吐く。

 もっとも父の命令というのは少しばかり引っかかるが。

 そもそも爺やは何かにつけて「雇い主は志乃だから」「充知の命令だから」と、どうにも両親に重きを置きすぎている。

 特に問題がある訳ではないが、希美子としては面白くないのも事実。

 そこは「お嬢様をお守りする為」くらいのことは言ってほしいものである。

 内心の不満、のつもりだったが膨らませた頬のせいで隠し切れていない。それを見る甚夜の目は穏やかで、だから彼女は少しだけ機嫌を直し、気を取り直して話を続ける。

 

「そのような命令をするということは、お父様も?」


 当然の疑問だ。

 守れ、というからには襲われると予測していたのだろう。だとすれば父もまたこの件に関して何らかの関わりを持っているということになる。


「ええ、大凡現状は理解しておられます。南雲叡善が、お嬢様を特別な贄と考え攫おうとしていること。それに赤瀬誠一郎が一枚噛んでいることも」


 希美子の予想は的中した。

 次いで語られた内容に、肩を僅かに振るわせる。


「南雲叡善の目的は、正直なところ私にも読み切れていません。ですが間違いなく、お嬢様も狙いの一つです」

「では、あの夜会は……」

「貴女を呼び出す為の方便です。勿論、他の理由もあったのでしょうが」


 あの夜会は自身を誘い出す為だったと聞かされ、希美子は動揺した。

 誠一郎のことはどうでもいい。物心ついた頃から、祖父には愛情の欠片さえ与えてはもらえなかった。

 それよりも叡善に騙されていたという事実の方が重い。

 逢う度に怪我はないか息災かと聞いていたのは、単に利用する対象として見ていたから。

 つまりあの優しさは虚構に過ぎなかった。

 爺やのことは信用しているが、それでも信じられない。いや、信じたくない。

 そう思う反面、地下に溜那が閉じ込められていたことを考えれば、その目論見が真っ当でないのは容易に想像出来てしまう。

 出来てしまうから、希美子は俯いた。今は甚夜の目をまっすぐに見ることが出来なかった。


「お嬢様」

「何度も言います……爺やのこと、信用しています。ですが、ごめんなさい。よく分からなくて、自分でもうまく言えないです」


 この気持ちをどう表現すればいいだろう。

 ちょうどいい言葉が見つからなくて希美子は黙した。頭の中がごちゃごちゃになってしまっている。


「混乱するのは当然でしょう……申し訳ありません、性急過ぎました」

「いえ、爺やが私の身を慮っているのは分かっているのです。こうして話したのは、私に警戒心を持たせるためだということも。ちゃんと心配してくれてると、分かっています」


 そして、叡善の企みが悪しきものであることも、十二分以上に理解している。

 生まれた時から世話をしてくれていた爺やと比べれば、どちらを信じるべきかも、本当は何もかもわかっているのだ。

 ただ割り切れないだけ。いつも心配してくれた、優しいお爺さんの顔がちらつくせいで、ほんの少しの戸惑いが残ってしまう。


「ごめんなさい、大丈夫です。ちょっと意外過ぎて驚いただけですから」


 しかし内心を隠すように希美子は微笑む。

 戸惑いはあるが、叡善を擁護するような発言は、爺やを貶めることになる。それはあまりに不義理だと強がって笑ってみせた。


「……分かりました」


 その笑顔をしばらくじっと眺め、甚夜は僅かに考える素振りを見せた。


「では、今から出かけましょう」

「はい?」


 それも束の間、すぐさまそんなことを言い出す。

 唐突な提案に希美子は思わず間抜けな声を上げてしまった。






 ◆






「カフェーでコーヒーを飲みながら、午後の時間を過ごす……すごいです爺や。まるでキネマの一場面ですね」


 先程まで思い悩んでいた希美子は、今は憂鬱の様相も消え、興奮に目を輝かせていた。

 麹町で辻馬車を拾い、やってきたのは銀座。しばらく歩き、しゃれたカフェーで腰を落ち着け、コーヒーなんぞを啜っていた。


「喜んで頂けてなによりです……相手役が私では、些か盛り上がりには欠けるでしょうが」


 甚夜も実に寛いだ様子でコーヒーに口をつける。

 外見だけは若い彼だ。二人でいれば、状況も相まって傍目には逢瀬を交わす恋人とでも映るだろう。

 しかし希美子にとっては生まれた時から世話をしてくれている相手。好意はあっても恋慕には程遠く、やはり恋人よりは祖父と孫娘くらいがしっくりくる。


「ふふふ。そういうのは、次の機会にします。ですけど爺や、大丈夫ですか? 私はお爺様から屋敷を出てはいけないと言われているのですが」

「散々抜け出しているのです、今更でしょう」

「それはそうなのですけど。お爺様のことは置いておくにしても、その」


 確かに楽しいのだが、やはり不安は付き纏う。

 だからちらりと、席に座っているもう一人に視線を向ける。


「……ぅ…」


 踵まであるであろう長い黒髪を結わった着物の少女。

 コーヒーの苦みに顔を顰める溜那は、希美子の言葉などまるで気にしていない様子だった。


「屋敷に一人残しておく訳にもいきませんので」

 

 事も無げに言ってのける。

 だが希美子にしても溜那にしても、南雲叡善に狙われているのだ。

 先程まで自分も楽しんでいたのは事実だが、やはり少々の不安はあった。一度黙すると殊更気になって、ちらちらと周りを経過し見回してしまう。


「苦いならミルクを淹れよう」

「……ん……」


 そんな胸中など知らず、爺やは目の前で、甲斐甲斐しく溜那の世話を焼いている。

 希美子は僅かに頬を膨らませ、あまりの緊張感の無さに思わず物申してしまう。


「爺や、私は嬉しいのですけど。こんなことをしていて、いいのでしょうか」


 何故か少しだけ苛立って、冷たさを含んだ目で爺やを見る。

 しかしそれもコーヒーを飲みながらさらりと流されてしまう。

 

「ええ、勿論。周囲の企みがどうであれ、まずはこの娘やお嬢様の安寧が最優先です」


 その言葉に希美子は窮した。

 狙われているというのなら態々外に出るというのは危ない。それでもこうやって連れ出してくれたのは、一時でも愁いを忘れられるようにという気遣いだ。

“大丈夫です”。

 意地を張って絞り出した強がりは、最初から見透かされていたらしい。


「煮えた頭で考えごともないでしょう。今は落ち着いて、コーヒーを飲むのが最善かと」

「……爺やはずるいです」

「ずるい、とは?」

「なんというか、私のことを見透かし過ぎていると思います」


 拗ねたようにそっぽ向く。

 それがいつか、希美子が幼かった頃を思い起こさせて、甚夜は落すように笑った。


「それも長く生きているからですか?」

「まさか。たかだか百年生きた程度で人の心を計れるなら、現世はもう少し生き易いでしょう。ただ見透かせなくとも、私はお嬢様のことを産まれた時から知っていますので。長く生きたからはなく、短い時間を過ごしたからと思っていただければ幸いです」


 鬼の寿命から考えれば、希美子が生まれてからの十六年など瞬きに過ぎない。

 それでも共に過ごした。心など読めなくても機微くらいは悟れるようになる。

 しかし持って回った言い回しが理解できなかったのか、こてんと首を傾げていた。


「えーと、つまり?」

「心なんぞ分からなくとも、親しい人が憂鬱そうにしていれば元気づけたくなる、ということです」

「ああ、それなら分かります! ……でも恥ずかしいですね」


 噛み砕いた物言いに希美子は少しだけ照れた。

 なんのことはない、企みは別に置いて気づけようとしてくれただけなのだ。

 厳しいようで甘く、なんとも爺やらしい。思わず静かな微笑みが零れる。 


「爺や、ありがとうございます」


 お礼はなるだけ簡素に。

 余計なもので飾り立てると言葉は濁る。以前爺やが教えてくれたことだ。 

 おかげで感謝の気持ちはちゃんと伝わったらしい。返ってきた笑みはとても穏やかだった。 


「少しでも安らげたのならばなによりです」

「はい……ですが、やはり不安はありますね」


 叡善の名を口に出さなかったのは、まだ戸惑いがあったから。

 けれど狙われているという事実は変わらない。そう受け入れられる程度には落ち着けた。


「取り敢えず、今は心配ないと思います。現状動く気はないでしょうから」

「それは、どうして?」

「叡善は先の一戦で私にやられています。ならば“決め手”を見つけるまではこちらに干渉してこないでしょう。配下の鬼にも派手な動きはするなと命じてある筈です」


 ただし鬼共がそれに従うかどうかは別ですが、とは続けなかった。

 井槌という鬼の物言いからすれば、彼等にも別の思惑がある。或いは、その為ならば命令に背くこともあるだろう。

 しかし叡善自身は、再び命を貯蓄し、甚夜を確実に殺す算段がつくまでは下手な真似はしない。

 問題は、その決め手が如何なるものかだ。


「よく分からないですが、しばらくは安全、と考えてもいいのですか?」

「ええ。とは言え、危ない真似は控えて頂ければ」


 勿論です、と胸を張って頷く。

 希美子と溜那に関して言えば、そもそも叡善に彼女らを傷付ける意図はなく、殺されることは有り得ない。

 攫おうとは画策しているだろうが対策は打ってあるし、なによりこちらには向日葵がいる。

その<力>は設定した対象への遠隔視、彼女がいれば何処にいても二人を見つけられる。

 だから二人の安全は、ある意味で保障されている。

 その中で奴らがどんな手を打つのか。

 策略を張り巡らせる。或いは白昼堂々。

 無論、今この時を狙ってくることだって考えられる。

 甚夜は思索を巡らせ、しかしちょうどその時、隣に座る溜那が袖を引っ張る。

 希美子とばかり話をしていたせいだろう。コーヒーも飲み終え手持無沙汰になったらしく、早く出ようと目で訴えかけている。


「ああ、すまない。そろそろ行くか」

「……ん」


 無表情のまま、短い返事。相変わらず溜那は喋らない。

 しかし随分と居座ってしまったのも事実。希美子にも促し、三人は席を立つ。

 会計を済ませ早く出ようと甚夜は一歩を踏み出し、





 瞬間、眼前が僅かに歪む。





「……っ!?」


 襲撃はある程度予測していた。しかしこの形は想像していなかった。

 空気が捻じ曲がり、渦となり、そこから何者か何者かの腕だけが現れた。

 鋭利な爪、発達した筋肉。青銅を思わせるくすんだ皮膚。腕を見るだけでそれが異形のもだと分かる。

 開かれた掌は何かを求めるよう。

 希美子でも溜那でもない。

 異形の腕は甚夜の首を捻じ切ろうと、明確な意思を持って伸ばされた。






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