『紫陽花の日々』・1
月には朧雲がかかり、薄絹に透かしたような柔らかな光にしっとりと濡れた夜のこと。
紫陽花屋敷の書斎では老人が一人椅子に座していた。
希美子の祖父にあたる、赤瀬誠一郎である。
「何故だ……」
誠一郎は南雲叡善に憧れていた。
といっても「退魔の名跡の当主」としての叡善に、ではない。
人の為に鬼を討つ、そういう退魔の在り方になど興味はない。誠一郎の興味はただ一点、その能力にのみ注がれている。
有体に言えば、誠一郎は尽きぬ命を持つ男に憧れていた。
金は飽きるほど稼いだ。爵位も娘婿の充知に譲った。
後は悦楽に興じるだけ、だというのに命が、時間が足りていない
若い頃は兎も角として、年老いた彼は「長く生きたい、死にたくない」、そういう俗っぽい願いを持つごく普通の老人だった。
問題なのは、幸か不幸か、それを叶えられるであろう男と繋がりを持っていたことだろう。
そもそも交流は昔からあったが、叡善の能力「命の貯蓄」について知ったのは随分経ってから。本人から直接、実演付きで教えられた。
眼前で蘇生して見せた、不死の男は語る。
『この力、欲しくはないか?』
永遠の生。
かつて多くの権力者が挑み破れていった命題。それが己のものとなる。
誠一郎は一も二もなく飛び付いた。
『ならば贄を用意せい。そうだな、もしも赤瀬の家に女子が生まれたなら大切に育てよ。それを捧げれば、力を分け与えてやらんこともない』
それが二十一年年前。
その前年に婚約した志乃と充知には、当然ながら子供がいなかった。希美子が生まれたのは、叡善からの頼みを受けた五年後である。
それもしかたない、婚約当時志乃は十一歳だった。
もともとが赤瀬の家を安定させる為の政略。爵位はないがそれなりに裕福な成金、その中でも優秀な男を婿に迎えただけ。つまりは赤瀬の家を第一に考える、誠一郎の為の結婚である。
とはいえ見合いであったがお互いに気に入ったようで、つつがなく二人は結婚。しかも第一子が女子ときた。
偶然が折り重なった結果ではあるが、誠一郎には自身に永遠の命を与える為の天の采配に思えてならなかった。
名は叡善に授けて貰った。
希美子。
希少な贄を意味する、捧げられるための女。
叡善に言われた通り、誠一郎は希美子を大切に育てた。
危険が無いよう学校には通わせなかった。屋敷に囲い、大事に育ててきた。どうせ二十歳にもならず捧げられる贄、偶の娯楽ならいいだろうと屋敷を抜け出すことも見逃してきた。
孫に対する愛情などある訳もない。誠一郎にとって希美子は大切だが、それは物に対する感情、所詮は単なる贈呈品でしかないのだ。
だから南雲の夜会へ向かった希美子は、帰ってくる筈がなかった。
「何故……希美子は」
しかし予想を覆し、あの娘は無事戻ってきた。
更には六日ほど南雲叡善と全く連絡が取れていない。現状への焦りからか、誠一郎の表情は厳しい。
書斎で一人、苛立たしげに顔を顰め、小刻みに体を震わせている。
「失礼しますよ」
がたり。音が鳴って、驚きにそちらを見る。
ノックもなしに書斎へ入って来たのは、希美子の父・充知である。
そもそも誠一郎は子爵であること自体には興味がなかった為、結婚と同時に爵位は譲った。赤瀬という家を次代に遺す為だ。
彼の喜びは子爵であること以上に「落ちぶれていく華族が多い中、自らの手腕で赤瀬という家を栄えさせる」ことである。
他よりも優れているという事実こそが彼の自尊心を満足させた。
故に永遠の命を求めてからではあったが、充知に家督も譲った。
「永遠に死なぬ当主」と噂され赤瀬の評判を落とすよりも、早々に表舞台から姿を消し、現当主を操った方がいい。奇しくも南雲叡善がとった方法と同じ状況を求めていた。
ただ充知という男は頭がよく能力も高く、だからこそひどく扱いづらい。もう少し早く叡善の力を知っていれば、もっと凡庸な男を選んだのだが、と僅かな後悔はあった。
「……ここには来るなと言っておいたはずだが」
誠一郎の声は冷たい。
しかし気にした様子もなく、笑顔で充知は話しかける。
「ええ。ですが、お義父さんのことが気になってしまいまして」
「いらん。放っておけ」
「そうはいいますがね。これでも心配してるんですよ、最近随分といらいらしているようですから。そう、希美子が帰ってきた日くらいからでしたかね」
わざわざ“希美子”という部分に力を込める。
演技じみた振る舞いに誠一郎は視線を鋭く変えた。その先には、にやついた笑みを浮かべる男がいる。
「まるで、希美子が“戻ってきたらいけなかった”みたいじゃあないですか、お義父さん」
あからさまな物言いは挑発と変わらない
つまるところこの男は喧嘩を売りに来たのだ。
「貴様……」
「どうしたんですか、そんな怖い顔をして」
そうか、こいつか。
彼は直感的に理解した。こいつが何かしたのだ。そのせいで、永久の命が遠のいた。
志乃も、爵位も私が与えてやった。
だというのに貴様は私から希美子を、永久の命を奪おうというのか。
充知の傲慢さに誠一郎は怒りを隠さない。
「出て行け」
「それは書斎からですか? それとも、赤瀬の家でしょうか。まあ、どっちでもいいですがね」
もうこの場にいる気はないらしく、充知は素直に背中を向けた。
「……いずれここを去るのは貴方だ」
聞こえないように舌の上で転がした言葉。
そこにもまた、隠しきれない怒りがあった。
鬼喰らいの鬼と人喰い、両者の戦いと比べればひどく規模の小さい。
しかし決して譲ることの出来ない戦いの一幕である。
書斎を後にし、充知は自室に戻った。
西洋風の調度品に飾り立てられた部屋は薄暗く、ランプの灯だけが揺れている。
備え付けの電灯はあるが今は点けていない。然したる理由はなく、密談にはこちらの方が“らしい”だろうと充知が言ったからである。
片隅には小さな卓と椅子が三つ。視線を向ければ人影二つ。この一件の功労者、今宵の密談相手が無表情で待っていた。
「やあ、甚夜」
葛野甚夜。
誠一郎の企みを破り、希美子を連れ帰ってくれた張本人である。
赤瀬の庭師である彼を、妻の志乃は大層気に入っている。若かりし頃は傍仕えのように使っていた。しかし充知はそれを不愉快に思わない。
何故ならば、甚夜との付き合いはこちらの方が長い。
なにより正体不明のこの男を、これ以上ないくらいに信頼しているからだ。
「今回も苦労を掛けたね」
「然して苦労でもない……と言いたいところだがな。残念ながら叡善を殺し損ねた」
「君は相変わらず物騒だなぁ」
南雲叡善と一戦交え、平然とそんなことをのたまう。
これだから頼りになるんだ、充知はくすくすと笑った。
「ま、希美子を囮にしたことはちょっと引っ掛かるけど、無事だったから良しとしておこう。さて、そちらの娘が?」
「ああ、コドクノカゴ。……いや、溜那だ」
傍らにいる少女がほんの僅か頭を下げる。
あの夜会から一週間、目立たぬように溜那は離れから一度も出なかったが、そろそろ顔を合わせてこうと甚夜に連れてきてもらった。
ようやく対面となったコドクノカゴ。充知の抱いた印象は、普通に綺麗な女の子といったところである。これが魔を孕む毒婦とは到底思えなかった
「私は赤瀬充知。一応は、この屋敷の当主になる。立場は低いけどね」
「……ん」
相変わらず溜那は殆ど言葉を発さない。
もう一度小さく頭を下げたのが彼女なりの挨拶だ。名乗ったのに返して貰えず、充知は少しだけ恥ずかしい気持ちになった。
乾いた笑みを浮かべ、誤魔化すように甚夜へ話しかける。
「取り敢えず目的の半分は達した訳だ。もう一つは?」
反応はよろしくなく、無言で首を横に振るだけ。
そうか、と充知は小さな呟きで返した。
南雲叡善の企みを打破する。それは確かに甚夜の目的ではある。しかし同時に、彼は夜刀守兼臣を取り返したがっていた。目的とは関係なく、ひどく個人的な感情で。
それを知っているからこそ敢えて軽い調子でおどけて見せる。
「ま、それは次でいいだろう。ところで、あちらの狸爺はうちの間抜け爺をどうすると思う?」
前者は南雲の、後者は赤瀬の。叡善の方は腹に一物抱えた狸だが、誠一郎はそれを見抜けぬ間抜けだ。
爵位を譲ってもらったのだ、感謝するところもあるが希美子へ手を出そうとした時点で既に敵。呼び方などこれで十分と、養父を笑顔で愚弄する。
間抜けという評価は甚夜にしても同じだったらしく、当然のように受け取って答えた。
「奴とて馬鹿ではない、希美子や溜那が此処に居ることは程無くして掴む。赤瀬の爺とは関係なくな。希美子を育て上げた時点で役割はとうに終わっている。そもそもが永遠の命などという響きに惑わされた小物だ。切り捨てられるか、よくて叡善の餌だ」
その予想は充知も同じ。
しかしそれが希美子たちの安全につながるかと問われれば、残念ながら首を縦に振ることは出来ない。
「うん、私もそう思う。でも悲しいかな、それが〝いつか”までは読めない。それに屋敷じゃ私よりもあっちを優先する使用人多いし、取引先なんてもっとだ。古くからやってるのはお義父さんだからね。赤瀬の評価もお義父さんがいればこそ、今すぐどうにかってのは難しいな」
つまり有事の際は、家内使用人も取引先もまとめて誠一郎の側に付く。
この辺りが子爵を継いだ今でも充知の立場が低い理由であり、同時に叡善と”こと”を構える際の不安でもあった。
「今まではそれでもよかったんだけど、希美子のことがあるからなぁ。もしもの時を考えると怖いよ」
「ならば溜那と希美子、志乃を連れて何処かに身を隠すか?」
「それが出来ればいいんだけどね」
魅力的な提案だが、それが出来ないことは分かっている。
彼等が逃げれば叡善は新しい狐毒を造り上げるだろう。生まれるのは魔を育む毒婦。これでは溜那を攫った意味がない。
赤瀬の家族だけで逃げれば叡善の手にかかり希美子が奪われるだけ。
はっきりと言えば、敵に所在が知れている現状が一番安定しているのである。
「いっそ、今の内に赤瀬の爺を斬るか」
「止めてくれよ、それは私が困る」
現当主にとって目の上のたんこぶである前当主。その突然の死、現当主と懇意の家内使用人の影。あまりにも分かり易過ぎる謀殺だ。
当然嫌疑の目は充知に向かう。しかも彼は一般人ではなく、継いだものとはいえ子爵。大々的に新聞は報道するだろう。
「世論に押され警察は私を捕まえる。所詮成り上がりだからね、ろくな取調べもなく有罪だ。有罪にならなくても爵位剥奪はあり得るし、そうなれば志乃も希美子も路頭に迷う。君が生きていた江戸の頃じゃない。殺して、はいおしまい、じゃすまないんだよ」
殺した証拠を残さなくても、“そういう構図”が出来上がった時点で彼の面子は潰れる。
そうなれば後の転落は想像しやすい。
聞かされた甚夜は溜息を吐いた。
充知の言は十二分に理解している。切羽詰まるまで動けなかったのも、大半は赤瀬の世間体の為だ。
命を懸けた戦いをしながら、そんなことにも気を回さねばならぬのだから、まったくもって面倒くさい話である。
「なんとも生きにくい世になったものだ」
「こちらにしてみれば、切り捨て御免がまかり通る時代の方が不思議なんだけどね」
充知が軽く笑い声を上げ、一転真剣な表情で甚夜を見つめた。
先程までのおどけた雰囲気はない。そこにいるのは夫として父として、大切なものを案じる一個の男だ。
「希美子のこと、頼むよ。私に出来ることは精々間抜けの目をこちらに向ける程度、できないことが多すぎる」
「ああ。“南雲叡善を潰すまでは、希美子を守る”。約束を違える気はない」
互いに拳を突き出し、こつんと合わせる。
随分前に交わした約束は今も甚夜を支えてくれている。
それを裏切らぬよう、静かに強く前を見据える。夜に揺れる部屋の電灯が穏やかに揺らめいて見えた。
◆
大正時代のキネマの中でも『夏雲の唄』は特に評価が高かった。
これは大正三年(1914年)に発表された短編映画で、作中で使われた同名の楽曲『夏雲の唄』は大正初期の流行歌として持て囃された。
楽曲の作詞は本田風月、作曲は新田晋平。往年の歌姫である金城さおりが歌唱し、翌年の大正四年に発売されたレコードは一万六千枚を超える大ヒットとなった。
八年経った今でも愛好するものは多く、暦座の館長もその一人で、時折思い出したように『夏雲の唄』を上映する。
名作とはいえやはり八年前の作品。今見ると技術的な点では古臭く、物語の主題も「少年少女の甘酸っぱい恋」と決して目新しいものではない。
それでも王道を丁寧に描いた映像と、場面場面を盛り上がる劇中曲、そして件の『夏雲の唄』など現在でも評価の高い作品である。
「希美子さん、もう終わりましたよー」
甚夜と充知の密談、その翌日。希美子は屋敷を抜け出し暦座に訪れていた。
件のキネマ、夏雲の唄を観覧していたのだが、物語は頭に入らず流れてしまう。終わってからも余韻に浸る訳ではなく、ただぼんやりとしているだけ。
それが気になって、清掃に来た芳彦は希美子に声を掛けた。
以前着ていた女学生風の袴ではなく、白いブラウスに長いスカァト。洋装もよく似合っているのだが、いつもとは雰囲気が違う。彼女はどこか疲れているように見えた。
「あ、芳彦さん……」
「どうしたんです? 久しぶりに来たのに、なんか浮かない顔ですけど」
意識していなかったため、希美子は指摘されはっとなった。
キネマを見に来たのは気分転換のつもりだったが効果はなかったらしい。
現に客どころか、劇中曲を演奏する楽団も既にいない。
普段も最後まで残ってはいるが、それは余韻を楽しむ為で周囲の様子くらいは分かる。
だというのに、今日は誰もいなくなったことに気付きもしなかった。そのくらい気分が沈んでいる。
きっと自分は今酷い顔をしているのだろうと、少女は髪で表情を隠すように俯いた。
「何か悩みとか?」
「いえ、なんといいましょう……」
悩みはある、それは明確だ。
しかしうまい返事も見つからずただ口籠る。
言えないのも当然、そもそも言える程彼女は状況を理解していなかった。
だから曖昧に、事実だけを口にする。
「私にも、物語のような出来事が振り掛かりまして」
「えっ、もしかして……なんか、そういう出会いが?」
何故かたどたどしく芳彦は問うた。
彼の言うような出会いだったらどんなによかったか。実際には訳の分からない状況に巻き込まれただけ。それでも「物語のような出来事」には違いないと、希美子は乾いた笑みを浮かべた。
「あ、いいえ、違います。物語は物語なのですが、キネマのような恋よりも、その。まるで男の子向けの冒険活劇のような……いえ、やはり何もなかったのでしょうか?」
「は、はぁ?」
意味の分からない返しに芳彦は困った顔で首を傾げる。
首を傾げたくなるのは希美子も同じだ。
なにせあの夜会から既に一週間が経っていた。
毎日は然程も変わらない。目に見える変化といえば、少しばかり祖父である誠一郎の表情が厳しくなった程度のもの。相変わらず彼女は赤瀬の屋敷で殆どの時間を過ごし、時折抜け出して暦座を訪れる。
巻き込まれながらも毎日はあまりに普段通り過ぎて、平穏な現状にこそ希美子は戸惑っていた。
「あのー、よく分からないですけど」
「私にも分かりませんわ。……爺やは話してくれませんし」
零れた呟きに疑問符を浮かべる。
爺やの話は何度も聞かされているが、こんな沈んだ表情で口にしたのは初めてだった。
「爺やさん、ですか?」
「……はい。多分現状を一番知っているのは爺やだと思います」
「なーんだ、それならちゃんと聞けばいいじゃないですか」
希美子の周囲で何が起こっているのかは、そもそも彼女自身よく分かっていない。
しかし近しい人がそれを理解しているなら、そちらに確認した方が手っ取り早い。無駄に悩んでいる余程いいだろう。芳彦としては至極真っ当な意見だと思った。
「そう、ですね」
けれど返ってきたのは曖昧な、頼りない表情だった。
泣くのを堪えるような、寂しさを誤魔化すような。いつも楽しそうに笑っていた彼女からはかけ離れたものだ。
「多分聞いても答えてはくれません」
「え? なんでです?」
「だって爺やは、いつだって私には隠し事をしますから。お嬢様は知らなくていいことです、なんて言って」
本当は、それが彼女の為だということくらい分かっている。
言わないのは言う必要が無いから。聞かせたとてどうにもならないし、聞かせることで悪影響を与えるか、或いは希美子が嫌な気持ちになるからだろう。
爺やがそういう人だと知っているのに、卑屈な言い方をしてしまった。その理由だけは分かっていた。
くだらない、嫉妬だ。
秋津染吾郎や溜那と呼ばれたあの娘は、当たり前のように話を聞かせて貰っている。
あの女の子は希美子よりも年下なのに、である。けれど、おそらくは彼や彼女よりも長い付き合いであるだろう自分は何も聞かせて貰えない。
とどのつまりが仲間外れになっているような気がしていじけているのだ。
本当に私は、どうしてこうなんだろう。あまりに情けなくて希美子は目を伏せる。
「それなら“私が知らなくてもいいところだけ省いて、聞いてもいい程度に話して”って頼めばいいだけじゃないです?」
そんな胸中を知ってか知らずか、いや間違いなく察していないだろうに、芳彦は軽い調子でそう言った。
彼の言葉が意外で、希美子は思わず呆けたように小さく口を空け、閉じることもせずにきょとんとしていた。
数瞬経って意識を取り戻せば、たどたどしく問い掛ける。
「あの、どうして……」
「どうしてって、今迄の話聞いてたら爺やさん、希美子さんのことすっごく大事にしてるみたいですし。なら教えてくれますよ」
当たり前でしょう、と言わんばかりの顔だ。
勿論それは彼が何も知らないからこその気楽な言葉である。気絶させられ、地下牢に連れて行かれて、そこに囚われていた少女を攫い。そういった状況を知ればまた変わるに違いない。
しかしその気楽さは、今の希美子にとってはとても有難いものだった。
「そう、でしょうか」
「だって希美子さんのことが嫌いで隠してる訳じゃないでしょ?」
「それは、そう。それだけは間違いありません」
いつも仏頂面だが、時折ひどく優しい顔を見せてくれる。
手のかかる孫娘くらいには思われているかもしれないが、彼に嫌われていると感じたことは一度もない。
「教えてくれなくても、憎しじゃないんですから。後は希美子さんがどう思うかってだけだと思いますよ」
ああ、そうだ。結局はそこに行きつく。
教えてくれないとか、仲間外れとかは置いておいて、彼が彼女をどう思い、彼女が彼をどう思うかの話だ。
うじうじしていても仕方がない。この愁いを払うには、答えてくれるかくれないかは別にして、まず爺やに話を聞かなければならない。
当たり前の帰結が、気落ちしていた希美子には天啓のように聞こえた。
「芳彦さん、ありがとうございます。私、そろそろ帰りますね」
先程までとは打って変わって元気な声。
すくりと立ち上がった書状が浮かべた表情は晴れやかで、だから芳彦は嬉しくなった。
希美子さんはこうじゃないと、自然と口の端が緩む。
「はい、また来てくださいね」
「ええ。今度は芳彦さんを家に招待しますね」
「いやそれは駄目でしょ」
仮にも貴女は抜け出してきているんだから、と言う前にぱたぱたと小走りで希美子は帰っていく。
子爵令嬢で年上なのに、やはりそうは思えない。普段は明るいのに打たれ弱いのも相変わらずだ、立ち直りが早いのも同じく。
もっとも、そういう所もところに入っているのだけど。
走り去る希美子の背中を笑顔で見送り、芳彦は館内の清掃に取りかかった。
◆
「ということで、爺や。話を聞きに来ましたわ」
庭で紫陽花の手入れをしていた甚夜に対して、なんの前置きもなく希美子は堂々とそう言ってのけた。
「なにが“ということで”なのか今一つ理解できませんが……話とは?」
「あの夜会の話です。私にも聞く権利はある筈でしょう? 私が知らなくてもいいところは省いても構いません。その判断は爺やに任せますから」
芳彦の言葉に背中を押され、いつになく強気である。
勿論、話せないというのなら引き下がる。染吾郎や溜那に対する嫉妬めいた感情はあるが、爺やが聞かせたくないと思ったのならそれも仕方がないだろう。
ぐっと表情を引き締めて、どんな返答が来ても良いように覚悟を決める。
「無論、構いませんが」
だから逆に、迷うことなく即答されて希美子は少しばかりたじろいだ。
「えーと、よいのですか?」
望んでいた答えが返ってきたのに、あまりにも簡素過ぎて疑いたくなる。
どうにもうまく感情を表現できず恐る恐る聞き返すが、やはり甚夜は特に表情を変えず答えた。
「聞かれればいつなりともお話します。お嬢様に関わることであるのは事実、こちらとしても多少は現状を理解していただけた方が有難いので」
そもそも最初から隠すつもりなどなかった。
染吾郎に説明する時呼ばなかったのは、偏に希美子の、そして溜那への配慮である。
“男に犯される為に育てられた”だの“子宮に魔を孕む”だの、二十歳にもならぬ良家の子女には聞かせたくなかったし、それを知られるのは溜那にとっても嫌だろうと思ったから遠ざけただけ。
かつては娘を育てたこともある身、そういった教育的な配慮が自然と出てしまった。
つまるところ知られたくなかったのは叡善の企みよりも、話す途中でどうしても出てくる性的な部分の方である。
そこさえ除けば寧ろ知って警戒くらいはしておいてほしかった。
それでも希美子自身が知りたがらないのならば無理矢理聞かせることもしたくはない。
故に、こちらから切り出しはしないが、聞かれればいつでも話すつもりではいたのだ。
「では済みませんが、自室でお待ちください」
「は、はい」
言われるままに自室へと戻る。
嫉妬や疎外感はなくなったのだが、希美子の心境はなんとも複雑だった。
「お待たせしました」
仕事を一時中断し、作業着ではなく普段の洋装に着替えてから甚夜は希美子の部屋を訪ねた。
立場としては家内使用人である為、当主の娘を待たせぬようなるべく急いだつもりではいたが、それでもこの娘には長く感じられたようだ。
まるで「待て」をされた子犬のように、今か今かと待ち侘びている様子が見て取れた。
「話して、もらえますか?」
「ええ。ですがその前に、まず知っておいてもらわなければならないことが一つ」
「なんでしょう」
前置きをして、一呼吸とって、重々しく甚夜は言った。
「私は今年で百歳になります」
どうみても十七か十八くらいの青年が口にしたその科白に、希美子が呆気にとられたのは言うまでもない。




