『コドクノカゴ』・6
溜
[音]リュウ
[訓]したたる たまる ためる ため
《意味》
1.たまる。ためる。たまり。ため。水がとまってたまる。
2.したたる。したたり。
3.液体などを熱して蒸気にしたものを冷やして凝結させること。
溜
《意味》
1.ためておく場所。特に肥料用の糞尿をためておく所。肥えだめ。
2.必要な力を集中させること。
◆
夜会から帰ってきた翌朝。
希美子は普段通り庭が見渡せるガラス張りの一階大広間で朝食を取っていた。
テーブルとイスを並べ、燭台を飾ったモダンな広間には、大きく切り取られた窓から柔らかな朝の陽射しが差し込む。
いつもならば清々しい朝を感じられるのだが、昨日は深夜三時頃にようやく屋敷へ戻り寝床に就いたため殆ど眠れていない。陽射しの暖かさが逆に眠気を誘い、希美子は朝食を食べながらうつらうつらと舟をこいでいた。
「いやしかし、希美子が無事に帰ってきてよかったよ」
「え!?」
急に声を掛けられて、びくりと大げさに反応してしまう。
希美子の父、充知はにこにことした笑顔でそれを眺めていた。
父は元々婿養子で、新華族としての地位を希美子の祖父・誠一郎から譲り受け子爵となった。
一応は赤瀬の現当主になるのだが、入り婿であり、またここまで赤瀬の家を大きくした誠一郎の影響が未だ強い為、彼はひどく微妙な立ち位置にいる。
何か大きなことを決めるには誠一郎のご意見を窺わねばならない。正直頼りにならないところもあった。
しかし充知は、祖父の指示には逆らえないが、本当に時折ではあるものの目を盗んで外へ連れ出してくれる。
つまりは赤瀬の家よりも娘を優先する。自身が出来る範囲でちゃんと慮ってくれる充知は、希美子にとっては間違いなく良い父親であった。
「なあ志乃?」
「ええ、本当に」
母である志乃も穏やかに微笑んでいる。
昨日の夜会から帰ってきたことを両親はとても喜んでいた。とはいえ向こうでは殆ど気絶していた状況を知らない為、そこまで喜ぶ理由が今一つ分からない。
「あの、お父様。無事にってどういう」
「んん? 南雲の屋敷に強盗が押し入ったんだろう? 僕達は気が気じゃなかったんだ。本当に、よく無事に帰ってきてくれたね」
希美子が問おうとすると口早に充知は答える。
ああ、そう言えばそうだった。昨夜南雲の屋敷には強盗が入り、来客はそれに巻き込まれたのだ。そういうことになっているのだから、これくらい心配していてもおかしくないのかもしれない。
別に両親は昨日会った奇妙な事件を知っている訳ではないのだ。
ほっと安堵の息を漏らし、希美子は昨夜の出来事を思い出していた。
* * *
南雲叡善らが逃げおおせたことにより、夜会はなし崩し的に終わりを迎えた。
そもそも人を集める為の方便だ。最初から夜会などなかったと言った方が正確かもしれない。
ともかく南雲の家に残る理由はこれでなくなった。
いつまでも屋敷に居座って強盗犯と疑われても困る。取り敢えずの目的を果たし、皆そそくさと敷地を後にした。
しばらく歩いた先、通りの片隅には馬車が停留していた。甚夜が迷いなくそちらへ向かうところを見るに、どうやらあの馬車は彼が準備したものらしい。
そこには向日葵と、招待客の中で唯一意識を保っていた少年少女が待っていた。
「ありがとうございました!」
「本当に、どうやってお礼を言えば……染吾郎様」
彼等は礼を言うため態々戻ってきたらしい。
まだ若いが彼等も退魔に携わる者、四代目秋津染吾郎を以前から知っており、音に聞く稀代の退魔を尊敬していたそうだ。
その上命を助けられたのだ、二人の目にはこの老人が読本の中の英雄のように見えているのだろう。特に少女の方は様付けで呼ぶほどの信奉具合であった。
「おう、そう気にすんなや。そない大したことはしとらんしな」
実際のところ叡善を退かせたのは甚夜であり、口にした言葉は謙遜ではなく事実である。
しかし若人達はそれを余裕の態度ととり、更に目を輝かせている。
「さっすが稀代の退魔、貫禄だよなぁ」
「ほんと……。あっ、わたし三枝小尋って言います!」
「ひろ、お前落ち着けよ。あんま迷惑かけんな。俺は本木宗司。駆け出しですけど一応“そういう仕事”やってます。もし顔を合わせる機会が在ったらよろしくお願いします。それじゃ、これで」
わいわいと騒がしく二人は去っていく。
あれも若さか、と老翁はその背中を見送った。いつの時代も若者というのは喧しく、見ていて気持ちのいいものである。
「わっかいなぁ」
「宇津木」
「分かっとる。いこか」
さて、次は自分達が逃げる番だ。
向日葵は甚夜と一言二言交わした後に姿を消し、残る者は用意した乗用馬車で麹町へ向かう。
「えーと、つまりどういう状況でしょう?」
あれよあれよと流れる事態について行けず、馬車の中で思わず希美子はそう問うた。
殆どの者にとって理解し難い夜だったが、ずっと気絶していた彼女には尚更だ。
なにせ希美子の主観では、叡善と話していたら急に痛みが走って気絶してしまい、目覚めたら二本の刀を持った爺やがいた。
経過が抜けているのだから当然と言えば当然である。
「あー、なんや。俺もよう分かっとらん」
もっとも、立ち会った者でさえ不明瞭な状況に頭を悩ませているのだから、それも仕方ないことだろう。
先程知り合ったばかりの老人、秋津染吾郎は頭をガシガシと掻きながら苦い顔をしていた。
ちらりと御者台(馬車の前面の高い位置に設けた、御者が馬を操る席)に視線を向け、甚夜と隣の少女を交互に見て溜息一つ。結局は彼等からの説明があるまではよく分からないままのようだ。
「体に異常は」
「……ん」
馬車の二人の疑問は気にせず、甚夜は馬を操り夜道を走っている。
体調を問えばコドクノカゴ───溜那と呼ばれた少女は僅かに声を漏らし、首を横に振って答えた。
喋りはしないが甚夜には心を許しているのか、多少なりとも距離が近い。
この少女も希美子が理解に苦しむ要因に一つだった。
爺やは見知らぬ女の子を南雲の家から攫ってきた。
いや、地下牢にいたことを考えれば保護の方が正しいのかもしれないが、だとしても勝手につれてきたのは事実だ。
道すがら何度も説明を求めたが「後で話します」としか返して貰えず、当の女の子は声を掛けても何も喋ってくれない。
「結局、あの娘は何者なんでしょうか……」
「さあ。そこら辺もあいつに聞かんと、どうにもな」
得体の知れない者が傍にいるというのは、なんとなく落ち着かない。
南雲の家の地下牢に溜那はいた。
何故彼女はあんなところにいたのか。
爺やが助けてはくれたけれど、何故自分も牢へと連れて行かれたのか。
いくら考えても分からず、憂鬱そうに希美子は俯き、それきり会話は途絶えた。
馬車のキャビンでは、状況の分からぬ二人が話すこともなくただ黙し続けている。
重苦しい空気は長く続き、不意にがくんと馬車が揺れ、馬のいななきと共に止まった。
「どないした」
外の景色を見れば麹町にはついたようだが、紫陽花屋敷まではまだ距離がある場所だ。
不思議に思い染吾郎は身を乗り出して声を掛けたが、既に甚夜は御者台から降りて、溜那を抱き上げて降ろしている最中だった。
まるで我が子のように丁寧に少女を扱い、横目で染吾郎の方を見る。
「すまん、宇津木。屋敷までお嬢様を送ってくれ。南雲の家で騒動があった為、お前が助けて家まで送った。そういうことにしておいてほしい」
「はあ? あんたは?」
「姿を“消して”離れに戻る。赤瀬の爺が使用人の動きまで見ているとは思わんが、一応な」
出てくる時も同じように姿を消して悟られぬよう気を付けた。
そもそも希美子が南雲へ向かうことになったのは祖父である誠一郎の命令。彼が叡善と繋がっているのは分かり切っていた。
「あー、よー分からんけど分かった。で、そっちの嬢ちゃんは?」
「部屋に匿う。幸いなことに叡善は秘密主義だったようでな。この娘の存在を知っているのはごく一部。赤瀬の爺も彼女のことは知らない。見つかっても多少の言い訳は利くだろう」
叡善にとっては使える駒程度の認識で、重要な情報は何一つもらっていない。
当然溜那についても知らないのだからここまでする必要はないが、用心に越したことはないだろう。
無論、赤瀬の爺───誠一郎を知らないのだから染吾郎には意味が分からない。しかし無意味なことをするような男でもないと無理矢理に納得をする。
「まあ納得しといたるわ。後でちゃんと説明せえや」
「ああ。明日、必ず。ではお嬢様、今日はゆっくりとお休みください」
希美子は殆ど会話に入れないままだった。
声を掛けられても上手く返せず、まごついている間に甚夜は溜那を抱きかかえ、<隠行>によって姿を消した。
「え、あれ!?」
「<隠行>……姿を消す<力>や。そやけど自分以外の奴も一緒に消せるようになっとる。あいつも、何もしてこんかった訳やないってことか」
「は、はぁ」
説明になってない説明を受け、希美子は首を傾げた。
ともかくさっきの話からすると、甚夜は溜那を離れに匿うつもりらしい。
屋敷の裏には使用人たちが住まう離れがある。赤瀬の家の庭師である甚夜も其処に住んでいる。取り敢えず自室に、ということだろう。
結局何の説明もないまま彼は行ってしまった。
「さ、嬢ちゃん案内したってくれ。こない爺でも夜道の供には十分やろ」
屋敷まではまだ少し距離がある。染吾郎の呼びかけにこくりと頷き、希美子は歩き始めた。
こうして夜は過ぎていく。街灯に照らされた道は明るく、辺りははっきりと見える。
彼女にとってはそれが当たり前で、なのに何故か、ほんの少しだけ寂しく思えた。
* * *
「希美子、希美子!」
「えっ!?」
父の呼びかけに再び意識を取り戻す。
随分と長く呆けていたらしい、父も母も心配そうに顔色を窺っている。
「ご、ごめんなさい。昨日はあまり眠れなくて」
「……それもそうね。今日は一日ゆっくりしなさい。先生方にも連絡をしておくわ」
母親である志乃が、静かに頷きながらそう言った。
希美子はほっと息を吐いた。
家庭教師の退屈な授業を受けないでいいのは助かった。かなり疲れているのは事実だし、ゆっくりと休ませてもらおう。
けれど少しだけ気になることもある。
爺やは今日、必ず話すと染吾郎に言った。
一度そう約束したなら彼はちゃんと説明するだろう。けれど自分に話してくれないんだろうなとも思った。
こういう時、爺やは絶対に意見を曲げない。隠し事は希美子に関係あることで、だからこそ話さない。彼はそういう人だ。
それが希美子の為だということくらい分かっている。
分かっていても、寂しさが胸をさす。
疲れているからか、憂鬱だからか。朝食の箸は一向に進まなかった。
◆
「あんた、なにやっとんのや」
正午を過ぎ、染吾郎は赤瀬の家を訪れた。
既に昨夜のことを聞き及んでいるのか、玄関で使用人から大層な感謝歓迎の言葉を受け、そのまま促されるままに庭へと向かう。
するとそこでは霧吹きを持った甚夜が、紫陽花の葉と睨み合っていた。
えらく真剣な顔付きで霧吹きに入った薬品を吹き付け、細々と枝ぶりを確認している。彼は紫陽花から目を逸らさないまま、染吾郎の問いに答えた。
「害虫の駆除だ。今はこの家の庭師だからな。それなりに楽しんでやっているよ」
「あー、なんか納得できるんがめっちゃ嫌や」
以前から甚夜は花の名や逸話に詳しかった。今度は栽培や剪定の方に手を伸ばしたのだろう。
納得がいく反面、庭師をやっているこの男がひどく奇妙に思えてならない。染吾郎にとっては、彼はやはり蕎麦屋の店主だった。
「あんた、意外と芸達者やな」
「そうでもない。昔手を出した鍛冶や製鉄は全く才能が無かった。上手くできる周りを羨んだものだ」
「つーか、あんたそんなこともやっとったんか」
随分と昔だが、と素っ気なく返す。
甚夜はしばらく紫陽花と睨み合っていたが、一段落ついたのか、佇まいを整え染吾郎の方へ向き直った。
「さて、態々足を運んでもらってすまない。約束通り、全て話す……そろそろ、こちらの害虫も駆除しておきたい。」
表情は穏やかな庭師から、一個の鬼へと変わっていた。
案内されたのは家内使用人に与えられた離れ、甚夜の自室である。
室内では既に溜那と向日葵が待っていた。椅子は二つしかない為、二人の少女はベッドで正座していた。
「悪い、待たせた」
「いえ、大丈夫です。おじさまの部屋もしっかり見れましたから」
待たされたが向日葵は寧ろ楽しそうな様子だ。
溜那はふるふると首を横に振り「気にしていない」と示す。喋らないのか喋れないのか、昨夜からこの娘はまともに口を開いていない。
染吾郎はどかりと椅子に腰を下ろした。大雑把な所作となったのは、向日葵がいたせいだろう。
これでも秋津の四代目、害意のない鬼は討たぬが信条。鬼であることを理由に敵意は持たないが、マガツメの娘とあれば話は別。直接ではないが、彼にも少なからず因縁があった。
とはいえ見た目九歳くらいの女童にあからさまな態度を向けるのも躊躇われる。染吾郎は鬱屈とした表情で向日葵を見つめていた。
「なにか、凄く複雑そうな顔ですね」
「しゃあないやろ。マガツメの娘相手に普通のツラしてられるこいつの方が信じられん」
向日葵に思うところがある訳ではない。ただ少しばかり複雑な心境ではあった。
染吾郎もまた一時期は向日葵の妹、マガツメの娘と交流を持っていたからだ。
東菊。
少し食いしん坊だが、明るく無邪気な娘だった。無邪気だと思っていた。
しかし彼女は、初めから野茉莉の記憶を奪うために準備された駒でしかなかった。
それを知った今でも東菊は嫌いではない。けれど何も知らずに彼女と笑い合っていた自分が、悔しくて仕方がない。
長く生きれば後悔は積み重なる。東菊のことは染吾郎の後悔の一つとして、今も胸に突き刺さったままだ。
「ま、ええわ。今んところはこいつと手ぇ組んどんやろ? そんなら、話が終わるまでお前のことは保留や」
「はい、そうしていただければ」
幼げな娘の見せる、落ち着いた微笑み。
此処だけ切り取れば綺麗な少女で済むのだが、と染吾郎は眉を顰めた。
入る前に確認したが、離れには人の気配はない。当然だ。まだ真っ昼間、他の家内使用人は仕事に精を出している。盗み聞きするような暇な輩はいないだろう。
だとしても少し不安は残る。
「そやけど、ここで大丈夫なんか。あんた、南雲と敵対しとるんやろ? その分家で集まるとか」
「問題はないだろう。こちらにコドクノカゴ……溜那がこちらにいる以上、“私を追い詰めるような真似”はすまい。それをすれば不利になるのはあちらだ。無論、無茶が出来ないのはこちらも同じだが」
妙な言い回しに引っ掛かりを覚えるが、あまりにもはっきり言うものだから、染吾郎は二の句が告げられなかった。
しかし思い直す。渦中にいる甚夜が納得しているのならば、とやかく言うことでもあるまい。
取り敢えずは納得し、本題の方へ移る。
「あんたがそう言うんならええけどな。ほな、だらだらしとってもしゃーない。話、聞かせてもらおか」
染吾郎は少し前傾になり、鋭く目を細めた。
それに応えこくりと頷けば、室内の空気がぴんと張りつめた。
「昨夜も言ったが、現状私は南雲を潰す……正確に言えば、南雲叡善を殺害する為に動いている。それを語るには、まず奴の目的から話さねばなるまい」
一度間を置いてから向日葵、溜那、染吾郎の順番で見回す。
ぴんと張り詰めた空気の中、普段通りの静かな口調で甚夜は語る。
「端的に言えば南雲叡善の目的は、南雲家の再興だ」
刀を扱う退魔であったが故に、御一新の煽りで衰退の一途を辿った南雲。
彼等は大正という時代に抵抗し、かつての権威を取り戻そうと動き出した。
甚夜が南雲を潰すと決めた理由はそこにこそあった。
「大正の世となり近代化が進むにつれ、現実的な脅威としての怪異は減少した。理由は幾つかあるが、大きなところでは街灯の整備や怪異に対する恐怖心の希薄化、銃器の発達だろうな」
明治・大正は銃器の時代である。
安価で扱いやすい自動小銃、反動の少ない拳銃など、諸外国からの技術は江戸の頃から考えれば比べ物にならないほど銃器を発展させた。
反対に明治の廃刀令以降、刀の需要は減り多くの刀鍛冶は転業・廃業を余儀なくされた。
そのような状況で発達などする訳もなく、大正の世に至り刀剣の類は既に廃れ切っていた。
「お前自身、味わっただろう? 流石にガトリング砲は規格外だが、それでも一般の者でも鬼を殺せるだけの手段が生まれたのは事実だ」
「……そら、まあな」
南雲にしろ秋津にしろ、技を身につけるには相応の修行がいる。鬼を死に至らしめるまで高めるには、才能があって練磨してようやくといったところだ。
対して銃器ならば一般人でも手軽に殺傷する手段を得られる。
勿論当てることを考えれば訓練は必要だ。高位の鬼ならば人智の及ばぬ<力>を有し、銃弾など通用しない場合もあるだろう。
しかし下位の鬼にとってはまぐれあたりの一発でも脅威にはなる。それを考えれば、表立って動く鬼が減少するのも納得のいく話だった。
「実際泣きたなるわ。金で買えるもんと俺の“狂骨”が互角なんやから」
「お前はまだマシだ。鬼は勿論、多くの退魔は重火器に容易く蹂躙される。刀に拘った南雲ならば尚更だろう」
廃刀令で刀は価値を失い、銃器の発展で積み上げた技を貶められ。
倒すべき鬼も姿を消し、南雲は衰退していった。
それでも赤瀬のような、時代に迎合する真似は出来なかった。
平安より続く退魔の名跡、その誇りがあったからだ。
「それでも、日の本の有数の退魔や。今更、退魔以外の何者にも為れなかったんやろな」
「ああ。故に南雲はもう一度退魔の名跡としての己を知らしめるべく動き始めた」
貫いてきた生き方を時代に否定され、退魔としての誇りを捨てられず、南雲は“南雲であること”に拘ったのだという。
しかし、だとすると引っ掛かる。
「そやけど、今の話がほんまなら、あんたは完全な“悪もん”になんなぁ。傍目には、マガツメと手を組んで人間の敵になったようにしか見えん」
勿論、そうでないと分かっている。
そもそも南雲の目的が家の再興だとしても、音頭をとっているであろう叡善は人喰い。あんな化け物が謳う再興が真面なものだとは到底思えない。
だが構図だけで言えば甚夜が人に仇なそうとしている、そう見えるのも事実。
此処をはっきりさせておかなければ、染吾郎としても立ち位置を決められない。
「なんでマガツメと組んだ。あんたにとっちゃ仇敵の筈やろ?」
「それは、私達にとっても南雲は邪魔だからです。敵の敵は味方でしょう?」
甚夜が口を開くよりも早く、にっこりと笑って向日葵が答える。
その表情には邪気が無く、だが間違えてはいけない。彼女の瞳は紅玉、いずれ現世を滅ぼす災厄となる鬼神、それに連なる鬼だ。
「退魔と鬼やしなぁ。南雲とマガツメが事を構えんのは、まあ分かる」
「ああ、いえ、そうではなくて。私達は鬼だから退魔だから南雲と敵対しているのではありません。私達の敵は南雲ではなく、“南雲叡善”なんです」
つまり甚夜と向日葵は南雲叡善を殺す為に手を組んだということか。
人の命を喰らう化け物だ。生かしては置けない類の存在だが、叡善を殺す為とはいえ、彼等が手を組むというのは大げさすぎるようにも思える。
それに狙いが南雲叡善というなら、少しばかりおかしい。
「そら妙やな。人喰いの化けモンを討つ。それがあんたの目的なら、そないおかしいとは思わん。そやけど其処にマガツメが入ってくるから妙な話んなる。マガツメはどっちかゆうと南雲叡善と同じ側やろ? ……鬼と退魔が“同じ側”、なんやややこしいけど、どっちも似たような化けモンやしな」
何せいずれ現世の全てを滅ぼす災厄となる存在だ。
タチの悪さでは人喰いの叡善を遥かに上回る。
しかし向日葵は同類項でくくられたのが不服なのか、頬を膨らませて怒っていた。
「むぅ、失礼な。あんな妖怪爺と一緒にしないでください」
「いや妖怪爺て」
おまえだって鬼だろうが、と染吾郎は言いそうになったが途中で止めた。
鬼とはいえ向日葵の見た目は綺麗な少女だ。確かにあんな不気味な爺と一緒にされるのは不愉快かもしれない。
「それにお母様は今回の件には関わっていません。確かに私はお母様の為に動いていますが、あくまでこの協力体制は私の独断。おじさまとの個人的なものですから」
ふむ、と染吾郎は僅かに俯き、思索を巡らせる。
甚夜が南雲を潰そうとし、向日葵がマガツメの命令ではなく独断で動く。
彼等はそこまでしてでも南雲叡善を仕留めなければならないと考えている。となれば奴の目的は“家の再興”程度では済まない、もっと悪辣なものだとするのが妥当だ。
「ほんなら、そこんとこちゃんと説明してもらおか。あんたらが手を組んだ、ちゃうな、“組まざるを得ない”理由ってやつを」
言い直したのは南雲叡善の異常さを実際に見て知ったが故に。
人喰いなど単なる特性に過ぎない。染吾郎が叡善を化け物と評したのは人喰いだからではない。人の命を喰らい、それを当然としているからだ。
あれは自分以外の存在を路傍の石程度にしか見ていない。生かしておいては後の災いとなる、そういう類の存在だ。
彼等が組んだのは、叡善が引き起こそうとしている災いを知った為だろう。
それを教えろと染吾郎は詰めよる。
「叡善の目的はあくまでも家の再興。……ただ、その手段がちと問題でな」
ほんの僅か、不快そうに甚夜の顔が歪んだ。
ちらりと横目で溜那の表情を盗み見れば、示し合わせたように向日葵が言葉を続ける。
「そこで溜那さん。コドクノカゴが出てきます。彼女が南雲の再興の“きーぽいんと”
なんです」
コドクノカゴと呼ばれた少女は呆けた顔をしていた。
話を聞いているのか聞いていないのか、先程から一言も発さずぼんやりと視線をさ迷わせている。
考えてみればこの少女もよく分からない。
何故地下牢に入れられていたのか、それにコドクノカゴという言葉の意味も。
「コドクノカゴ……蠱毒、確かそんな呪術あったな」
かつて読んだ書物に記されていた。
壷の中に大量の虫を閉じ込めて共食いさせ、最後に残った一匹を呪詛の媒体とする呪術。
【五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す。】
即ち蠱毒とは喰らい合いの果てに生まれる純化された怨念である。
染吾郎の知っているコドクはそれか“孤独”ぐらいのもの。だから呟いてみたのだが、それを聞いて甚夜は小さく頷いた。
「お前の想像通り、蠱毒で間違いない。同時にコドクは狐毒、狐の毒でもある」
「狐の毒……殺生石か?」
かつて玄翁という高僧が下野国那須野の原で、ある石の周囲を飛ぶ鳥が急に息絶え落ちるのを見た。
不審に思っていると、ひとりの女が現れ言った。
『その石は殺生石といって近づく生き物を殺してしまうから近寄ってはいけない』
女は由来を語る。
今は昔、鳥羽の院の時代に、玉藻の前という宮廷女官がいた。
才色兼備の玉藻の前は鳥羽の院の寵愛を受けたが、九尾の狐であることを陰陽師の安倍泰成に見破られ、正体を現して那須野の原まで逃げたが、ついに討たれてしまう。
その魂が残って巨石に取り憑き、殺生石となったという
動物に由来する怪異譚はいくつもあるが、狐と言えば九尾の狐があげられる。
九尾の狐の怨念が凝固し生まれた殺生石は、毒の怪異の中でも上位に位置する存在である。
「ああ、そうだ。話が早くて助かる。」
「まあ、これくらいはな。んで、それがこの娘とどう関わる?」
染吾郎の言葉に、甚夜は少しばかり言い淀んだ。
躊躇うように俯き、何かを逡巡している。そうしてたっぷり十秒は間を空けてから口を開いた。
「南雲叡善は、退魔の名跡としての南雲を再興しようとした。私がそれを潰そうと思ったのは、その手段が気に食わなかったからだ」
甚夜の表情は変わらない。普段通り、語り口も静かなままだ。
しかし内心は嫌悪で満ち満ちている。傍目からは分からないが、本当ならば口にするのも不愉快な内容だと、苦虫を噛み潰していた。
「南雲叡善は退魔のものの価値を上げる為に、一番手っ取り早い方法を選んだ。……人に仇なす怪異を葬る。怪異は強力で在ればあるほどいい。現実的な弊害と成り得る魔が現れれば、それだけ退魔の価値も高まる」
「道理やな。別段ゆうてることは普通やと思うが」
「ここまでで終わっていればな」
目にはあからさまな軽蔑の色がある。
今度は隠さずに、不快げに顔を顰めた。
「この方法にはいくつかの条件がある。重火器で倒せぬ程強大であり、尚且つ南雲には倒せる鬼が大量に発生すること。その鬼が人目も憚らず暴れ回り、人々に尋常でない被害を与えること。また、それらが恒常的に続くこと」
「あほか、そない都合のええ状況有り得んやろ」
「だろうな。南雲叡善もそう考えた。だから自分で準備すると決めた」
自然に、抑揚もなく言葉は流れた。
自然すぎて聞き流しそうになった。しかし耳に入ったその言葉を理解して、染吾郎は筋肉を強張らせた。
「おい、ちょい待てや」
「蠱毒がどのようなものか知っているか?」
一転話を変える甚夜に、染吾郎は苛立ちを隠さない。
今はそんな話をしていないと鋭く睨み付ける。
「あれやろ、共食いさせた蟲をつこうた呪術やろ? つーか、話し逸らすなや」
「逸らしてはいない、寧ろ核心だ」
鉄のように硬い声。
込められた感情は怒りか、嫌悪か、それとも別の何かだろうか。この男の親友だった師ならばともかく、染吾郎には判断がつかない。
ただ南雲叡善に対する敵意だけは、明確に感じることができた。
「お前の認識は正しい。だが蠱毒にはもう一つの側面がある。そもそも蠱毒を扱う者の多くは女性であり、家に代々継承されるものだ。それを継ぐ家では婚姻忌避されることも多く、“和合草”“和合藥”などと呼ばれる伝承に重なる。つまり蠱毒は高純度の呪詛であると同時に、人心を惑わす媚薬でもある」
大量の鬼を欲する南雲叡善。
コドクノカゴと呼ばれる少女。
そして、蠱毒が媚薬。
嫌な予感がしたのか、染吾郎は引き攣ったように口の端を釣り上げた。
「なんや、胸糞悪い話になりそうやな」
言いながら少女の方に目をやる。
長らく日の当たらない所にいたせいか、異様なほどに白い肌。髪は脹脛辺りまであるが、手入れ自体はされているようだ。
改めて少女の容姿に注視すれば、成程、十分に美しい少女だ。
まだ十四歳くらいだが、すらりとした手足に女性としての丸みを帯びた肢体。
幼さを残した顔立ちながら、涼やかな目鼻立ちは将来が楽しみになる。
いや、現状でも彼女に魅力を感じる男は多いだろう。
だからその想像は容易であり、
「この娘は“蠱毒の加護”を受けた存在。つまりは男を惑わし犯されることを約束された女だ」
甚夜の頷きに、それが想像ではないのだと思い知らされた。
「その為に、胎は既に手が加えられている。人に犯されようが魔に弄られようが、子宮に宿るのは現世に仇なす鬼だ。それにこの容姿、少し整えて艶かしく誘えば幾らでも男は釣れる。ああ、いや、おそらく最終的にはこの娘自身が媚薬となり男を惑わす、そういう風に作り替えられる筈だったのだろう」
「やめえ、吐き気がする」
それはこの場にいる誰もが同じ気持ちだ。
しかし途中で止めることはしない。
「先程言った都合のいい鬼を産み続ける、溜那はその為だけに育てられた。故に“狐毒の籠”。魔を育む揺り籠にして、毒を撒き散らす女狐」
甚夜は無表情のまま、鉄のように硬く重く、決定的な言葉を口にする。
「有体に言えば、南雲叡善は傾国の美女──玉藻前を造り出そうとしている」
アルカディア版との変更点
登場人物の名前変更
夏江典之→赤瀬充知
※葛野編の登場人物「白雪」と名前の響きが被っていたため
高峰由香→三枝小尋
※平成編の登場人物「高峰八千枝」と苗字、「美夜香」と名前の漢字が被っていた為。
また昭和編の「青葉」と合わせて、本木→三枝→青葉で木と枝と葉の流れを作る為。




