『コドクノカゴ』・5
甚夜は二十年以上前のことを思い出していた。
戦いの発端は大層なものでもない。ある夜、一人の少年が“人喰い”に襲われた。たまたま居合わせたから人喰いを相手取った、それだけの話だ。
以前立ち合った時、叡善は夜刀守兼臣を持っていなかった。
だから追い払えればよし、無理をしてまで殺し切る必要はなく、向こうも少年に固執する理由はなかった。
十四の命を消費するまで叡善が粘ったのは、娘に贈った筈の夜刀守兼臣を甚夜が持っていたからだろう。
それも自身の“本当の命”を危機に晒すほどではなかったのか。劣勢を悟れば簡単に退いた。
つまり前回は戦いとも呼べぬ、出会い頭の挨拶程度の攻防に過ぎなかった。
故に甚夜が知る叡善は“複数の命を持つ厄介な人間”。
叡善が知る甚夜は“複数の<力>を持つ厄介な鬼”程度でしかない。
互いに本領を見るのはこれが初めてだった。
南雲叡善は袈裟掛けに刀を振るった。
流石に剣のみで退魔の名跡へと伸し上がった家だ、年老いたとてその腕はさるもの。剣術の基本をきっちりと押さえ、それだけに留まらず実戦で練磨した美しい太刀筋である。
しかし甚夜が息を呑んだ理由は太刀筋の美しさ以上に、夜刀守兼臣から放たれる気配の禍々しさにあった。
黒い瘴気が妖刀より立ち昇り、刀身へと纏わりつき、二回り三回りも刃を大きくする。
触れるだけでも危険。刃を覆う瘴気にはそう思わせるだけの何かがあった。
「<地縛>」
直接受けることはしない。
虚空から現れた鎖を編み、盾のようにして肥大化した一刀を防ぐ。
「無意味なことを」
止まらない。
がしゃ、と頼りない音を響かせて、一瞬にして鎖は砕け散る。
だがそれも予測済み。斬撃の速度が鈍った隙に右斜め前へ踏み込み、右足を軸に体を回し、繰り出す刺突は咽頭を抉る。
七殺。命は奪ったが刀身を肉に絡め取られ、ほんの刹那、甚夜の動きが鈍った。
それで充分。瘴気は形を変え、後ろへ退がるよりも早く次の一手がきた。
例えるなら触手か槍、或いは両方。
黒い瘴気は複数の細長い槍となり、しかしそれは歪曲し、各々が意思を持っているかのように襲い掛かる。
<地縛>での迎撃。駄目だ、先程は力負けをした。
刀で打ち落とすには数が多すぎる。
ならば、と甚夜は鈍った動きを完全に止めた。
<不抜>。
かつて一人の男が願った“壊れない体”、その体現だ。
動けなくなる代わりにあらゆる攻撃を寄せ付けない鉄壁の守り。事実、この守りだけはマガツメでさえ破れなかった。
絶対の自信を持って叡善の攻撃に備える。
複数の刺突が甚夜の体にぶち当たり。
その身を“貫いた”。
染み渡る痛みは裂傷よりも火傷が近い。
まるで焼けた鉄の棒を体に突っ込まれたようだ。
肉が焼ける激痛と不快な感覚、僅かな動揺に<不抜>が解けた。
マガツメでさえ破れなかった<不抜>が何故貫かれたのか。疑問に思い、それが見当違いなのだと気付く。
そもそも相手は<不抜>を破ってなどいなかった。
その証拠に甚夜の服は破れているが、傷は何処にもない。出血もしていない。かつて誰かが願ったように、体は壊れていないのだ。
ただ痛みだけが甚夜の体を通り抜けた。
からくりは分からないが、叡善の持つ夜刀守兼臣は、正確に言えばその中にある存在はそういう真似が出来るのだろう。
なんとも厄介だが、痛みはあれどまだ動ける。
<不抜>でも防げぬ攻撃を繰り返されては打つ手がない。
距離を離し考察を重ねるのは下策。甚夜は体を無理矢理に動かし、間合いを詰め攻勢へ転じた。
「くかか、儂では引き出せるのは一割にも満たぬ。それでもこの力。見事、流石に……」
悦に浸る叡善は、至近距離で黒い瘴気を凝固させ、触手のように甚夜へと伸ばす。
防ぐのは不可能と知った今、避けるしか道はない。最低限の体捌きで攻撃をやり過ごし、叡善の右腕を下から斬り飛ばした。
目的は殺害ではなく、夜刀守兼臣とコドクノカゴの奪取。
であれば相手を殺すよりも今は刀を奪うことに専心する。
宙を舞う右腕と妖刀。掴もうと手を伸ばし、
『そうはいかねえなぁ!』
突如降り注ぐ弾丸の雨。
幾ら鬼であってもあれは致命傷になり得る。妖刀まであと少しという所で、大きく後ろへ退かざるを得なかった。
ガトリング砲。
あれはいけない。幾ら甚夜が強いとはいえ、重火器はまずい。
幾ら鬼であっても弾丸の雨に晒されれば死に至る。
<飛刃>、<血刀>を使えば遠距離攻撃も可能だが、ガトリング砲のように連射がきかない。
<不抜>なら防げる。<疾駆>なら避けられる。だとしてもそれは一時しのぎ。
切れ目ない弾幕を越えて勝つのは至難だ。叡善の相手をしながらでは不可能に近い。
『悪いが、あんたにはここで』
それが分かっているのだろう。
井槌は銃口を甚夜に固定したままだ。再び掃射を行おうとして、しかしそれは骸骨の群れに阻まれた。
「お前の相手はこっちや」
狂骨の群れを防御ではなく攻撃に回す。
甚夜に意識を割いていた分反応が遅れ、骨の一撃に肉を抉られる。苦悶に顔を歪め、井槌は染吾郎に向き直った。
彼はにやりと笑い、挑発するように鼻で嗤う。
「それでええ。他に気ぃ回しとる暇ないやろ」
心の中で感謝し、返礼とばかりに叡善の脳天を叩き割る。
八殺。だがまだ死なない。
構わない、再生するより早く刀を奪えば。
「渡さぬ」
頭蓋が割れ、脳が露出した状態で叡善は切っ先を突き付けた。
黒い瘴気は勢いを増し、甚夜を飲み込もうと雪崩のように迫る。
範囲が広すぎる。防げない、逃げられない。
「成程、有難い」
漏れた呟きには恐怖も惑いもなかった。
防ぐのも避けるのも不可能ならば、もはや進む以外に道はない。
逃げ道は塞がれ、為すべきは明確。なんと有り難いことか。これで気兼ねなく無茶が出来る。
雄叫びも上げず、当たり前のように甚夜は瘴気の大本へと突進する。
その踏み込みに一切の迷いはなかった。
◆
時を少し遡り、南雲本家の地下牢。
招待客の避難を配下の鬼に任せた向日葵は、気付かれぬよう地下牢へと侵入した。
そもそも甚夜が態々表に立ち、叡善を殺すという目立つ真似をしてみせたのはこの為。
彼が囮となり、既に南雲の本家を離れた筈の向日葵が“コドクノカゴ”を奪取する。
最初からそういう手筈になっていた。
『私は夜刀守兼臣を狙う。お前が、コドクノカゴを奪取しろ』
奇縁が重なり、南雲という共通の敵を見つけ、彼等は手を組んだ。
甚夜の方には遺恨がある。マガツメは最早妹ではなく、仇敵になってしまっている。その娘にも多少の引っ掛かりはあるだろう。
『私で、いいのですか?』
それでも二匹の鬼が協働を選んだのは目的を同じくする為。
ただしそれは“究極的には同じ”というだけで、実際のところ思惑には多少の差異がある。
だから「わたしでいいのか」と向日葵は問うた。もしかしたら貴方を裏切って、マガツメの為に動くかもしれませんよ。言外にそう匂わせる。
しかし甚夜は表情も変えずに返した。
『構わん。お前は裏切るにしても正々堂々と裏切るだろう?』
その評価が、途方もなく嬉しかった。
マガツメの娘は切り捨てた想いの欠片。
そして向日葵は鈴音の「大好き」という気持ちが形になった存在である。
打算によって生まれた協力体制だが、手を組んだ以上騙すつもりはなく、ましてや裏切るなど在り得ない。
それを他ならぬ彼が信じてくれた。
彼女にとって、甚夜の何気ない一言は命を懸けるに足る信頼だった。
「ここ、ですね」
だから向日葵は甚夜の思惑通り地下牢へ訪れた。
叡善も井槌も庭に足止めされている。
今のうちにコドクノカゴを奪い去ろう。鉄の格子へ目を向ければ、牢の中には四肢を拘束され猿ぐつわを咥えた、十四歳くらいの少女が転がされている。
牢の前には、侵入者を阻むように誰かが立っていた。
「あ、いらっしゃいませー」
160センチほどの、背の高い女中は笑顔で向日葵を迎え入れた。
足元にはもう一つ影。少女がぴくりとも動かず横たわっていた
微かながら呼吸の音は聞こえる。気を失っているだけなのだろう。
とすれば、あの女中は牢番であり監視役なのか。今一つ相手の立ち位置が見えない。疑念から向日葵は女中の顔をじっと眺めた。
短く切り揃えられた髪。背丈は高く、すらりとした体つきをしている。
先程の声といい目の前の鬼は中性的な印象を受ける。整った顔立ちは、気の利いた少年風の容貌だ。
「あなたは……」
「叡善さんの協力者、ってところかな」
警戒心が向日葵の体を強張らせた。
あの妖怪爺につく輩など真っ当ではないに決まっている。事実、薄暗くて見え辛いが、女中の目も赤い。あれもまた鬼なのだ。
幼いながらに苛烈な敵意を放つ向日葵を眺めながら女中───吉隠は、笑顔と軽い態度を崩さぬままにぼやいた。
「それにしても、鬼喰らいの鬼はマガツメと手を組んだんだ。これはちょっと分が悪いかなあ」
それは間違っている。
甚夜が組んだのはあくまでもマガツメではなく向日葵本人とである。
向日葵の<力>は<向日葵>、「設定した対象への遠隔視」。マガツメはこの力により甚夜の情報を得ていた。
つまり現状マガツメに甚夜の行動を知るすべはないし、そもそも彼女は今動けない状態にある。この件に関してマガツメは関わっていないのだ。
勿論、それを教えてやる義理はない。代わりに吉隠へ不信の目を向ける。
「私達のこと知っているのですか?」
「そりゃあね。鬼でありながら鬼を喰らう男の悪評と、色々やってるマガツメとその娘。鬼の間じゃある意味有名だしね」
「むぅ。私達のことだけ知られているなんて、なんかずるいです」
「あはは、可愛い子だなぁ。それじゃ、ボクも自己紹介しておこうかな」
女中はすっと目を細め、妖しく冷笑して見せた。
「ボクは吉隠。多分、いつか忘れられなくなる名前だよ」
整った容姿だけにその仕種はピタリとはまっていて、女の目からしても十分に綺麗だと思う。
なのに吉隠と名乗る鬼には、何処か不安を煽るような奇妙さがある。
奇妙さの正体が分からぬままに、向日葵は眼前の鬼の名を繰り返す。
「吉隠……」
「うん、よろしくね。……さてと」
名乗りを上げた吉隠は一度深呼吸。
急に両手を上げたかとおもえば、抑揚のない叫び声を上げた。
「うわー、大変だー。怖い鬼の娘さんが攻めてきたー。ボクじゃあとてもかなわない、こうなったら逃げるしかないなあ」
棒読みにしても酷過ぎる。
半笑いで、慌てた様子など欠片もない。相手を馬鹿にするような、あからさまな演技だった。
「仕方ない。此処は逃げよう。叡善さんにも伝えないと」
言いながら転がっている少女を放置し、牢の前から離れ、向日葵の横を通り過ぎてそそくさと出口へ向かう。
こちらに危害を加えるでもなく、抵抗もしない。
その上叡善の協力者である筈の者が、企みの要たるコドクノカゴをみすみす敵に渡す始末。
何をしたいのかが分からず、向日葵は去っていく背中に言葉を投げつける。
「待ってください。あなたは、コドクノカゴを守っていたのではないのですか?」
「え、違うよ? というか、叡善さんにとって溜那ちゃんは必要だろうけど、ボクにはあんまり……それは君たちも同じでしょ? 手は組んでても少しくらいズレがあって当たり前だと思うけど」
確かに吉隠の言う通りだ。
甚夜と向日葵にしても、究極的には目的が同じだから手を組んでいるだけであって、思惑には多少の差異がある。吉隠にとって南雲も同じようなものなのだろう。
「なら、鬼なのに人と手を組んでまで目的を果たそうとするあなたは、いったい何を考えているんですか?」
目的が読めない。口にしたのは純粋な疑問だった。
足を止めた吉隠は、口元に人差し指を当てしばらく考え込んでいた。
そしてくるりと振り返って、無邪気な笑みで答える。
「鬼なのに人と、ね。んー、強いて言うなら……ボクはお茶が好き、ってところかな」
意外な返答に向日葵は目を丸くした。
吉隠はそんな反応など気にせず、更に言葉を続ける。
「でも最近の流行はカフェーでコーヒーらしいね。あと着物はもう時代遅れで、今時のモダンガールはそんなの着ないんだってさ。道にはたくさんの街灯が出来た。夜は明るくなって便利になったと思うけど、ボクたち鬼は逢魔が時を奪われた。近代化を経てこの国は豊かになったけど、その為に切り捨てられたものって結構多かったと思うな」
大げさに両手を広げ、吉隠の振る舞いは演説でもしているかのようだ。
「南雲だってそうだ。今まで人の為に散々戦ってきたのに、刀を奪われた。ボクたち鬼を怖がる人も少なくなったんだ、それを倒す退魔が敬われなくなるのも当然。だけど、納得できるかって言われたら別だよね。それは勿論、居場所を奪われたボクたち鬼も同じ」
向日葵は気圧されていた。
言葉尻の軽さや無邪気な笑みに騙されてはいけない。吉隠の言葉の節々には、母と同じものが感じられる。
其処には隠しきれない狂気があった。
「君はさっき鬼なのに、って言ったけどね。多分、もう“鬼と人と”なんてのは時代遅れなんだ。ボクの敵は鬼でも人でもない。時代に捨てられていく存在なら、敵対するべきは捨てようとする時代。かつてを踏み躙ってのうのうと繁栄する、大正という時代こそがボクの敵だ。ま、憎しみってほどじゃなくて、単なる八つ当たりだよ」
吉隠の目は、南雲叡善と同じく妄執に近い影を宿している。
あれもまた一個の鬼。
己が在り方から外れることの出来ない、古き時代のあやかしだ。
「でも一人じゃどうしようもないし、同じく時代に捨てられた退魔と手を組んだ。目指すべきところは微妙に違うけどね。だから、ボクとしては溜那ちゃん……コドクノカゴは寧ろいない方がいい。ささ、鬼喰らいの鬼と一緒に、早く助けてあげなよ。あ、ついでに希美子ちゃんも連れてってあげてね」
向日葵が何も言えずにいると、締め括るように吉隠はにっと笑い、今度こそ地下牢から去っていく。
これ以上呼び止めることはしなかった
ただ去って行った後ろ姿を思い出しながら小さく零す。
「吉隠……。おじさま、もしかしたら一番の敵は南雲叡善ではないのかもしれません」
或いは、それは予感だったのかも知れなかった。
◆
襲い来る瘴気の波。
多少の痛手には目を瞑り、夜刀守兼臣を奪う為突っ込もうと甚夜は一歩を踏み込む。
「……叡善さん、大変だ!」
いや、踏み込もうとした。
しかし突如屋敷から上がった叫び声に無謀な特攻は止め退いた。
「ぬぅ」
それは叡善にとっても予想外だったらしい。
息も絶え絶えといった様子で庭に現れる背の高い女中。
土で汚れ、ところどころに傷があり、服には少しばかり血がついている。
「吉隠、なにがあった」
「マガツメの手の者が、現れて。溜那ちゃんを」
その言葉に老翁の顔が険しくなる。
ぎり、と奥歯を噛み締め甚夜を睨み付けた。
「貴様が手引きしたか」
「態々人助けの為だけにあれを連れてくる訳がなかろう」
甚夜が囮になり、一度下がった筈の向日葵がコドクノカゴを奪取する。
最初からそれが狙いだ。どうやら向日葵は上手くやってくれたらしい。
更に激昂し醜く表情を歪める叡善は、人とは思えぬ形相で吉隠を責め立てる。
「あれはどうなった!」
「それが、希美子ちゃんと一緒に」
「希美までだと! この、無能がっ……!」
怒りに視界を曇らせ、吉隠とやらに意識が割かれている。
この好機は逃せない。甚夜は隙をついて<疾駆>で駆け出し叡善へと肉薄する。
脇構えから右足で一歩踏み込む。両の足はしっかりと大地を噛んでいる。
腰の回転により生まれた力は肩から腕へ、腕から手へ、握られた刀へと完全に乗せる。
狙うは胴体。一太刀の内に斬り伏せ、蘇生するより早く妖刀を奪う。
「ぬおっ」
気付いたようだが少しばかり遅い。
甚夜の横薙ぎの一刀、刃は相手の肉に食い込んでいる。まだ止まらない。そのまま骨を断ち、臓器を抉り、通り抜けた刀は叡善の体を両断してみせた。
左手を伸ばし、夜刀守兼臣を奪おうとするが、またも邪魔が入る。
先程の女中が距離を詰めてきた。なにを、と疑問に思ったのも束の間、女中の手には拳銃が握られているのを甚夜は見た。
といっても近代的な銃ではない。
握り鉄砲と呼ばれる、江戸の頃からある暗器の一種だ。手の掌に収まる大きさで、取手と銃身を一緒に握りこむことで弾を発射することができる拳銃である。
銃といっても命中精度は低く射程も短い。その目的は単純、掌に隠し“不意を打つ”、ただその為だけのもの。しかし接近戦なら人の命を容易く奪うことが出来る。
女中は握り鉄砲の銃口を甚夜の眼球へ向け至近距離から撃った。
たんっ、という軽い音と共に放たれた弾丸は甚夜の左腕に突き刺さる。
咄嗟に腕で眼球を庇ったが、なんとか間に合った。
いや、正確に言えば“間に合わされた”。
「井槌っ!」
『おう!』
巧い。甚夜は女中の技を賞賛した。
暗器である握り鉄砲を敢えて見せつけ、銃口の向きで何処を狙っているのか甚夜に知らせ、わざわざ防御が間に合うタイミングで撃った。
体なら耐えられるが視界を奪われるのはまずい。そう考えた甚夜は殆ど反射的に腕で目を庇い、結果一瞬だけ視界が遮られ動きが止まる。
その間に井槌が染吾郎を振り切り、叡善を連れ去る。
たった一発の銃弾で女中はまんまと窮地を覆してみせたのだ。
「鬼喰らいの鬼……屈辱は忘れぬぞ。いずれ、コドクノカゴは必ず取り返す。そして、その時にはお主を贄としてくれるわ!」
上半身と下半身が離れたまま叡善は恨み言を絞り出す。
それを抱え上げた井槌や女中も甚夜から距離をとっており、完全に逃げる体勢を作っていた。
『まあ、そういうこった』
「ごめんね、鬼喰らいの鬼。この人、今はまだ必要なんだ。退かせてもらうよ」
言いながら女中は井槌に後ろから飛び乗り、最後のおまけとでも言わんばかりにガトリング砲を掃射。
甚夜は<不抜>、染吾郎は狂骨でそれを防がされ、追うことも出来ない。
こうして叡善たちは見事に屋敷から逃げ去ってみせた。
鮮やかな手並み。鬼どもはまるで最初からこういう展開を予測していたかのように動いた。其処に僅かな違和感を覚えるも、今は思索に耽っている場合ではないと切って捨てる。
横目で染吾郎の方を見れば、特に怪我した様子はない。どうにか一安心といったところだ。
「なんやあいつら。ま、逃げなあかんのは俺らも同じか。押し入り強盗にされるとかごめんや」
このご時世、「鬼とやり合った」などという言い訳は通用しないだろう。
警察に見つかれば染吾郎のいう通り、南雲の家に侵入した強盗と思われるのがオチだ。だから逃げるのは賛成、しかしまだやるべきことが残っている。
「宇津木、お前は先に行っていろ。私はまだ用がある」
「おお、と言いたいとこなんやけど、俺も逃げる前にやらなあかんことがあってな。中にまだ知り合いの娘っこがおる筈や。見捨てては行けん」
今日知り合ったばかりの娘だとしても見捨てては寝覚めが悪い。
染吾郎もまだ逃げる気はなかったが、次いで零れた甚夜の科白に一瞬思考が止まった。
「いや、こちらの用もそれだ。希美子なら私が拾ってくる」
は?
思わず間の抜けた声を上げて固まってしまう。なんでこいつが希美子のことを?
問い詰めたかったが、立ち直るよりも早く甚夜は走り去ってしまう。
取り残された染吾郎は何が何だか分からず、首を捻るしか出来なかった。
◆
甚夜は敷地内にある二つ立ち並ぶ倉庫の片側、その裏手にある入口から地下へと潜った。
事前に向日葵が調べた、地下牢への道である。
未だ騒ぎになってはいないが、いつ警察の目に留まるかは分からない。早々に目的を果たそうと足早に進んでいく。
「おじさま、こちらです」
下では向日葵が軽く手を振っていた。
抜け出た広い空間は湿気が多いせいか、空気がべたつくようで居心地が悪い。鉄格子と拘束された少女を見ればなおさら胸糞が悪くなった。
近くには赤瀬希美子の姿もあった。
気絶はしているがそれ以外変わった様子もない。叡善の狙いを考えれば命の危険はないと分かっていたが、それでも直接無事を確認できれば安堵の息が漏れる。
これで後は牢の中にいる少女のことのみ。
「この娘が」
「はい、間違いなくコドクノカゴです。確か、溜那と呼ばれていましたけど」
そうか、と小さく呟く。
少女は四肢を拘束され、猿ぐつわを噛まされ喋ることも出来ない。意識はあるが現状を把握できていないのだろう。甚夜らを呆けたように眺めているだけだ。
いや、「呆けた」では表現が適当ではないかもしれない。
彼女の目には感情の色が無かった。
助けに来たのかもしれない、そんな期待はない。
酷い目に遭わされるのではないか、そんな不安もない。
怯えも動揺も彼女にはなく、だからといって現状に耐えられる強さも感じさせない。
当然だ、目を見れば分かる。
怯えないのは強いからではなく、外界に何ら興味を持っていないから。
初めから「閉じ込められた自分がいつか救われる」なんて期待はしていない。
同時に、その現実に絶望さえ出来ないくらい、この娘は現状に慣れ切っていた。
此処から出られず死んでいくことを、当たり前だと彼女は思っている。
「……利用されるだけの命、か」
歳は十四、五といったところか。
かつて自分にも娘がいた。だから親の愛情を受けて然るべき年頃の少女が、ここまで空っぽな表情をしていることに、ほんの少しだけ同情的になっていた。
<剛力>。
普段のように骨格が変わるほどの膂力増強ではなく、人の形を維持したままでの腕力強化。随分と頑丈そうな格子だが、<剛力>ならば飴細工と変わらない。鉄は容易に曲がり、人一人が抜け出すには十分すぎる隙間が出来上がった。
「おじさま……?」
不思議そうな顔をしている向日葵は無視して、牢の中に入って行く。
少女の近くにまで寄り、拘束具を引き千切り、猿ぐつわを取っ払った。見れば長らく幽閉されていた割に筋肉は衰えていない。血色もそう悪くない。丁重ではないが、それなりの扱いを受けていたのだろう。
これなら動けないということもなさそうだ。
甚夜は無表情のまま少女へと手を差し伸べた。
「ここで死ぬか、付いてくるか選べ」
この娘は南雲叡善の企みの要、初めから連れ出すつもりではいた。
だが敢えて選ばせようと思った。
生きる気が無いならばここで殺す。
そうすれば今後の難度は多少上がるが、叡善の目論見を狂わせる程度はできる。
彼女が死を選ぶならそれでもよかった。
だが、もしも少しでも生きようとする意志があるのならば、その手助けくらいはしよう。
どうせこの娘の生死に関わらず南雲叡善は潰すつもりだし、夜刀守兼臣は奪い返さねばならない。
多少背負うものが増えたところで今更だろう。
「……あ……」
選ぶのは彼女だ。
か細い声が漏れる。少女らしい、可愛らしい声だった。
長い沈黙と硬直。何を言われたのか分からず、考え込んでいるのだろう。
甚夜は、おそらく彼女は手を取らないと思っていた。何の興味も持てないこの娘は何も選べないのだと。
もしもこの硬直が続くならば、最悪の結末を考えておくつもりでいた。
しかし予想外に少女はたどたどしく立ち上がった。
躊躇いがちに、甚夜の様子を窺いながら。
まるで初めて見る奇妙なものを触るように、おどおどとした様子で手を伸ばす。
いや、まるでもなにも、それは事実だ。
彼女の人生の中で手を差し伸べてくれる人などおらず、選べと言う甚夜は相当奇妙な人物だったに違いない。
だからこそ、心は動いたのかもしれない。
どうやら。あらゆるものに興味を抱けないと思った彼女にも、まだ残っているものがあったらしい。
────おそるおそる、少女は甚夜の手を取った。
望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
彼女にとってはこの瞬間こそがそうだったのだろう。
「よし、ならば行こう」
甚夜は落すように笑ってみせた。
浮かべたのは父性に満ちた穏やかな表情だった。
そのようなやりとりが交わされた後。
空気を読んだのか或いは読まなかったのか、今まで地下牢に横たわっていた赤瀬希美子は目を覚ました。
「ん、痛ぅ」
まだ痛みは残っている。
とはいえ希美子自身は何故気絶したのかも分かっておらず、起きたら原因不明の痛みがしたとしか思えず戸惑ってしまう。
「え……ここ、は」
勿論それ以上の戸惑いは、目覚めたら地下牢にいたということだろう。
その上鉄格子は歪曲しており、袴姿の九歳くらいの少女が、二刀を携えた大男と十四歳くらいの少女が手を繋いでいる。これで混乱するなというのは流石に無理な相談だ。
だから希美子は大男に向けて、思わず問うた。
「なんで、こんなところにいるんですか、爺や……?」
そう、大男は彼女にとってひどく見慣れた顔だった。
彼は希美子が生まれる前から赤瀬の家に仕えている家内使用人。正確な年齢は知らないが、元々は母の世話役だったと聞いているので既に結構な歳だろう。
爺やは態度こそ厳格だし口うるさく、基本的に言うことを聞いてくれない。しかし希美子に対してどこか甘くもあった。
厳しくはあるが自分の味方で、幼い頃から世話してくれている彼のことは嫌いではない。だから彼女は幼い頃から彼を“爺や”と呼んで慕っていた。
ちなみに言えば、元々その呼び名は彼女の母親、志乃が使っていたものだ。
幼い頃、甚夜を言い間違えて“じいや”と呼んだのが、いつの間にか定着してしまったのだ。
甚夜は思わず溜息を吐いた。
結局、爺やという呼び方は親子二代に渡って使われている。なんとも奇妙な気分だ。
悪い気はしないから強く訂正もしないが、いい加減名前で読んでほしいとも思う。
それは兎も角、と軽く佇まいを直す。
「お迎えには上がります。ちゃんと言っておいたはずですが、お嬢様」
甚夜は当然のように言ってみせる。
吊り上った口の端は、少しだけ悪戯っぽく見えた。




