『コドクノカゴ』・3
わたしは、暗いところにいる。
閉じ込められたまま、動けなくて。ごはんも、むりやり食べさせられて。
意味もなくここにいる。生かされているだけの籠の鳥。そして多分意味もなく、孤独なままに死んでいくんだろう。
時々、わたしをここに閉じ込めた爺が来る。
爺は、わたしのことをこう呼んでいる。
───おまえは、コドクノカゴだ。
◆
華族は旧大名家や旧公家に御一新以降与えられた身分である。
しかし時代が進むと華族の規定にあった「国家に勲功あるもの」という規定が徐々に拡大解釈され、本来ならば華族なれないような家柄の者も国や政府への貢献度合いによっては華族として取り上げるようになった。
このような者達は本来の華族と区別して一般に新華族と呼ばれた。
南雲の家から分かたれ格の低い貧乏武家となった赤瀬もこの新華族に当たる。
赤瀬の家は、幕末期には勤王の志士として藩論を尊王に統一したことを評され、明治の御一新以降は子爵にとりあげられた。
華族とはいえ新華族は所詮成り上がり。大名家や公家から華族となった者達には、新華族を蔑むものも多い。
もっとも赤瀬の者達は然程気にすることもなかった。
元々は退魔の名跡でも、本流を離れた後はただの貧乏武家。江戸の頃は俸禄だけでは食って行けず、両替商の真似事をして食いつないでいたような家だ。
今更傷付けられる誇りなどある筈もなし。彼等は周りの視線など気にせず、早々に剣を捨てて商人のような生活を送っていた。
それが功を奏した。
明治以降、欧米諸国に追いつこうと日本は急速に近代化し、世の中の在り様は一変する。
その中で赤瀬は両替商で培った経験を生かし、金融取引や株取引にも手を伸ばす。これが成功し華族の中でも相当な資産家となった。
大正に入ると先の大戦の戦勝で経済は回り、赤瀬の家は莫大な利益を得ることとなる。
対して南雲は元々の家柄もあり明治初期に男爵家へと取り立てられた。
しかし廃刀令の煽りを受け、更には近代化により人々が夜を恐れなくなった。江戸の頃は黄昏を闊歩していた鬼も表立って動かなくなり、そうなれば自然、対処役であった南雲も衰退した。
皮肉なことに、人の世の為に剣に拘り続けた南雲よりも、早々に剣を捨てた赤瀬の方が今や遥かに栄えた家となったのだ。
これらは希美子が生まれる前の話であり、彼女自身は南雲や赤瀬の背景に関しての知識は殆どなかった。
赤瀬はそもそも退魔の技を伝えていない。
父は入り婿で詳しい事情など知らず、知っている筈の母は本家である南雲の妖刀使いとしての顔を希美子に教えなかった。
だから彼女にとって南雲は“ごくまっとう”な廃れた華族で、今夜行われる夜会も単に面倒なものでしかなかった。
「はぁ……」
赤瀬希美子は自室で紅茶を飲みながらくつろいでいた。
ただその表情は陰鬱で、既に溜息も三度目。備え付けのテーブルの上に置かれたカップを指で弾けば、静かな室内に甲高い音が響いた。
麹町にある赤瀬の邸宅は趣深い白壁の洋館である。
広い庭には希美子の母の願いで沢山の紫陽花が植えられている。季節になれば色鮮やかに花開く薄紫は大層美しく、館は周囲から『紫陽花屋敷』と称されていた。
本来ならばこの洋館だけが希美子に許された活動範囲である。
彼女は祖父に言い付けられ、学校にも行かせて貰えない籠の鳥だ。
父母が時折祖父のいない時を見計らって友人との夜会に連れ出してくれるか、家を抜け出して街に繰り出した時くらいしか外との交流が無い。
だから夜会などは彼女の数少ない楽しみなのだが、行き先が南雲というのなら別である。
憂鬱な顔を隠そうともせず、これ見よがしに四度目の溜息を吐く。空気は重く、希美子の傍に控えていた男性は見かねて声を掛けた。
「憂鬱そうですね、お嬢様」
ちらりと横目で見れば男性はいつも通り背筋をぴんと伸ばして立っている。
彼は希美子が生まれる前から赤瀬の家に仕えている家内使用人だ。
正確な年齢は知らないが、元々は母の世話役だったと聞いているので既に結構な歳だろう。
この彼は態度こそ厳格だし口うるさく、基本的に言うことを聞いてくれない。しかし彼女に対してどこか甘かった。
正直なところ、家を抜け出してもばれずに済んでいるのは彼が誤魔化してくれているからだ。勿論祖父にも何も言おうとしない。
厳しくはあるが自分の味方で、幼い頃から世話してくれている彼のことは嫌いではない。だから希美子は幼い頃から彼を“爺や”と呼んで慕っていた。
「当然です。本当に……なにが悲しくて、あのニヤケ面が開く夜会などに行かねばならないのでしょう」
「誠一郎様の命令だと聞き及んでおりますが?」
「もう、分かっています!」
誠一郎というのは希美子の祖父にあたる人物だ。
同じ老人でも爺やは慕っているが、祖父のことはあまり好きではなかった。
当然だ、祖父のせいで学校に行けず外にも基本的に出られない。
その手腕で赤瀬の家を大きくしたのが祖父であるため父母も逆らえず、希美子は籠の鳥の生活に甘んじるしかない。
更には外に出そうとしないくせして、時折南雲の家へと向かわせるのも祖父。そんな相手を好きになるなど到底無理な話だ。
「そうですわ。ねえ、爺や。また暦座に」
「なりません、お嬢様。流石に今夜は。志乃様にもきつく仰せつかっております」
普段なら爺やはなんだかんだ外へ出るのを許してくれるが、やはり今日は無理のようだ。
仕方ないとは分かっているが希美子は不満気に頬を膨らませ文句を言う。
「もう、爺やは本当に私の言うことを聞いてくれませんね」
「そういうつもりはありませんが」
「でも、いつもお母様の言うことを優先するじゃありませんか」
「それは当然でしょう。私の雇い主はお嬢様の母君、志乃様ですので」
にべもない。
そもそも爺やを家内使用人に引き立てたのは希美子の母、志乃である。彼は昔から母の面倒を見ている為、優先順位としてはやはり上なのだろう。
うー、と唸りながら非難がましく爺やを睨み付け、けれど仕返しの一手を思いついて、ちょっとだけ楽しそうに口の端を釣り上げる。
「そんなだから爺やは母の情夫(愛人)だのと噂されるのですよ」
ぴくりと爺やの眉が動いたのを見て、希美子はにっこり笑顔で勝ち誇ってみせた。
爺やは家内使用人の一人ではあるが、家令や執事といった雇い主に近しい立場ではない。そもそもの役割は庭の紫陽花を管理する庭師である。
しかし母・志乃はこの老人を大層気に入っており、結婚してからも世話役のように扱っていたらしい。
本来ならばお付の女中がやるような仕事を彼がやるものだから、当時は使用人の間で情夫だのなんだのと噂されていたそうだ。
「一体誰から聞いたのか……情夫というには些か歳が離れすぎていると思いますが」
「人の噂に戸口は立てられぬ、と教えてくれたのは爺やでしょう? あと、噂はお父様から聞きました」
実際のところ、母と爺やが並んでいても、外見的に“情夫”どころか“親子”にしか見えない。父親も笑って話していたので、おそらくは本当にただの噂だったのだろう。
それでも口うるさい爺やをやり込めたのが嬉しくて、希美子はにまにまと口元を綻ばせている。
「ふふ、もしかしたら今は私の情夫だなんて言われているかもしれませんね」
「年齢的に在り得ないでしょう。こう言ってはなんですが、私はお嬢様のおしめを換えたこともあるのですよ」
「そういうの、本人の前で言うのやめて貰えません?」
恥ずかしさからそう言ったものの今更ではある。
言葉の通り爺やには生まれた時から世話をしてもらっている。母と彼は並べば親子だが、彼女にとっての彼はまさしく「おじいちゃん」だろう。本当の祖父がああだから余計に、爺やをそういう風に見ているところがあった。
もっともお爺ちゃんと呼ぶには彼の外見はまだ若いので、そんな歳じゃないと怒るかもしれないが。
「ともかく、今夜は」
「分かっています。爺やはついてきてくれ……ないんですよね?」
「はい。申し訳ありませんが、南雲の家に呼ばれたのはお嬢様だけですので。行きはあちらで手筈を整えているそうです」
「そう、ですか」
爺やがいないのはやはり不安だ。
陰鬱な心地にすっと視線を下げれば、彼は静かな調子でそれを嗜める。
「お迎えには上がります。どうか、それまではこらえてくださいますよう」
「……分かっています」
こらえる、という表現を使う辺り心中は察してくれているようだ。それに少し安堵し、希美子は窓の外に目を向ける。
黄昏時。うっすらと星の光が見えている。
夜はもうすぐそこまで来ていた。
夜会とはいうものの南雲の邸宅は古めかしい日本家屋。それに合わせ召し物はドレスでなく上等な着物を用意している。
彼女の母はよく手伝わせていたが、希美子も年頃。その場に居合わせる訳にもいかない。
着替えは女中に任せ、家内使用人に宛がわれた個室で今夜の準備を整えていると、ノックもなしに扉が開いた。
「爺や」
入って来たのは丈の長いスカートに白いブラウスを纏った三十半ばの女性だった。
若くはないが今もって美しい。“ろうたけた”女とはこういう人を指すのだろう。
単に品があって美しいというだけではなく、齢を重ね洗練された優美が彼女にはある。年老い衰えるのではなく、過ごした歳月が若い時分にはなかった艶となって表れていた。
「志乃様」
「誰もいないところで、そのような言葉遣いは必要ありませんよ」
赤瀬志乃。
希美子の父は入り婿、彼女こそが赤瀬の嫡流である。
故に南雲と赤瀬、二つの家の関係性も、南雲がどういう家かも彼女は把握していた。
その上で、志乃は娘に何も伝えていなかった。
理由の一つは彼女の父である誠一郎に止められていたから。正確に言えば、彼もまた南雲の家にそうするよう命じられている。
何故かは分からないが父は本家を必要以上に立てており、一度たりとも反抗せず従っていた。
希美子の名を決めたのも、今夜を本家に呼んだのも本家の南雲叡善。誠一郎の言葉は叡善の思惑と同義だった。
「……爺や。あの子のこと、お願いね」
「無論です。貴方がたに受けた恩は計り知れない。恩義には報いねばならぬでしょう」
此度の夜会が娘にとって好ましくない事態であることも予想はついている。だとしても赤瀬の家に住まう以上誠一郎には逆らえない。
南雲の家に呼ばれたのは希美子だけ。母であろうと一緒には行けない。だからせめて彼を迎えに行かせる。出来るのはこれくらいだろう。
「もう、固くならなくていいと言っているのに」
静かに笑い合う。
ほんの少しだけ緩んだ空気に、小さく息を吐く。
そろそろ時間だ。準備を終えた爺やは振り返らずに出ていく。その背中を、志乃は不安を隠して見送った。
後は無事に希美子が帰ってくるのを願うばかり。
夜空には月が、やけに赤々と輝いていた。
◆
東京は千駄木、昔は江戸の外れと称されたこの地に南雲の屋敷はある。
大正時代に入り町並みは少しずつ変わっているが、それでも江戸の名残を残す建物も多い。南雲の屋敷もそういった純和風の木造家屋で、古びくすんだ木の色に歴史と趣を感じさせた。
夜道を馬車に走らせ、希美子は屋敷まで辿り着く。いつも此処の夜会に呼び出される時は屋敷の前までとはいえ爺やがいてくれた。一人で来るのは初めてだった。
「ようこそおいで下さいました、希美子様」
古くはあるが敷地面積は赤瀬の家よりも広い。
少しばかり痛んだ門を潜れば、以前訪れた時と同じ女中が迎えた。正直に言えば、あまり好きになれない女性だ。
この女性は、というよりも南雲の家の使用人はどうにも希美子に対し含むところがあるらしく、皆一様にじろじろと視線を送ってくる。それが苦手で、本当ならばあまり南雲の屋敷には来たくなかった。
しかし落ちぶれたとはいえ本家に招待されて断る訳にもいかない。内心の憂鬱を隠し、丁寧に頭を下げる。
「他の皆様は既に庭園の方へ向かわれております。どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」
表面を上滑りするような、口先だけの会話を交わし、素直に女性の後を追い庭へ出た。
途端、ふうわりと甘い香りが漂う。見れば庭の数か所に香炉が置かれている。
「いい香り……」
思わず呟く。花の香だろうか、どことなく落ち着く香りだ。
改めて庭を見回せば、今度はその美しさに目を細める。
整然とした緑に覆われ、横切るように設けられた小川が涼やかな水の音を奏でている。屋敷の佇まいも相まって、実に見事なものである。
先程女中は「庭園」という言葉を使ったが、南雲の家の場合は「庭」と呼ぶべきだろう。
庭園という言葉は存外新しく、生まれたのは明治以降で日本においては中々定着しなかった。
そもそも庭と園は別のもので、庭は憩いの場というよりも「仕事や行事、古くは神事や政事を行う場所」だった。それに対して園は「植物の植えられた囲われた領域」。旧態を強く残す南雲であれば、此処は庭と表現するのが正しい。
事実、ここでは今夜のような宴や催事、或いは多少血生臭い儀式が催される。美しく整備されてはいるが、此処は古い時代の匂いが漂う“庭”である。
しかしそんなことを知らない希美子にとっては、単純に美しいだけの場所でしかない。
優しい香りに包まれ、燈籠の灯りが夜を照らす様は典雅で、古いながらもきちんと整備された庭は何処か浮世離れした優美さがあった。
ほう、と感嘆の息を漏らし、同時に沸いた疑問から辺りを見回す。
庭では十二、三人ばかりの男女が準備された敷物に腰を下ろし、杯を傾けていた。夜会という割には酒以外の食べ物飲み物の類はなく、殆どの者が所在無さげに周りを見回している。その様子を見るにまだ当主からの挨拶もないのだろう。
既に長い時間待たされているのか、招かれた客は戸惑っているようでしきりに首を傾げていた。
「あの」
「では失礼いたします」
現状を女中に問おうとするも、一瞥もくれず屋敷の方へと戻っていく。
取り残された希美子はどうすればいいのか分からず視線を泳がせる。状況がよく呑みこめずひどく不安だ。
それは周りの客も同じなのか、長く放置されている為不満気なざわめきが聞こえてくる。
「おう、君が赤瀬の嬢ちゃんか?」
そんな中、スーツ姿の老人が妙に明るい調子で声を掛けてきた。
初めて見る顔だ。緊張からぴんと背筋を伸ばし、上ずった声で答える。
「あ、は、はい」
その様子が面白かったのか、掌をひらひらと振り、子供をあやすように老人は表情を柔らかくした。
「そか。そない緊張せんでええよ。芳彦君に君のこと聞いとったから挨拶でもしとこか、ってだけやしな」
「芳彦さん、ですか?」
知っている名前が出たことに驚き、口に手を当てて目を見開く。
そういえば暦座の館長の知り合いが夜会に参加するのだと芳彦から聞いていた。つまり、この彼が件の人物なのだろう。
「では貴方が?」
「秋津染吾郎。秋津の四代目や。よろしゅうな、ええと」
「赤瀬希美子と申します」
「希美子ちゃんか、改めてよろしゅう」
「はい、秋津様。よろしくお願いします」
にっかりと笑う老翁に、初見ではあるが希美子は安堵した。
あまり来たくなかった夜会だ、まともに話せる相手がいるだけでも救われる。染吾郎の気質もあり、二人はすっかり打ち解けてしばらく自己紹介がてらに雑談を交わした。
「にしても、いつまで待たせるつもりや。客に飯も飲みもんも出さんと」
「あれ? でもお酒は準備されてありましたが」
「……俺、一滴も呑めんのや」
お師匠やあいつは滅茶苦茶呑んどったけどなー、とどこか懐かしそうに染吾郎は言う。
勿論希美子にはそれが誰かなど知る由もないが、その人物が彼にとって大切な誰かだということくらいは感じ取れた。
同時に、彼の年齢を考えれば既に師匠が死去しているだろうことも察し、何も返さず話題を変えた。
「秋津様は、長い時間待たれているのですか?」
「おお。かれこれ四半刻近くはこうしとる。あー、腹減った。なんか甘い匂いしとるし余計に腹減るわ」
香炉から漂う香りにまで悪態をつきながら、心底面倒くさそうな顔で吐き捨てる。
話を聞けばどうやら染吾郎も来たくてここに来たのではなく、孫の代わりに出ただけらしい。言葉の節々に南雲の家へ対する含みが滲んでいた。
希美子もいい加減焦れてきていた。夜会は一体いつになれば始まるのか。
そう思っていると、屋敷の方から先程とは別の女中がやってきた。
艶やかな黒髪をショートカットで切り揃えた、随分と背の大きい女性である。背丈百六十くらいはあるのではないだろうか。
「えーと、貴女が希美子さん?」
声変わりを迎えていない幼い男の子のような、透明感のある声だった。
容姿はなんというか、気の利いた少年風の少女、或いはたおやかで少女的な少年。服装が女性用の着物だから女なのだろうが、中性的で女性にも男性にも見える不思議な印象の人物だ。
「ええ、そうですが」
「ああ、よかった。ボク、叡善さん、じゃなかった。叡善様に貴女を呼んで来いって言われまして。奥座敷の方でお待ちですので、来てもらえませんか?」
南雲叡善。
既に隠居はしているが、未だ南雲の家に置いて強い影響力を持つ老翁だ。
希美子の名付け親で、この夜会に彼女を招いた張本人でもある。
「叡善様が?」
「なんでも会わせたい人がいるらしいですよ」
「分かりました。ではご案内お願いできますか?」
「はい、分かりましたー」
迎えの人間にしては随分と砕けた態度と言葉遣いだ。この女中はまだ入ったばかりなのだろうか。
少し疑問に思ったが、叡善が呼んでいるというのならまずはそちらに行かねばなるまい。
「おーい、俺は無視か?」
冗談めかして文句を言う染吾郎に、女中は「あはは」と軽く笑ってみせる。
「ごめん、秋津染吾郎さん。貴方はもうちょっと待っててね」
「十分すぎるくらい待っとるんやけどなぁ」
恨み言には取り合わず、女中はさっさと歩いて行く。無視された形となった染吾郎に小さく頭を下げ、女中の後ろに着いて希美子は屋敷へ戻った。
板張りの廊下はかなり老朽しており、踏み締める度にぎしりと嫌な音が鳴る。廊下には電灯もなく、視界の先は暗がりに薄ぼけており、古めかしい屋敷の佇まいと相まってひどく不気味に感じられた。
僅かな怯えを顔に出さぬよう、希美子は努めて平静に振る舞う。
とはいえ大丈夫な振りをしてみても、やはり夜の屋敷はなんとなく恐くて、それを隠すように希美子は女中の背中に話しかけた。
「あの、御名前を伺っても宜しいですか?」
「え? ボクの?」
「はい。以前来た時はお顔を見なかったと思いますから」
「あー」
女中は一度立ち止まり、腕を組んで深く悩みこんでいた。
何度か頭を上下させてから満面の笑みを希美子に向ける。
「ボクは吉隠。これから、長い付き合いになるといいね」
人懐っこい表情だ。話しやすい相手で、先程の女中に比べればよっぽどいい人だとも思う。
なのに、何故かその笑顔はひどく歪なものに感じられた。
それを口にするのは失礼すぎる。希美子は短く「はい」とだけ答えて、再び歩き始めた女中の後を追う。
「……っと、さあ着いたよ」
黙ったまま廊下を進み、辿り着いた奥座敷。もう何度も訪れている。
すっ、と乱雑に女中は襖を開ける。どうぞ、と手で入るよう促され、希美子は畳敷きの座敷に足を踏み入れた。
「おお、希美や。よう来た」
入った瞬間、年老いた男が希美子を迎えてくれた。
紋付の着物を纏った、痩せこけてはいるが歳を考えれば大柄な老人だ。
彼が南雲叡善。南雲の事実上の頭だと言っても過言ではない。
叡善は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして希美子の来訪を歓迎した。
「叡善様、お久しゅうございます」
「うむ。ほんに久しい。どうだ、息災か? 怪我などしておらんか?」
「はい、おかげさまで」
会って早々の過保護な発言に少しばかり苦笑する。
相変わらずだ。叡善は毎回同じように希美子の体調を気にかけている。大げさだとは思うが、いい加減慣れたし心配してくれることは有難い。彼女はこの老人のことが決して嫌いではなかった。
「この度はお招きいただきありがとうございます」
「いやなに。準備が滞っておってすまんな」
「いいえ、そんな」
正直に言えば少し焦れてはいたが、こうも素直に謝られると責めることも出来ない。
希美子は気にしていないと微笑んでみせる。そして気になっていたことを問うた。
「そう言えば、今回の夜会は随分と急でしたが」
「うむ……希美には話しても構わんか。いや、つい先日のことなのだが。うちの子倅めが死におってな」
「あのニ……隆文様が?」
あのニヤケ面が? 零れそうになった言葉を寸での所で止める。
隆文というのは南雲の現当主だ。嫌味で、赤瀬を成金扱いする不愉快な男だ。
だがいきなり死んだという事実を突き付けられて、どう反応すればいいのか分からなかった。
「あの、なんで」
「希美も知っておるだろう。あやつは当主として相応しくなかった。故に近々、新たな当主を立てる手筈が整っておった。それが、まさかのう」
濁した言葉の先にあるものを何となく理解して、希美子は口を噤んだ。
死んでしまった当主がどう考えていたのかは知らない。だが彼にとって南雲の当主の座は重かった。つまりはそういうことなのだろう。
「すまんな、嫌な話をして。実は此度の夜会も、新たな当主の顔つなぎの為に開いたのだ」
「そうだったのですか」
「南雲の家にとっても極めて重要な場だ。念入りにとは考えておったが、少しばかり準備に手間取ってしまった。だが、ようやっとすべて整った。ささ、宴を始めよう。ああ、その前に会わせたい者がおる。来たばかりで悪いが、少し場所を変えるぞ」
話の流れからすると、新しい当主か。
先日死んだばかりだというに、すぐさま代わりを用立てる。そのことに引っ掛かりはあるが、所詮は分家の小娘である希美子が何か言ったところで意味もない。
内心の不服を懸命に隠し、「はい」と小さく頷く。
「うむ。吉隠よ、案内してやれ」
「はーい、分かりました」
そして先程の女中が明るく答えたと思えば。
「ぅあっ……!?」
ごっ、と鈍い音が聞こえた。
遅れて痛みが全身に響く。
何が起こったのか、希美子には理解できない。意識を刈り取る程の打撃など受けた経験がある筈もなく。なにより叡善が自分に危害を加えるなど予想だにしていなかった。
故に彼女は何の抵抗もなく、そもそも何が起こったさえ分からないままに気を失った。
倒れ込んだ希美子を叡善は動揺することなく眺める。先程までの好々爺は消え去り、其処には狂気に満ちた笑みを浮かべる老翁がいた。
「希美を頼んだぞ。これ以上決して傷付けぬよう、丁寧に扱え」
「分かってるって。地下牢に運んでおけばいいんだよね。叡善さんは?」
「来客の相手をしておこう……井槌」
叡善の呼びかけに、作務衣を纏った大男がのっそりと姿を現した。
背が高く大きいというだけではなく、よく鍛えられている。服の下にあっても練磨が読み取れるほどだ。
「おお、待ちくたびれたぜ」
大男は体に似合った野太い声で笑った。
女中、大男。共に瞳は赤い。退魔と鬼が同じ目的を持って動く。それを奇妙だと思う者は此処にはいない。
彼等はそれが当然であるように並び立つ。
異なるものの交わりを、当然としてしまうだけのものが彼等には在った。
◆
庭に放置されてはや一刻。ようやく動きがあった。
とは言えそれは決して好ましいものではなかった。
秋津染吾郎は顔を顰め、自身の手を見つめた。小刻みにぷるぷると震えている。何度か握って開いてと繰り返し確認する。動かないというほどではない、しかし力が上手く入らない。
「体が、痺れる……?」
見回せば、十数人の客も動けず蹲っていた。
染吾郎よりももっと酷い。「ああぁ」「なんら、おれ」。呂律の回らない者も見受けられる。
「おい、あんたら無事か?」
立つことの出来ない者達の傍に寄り声を掛けるも、呻きかうわ言しか返ってこない。
だが焦点は合っている。染吾郎の質問にも頷きか首を横に振るかで応えている。意識障害ではなく筋弛緩かそれに類するもの。彼等は意識こそはっきりしているが、体をうまく動かせないのだ。
染吾郎は、同じようにまだ意識を保っていて、尚且つちゃんと立てている者に目を向けた。
二人、若い男女。立ち振る舞いと体付きからそれなりに鍛えているのが分かる。
また南雲と繋がりがありこの状態でも混乱していない。おそらく染吾郎とご同業、即ち退魔の者だろう。
他の客にもそういう手合いはちらほらいた。どうやら一般人と退魔の者を混ぜこぜに招待していたらしい。
いや、そんなことはどうでもいい。まずは状況の把握が先だ。
「おい、そこの兄ちゃんら。そっちは?」
「え、ああ、なんとか。ですけど、上手く体が」
「わたしも、なんで。もしかして鬼が」
ちっ、と染吾郎は舌打ちし、頭を働かせる。
自分と同じ症状だ。酒になにか仕込まれていた? いや、彼は酒が呑めず、その為一滴も口にしていない。彼等も呑んでいないようだ。酒自体は体の痺れの直接的な原因ではない。
ならば、と鼻をひくつかせる。
「香の方か」
焚き染められた甘い香。屋外の為鼻腔を擽る程度ではあったが、それで充分なのか。
違う、同じく香を嗅いでいた希美子が平気だったことを考えれば、単純に長時間かけて吸引したから。成分が体内に沈殿し今頃になって効いてきたのだろう。
酒は効果を高める為のもの。だから呑んでいた者達は動けない程になってしまった。
仕掛けたのは間違いなく南雲の者達。奴らは端から罠にかけようと染吾郎たちを夜会に招待したのだ。
「やばいな、とっととずらかるか。おい、お前らもさっさと逃げた方がええ。多分、南雲の奴ら、俺が想像しとったよりずっとヤバいこと考えとる」
孫を来させないようにしたのは幸いだった。
染吾郎は重い体を引きずって庭から離れようとする。この程度ならまだ動ける、さっさと逃げよう。そう考え、希美子の顔が過り唇を噛んだ。
彼女は香の効果が出る前に南雲叡善に呼ばれた。つまり南雲の家は希美子に特別な、十数人の客とは違う“価値”を見出している。
それが何なのかは染吾郎には分からない。だが人を騙して呼び出すような輩だ。どうせ真っ当な目的ではないだろう。
それに希美子とは既に言葉を交わした後だ。僅かながらでも関わりを持った、何も知らぬ少女を見捨てるような真似は染吾郎には出来ない。
秋津染吾郎を継いだ男として。
かつて怪異を討ち払い人々を救ってきた、どこかの馬鹿な男の義息子として。
「しゃあない、あの娘んとこに……!」
助ける、そう強く意識した瞬間。
屋敷の縁側の襖が開き、二つの人影が姿を現した。
おそらくこの庭は以前より何らかの祭事や神事に使われていたのだろう。縁側は普通より一段高く、舞台のような造りになっている。
ならば現れた彼等は演者か。染吾郎が睨み付ければ、影───南雲叡善は、にたりと不気味な口を歪ませる。
「おお、これはこれは。招待はさせて貰ったが、まさか本当に秋津の四代目が来てくれるとは。孫の方の姿は見えんようだが」
倒れている者達、何とか立っている二人を見回し、最後に染吾郎をじっと見据えた。
値踏みするような不愉快な視線だ。染吾郎は嫌悪感を隠しもせず、はん、と鼻で嗤ってみせる。
「きな臭かったんでな。家で待っとるように言っといたわ」
「成程、勘もいい。流石に“稀代の退魔”と謳われる四代目秋津染吾郎。老いて尚盛んなり、といったところかのう」
褒めている訳ではない。
言葉のそこかしこに見下すような嘲笑が混じっている。目は挑発的な、嫌なぎらつきを見せていた。
「だが、己ならば何があっても平気。そういう若い時分はとうに過ぎていると思うがなぁ、“染吾郎の弟子”よ」
叡善は分かり難い言い回しで染吾郎を呼んだ。
しかしそれに意識を割く間もない。もう一つの影が、前に出てきた。作務衣を着ていた男は、次第に体色を、自身の形状を変えていく。赤黒い皮膚。鋭い牙。人では到底為し得ぬ体躯。
其処にいたのは、昔話に語られる通りの赤鬼だった。
「ほうか。あんた、退魔の誇りものうなったか」
鬼を討つべき者が、鬼と手を組む。それ自体を非難する気はない。
害意のない鬼は討たぬが秋津の信条。なにより、染吾郎自身の経験により鬼とだって分かり合えると身を持って知っている。
とはいえ、それはあくまで人に害を為さぬ鬼に対してのみだ。
しかし南雲叡善は鬼と手を組み、自ら守るべき人に危害を加えようとしている。
つまり、あの男は鬼といることとは別に、既に人の敵なのだ。
「そいつは始末しておけ、井槌」
染吾郎の言葉には取り合わず叡善は命令を下す。
その様はいたって冷静、命令された鬼の方が意外そうな顔をするくらいだった。
『いいのか? こいつが一番できそうだが。“エサ”にするなら強い方がいいんだろう?』
「構わん。所詮は無能の弟子だ。肩書が立派なだけ、師と同じく無能だろうて」
『俺は頭悪いし、あんたがそれでいいっていいなら別にいいけどよ』
エサ? どういう意味だ。
そんなこと、疑問に思うことさえ出来なかった。
希美子を助けるという意思も一瞬で頭から消し飛んだ。
ぐらぐらと脳が沸騰する。目の前がちかちかと点滅する。ぎり、と奥歯を噛み締め、射殺さんとばかりに睨み付ける。
「おい、今、なんや言うたか?」
奴はなんと言ったのか。
師のことを、なんといった?
幼い頃命を救ってくれて、育ててくれた師を。
如何な鬼をも打ち倒してきた稀代の退魔を。
いつだって大切なことを教えてくれた、今尚憧れ続ける男を。
まさかとは思うが───
「無能、と言ったが」
───そうか、つまり。
「お前、命いらんらしいなぁっ!」
安い挑発だ。分かっていながら乗った。
四代目秋津染吾郎は“稀代の退魔”と謳われているが、彼にとってその称号は今もって三代目にこそ捧げられる名だ。敬愛する師を愚弄されて黙っているなど、できよう筈もなかった。
香の効果はまだ続いており、染吾郎の動きに普段の切れ味はない。しかし目の前のクソジジイをどうにかするには十分すぎる。
鈍い体に鞭を打って無理矢理疾走する。
彼自身六十を超える老体。全盛期とは程遠いが、それでもその速度は並ではなく、体の動かし方は俊敏だ。
距離を詰めようと染吾郎は一直線に走り、けれど邪魔するように立ち塞がる巨躯があった。
『おおっと、あんたの相手は俺だぜ?』
そう言って鬼───井槌は、己が武器を染吾郎に突き付ける。
「なっ……」
井槌の武器を見て、怒りに沸いていた頭が刹那の内に冷え切った。
有体に言えば、ぞっとした。
鬼の武器と言えば有名どころは金棒だろうか。
染吾郎が以前親しくしていた鬼は二刀を巧みに操った。
今まで戦ってきた鬼も、知能のある者の中には武器を持つ者がいた。
刀、剣、槍、斧、弓、棍棒その他鈍器。
だが井槌が使うそれは、数多の鬼を討ってきた染吾郎をして初見だった。
違う。知識としてはあったが、それを鬼が使うなどとは考えてもいなかった。
『悪いな、加減は出来ねえんだ』
筒状の砲身が環状に密集し、金属薬莢を使用する後装式の閉鎖機構と給弾機構が一体となった巨大・長大な鉄の塊。
人であるならば使用するのに四人は必要であろうそれを、井槌は鬼の膂力にものを言わせ軽々と扱っている。
かの鬼が手にしているのは、複数の銃身を回転させながら給弾・装填・発射・排莢の サイクルを繰り返して連続射撃を行う武器。
いや、それは既に兵器と呼ぶべきもの。
即ち、ガトリング砲である。
「ふざけ、んなやっ!」
疾走の途中、強く地を蹴って横に飛ぶ。
が、相手はほんの少しの動作で銃口を染吾郎に再び合わせた。
轟音が響き渡る。
軽い音の連続、立ち込める硝煙。雨あられと降り注ぐ鉛の弾丸。
ガトリング砲は戦争に使うもの。一個人に向けられるには威力があり過ぎる。
それが惜しげもなく染吾郎にのみ襲い掛かる。
硝煙と土埃が巻き上がり、それでも井槌は銃撃を続け、そしてきっかり十秒の後、ようやくガトリング砲を止めた。
『おお……』
漏れたのは感嘆だった。
井槌は既にガトリング砲で熟練した退魔を葬ったことがあった。
いかに技を練磨し、体を鍛えても、人は重火器の前では何もできない。それが彼の知っている常識で、
「しゃれこうべ……改め、“狂骨”」
だから銃撃の雨を防いで見せた染吾郎は、それだけで尊敬に値した。
彼の前には折り重なる骨の壁がある。若い頃から好んで使用してきた骸骨の付喪神“しゃれこうべ”を更に突き詰めた付喪神。弾丸を受けて砕けるも、次から次に狂骨を産み出し遮ってみせたのだ。
『俺は今迄、退魔だろうが鬼だろうがこいつで葬ってきた。だっつーのに……』
染吾郎は秋津の四代目。
決して由緒正しい家系ではなく、既に名前は孫へと受け継がれている。それでも彼が染吾郎を名乗り、多くの退魔がそれを受け入れるには理由がある。
実に単純、今代の秋津染吾郎よりも四代目である彼の方が強いのだ。
それも“かつて”ではなく現状。既に六十を回り肉体は衰えて尚も彼の方が強い。
妖刀使いの南雲も勾玉の久賀見も。それどころか染吾郎の名を受け継いた息子や孫、即ち五代目・六代目秋津染吾郎さえ彼には及ばない。
だからこその稀代の退魔の称号。
既に名を譲り渡した後でさえ“秋津染吾郎”と呼ばれる所以。
魔を討つ者の中でも最上級に位置するのが四代目秋津染吾郎という男だった。
『あんた、すげえな』
近代兵器を前に、古臭い術法で対等に渡り合う。
その技に純粋な賞賛を送り、しかし銃撃を受けてぼろぼろになった狂骨を見て、井槌は何とも言えない切なそうな表情をしていた。
『だが、悲しくなるぜ。おそらくあんたが半生をかけて磨いたであろう術は、金で買えるモンと互角なんだよ』
染吾郎は不快げに口の端を歪める。
井槌の言葉はどうしようもない真実だ。今の一合はガトリング砲を封じたのでも上回ったのでもなく、ただやり過ごしただけにすぎない。
科学の進歩はすさまじく早い。あの銃撃の前では、多くの退魔が手も足も出ず命を散らすだろう。逆に人が使えば、何の訓練もなく鬼を討つことさえ可能だ。
『だから、俺は南雲に付いた。こんな“くそったれたもん”を使ってでも、為すべきを為すと決めた。あんたなら、この気持ち分かってくれるだろう?』
井槌の目を見て、その心が何となく分かった。
鬼と人。種族は違えど染吾郎と井槌は同じ無常を噛み締めている。
南雲の──退魔の衰退は必然だった。ここまで簡単に命を奪えるものがあるのなら、退魔も鬼も昔のような価値はないのかもしれない。
「ま、分からんとは言わんけどな」
つまり、こいつらの目的は───
「井槌よ、戯言はよい。さっさとそやつを葬れ」
思考を断ち切るように、南雲叡善は冷たく吐き捨てた。
『いや、だがよ』
「そやつ自身を狙わずとも、適当にばらまけば自ら当たりに来るだろうて」
紛れもない事実。先程横に飛んだのは銃撃避ける為ではなく、まかり間違っても流れ弾が動けない者達に当たらぬようにという配慮だ。だから叡善の言葉は圧倒的に正しく、同時に血管が千切れる程苛立たしい。
井槌には共感しかけたが、染吾郎は心から痛感する。
こいつとは絶対に相容れない。人であってもあれは敵だ。周囲の被害など気にせず己が目的を達そうとする、鬼以上に鬼らしい存在だった。
『……まあ、別にいいけどな』
井槌も叡善には従うらしい。
まずい、一人ならガトリング砲も防げる。だが誰かを守りながら戦うのは不可能に近い。
叡善は何かを企み招待客を集めた。ならば殺す訳がない。頭ではそう思っていても、浮かべた狂気じみた笑みに不安が過る。
あれは、理性や常識では測れない相手だ。どんな不合理でもやるといったらやる、そういう不気味さがある。
だから本当に、染吾郎ごと此処にいる者達を虐殺するくらいはやるかもしれない。
「やめ……!」
意味がないとは分かっている。
それでも焦りから制止の言葉をぶつけようと染吾郎は叫び、
「<血刀>」
夜よりも冷たく、鉄よりも固い響きに掻き消された。
「があっ!?」
すぅ、と夜に赤い線が走る。
一直線に飛来した濡れた真紅の刀は、寸分違わず叡善の眉間を貫いた。
そのまま老翁は力なく崩れ仰向けに横たわる。
突如として現れた乱入者に井槌も動きを止めそちらを見た。
其処には、黒衣を纏った男の姿があった。
「あまり、義息子を苛めてくれるな」
懐かしい、声だった。
「あ、ああ……」
染吾郎は震えていた。
恐怖ではなく驚愕ではなく、自身の内から湧き出る理解し難い感情が彼を震わせた。
目は赤い刀を投げつけた男に固定されている。
ゆっくりとした足取りで洋装の男は庭を進む。
年の頃は十八くらいだろうか。洋装、腰には二振りの刀。ちぐはぐな出で立ちだが、その顔には覚えがあった。
何十年と経った今でも、忘れる筈がなかった。
『なんだ、てめえは』
いきなり出てきて上役を殺してみせた男に、井槌は剥き出しの殺気を突き付ける。
しかしそれを飄々と受け流し、男は静かに語る。
「鬼よ。妖刀使いの南雲についたようだが、悪いな。平安より続く退魔の名跡は、此処に歴史からその名を消す」
まったく関係のないことを話し出す男に怪訝な目を向ける。
そこで男は、刃のような目で叡善の死骸を睨んだ。
「分かりにくかったか? 今宵、この場で南雲を叩き潰すと言ったのだ」
────男の名は、葛野甚夜といった。




