『コドクノカゴ』・1
何事にも、対処役というものが存在する。
病気に医師がいるように。
火事に火消がいるように。
予見される災厄に何らかの対策を講じるのは当たり前のこと。
故に、古来より魔が跋扈する日の本の国において、魔を退ける技が発達するのもまた至極当然の成り行きだろう。
鬼、天狗、山姥、土蜘蛛。
あやかしは数限りなく、しかし退魔の者は人に仇なす妖異を調伏してきた。
人々はそんな彼らに感謝し、現世の安寧は保たれていた。
ただ悲しいかな、時代は変遷するものである。
明治の世を経て、大正時代を迎え、大日本帝国は大幅に変化した。
日清・日露の戦勝もあり民衆は高揚し、国内は工業化が一気に進む。
帝国主義の国として欧米列強と肩を並べようと、国威の発揚に沸いた時代である。
また鉄道網の形成や汽船による水運が発達して徐々に町や都市の基盤が形作られ、更に近郊鉄道の敷設、録音や活動写真の出現、また大衆向け書籍・雑誌の普及によって、文化・情報の伝播がいっそう促進された。
俗に言う近代化、それ自体は喜ばしいことである。
けれど行き過ぎた発達は付随する人の心を置き去りにする。
科学技術が一般に波及していくにつれ、失われていくものは確かにあった。
一例を取り上げるならば黄昏だろう。
黄昏とは日没直後、雲のない西の空に夕焼けの赤が残る時間帯である。
薄暗い夕方は人の顔が見分けにくく「誰そ彼は」と称したことから、転じて黄昏は夕暮れ時を指す言葉となった。
そして名残の赤も消え失せ、空が藍色に染まり夜へ近付けば、黄昏より大禍時へ変わる。
大禍時は逢魔が時。魑魅魍魎に出会う禍々しい時とされる。
仄暗い闇の中では擦れ違う誰かの顔さえ定かではなく、そういう刻限には人に紛れて魔が練り歩くと信じられてきた。
しかし明治十五年十一月一日。
日本に初めての街灯が設置される。
以後少しずつではあるがその数は増え、大正の世となった現在、既に黄昏は薄暗い時間帯ではなくなっていった。
街灯は暗闇を照らすと共に、人々から妖異への恐れを忘れさせてしまったのだ。
恐れは畏れ。
目に見えぬものを怖がらなくなれば、目に見えぬものを尊ぶ心もまた失われていく。
あやかしが脅威でなくなれば、それらを討つ者が不要になるのも自然の流れだろう。
如何なあやかしにも負けなかった退魔の者でさえ、時代の流れには終ぞ敵わなかったのである。
それでもあやかしも退魔も消えた訳ではない。
時代が変わり、人々に認められなくなっても。
彼等は確かに存在している。
自分達を必要としなくなった現世に、何を思うのかは分からないけれど。
鬼人幻燈抄 大正編『コドクノカゴ』
大正十一年(1922年) 六月
帝都東京は渋谷にある小さなキネマ館『暦座』が藤堂芳彦の仕事場である。
といっても映写機やフィルムの管理は館長がしている為、彼がやることと言えばモギリ(受付で入場券の確認を行う役割)やキネマ館前の看板の設置、館内清掃やポスターの張り替え程度のもの。つまり力仕事か雑用か、技術の必要のないものしか任されていないのが現状だった。
芳彦は今年で十五歳。同年代に比べると少し童顔で背が低く、モギリをしていると「お手伝い? えらいね」などと客に声を掛けられてしまうことが悩みではあるが、芳彦はこの仕事が案外気に入っていた。
住み込みで働かせてもらえる上に、時々タダで活動写真(映画)を見ることも出来る。家賃はいらず三食付いて、少ないとはいえ給金が出るのだから文句などある筈もなかった。
「暇だなぁ」
昼一番の上映のモギリを終えた後、受付で芳彦はぼんやりとしていた。
上映時間であっても芳彦は受付から離れられない。一応彼にはまだ仕事が残っているからだ。
上映中は無照明で、館内は真っ暗になってしまう。その為、遅れて入場した観客の手を引いて席まで案内する、所謂『手引き』も彼の仕事だ。それさえなければ活動写真を覗き見に行けるのだが、と思ってしまうのは彼がまだ若い証拠だろう。
明治を経て大正時代に入ると活動写真は広く国民に流行した。
外国からの作品も多く輸入されるようになり、喜劇のチャップリンの活動写真などは芳彦のお気に入りである。
この頃の活動写真は無声が殆どで、弁士がつきっきりで場面を解説し、楽団がそれに合わせて音楽を鳴らすと言うのが一般的だった。
規模の小さい暦座キネマ館では館長やその息子が映写機を回し、妻が受付で娘は弁士を務めるというこじんまりとした家族経営で、常設の楽団もない為音楽は知人の団体に委託している。
それでも娯楽としては十分だったのか、単に入場料が安いからか。連日暦座にはそこそこの人入りがあった。
「お、暇そうやな、モギリくん。時間あるなら俺の話し相手になってくれん?」
ちょうど上映時間中でやることもなく、欠伸の一つもしそうになった頃、受付に関西訛りの老人が現れた。
洋装、スーツに身を包んだ男。既に六十を回った老人だが、年齢の割に鍛えられた首回りをしている。左腕の袖口からは骸骨の腕輪念珠が覗いていた。
受付の台に手を置いてにやにや笑っている様は一見絡んでいるようだが、覚えのある顔だったので芳彦は素直に応える。
「あ、いらっしゃいませ。秋津さん」
「おう、よう覚えとったな。三年前に一回会ったきりやったのに」
何処か不敵な態度で笑うこの老人の名は秋津染吾郎。なんでも館長の古くからの知り合いらしい。
といっても京都に住んでいる為頻繁に来る訳ではなく、芳彦がここに住み込みを始めた三年間で今日を含め二度しか訪れていない。
名前を憶えていたのは館長が時々名前を出すからだ。何でも装飾品の類を作る職人の四代目で、この歳になっても奥さんにベタ惚れの恥ずかしい爺さんだとか。勿論本人には言わないが。
「毎日モギリ? ご苦労さん」
「あはは、特に疲れるような仕事じゃないですけどね」
芳彦は三年前、つまり小学校の尋常科を卒業した十二歳の時から暦座で働いている。住み込みを選んだのは両親の負担を少しでも軽くしようと思ったからだ。父は無理して働いてでも高等科に進ませてくれようとしていたが、そこまで負担をかけるも忍びない。考えた末、結局芳彦は知り合いのキネマ館で働く道を選んだ。
後悔はしていない。まだまだ雑用だけだが仕事は楽しい。館長は弁士の勉強もしてみるか、なんて言ってくれている。大衆娯楽の王様活動写真、その花形である弁士だ。夢ではあるが、「そうなれたらいいな」という想像は確かに日々の活力となっていた。
「働くてことはそんだけで偉いと俺は思うで。ほい、お土産の“野茉莉あんぱん”。これ、京都でえらい人気ある菓子でな」
「あ、なんかすいません」
袋詰めのあんぱんを受け取り、ぺこりと頭を下げる。三年前と同じ土産になんだか笑ってしまう。
野茉莉あんぱんは京都の銘菓で、あんぱんとは名ばかりのカステラの中に餡が入った菓子だ。名前はともかく京都ではかなりの人気らしく、芳彦自身も結構気に入っていた。
「今日は館長に?」
「いいや、こっちに寄ったのはついでや。うちの孫、つっても君より年上やけどな。そいつが南雲……ちょいと物騒な華族様のあー、ぱーちーに」
「パーティ?」
「おお、それそれ。二日後にあるそいつに誘われてな。で、俺も一緒にどないやって主催者が手紙送ってきよったもんで、孫も心配やし一応様子見にきたってとこや」
お孫さんがパーティで粗相をしないか心配、とかだろうか。
奥さんの件もそうだが、この人は家族思いというか過保護なんだろうな、というのが芳彦の印象だ。
しかし羨ましい。由緒正しい庶民である芳彦には華族様のパーティなど雲の上の話である。
「へぇー、華族様のパーティかあ。いいな、僕も行ってみたいなぁ。きっとすっごい御馳走とか食べてるんでしょうね」
「そらそうや。特権階級なんて食えん奴らばっかりやからな。飯くらい旨いの食えな呼ばれ損や」
「秋津さんめちゃくちゃ言いますね」
けっ、と染吾郎は不愉快さを隠そうともせず悪態をつく。
孫が心配だから来ただけで、できれば出たくないというのが彼の本音なのだろう。目の前の老人の子供っぽい態度に思わず乾いた笑いが零れた。
「というか、どういう繋がりで招待されたんです? もしかして秋津さんもそういう華族様の血筋なんですか?」
「んなわけないやろ。あー、俺らは職業柄いろんな奴の背後に回るからなぁ」
「そっか、櫛とか装飾品作るのが仕事ですもんね。お金持ちの奥様とは自然に知り合うんだ」
「ま、そんなとこやな」
華族から直々に招待される辺り、結構な腕前なのかもしれない。ちんぴらみたいな悪態の付き方をしている様からは想像もつかないが。
「んじゃ、そろそろ行くわ。そいつ館長に渡しといてな。よーさんあるから芳彦君が二、三個食べてもええで」
「あ、はーい」
そろそろ上映時間が終わる為ちょうどよかった。面倒くさそうに手を振って去っていく染吾郎を見送り、観客の帰りに備える。
さあ、ここからもう一仕事だと芳彦は気を引き締め直した。
「ありがとうございましたー」
大げさに頭を下げて、客を一通り見送る。
ここからが芳彦の忙しくなる時間だ。
暦座は家族経営で成り立っているキネマ館で、館長とその息子が映写技師、切符売りや金勘定を妻が、弁士を娘がやっている。
芳彦はモギリその他雑用を請け負っており、客が掃けてから次の上映までの清掃も重要な役割である。
二十人も入れば一杯となる小さな劇場でも流石に清掃は一人では手が回らず、館長の妻と娘のみゆきが合間の時間に手伝ってくれているが、あくまでそれは手伝い。自分が一番動かねばと張り切っていた。
まずは客席の確認。全員出たか、と覗いてみれば上映が終わってもまだ一人残っている。
予想通りといえば予想通りなので、「ああ、またか」と芳彦は笑った。
というのも残った一人、その綺麗な女の子はいつも見終わると余韻に浸っているのか、何も映っていないスクリーンを見ながらうっとりしているのだ。
「希美子さん、そろそろ掃除しますから出てくださーい」
最初は何事かと思ったが、何度も続けばいい加減慣れる。今では気軽に会話を交わす間柄だ。
いつものように声を掛ければ、楚々とした所作で彼女は振り返る。
「あら、芳彦さん。いつもごめんなさい。ですが、やっぱりキネマは素晴らしいですわ。あぁ、私もいつかあのような恋愛を殿方と……」
薄紫の女袴にとんぼ玉の帯留め、所謂女学生スタイルに身を包んだ綺麗な少女だった。
肩にかかる程度の長さで切り揃えた艶やかな黒髪は、普段からの手入れが行き届いているのだと想像させる。また薄紫は高貴な色として、一般庶民の着物にはあまり使われない。
外見からも彼女が卑しからぬ出自であることは容易に知れた。
切れ長の目をした品のある淑女然とした容貌とは裏腹に、ころころと少女は表情を変える。
赤瀬希美子。
麹町の端にある洋館、通称「紫陽花屋敷」に住まう子爵令嬢である。
「希美子さん、また抜け出してきたんですか?」
「爺やはこういう所には連れて行ってくれませんもの」
不満げに頬を膨らませる希美子は、芳彦よりも一つ年上ではあるが幼げな印象を受ける。
このご令嬢は舶来の文化、目新しい技術に目が無い。活動写真だけではなくラヂオや月刊誌、輸入物の衣服などを見る為に度々紫陽花屋敷を抜け出してくるのである。
「なんでです? 映画みたいな低俗な娯楽はー、みたいなことを言う人なんですか?」
「いいえ? 映画や演劇、週刊誌など娯楽を楽しみたいのは分かるし、それは構わない。時間があるなら連れて行ってもかまわない。けど家庭教師が来ると分かっていながら抜け出すのはよくないと」
「正論だし凄い良い人じゃないですか」
“爺や”というのは、芳彦はまだ顔を知らないが、赤瀬家の家内使用人の人らしい。
希美子はこの爺やを大層気に入っていて、殆ど付き人のように仕えて貰っているそうだ。割に結構な頻度で抜け出す為、爺やからしてみれば頭の痛いことだろう。
「なんか普通に話したら連れ出して貰えそうなんですけど」
「芳彦さんも爺やも分かっていませんわ。よろしいですか、家の者の目を盗んで街に繰り出す。こういった、“映画にありそうなしゅちゅえーしょん”がいいのです。それに保護者がいたら何かあった時、恋に落ちにくいではありませんか!」
両の拳をぐっと握り力説する姿はとても年上にも子爵令嬢にも思えない。
もっとも芳彦は希美子のこういうところが決して嫌いではなかった。”女性として魅力的”ではなく”なんとなく微笑ましい”が彼の正直な気持ちだ。
しかし楽しそうだったのも束の間、彼女の表情は一転憂鬱そうになってしまう。
「それに、明後日にはつまらないパーティに顔を出さなくてはならないのです。今日くらい羽を伸ばしたって罰は当たらないと思います」
静かに溜息を吐いて俯く希美子は、整った容姿だけにまさしく深窓の令嬢といった表現がぴったりと当て嵌まる。
「パーティですか?」
「ええ。赤瀬は元々“南雲”という華族の分家筋で。ですから今度のパーティでは向こうの当主様に御挨拶せねばならないらしく……今の時点で凄い憂鬱です。いやです行きたくないです」
それはなんとも、芳彦には上手い慰めの言葉が浮かんでこない。
彼の中で華族の印象は「偉いお金持ち」くらいのものである。しかし由緒正しき庶民たる芳彦には分からない話ではあるが、やはりというか、金持ちには金持ちなりの苦労というものがあるのだろう。
「すみません、芳彦さん。なんだか愚痴を言ってしまって」
「いえいえ。希美子さんは常連ですし、このくらい全然ですよ」
お互い顔を見合わせて笑う。せめて今見たキネマが少しくらい彼女の憂鬱を払ってくれるといいのだけれど。
そんなことを思っていると、ようやく希美子が立ち上がり柔らかく礼をした。
「長居してしまいました。そろそろ行かせていただきますね」
「あ、もう帰られるんですか?」
「はい。出がけに爺やが今日のおやつはカステラだから遅くならないようにと」
「爺やさん完全に抜け出すこと前提で話進めてますよね?」
あと掌の上で転がされてますよ希美子さん、とは続けなかった。
そうして彼女を見送る。しなやかな足取りで暦座を出て行く姿は、やはり令嬢だと思わせる品の良さだった。
「あれ、でも」
先程彼女は南雲という華族のパーティに行くと言っていたが、それは確か染吾郎の話にも出ていた。
もしかしたら向こうで会うかもしれないな。
益体のないことを考えながらしばらく彼女が去って行った方を眺めていると、館長の娘のみゆきから声が掛かる。
「芳くん、掃除するよー」
「あ、はーい」
次の上映が差し迫っている。
急いで片付けないと。慌てて芳彦は掃除に取りかかった。
◆
街を一望できるビルヂングの屋上に、並び立つ二匹の鬼がいた。
彼等の視線は紫陽花屋敷へ急ぐ希美子に固定されている。
「いよいよ、明後日ですね。おじさま」
声を掛けたのは幼げな容姿の鬼女。名を向日葵という。
柔らかく波打つ栗色の髪。年齢は見た所八つか九つといったところだろう。大きな黒い瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強い。
「ああ」
答えたのは背丈六尺近い男。
洋装に身を包んでいるが、腰には二振りの刀が差してある。ちぐはぐな出で立ちの鬼は、刃物のように鋭い視線で希美子を眺めていた。
つつ、と人差し指で腰に差した刀の柄を撫で、鬼は呟く。
「……奴らの所業を見逃すことは出来ん」
目を伏せる。
鉄を思わせる表情からは、内心を読み取ることは出来なかった。
アルカディア版からの変更点
登場人物の名前変更
夏江貴美子→赤瀬希美子
※平静編の登場人物「桃恵萌」と苗字が被っていたため、また江戸編の岡田貴一と同じ漢字を使っていたため。




