んー、可愛い。つれて帰りたい
この日、コーエンがクラークソン家にやって来たのは、アシュレイが第三皇子の近衛騎士隊の隊長になることが決まったので、祝いの言葉を言いに来たから──というのも間違いではないが、正しくは『注意事項を伝えに来た』である。
近衛騎士隊は、今まで彼が所属していた末端騎士団とは違う。
実力なら正直言って末端騎士団の方があるし、経験値もお飾りの近衛隊とは比べるまでもなく段違いに高い。
だがしかし、残念ながらまだ爵位というものが重要視されてしまう。
でも、これからは──
アシュレイを近衛隊の隊長に据えることをきっかけとし、色々と変えていこうという目論見のかなり重要な話をしに来たのである。
最初はアシュレイに対しての風当たりは強いだろう。
隊長だろうが、部下はアシュレイを蹴落としにかかるかも知れない。そういう要注意人物や、アシュレイの隊長としての態度などを事細かく伝える。……もちろん、それが上手く行かなかった時用の根回しは済んでいる。
なぜ、ここまでするのかというと。
それはコーエンがこの男に期待していることもあるが、シンプルに『好きだから』というのが理由だ。
才能に驕らず努力し、誰よりも強く優しいのに出世欲のない男に、憧れない者などいるだろうか?
……一部の馬鹿や努力もしないで文句を言う屑にアシュレイが見下され続けた十年は本当にもどかしかった。
だからこそずっと思っていた。
これほどの男が上にいないのはおかしい、と。
やっと、だ。
これからだ。
だから、コーエンはアシュレイに振る舞い方を叩き込む。
「ふう、今日はここまでにしよう。あ、この本は宿題ね。最低でも二周はして」
「はい。ありがとうございます」
アシュレイはコーエンから受け取った本をさっそく開き、用意していた栞を気になったところに挟んでいく。
読書も勉強も嫌いではないと言っていただけあって、飲み込みが早い。というより、集中力が凄まじい。
コーエンは要領が良いだけの男なので、アシュレイの集中力がとても羨ましい。まあ、アシュレイからは要領が良いほうが羨ましいと言われるので、なるほど隣の芝生は青く見えるということだ。
眉間を揉んでから、大きく伸びをして体をひねると少し開いている扉の隙間から覗く丸い瞳と目があった。
老若男女を落してきたコーエンお得意の笑顔を向けると、安心したのかにこっと可愛い笑顔が返ってきた。
──どうやら妹の方は、姉と違って警戒心というものがないらしい。
集中しているアシュレイは気付いていないようなので、コーエンはおいでおいでと手でジェスチャーをして部屋の中へ誘う。
大丈夫だよ。君の大好きなお義兄さんのお友達だよ。という雰囲気で害の無さそうな笑い方をすると、あっさりその子は部屋に入ってきた。
「こんにちはぁ」
「こんにちは、レディ」
と、ここでアシュレイがようやく気付いたらしい。「シシー?」と優しい声で義妹を呼んだ。
「にいさまの、おひざ、のりたいです」
「はいはい」
よじよじとソファーに挑戦しているシシーをひょいと抱き上げ、自分の膝に乗せたアシュレイが「あ、先輩、すみません」と雑に謝るのが面白い。
「アシュレイ、その子さあ警戒心なさ過ぎない? 誘拐されないように気をつけなさいよ、ほんと」
「誘拐犯が皆、先輩みたいにハニートラップの達人じゃないことを祈るばかりです」
「人聞きの悪いこと言う後輩だなあ」
「本当のことでしょう。いくつ笑顔の種類持ってるんですか、先輩。……でも、そうですね、気を付けます。この子はとても可愛いから」
可愛いという言葉に反応したのか「ししー、かわいですか?」とアシュレイに聞くシシーは、確かに可愛い。
コーエンにも娘はいるが、妻の少女時代にそっくりでツンが強めなお年頃なので、シシーの無邪気さは新鮮だ。いや、誤解してほしくないのだが、ツンデレにはツンデレの良さがあるし、娘ははちゃめちゃに可愛いのだが……それはそれ、これはこれなのである。
「ねえ、俺もシシーちゃんのこと膝に乗せたい」
「あー………………シシー、俺の先輩のコーエンさんがシシーのこと抱っこしてくれるって」
あー、と言った後の数秒の間には『ハニトラしたら本気で怒りますよ』という圧がかかっていたが、可愛い義妹には当然だがそういったものは一切混じっていない。
……この男を疑っていたわけではないが、本当に可愛がっているようで安堵する。
「レディのお名前を教えていただけますか?」
アシュレイの膝から降ろされたシシーに問うと、「ししー・くらーくそん、です。よろしく、です」と舌足らずな自己紹介を受けた。
そして、ぺこーっとお辞儀する様子は頭が重いのかそのまま床にぶつけそうな勢いがあり、思わず支えようと頭の前に手をやってしまう。
初めて見た時よりも、結婚式で見た時よりも大きくなって……いるのだろうか? 相変わらず小さく見える。健康そうには見えるので問題ないのだが。
「コーエン・バンクスと申します、お姫様。こちらこそよろしくお願いします」
「おうじさまですか?」
「……あははっ! よく分かったね。実はそうなんだ、お姫様」
言いながら膝の上に乗せると、シシーは「ぴゃ!」と声を上げた──軽っ! ちっちゃ! やわ!
最近末の息子は抱っこさせてくれないので、色んな意味でコーエンは感動を覚えた。
「コーエン先輩、信じるんでやめてくださいね」
「そんな睨まなくても良くない? ……分かった、うん。……シシーちゃん、『おうじさま』じゃなくて『おじちゃま』。俺のことは『おじちゃま』って呼んでね」
「おじちゃま」と、アシュレイとシシーの声が被る。
いや、アシュレイは呼ばなくていいのだが。まあ、アシュレイは無視しておこう。
「うーん、可愛い。つれて帰りたい。誘拐犯の気持ちが分かってしまうなあ」
駄目ですよ、と語る赤い瞳に睨まれ、ぶはっと吹き出す。
いやはや、まったく揶揄い甲斐のある奴である。
「冗談だよ〜。でも、まあ、シシーちゃんを今度うちに連れておいで。紹介するから。そうだな、来月。レベッカの誕生会があるから招待するよ。ジェーンは来られなそう?」
「そうですね、今は日中ずっと眠いみたいで……。俺とシシーだけで参加させてもらっても?」
「まあ、仕方ないね。安全な環境でストレスなく過ごすのが一番だよ。うん、二人でも来てくれるなら嬉しいから、是非」
今までは爵位の関係で、肩身の狭い思いをさせまいと招待しなかったが、バンクス家の皆はコーエン含め、アシュレイが大好きなので今後は子供達の誕生会には是非参加してほしい。
妊娠中のジェーンが来られないのは残念だが、今は母子ともに安全と健康が一番だ。
「……アシュレイも父親かあ」
アシュレイの性格的にもう少し後かと思ったが……自分に恋心を持つ可愛い新妻と一つ屋根の下に居て、手を出さないなんて我慢は続かなかったのだろう。
いやしかし、よくもまあ我慢できたものだ。
ぶっちゃけると、婚約中から当時婚約者だった妻に手を出していたコーエンなので、アシュレイの我慢は理解できない。
「何です、その目は……」
「別に〜」
「……おじちゃま、にいさまと、なかよし、してください」
にやにやとアシュレイを揶揄って遊んでいると、シシーが眉を下げてコーエンにお願いしてきた。
「シシー、俺とアシュレイはとっても仲良しだから安心していいよ。ね、アシュレイ? ……ちょっと、アシュレイ、返事しなよ」
「にいさまのこと、いじめないでくださぁい!!!」
そう叫んで、ぴょんっとコーエンの膝の上から降りたシシーはそのままアシュレイの元へ駆け寄り、その足にしがみついた。
「シシー、俺はいじめられてない」
「……」
「本当だよ。『おじちゃま』は、いっつもこうなんだ」
そう言ってアシュレイは、ぐずるシシーを抱き上げて慰める。
「あー、なんかごめん。シシーちゃんの前ではもうアシュレイで遊ぶのやめとくね?」
「いつ何時もやめてもらえません? ……シシー、お菓子いるか? ん? いらない? じゃあ後にしよう」
前者はコーエンに。後者はシシーへの台詞だ。
なるほどなるほど、最近アシュレイが女性から人気があると妻から聞いていたが、原因はこれだ。
血の繋がりもなく、特殊性癖からでもなく、純粋な家族への愛情でこんな優しげに笑むのだから。しかも、それが普段笑わないアシュレイが、だ。
「女性はギャップに弱いからね〜」
「何です、突然」
「いやあ、これからアシュレイにはたくさんの女性からアプローチがあるんだろうなって話」
「ハニートラップですね、気を付けます」
「んー……そうだね」
違うのだが、まあそういうことにしておこう。
「コーエン様、ご挨拶が遅れて申し訳ありません……」
クラークソン家の玄関前。さて帰ろう、となったところでジェーンが挨拶をしにやって来た。
「いいんだ、ジェーン。体を大事にね」
「はい、ありがとうございます」
ふんわりと幸せそうに微笑むジェーンに、コーエンはうんうんと満足げに頷いた──初めて会った時は、まるで威嚇する手負いの子猫のような少女だったが、今ではすっかり素敵な女性になった。
「じゃあね、また来るよ」
まだぐずってアシュレイの首に腕を回しているシシーにも、「またね」と挨拶する……が、シシーは義兄の肩口に顔をくっ付けて顔を上げない。
大好きな義兄が意地悪されていると思って、自分に向かって叫んだシシーを、コーエンは気に入った。
……だが、嫌われては寂しい。
「シシー、ご挨拶しよ? ね?」
ジェーンがアシュレイの後ろに移動し妹の頭を撫でながら言うと、シシーはようやく顔を上げた。
「……おじちゃま、ばいばい。……またね、です」
ばいばい、と小さなぷっくりした手がコーエンに向かって振られる。
「うん、バイバイ」
──シシーと初めて会った時のことを思い出し、コーエンはくつりと笑う。
「どうしたの、おじいちゃま」
「うん? お前のお母様と初めて会った時のことを思い出していたんだよ。今のお前より少しお姉さんだったな」
膝の上に乗せたコーエンと同じ色の髪と瞳を持つ孫に笑いかけると、シシーによく似た雰囲気の笑顔が返ってきた。
「んー、可愛い。つれて帰りたい」
ふに、と柔らかい頬をつつくときゃあと声を上げて笑う様子は、とても可愛い。なんで孫というのはこんなに可愛いのか……。
「コーエン先輩は、相変わらずですね」
「アシュレイもね!」
コーエンは、呆れ顔の後輩に満面の笑みを返した。
きっと、この先もこの台詞を何度も言うのだろうと思いながら──




