ないしょだよ?
これはジェーンが成人の誕生日を迎える少し前の話である。
アシュレイの仕事が休みのこの日、朝食を食べ終わった時まではシシーはご機嫌だった。
だが、今のシシーの機嫌はあまり良くない。
その理由はいくつかある。
まず、ジェーンがドレスの採寸の為に部屋から出てこないことが一つ。シシー付きのメイドのココが熱を出して寝込んでしまったことが一つ(お見舞い禁止)。いつもココを含めて三人で遊んでいる庭師の息子のビルが父親の手伝いで忙しそうなことが一つ。
それに加えて大好きなアンナも、優しいノラも、執事として最近やって来たコニーも朝からずっと忙しそうだ。
皆、忙しい。シシー以外。
「ぶぶぶぶ、ぶぶぶ……」
唇を震わせて音を出すシシーはいじけてソファーの上で丸まる。
こうしていればいつも誰かがシシーに声をかけてくれるのに、今日は──
そんな丸まった背中を発見したアシュレイは、いけないと思いつつも笑ってしまった。
まるっとした小さい背中が可愛いし、ぶぶぶぶ言っているのも可愛い。
そして泣き喚いたり癇癪を起すことなく、ちまっとコンパクトになる様はいじらしく思えた。
「シシー」
アシュレイがまるっとした背中に話しかけると、シシーはのろのろと顔を上げた。
「今日は俺と遊ぼう」
「……むう」
シシーは不満そうだ。
でも、アシュレイはめげない。
「シシー、飴食べたくないか?」
「……あめ?」
アシュレイの言葉にシシーのとがった唇が引っ込む。
「ああ。前に行った飴細工の店に行こう」
楽しそうだろう? と続けて言うと、シシーはこっくんと大きく頷いた。
「ねえさまと、こことびると、みんなにも、かっていいですか?」
「いいよ。ほら、おいで」
アシュレイはものに釣られてくれるのは一体何歳までだろうかと思いながら、手を伸ばすシシーを抱き上げた。
街は今日も賑わっていた。
「ひと、いっぱいです……」
まだ街に慣れていないシシーは、アシュレイのシャツをぎゅっと握ってきょろきょろする。
「そうだな」
アシュレイがシシーを安心させるように背中を摩ると、シシーが肩にこてんと頭を乗せて「えへへ」と嬉しそうに笑って足をぷらぷらさせた。
機嫌が戻って一安心だ。
「にいさま?」
「ん?」
「ししー、ひとりであるくです」
「えっ、歩くのか?」
「あるくです」
「でも人多いぞ?」
「あるくですーっ」
シシーの決意は固い。
「分かった分かった」
「にいさま、ししーとおててつなぐですよ」
地面に下ろされたシシーはアシュレイの手を小さな手できゅっと握った。
「うん。シシーが迷子にならないようにだな?」
「ちがーう! ししー、まいごならないです」
「本当か?」
「ならないです!」
──なった。
「シシー?」
ほんの一瞬。
手が離れてアシュレイが下に目線をやった時にはシシーはそこにいなかった。
迷子になってしまったシシーは大好きな飴を売っている店が見えるベンチに座っていた。
「……にいさま? どこですか?」
呼んでも義兄からの返事はない。
ちょっとよそ見をして手が離れてしまった次の瞬間には、義兄とはぐれていた。
「にいさま……」
視界が滲む。
「ねえさまぁ」
このまま家に帰れなくなったらどうしよう。そしたら姉にも会えなくなる。
シシーの胸に不安が広がる。
人が多いと義兄は言っていたのに……迷子にならないと言ったくせに……シシーは迷子になった。
義兄が見つけてくれなかったらどうしよう。
家までの道のりはうろ覚えどころか、覚えてない。
なんで一人で歩くなんて言ってしまったのだろう。
しかも先ほどから泣いているシシーをちらちらと見てくる不審な男と目が合って、ひぐっとのどが鳴る。
怖い。
男がシシーに向かって歩いてくる。
しかし、シシーは怖くて逃げ出すどころか動くこともできない。
「シシー!」
ごしごしと涙を拭うと目の前には義兄がいた。
不審な男は姿を消していた。
「にいさまっ」
シシーがベンチからぴょんと降りた途端、シシーの体が浮いて視界がぐんっと高くなった。
「……よかった……無事で。心配したぞ」
ぎゅうっと義兄に抱きしめられ、安心してぶわりと涙が出てきた。
「ごめん、なさあい、ごめんなさいっ」
えぐえぐつっかえながら謝ると、よしよしと頭を撫でられてますます涙が止まらない。
「もう今日はずっーと抱っこだからな?」
「はい……っ!」
首に手を回した時、義兄の髪の先は濡れていた。
きっとシシーを探し回って汗をかいたのだろう。でもそのことにシシーが気付くことはなかった。
ただ、今度街に来る時は一人で歩きたいなんて言わないと心に決めた。
「ししー、かなしくて、ずんどこだったです……」
「ずんどこ? ……あ、『どん底』のことか?」
あんな想いは、もうこりごりだ。
「くまさんのあめ、ししーとここにかうです」
「ビルには……なんだこれ。ワニか? ……これって可愛いのか?」
「かわいいです。びる、わにさんすきです」
「本当か?」
「ほんとです」
にっこり笑うシシーにアシュレイの頬も緩む。やっぱりシシーは笑顔でなければだめだ。
シシーは飴細工の店に入ると笑顔になった。
普段あまり泣かない子が泣いているのを見て、アシュレイは叱ることができなかった。
……シシーが泣いていなかったとしてもアシュレイは叱れなかっただろうが。
「ジェーンには?」
「ねえさまには、おはなです」
「うん、いいんじゃないか。リボンの色はどうする? シシーはピンクで、ジェーンには白でいいか?」
「ねえさまのりぼん、あかいろです」
「赤?」
「ねえさま、あかいろがすきです」
「ん? ジェーンって赤が好きだったんだっけ?」
アシュレイは、ジェーンの好きな色を白と淡い青色だと認識していた。彼女が好んで使っているリボンや小物の色がそうだからだ。
「はい。にいさまのおめめのいろだから、すきっていってました」
「え」
「あっ、ないしょでした!」
シシーは口を手で押さえて、しまった! という顔をしている。
「内緒?」
「ないしょです、いわないです」
どうやらジェーンの秘密の話を聞いてしまったらしいアシュレイは、首を振るシシーを見て「ふむ」と考える。
「……じゃあ、俺も内緒の話をしようかな」
「にいさまのないしょ?」
「ああ、俺の好きな色は緑なんだ」
ジェーンと、シシーの瞳の色だ。
きっとこれからアシュレイの一等好きな色になる。
「みろりいろすきなの、ないしょですか?」
「ああ。内緒にできるか?」
「できます」
シシーはきっとジェーンにアシュレイの内緒話を言ってしまうのだろうと思った。
でも、それでいい。
だって、アシュレイだけがジェーンの内緒話を知っているのはフェアではない。
「ししー、ぴんくがすきです」
「うん、知ってるよ」
「……ししー、ないしょないです」
「そうだな。大人になったら出来るかもな」
この子がアシュレイには言わない内緒話を持つのは、ずっと遠い未来だといい。
でも、それまでは──
「今からお説教するけど、なんで怒られるか分かるよね?」
寝る前の『お話』をする前に、ジェーンはシシーに問うた。
きっとアシュレイはシシーを叱らなかっただろうと思いながら。
「うん……はい」
「どうして迷子になったの?」
「……ししーが、ひとりであるくって、わがままいったから……」
「シシーはまだ街に慣れてないんだから、気を付けなきゃだめでしょう?」
ジェーンは気持ち強めに注意の言葉を言った。
「はい、ごめんなさい……」
「何もなくて良かったけど、怖い人だっているの」
「……はい」
「今回は何もなかったけど、怖い人がシシーのこと連れて行っちゃって、お家に帰れなくなるかも知れないんだよ」
「……はい」
ぐすんぐすんとシシーが泣き出す。
「シシーが反省したから、もうお説教はおしまい。さあ、『お話』しようね」
「……うん」
反省しているシシーの頭を撫でてからジェーンは『お話』をすることにした。
本当に無事で良かった。
「──めでたし、めでたし」
シシーは珍しいことに、ジェーンが『お話』をし終えても目をぱっちりと開いていた。
いつもは『お話』の終わりと同時に眠るのに……。
「まだ眠くないの?」
「ねむい、ない。ししー、ねえさまとおしゃべりする」
今日はアシュレイがいなかったら、シシーは一人で過ごすことになっただろう。
妹に寂しい想いをさせてしまったことをジェーンは申し訳なく思った。
「……今日だけ特別ね。いーい? 今日だけだよ?」
「うんっ」
シシーは今日行った場所の話をジェーンに教えてくれた。シシーのお気に入りの飴細工の店の話は特に楽しそうだった。
ジェーンもお土産に花の形の飴をもらった。
飴には赤いリボンが付いていた。きっと内緒の話を覚えていたシシーが付けるように言ったのだろう。
結婚してすぐの頃、同じ花の飴をアシュレイに買ってもらったことを思い出す。
ジェーンがお礼を言うと彼は表情を緩ませた。
飴をもらう度にあの時のアシュレイを思い出すことが嬉しい。
「ねえさま、あのね」
「なあに」
「きょうね、ししー、にいさまの『ないしょ』きいたの」
「アシュレイ様の、内緒……?」
「うん! にいさま、みろりいろが、すきなんだって!」
「……え」
「ないしょだよ?」
妹のこの言葉に、ジェーンは自分の『内緒』をアシュレイが知ったことを悟った。
この後どんな顔でアシュレイに会えばいいのだろう。
そんなことを思いながらシシーの部屋を後にしてリビングに戻ったジェーンの顔は真っ赤だった。
そして、アシュレイはそれに気付かないふりを貫いた。
アシュレイの好きな色に赤色も加わったことこそが、真の内緒である。




