25話 やりきれぬ落着
エミールは死を目前にして茫然とする。己の身命の危機が、何故か現実感の無い他人事に思えて仕方がなく、ぼうっと死神が迫るのを見ていた。
「っ!?」
突如として男の右肩が燃え上がる。いきなりのことに、男はこれまでで一番の驚愕の表情を見せた。
剣はそのままエミールの腹部に吸い込まれるも、動揺して手元が狂ったのか、浅い横一文字の切り傷を作っただけで終わる。ぴーんとした痛みが神経を走り抜けた。
それが、エミールを正気に戻す。はっと目の焦点が正常になり、男の姿を捉え直した。
すぐさま左に振り抜いていた槍を一気に右下の方向へ叩き付ける。火の付いた外套の下にある男の右肩を槍竿が強かに打つと、流石に男も堪らず倒れた。
エミールは追い討ちを掛けるように、男の胸を蹴り上げて仰向けにひっくり返す。彼の左腰に繋がる魔道具が、外套の下からごろりと現れた。
「もらったぁ!」
ばきり。
エミールの雄叫びと共に、槍の穂先が手提げのランプに似た魔道具を貫く。外殻を構成していた不透明なガラスが砕かれ、中身の紫色に発光していた何かが沈黙した。
おそらくこれで魔物を操ることは出来なくなっただろう。少なくともこの場における事態収束の目処がついた。
ふぅと安堵の息を吐く。その瞬間、目の前に燃え盛る布地が飛び込んできた。
「おわっ⁉︎」
エミールは反射的に槍を振り上げて、火達磨と化した外套を追い払う。男が纏っていたそれを見て、気付く。仰向けに倒れていた筈の男が、跡形もなく消えていた。
視線を上げれば、森の奥へ走り去る男の姿が。
「あっ、待て! っぐ……」
男を追いかけようとしたエミールを左腕と胸の傷が引き留める。痛覚をねじ伏せていたアドレナリンが切れてしまったらしく、途轍もない苦痛が襲ってきた。特に斬撃を受けた左前腕が絶叫を上げており、最早両手で槍を構えることも難しいだろう。
「大丈夫か、おい」
「……ダミアン」
無事を確かめる言葉を掛けながら、赤髪の若者ダミアンが駆け寄って来る。どうやら助太刀に駆け付けてくれたらしい。先程の危うく腹を刺されそうになった際、工作員の男の肩が突然燃え上がったのも、彼の魔術によるものだったのだろう。
エミールはダミアンの言葉に対し、ぽつりと彼の名を口にすることで返事とした。その途端、瞳から涙が溢れ出す。ぎょっとする目の前のダミアンの存在も忘れてエミールは己を抱いて震え始めた。
今になって恐怖が全身に覆い被さり、心臓を凍らせる。冷や汗と涙を垂れ流しながら、エミールは胸の奥底に抑えられていた感情を吐き出した。
「……死ぬかと思った。お、終わったかと……」
そこまで言うと、膝が崩れる。縋るように右腕だけで槍に抱き付き杖として体を支えたが、嗚咽は止まらない。
「おい、マジで大丈夫かよ……ってルイはどうした?」
「あっ、そうだ。ルイは魔狼を相手に──」
ダミアンの言葉で我に返ったエミールは、乱暴に涙を拭ってルイの方へ振り返ると、木々の間で血塗れになった黒髪の青年が息を切らしていた。その足元には二頭の大柄な狼が息絶えている。
「ルイ!」
槍を杖にして立ち上がり、左腕を庇うようにしてルイの方へ駆け寄ると、彼は勢いよく首をこちらに回した。
「エミール! だいじょ……その怪我! 早く治療しないと!」
「こっちの台詞だ! そんな血塗れで」
「全部返り血だから平気。それよりエミールが」
「見た目ほどじゃねえよ。お前が魔力操作の鍛錬に付き合ってくれたおかげでな」
そう言って挙げた左手に魔力を宿し、魔力による鎧が傷を浅くしたのだと言外に示してみせた。
事実、ルイの指導を受けて魔力操作の技能を向上させていなければ、命を落としていてもおかしくなかった。男の刺突を胸で受け止めた時も、腕を剣で殴られた時も、魔力による防御が十分でなければ致命傷となり得ただろう。
もしルイに指導を頼んでいなければ、そもそもルイと出会えていなかったら──。
エミールの背中を、冷たい汗が一つ流れた。
「ところで魔狼は? 死体が二頭分だけだが」
全長二メートルはあるであろう巨体の狼、その物言わぬ屍を見下ろしながらエミールは尋ねる。
「もう二頭は突然おろおろしたかと思ったら、逃げ出しちゃったよ。ほんのついさっきに──ってそういえばあの男は?」
「逃げられた。ただ魔道具は壊せたから、魔物が押し寄せて来ることはもうないだろう。魔狼が逃げたのも、魔道具が壊れて影響下から抜けたからだろうな」
これで一安心だと、二人は互いに息を吐く。そこへ三人目の声が掛かった。
「で、どういうことなんだ? お前らが森の奥へ向かうのを見かけて追いかけてくれば、エミールは殺されそうになってるし、魔道具って何の話だ、あの男は何モンよ?」
ダミアンが片眉を上げて問い詰める。当然の疑問にエミールは正直に答えていった。
魔物の群れに統制された様子が見られたため、統率者を探すようルイに頼んでおいたこと。その結果、魔道具を持つ怪しい男を発見、彼が魔物を操っているとみて独断で捕らえようとしたこと。そして魔道具を破壊出来た以上、この場に魔物が押し寄せて来る可能性は低いであろうことも全て。
「んで、あの男が何者だったのかは分からんが、結構な手練だったぞ。しかも闇魔術の使い手だ」
「おいおい……面倒臭えことになってきたじゃんよー」
しかめっ面を作るダミアンに、エミールは無理もないと思う。
闇の魔術に手慣れた者は、大抵が裏社会の人間か何らかの諜報機関など、表沙汰に出来ない組織に所属する人間だ。そんな者が魔物を操る魔道具を持ち、あまつさえ貴族子女の通う学園の生徒らを狙い澄まして襲撃した疑いさえある。きな臭いどころの話ではない。
彼の気持ちも理解できるが、この戦場を片付けるのが先だった。エミールは強引に会話を打ち切る。
「のんびり話してる場合じゃねえ、今は本隊と合流して残る魔物を殲滅しなきゃだ。上級生に状況報告もせんと」
「だな」
「ちょっと待って、エミールは応急処置しないと」
エミールの言葉に、それもそうだとダミアンが頷く。一方ルイはエミールの治療を主張。無茶はしないで欲しいと詰め寄った。
「ほら、腕を出して。止血するよ」
「いや、自分で出来るし──」
「いいから」
彼の圧力を前にエミールが早々に折れ、制服のポケットに携帯していた包帯を渡す。そして別のポケットからナイフを取り出し、左の袖を切り裂いた。シャツの袖も切断して取り除くと、露わになった傷口を水の魔術で洗う。仕上げにルイが包帯を巻いた。
「流石に手慣れてるね。包帯を巻く以外何も手が出せなかったや」
「まあこれぐらいは軍人家出身なら当然だな。ここまでの怪我は初めてだが」
手早く応急処置を終えると、三人が本隊の方へ歩き出す。
「胸の傷は?」
「痛みはするが大したことはねえ。血も自然と止まったみたいだな」
エミールの容体を聞くルイは、なおも心配気な表情を作るが、エミールは無事な右手を「気にするな」とばかりに振った。
やがて茂みを抜けた先に、魔物と交戦していた本隊の姿が見えてくる。
魔道具が機能しなくなったためか、魔物の群れは統制を失ったらしく、四分五裂となっていた。学生集団は逃げる魔物を無理に追わず、なおも手向かう一部の魔物を優先的に掃討しており、最早危機の中にはいない。
やがて安全が確保されると軍人家生徒らが点呼を取り始める。エミールらも遅ればせながらその点呼に参加し、一応の無事を知らせた。とはいえそこそこ負傷しているエミールの姿には酷く驚かれたが。
エミールは軍人家生徒らを指揮していた上級生の前に立ち、謝罪の言葉を述べた。
「申し訳ありません。訳あって独断でルイを連れて隊を離れました」
頭を下げたエミールは、ルイに魔物の統率者を探らせたことや隊を離れた以降の状況など、ダミアンに話した時と同じように、端的な形で報告する。ダミアンも、いつの間にか拾っていたらしい魔道具の一部を上級生へ見せ、エミールの報告を補足した。
そしてエミールは最後にもう一度深々と己の非を認める。
「如何なる理由であれ、軍律に反する行動を取ったのは事実。軍人としてあるまじきことであり、改めて謝罪申し上げます」
申し開きを聞き届けた上級生は、追及を一つだけする。
「何故、その統率者の存在を報告しなかった。ルイが例の男を発見した時点で報せる義務があった筈だ」
「それはその通りです……が、相手にされない可能性が高いと判断し、勝手ながら独自に動くことを決めました」
そう言ってエミールが言葉を区切ると、彼の瞳にどこか責めるような色が宿った。
「……上級生の方々は、ルイを一向に研究会の一員と認めようとしなかったものですから」
「……」
それを受けた上級生は押し黙る。
軍事学研究会での調練活動において、全ての上級生はいつまで経ってもルイを「好ましからぬ余所者」として扱い、大なり小なり敵意を向けていた。
もし魔物との交戦中に、「ルイが魔物を操っていると思しき人物を発見した」と報告した場合、ルイを軽視している上級生がそれを信用し受け入れたのか。また、たとえそれを信用したとして、軍人の矜持から「余所者」がもたらした情報を拒絶する可能性が無かったと言い切れるのか。
上級生は数秒だけエミールから目を逸らした。そして瞑目し、ぐっと何かを飲み込んだような表情で目蓋を開ける。
「……研究会における俺達の態度が、報告を躊躇わせたのは確かだな。報告を上げなかったことは不問とする。ただし、独断専行を許容するわけにはいかん」
そう言って、面持ちを厳しくした彼はエミールへの判決を下す。
「本日より一ヶ月間、軍事学研究会への出入りを禁じる謹慎処分とする」
「え、それって」
ルイが思わずといった様子で言葉を落とした。夏期休暇まで既に一週間を切ろうとしているこの日より、ひと月の謹慎。つまり、実質的にはほんの数日間だけの処分であった。
寛大な判断にエミールの頭がまた位置を低くさせる。上級生は少し緊張を解いて声を張り上げた。
「さて、ここでもたついている場合ではない。我々は急ぎ他生徒への救援に──」
ふとその声が途切れる。その原因は割り込んできた足音の数々だった。現れたのは王太子シャルルを始めとする精鋭パーティの面々。当然ながらその中にセリアの姿もある。
「遅くなってすまない! 他のパーティ集団を助けていたんだ」
それを見て上級生が代表して状況を報告しようとしたのか、胸に手を当てた上で口を開く。が、別の上級生──貴族出身の者──が間に滑り込み、シャルルへ慇懃な礼を披露した。
「殿下御自らの救援、真に光栄にして感謝に堪えません。しかし大変恐縮ながら、我らは既に独力にて魔物を撃退しております。ええ、我ら騎士科と魔術科の──」
王太子に自分を売り込む機会と捉えたらしい彼は、つらつらと魔物との戦いを語り始める。だがその内容に、軍人家生徒の存在は無かった。
軍人家生徒の指揮を執った上級生が、表情をほんの少し苦い色に歪めて一歩前に出ようとする。ところが先にセリアが寒々しい武勇伝を遮った。
「全員無事なようで何よりです。ただ、こちらでは不審な人物が特殊な魔道具で魔物を操っておりました。皆様はそのような者や魔道具を見ませんでしたか」
「はい、この者らがそれらしき男と戦闘になり、魔道具を破壊したと」
公爵令嬢の横槍に言葉を詰まらせた生徒に代わり、軍人家の上級生が答える。右手でエミールとルイを示すと、ダミアンを指で呼び魔道具の一部を掲げさせた。
セリアの首が小さく上下する。
「なるほど」
「しかし一体、魔物を操っていた者達は何者なのでしょうか。捕えられずとも、せめて魔道具をそのまま確保出来れば、何か手掛かりが得られたかもしれませんが、残念ながらこのように破損していては……全て我々上級生に責があります。申し訳ない限りで」
「ああ、そのことですが御心配には及びません。我々が不審人物の一人を捕虜とし、魔道具も無傷で確保しています」
衝撃的な言葉に上級生が「なんと!」と驚嘆を口にした。将来兵を率いる指揮官として、感情を無闇に表に出さないよう心掛けている軍人家の上級生らも、驚きを露わにする。
まさかのことに、エミールも呆然とする他ない。
「……もしかして俺達が独断専行する必要なかった? 本隊とただ耐えていれば今頃セリア嬢達が全部解決して……俺とルイが命張ったのは一体……」
「いや、ほら魔物を操る魔道具を壊せてるから。一つでも多く破壊出来た方が絶対良かったって」
慌ててルイがそう慰めるも、エミールは首を力無く振った。吐き出される思いも鉛のように重々しい。
「それでもセリア嬢の方が上手くやっただろうよ。捕虜も魔道具も更に一つ得してたかも。はあぁぁ……」
大きく嘆息したエミールは、杖にしている槍へ体を預けて、ずるずるとへたり込む。
やはりセリアはこの世界における主役で、転生者であろうと自分は結局背景同然のモブですらない。そう思い知らされたような曇天気分がエミールへのし掛かる。
何とも言えない決着であった。




