16話 影
エミールの前に彼が現れたのは、ゲームヒロインにして転生者であるセリアとの邂逅から一週間経った頃だった。
「エミール殿、少々よろしいでしょうか」
騎士科の授業として校舎裏の訓練場へ向かう途上、突然男性であろう声が掛かる。エミールは足を止めて周囲を見渡すが、校舎から訓練場へ伸びる土の道には今のところ自分だけしかおらず、他にあるのは道沿いに整備された植木の列と低い生垣のみ。その生垣の向こう側に声の主が伏せてでもいるのかと覗き込むが、道上と同じく人の姿は見当たらない。
「こちらでございます」
再び掛かる声の方を見れば、さっきまで何もなかった筈の道の傍に跪く男がいた。その男は、フードの付いた真っ黒な外套の下に、同じ色のぴっちりとした衣服を着込み、口元まで黒い布を巻いている。
黒尽くめのいかにもな曲者にエミールは度肝を抜かれて身構えたが、すぐさま心当たりに気付く。
「あっセリア嬢の言ってい……仰っておられた連絡役か」
「はい、シェグラン公爵家に属する影の一人にございます。名は何とでも……といってもご不便でしょうから、黒とでも」
これまた隠密らしいと言うべきか、安直に過ぎると言うべきか分からない仮の名前を名乗った男に、エミールは苦笑を浮かべるしかなかった。時間を取らせたくはないと、公爵家の隠密ノワールは早々に、エミールの前へ現れた目的を述べる。
「顔合わせを兼ねて、私がエミール殿とセリア様との連絡役に任じられたことをお伝えすると共に、こちらをお届けに参りました」
そう言って黒い外套の内側から、一通の封筒を取り出すなりエミールへと差し出した。蝋封印には盾の右横に立ち上がり口を開けた獅子──シェグラン公爵家の紋章がある。封筒を受け取ると、今回の役目は終えたとばかりに「それでは」とだけ述べて消え去った。
突然、ノワールの纏う装束から黒い靄が滲み出たかと思えば、まるで影が光に当てられたかのように、文字通り姿が霧散したのだ。おそらく闇の魔術の一種だろう。闇の魔術には姿や気配を消すものがあるとされている。
エミールは受け取った封筒をその場で開け、中身を素早く読む。事前の取り決め通り、手紙の内容は日本語で書かれているため、他者に見られても分からないようになっていた。とはいえ、万一にもルイにこの書簡を目撃されるわけにはいかず、寮に戻ってから読むなど決して出来ない。今読んですぐに処分するのが一番だった。
セリアの手紙には、次の二つのが述べられていた。
一つに、今後エミールから密書を送る場合、ノワールが接触してきた際に手渡すか、消灯後寮室の窓より外へ投げるようにとのこと。夜間は男子寮付近でノワールが待機しているらしい。
二つ目は、ゲームストーリーに深く関わる特務隊について。先の竜の一件を始めとする魔物の異常な活発化を受けて、学園はセリアを中心とした学生パーティを編成し、学園近辺の魔物討伐へ派遣することとなった。正式発表はまだだが、セリアによれば二日前に学園から打診され、これを承諾したという。
ここまではゲーム通りだった。ゲームではここで新規キャラクターが登場して、シャルルやテオドール、フィーユを加えたセリアのパーティに参加するのだが、どうやらそこもゲーム通りになりそうだと手紙にはある。そして最後に、ルイの近況はどうかとの問い掛けで結ばれていた。
エミールは読み終えた手紙を、勢いよく引き裂く。ばらばらにされたそれは、ぐしゃぐしゃに丸められて制服のポケットに押し込まれた。後でゴミ箱に放り込むつもりだった。手紙の隠滅を半ば済ませたエミールは、何事も無かったかのように訓練場へと足を向け、その場を離れた。
翌日、学園は王国騎士団の要請を受けて、近辺の魔物討伐を学生主体で担うと発表。優秀な学生による隊を複数編成し、活発化する魔物に対処するという。そして学園に指名された選抜生徒の一覧も公表された。
その中には、やはりセリアを始め、王太子シャルルや近衞騎士子息テオドール、癒し手の平民子女フィーユなどメインキャラクターの名前がある。ノワールから受け取った書簡の内容そのままだった。
その日の昼食や午後の休憩は、誰も彼もが学園の発表を話題とした。ルイもその例に漏れず、エミールに話を振る。
「皆話題にしてるけれど、やっぱりあの発表は驚きだよね。学生による選抜隊結成は、三〇年前のはぐれ飛竜討伐以来のことだって話だよ」
「例の竜の一件みたいに、普段は出て来ない魔物が王国各地で出没するになったせいで、騎士団も多忙らしいからな。それに今期は王太子殿下やセリア嬢、フィーユ嬢と初年生から粒揃いな上に、そもそも二、三年生の成績トップ層は一般騎士に並ぶか超える実力。そりゃ学園も自信持って魔物討伐を引き受けるわな」
「でも何で南の奥地から魔物がどんどん出てきているんだろう?」
──それは隣国の工作員が魔道具を使って、魔物を暴走させてるから……なーんて言えるわきゃねえな。
彼の疑問にエミールは黙りこくる。ゲームストーリーでは、西の隣国が特殊な魔道具で魔物を暴走させ、この国を消耗させようと企んでいた。が、まさか今それを口にするわけにもいかない。そもそも原因を知っていても、一学生が今の段階でどうこう出来るわけもなく、しばらくはストーリーが進むに任せるしかなかった。セリアの方では、公爵家や王太子に婚約者としての地位を利用して、何か動いているかもしれないが。
そして先程ルイが触れた“南の奥地”とは、王国の南に広がる手付かずの森と山々のことだ。
エミールの今世の祖国であるリュクス王国は、元より魔物の棲まう土地を拓いて成立した国であり、魔物の大半を南へ南へと追い払った経緯がある。そのため、王国の領土は南に大きく膨れた形で魔物の領域に食い込み、王都も国土を広げる度に南へと遷都を繰り返していた。
元来学園もまた、魔物を打ち払う戦力をより効率的に養成するべく、王家によって設立されている。しかし、これまでの国土拡大によって、国の半分近くが魔物の領域に接しており、それが魔物の暴走に騎士団だけで対応し切れない現在の状況を招くこととなっていた。
「魔物活発化の原因はともかく、魔物の生息圏と隣り合う国境の長さを考えれば、騎士団も学生の手を借りたくもなるわな。魔物避けの魔道具が各所に置かれているとはいえ、限界もあるし」
「だよね……って、そう言えば王国軍はどうしてるんだろう。軍人って魔物討伐に参加しないの?」
ルイの当然過ぎる疑問に、エミールが頭を振った。王国において上流階級で占められた騎士団と、大半が平民である軍は別個の組織として存在している。そしてその職掌と権限にも大きな差があった。
「魔物の討伐は騎士の専売特許だ。軍人は関われない。一般人の避難誘導が精々といったところか」
「え……でも、軍人だって騎士ほどじゃないにせよ戦えるんでしょ。ならせめて後方支援ぐらいは」
「無理だな、王国騎士の矜持がそれを許さない。『平民上がりはすっこんでろ』ってな。ふざけた話だが、それがこの国の現実だ」
複雑な表情を作ったエミールの口からため息が溢れ、僅かな怒りを諦めと呆れが覆い隠す。それを目の当たりにしたルイも、掛ける言葉を探そうとして唇を開けたり閉じたり、視線を向けたり逸らしたりを繰り返した。
するとエミールが今度は右手を軽く振って、顔の筋肉を緩める。辛気臭くなった空気を追い払う言葉を、ルイに先んじて口にした。
「お前が気にすることじゃねえよ。卒業して騎士になった俺が内側から騎士の認識を改めさせてやる。俺が軍人の将来を変えてやらあ」
これは全くの本心だった。騎士になることが軍人家系の子として課せられた使命というのもあるが、それだけではない。軍人やその隷下にある兵士達が、冷遇され軽んじられてきたことをエミールは何度も目の当たりにしてきた。それに対する憤りと、軍人・兵士らの地位を改善したいという想いも、確かにあるのだ。
「それに軍人を見下してる連中ばっかりでもない。軍人の立場を変えようという動きを理解する騎士、貴族だっているんだぜ」
「そうなの?」
「ああ、その筆頭が“リュクスの虎”こと、ムルボー伯閣下だ。筋の通った御仁で、大貴族どころか王家にすら言うべきことを言えるし、保身を一切気にせず、苦境に立たされた人々の側に立てる器の大きい方なんだ。『王国最大の良心』とまで言う軍人もいるらしい。一〇年前の盗賊団討伐の時も──」
思わずエミールの声にやや熱が入る。とはいえムルボー伯爵は、軍人や兵士どころか軍と関わりない民衆からの人気さえある傑物。そんな大人物にエミールも多少憧れを抱くのは当然と言えたが……ルイの面相は無に染まった。彼の相槌も「へえ」「そうなんだ」と味気ないものばかりとなる。
それどころか、徐々に能面の裏側より黒い感情が見え隠れし始めた。彼の瞳から少しずつ光が失われていく。だがエミールの次の言葉に、それは吹き飛んだ。
「それにこの先、学園で得た人脈も頼りになる筈だ。特にお前とかな」
「えっ」
「魔術科の授業取ってるってことは、ルイは魔術師になるつもりなんだろ? 実力主義のこの国でお前の実力なら、出自だの闇の魔力だの何だろうと出世は確実だ。そうなったら軍の地位向上に協力してもらうぜ」
エミールがそう言って「いいよな? 親友に頼らせてもらっても」と付け加える。
「勿論!」
弾けるような笑顔がルイを飾った。




