10 悪夢の再来
私は馬車を呼んでもらって、すぐに王宮を出た。
本当はこのまま、オルセードを探しに行くべきなのかもしれない。でも、もし彼が薬に抗えない状態でいるなら、彼のそばに一番いてはいけないのは私だ。私への償いの途上にあるオルセードを、これ以上辛い目に遭わせたくない。彼が十分に苦しんでいるのを、よく知っているから。
でも、やるべきことはやっておかなくちゃならない。
私は馬車を小チェディスに向けてもらい、オルセードの仕事場である武官官邸に行った。そしてそこの職員に身分を明かし、オルセードがいなくなったので探してほしい、居場所がわかったら教えてほしいと頼んだ。
どこにいるかだけでも、把握しておいた方がいい。だって私たちが長時間離れていると、彼は死ぬのだから。かつてチェディスでも危ないところだった。
公邸に戻ったのが予定より早かった上に、オルセードが一緒じゃなかったので、ネビアは驚き心配した。彼女を安心させながら、手を借りて寝間着に着替える。
でも眠れるわけもなく、私は寝室のテラスの椅子に座って夜空を眺めながら、時間が過ぎるのを待った。
「……『普通の夫婦』なら、こんな風じゃなかったんだろうな」
そんなつぶやきを、苦い思いで噛みしめながら。
真夜中、官邸の使いの人が公邸にやってきて、告げた。
オルセードが、怪我をした状態で発見された、と。
彼は自分の足で、町のはずれの方まで移動していた。薬が抜けるのを待とうとしたのだろう。
けれど、薬がどう効いてしまったのか、強いめまいに襲われていたらしい。目撃者の話では、陸橋になっている場所で通行人とすれ違おうとしてぶつかり、よろけて橋から落ちてしまったそうだ。
病院のベッドに横たわったオルセードは、目を閉じていた。すでに手当を受けたあとで、頭に包帯を巻かれている。
一瞬、初めて出会った数年前の記憶が頭の中をよぎる――あの時の彼は包帯だらけだった。
医師が説明してくれる。
「陸橋の下は幸い、馬車などは通っていなかったとのことで、頭以外に大きな怪我はありません。目撃者がすぐに知らせてくれましたが、武官殿だとわかるまでに少し時間がかかりました。探して下さっていてよかった」
意識はないけれど、呼吸その他は正常だから様子を見ましょう、と言いおいて、医師は病室を出ていく。
「シオン様」
ネビアと、オルセードの従者が病室の入り口に立っていて、こちらを心配そうに見ていた。私は言う。
「私、オルセードの意識が戻るまではここにいるから。二人とも、いったん帰って」
ネビアは従者と顔を見合わせ、少し考える様子を見せたけれど、すぐに言った。
「それでは、お着替えやお食事をご用意してまた戻ります。そうしたら、シオン様も少しお休みになって下さい」
「わかった、そうします。朝になってからでいいから、来て」
言うと、ネビアと従者はうなずいてから出て行った。交代でどうとか、相談している声が遠くなる。
病室で二人きりになると、私はオルセードの顔を見つめた。
穏やかな表情だ。もう、変な薬は抜けたのかな。
彼が目を覚ましたら、「ありがとう」と「ごめんなさい」を言おう。
私に乱暴しないようにしてくれてありがとう、それに、あの議員のことを言わないでいてごめんなさい。
エスティスの人にとってはただの悪戯かもしれないけど、こんな大ごとになるなら本当に、隠さずに話しておけばよかった。それに、私がもっと早い段階で、あの議員にキッパリ断りの文句を言えていたら……
上掛けの中に手を差し込み、オルセードの大きな手を探し当てると、私は自分の手をそっと重ねた。
初めて出会ったあの時、手を握ることでオルセードは回復していったから……私たちの魂の結びつきが、今も、彼の助けになるといい。
少しウトウトしていると、ぴくりとオルセードの手が動いた。
はっ、と目を開いて顔を上げると、オルセードが横たわったまま、私をじっと見ている。明け方のようで、白いカーテンからぼんやりとした光が透けて、病室を浮かび上がらせていた。
「オルセード」
名前を呼ぶと、彼はゆっくり瞬いて唇を開いた。
「これは、夢かな」
よかった、ちゃんと喋れてる。
私は内心ホッとしながら話しかけた。
「夢じゃないよ、現実。ちゃんと生きてる。頭に怪我をしてるから、動かないで」
すると、彼はわずかにうなずいて――
――私を見つめたまま、言った。
「君の夢を見ていたようだ。君は、誰だ?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
ドクン、ドクンと心臓がうるさく鳴って、息苦しくなる。
そう、頭を打ってるんだから、少し混乱してるのかもしれない。
「私はシオンでしょ、しっかりして。何があったか、覚えてる?」
聞いてみると、オルセードは軽く目を見開いた。
「そうだ、隣国の軍隊を手引きしている者が……陛下にお伝えしないと」
起きあがろうとする彼を、急いで押さえる。
「大丈夫。それはもう、大丈夫だから」
「伝えてくれたのか。よかった」
オルセードは私を見て微笑むと、少しぼうっとした表情になる。そして、また目を閉じてしまった。
オルセードは、前にも一度、死にかけたことがある。その時の記憶と現在の記憶が混乱してしまっているのだ。きっと、そう。
……それだけだと、思いたい。けど、もしかしたら。
私は椅子を鳴らして立ち上がると、病室を急ぎ足で出た。廊下の端で立ち止まる。胸を押さえる手は、震えていた。
オルセードが、ここ数年の記憶を失っているとしたら……?
隣国の軍隊がどうとか言っていたのは、私がこちらに堕とされる原因になった事件のことだ。チェディスの貴族が自国を裏切り、隣国の軍隊を引き入れようとしたのにオルセードが気づいた。彼はそれをチェディスの国王に知らせる途中で敵の毒刃を受け、死にかけたのだ。そこへ駆けつけたオルセードの幼なじみハルウェルが、禁断の魔術を用いてオルセードの魂と私の魂を結びつけた。
私が堕ちた事情を知る前まで、記憶が戻ってしまっているのなら。
その後、起こった何もかも――もがいて、苦しんで、ようやく一緒に踏み出すことになった全てを、彼は忘れている?
二人で遠くの国で暮らすと約束したことも?
「嘘でしょ……」
動揺のあまり気分が悪くなり、私はその場にうずくまった。まるで私まで、真実を知ったばかりのころの、悪夢の中にいるような気持ちに戻ってしまったようだ。
深呼吸して、落ち着こうとする。
まだわからない、まだ彼は目を覚ましたばかりだから。混乱が収まれば、すぐに思い出すかもしれない。彼は、私を一人にしないって言ったんだし。
病院の床を見つめながら、私はつぶやいた。
「私を忘れるなんて、許さないから」




