藍島-3
一気に汗が噴き出した。背中が濡れる。極度の緊張から心臓が大きな音を立てる。
振り返らずとも誰かわかる。
「なんで……」
「私をあまり舐めない方がいい」
冷たい声が項にかかる。だが藍島の心に焦りはない。
電車に乗っている時点で、この奥の手を考えていたからだ。
「次の駅で降りて、お話しよう。な?」
あまり使いたくなかった手段だが四の五の言ってられない。「これだから女は怖い」とか言う声が聞こえてきそうだが致し方ない。
息を吸い込む。
「きゃぁあああああああああああああああ!!」
思いっきり叫んだ。
「痴漢!! いや!! 触らないでヘンタイ!! 誰か助けてぇ!!」
叫ぶ。叫び続ける。
電車内の女性が使える最強の技を使った。相手を社会的に抹殺できる必殺技を。
乗客の視線が一気に向けられ進藤の顔が引きつる。
「ちょ、ちょ、ちょっと。ちょっと待ってくれよ。誤解だこれは」
見るからに悪人顔の男を信頼する赤の他人などいない。かと言って、悪人面に近づく正義漢もいるだろうか。そこは賭けだった。
もう一度叫ぼうとした時だった。
「ちょっと! 何してるのあなた!!」
女子高生が近づいてきた。
桃色の髪をしていながら、それがよく似合う、活発そうな少女だった。
「こんな時間に堂々と痴漢なんて! 誰か! 手伝って!」
つられて乗客が動き出す。椅子に座っていた獣人まで動き始めた。
「おいあんた! 次の駅で降りろ!」
「最低」
声が広がっていく。犬人が進藤を羽交い締めにした。
「おいおい! ちょっと待てって! ちげぇんだって!!」
電車が止まった。進藤に背を向け駆け出す。
「駅で事件! 痴漢事件!! 駅員さんか警察に通報して!!」
叫びながら改札口へ向かう。なるべく遠く人通りが多い場所に行きたい。藍島は東口方面に向かう。左手に曲がればすぐ外だ。
藍島は進藤よりも、あの獅子を危険視していた。またあいつがいつ出てくるかわからない。
「くそ、くそ、くそ」
この上なく不機嫌に舌打ちすると森と化した人々に紛れ込む。このまま逃げ切れると思った。
「……っ」
息を飲み立ち止まってしまう。
東口の方から、ジャギィフェザーが現れたからだ。
周囲の人間がその巨体に目を向けているが悲鳴を上げはしない。ご丁寧に血を拭き取ったのか。
相手の牙が見える。相手はすでに、こちらを捉えている。
背を向け駆け出す。後方から悲鳴が上がった。相手も走り始めたのだ。
「クソッ!!!」
心の中に諦めの言葉が浮かび上がる。
「ああああああ!!! もう!!」
もはやどこを走っているのかもわからない。視界の隅に電光掲示板が映り、電車の到着を告げる文字が浮かび上がっていた。
階段を上りエスカレーターを駆け上がる。西口の広場まで来た。
「うあっ!」
足がもつれ倒れこんでしまう。もう少しで外なのに。
背後から足音が迫る。
殺される。殺される。死ぬ。死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ殺される殺される殺される殺される殺される。
「だ、誰か! 誰か助けてぇ!!」
賭けるしかなかった。大きな声で泣き叫んだ。
その時だった。涙で潤む視界に、小さな影が飛び込んだ。
「……え?」
影は藍島を飛び越えた。
「ぐあっ!」
直後、獅子の苦悶の声と、どすんと倒れる音が聞こえる。
なにが起こったのか振り向くと少女がいた。スマートフォンを操作している。
輝くような、流れるプラチナブロンドの髪の上に、丸みを帯びた耳がある。長く太い尻尾が天に向けられ、揺らめいている。
少女と視線が合う。アンバーの瞳をしていた。
「持ってて」
スマホを投げ渡された。困惑しながらも受け取ると電話がかかってきた。
「出て!! その人が助けてくれる!!」
困惑しながら通話に出る。現状を打破できる最後のチャンスだと思ったからだ。
『も……もしもし?』
「……なんであんたが出るんだ?」
通話に出たのは、男の声だった。
『あ、あの、助け、助けて……』
徐々に暗くなっていく視界の中、藍島は声を出し続けた。




