本郷-5
狐人は魔力と魔法に長けた獣人であり。
熊人は身体能力に長けた獣人である。
そして獅子人は、それら2つをかけ合わせた最強の獣人だ。
指先ひとつで大木を吹き飛ばし、拳を振れば大地が”捲れる”。
爪を振ればロンズデーライトすらバターのように切断する。
走れば衝撃波が生じ、戦闘機に勝てる速度を出せる。
知能も高くその気になれば現世界の全言語をひと月で覚えられる。
これらは魔法を使ってない。素の能力だ。
異世界の中でも上位の地位に君臨している、獅子人が目の前にいる。
身長は200センチをゆうに超え体重も150キロをゆうに超えている巨大な、二足歩行の獅子がいる。
それが、日本の電車内にいて、拳を振り上げている。
二の腕が肥大化した。別の生き物を飼っているのではないかと見まがうほどに膨張した筋肉はスーツの袖部分を弾き飛ばした。
本郷の背筋が凍る。
「っ!」
拳を振り下ろした。本郷は後ろに大きく飛んで攻撃を避ける。
「なっ」
本郷の巨体が浮いた。拳を振った風圧で浮いたのだ。
冗談だろ。そう思いながら吹き飛び、床に倒れる。
草食動物を追い詰める時のような、ギラギラと銀色に発光する両眼が向けられる。胃が引きつり、手足が震えそうになる。
武器は、ない。
本郷はその特殊体質と捜査方法、さらに殺人容疑をかけられているため、武器といえば特殊警棒だけしか提供されていなかった。武器申請も通らなかった。
「……問題は、ない」
だが、腕が2本あれば充分だ。
平常心を保つための言葉を呟き恐怖心を押し殺す。
相手が再び腕を上げる。それだけで凄まじい迫力。
しかし、冷静に見れば隙だらけだ。
恐れず懐に飛び込み、顔に向かって拳を突き出す。カウンター気味にはなった鉄拳が、獅子の眉間を穿つ。
獅子の動きが止まった。千載一遇の攻め時かもしれない。続けざまにトーキックで股間を強襲し、腹部にフックを浴びせる。片足を上げ足の甲を踏み潰した。
相手は体をグラつかせながらも、拳を無造作に振った。
素人丸出しのテレフォンパンチをダッキングで避け片足を取る。凄まじい風が襲ったが、離さず掴み続けた。
作戦通りだ。あとは崩してグラウンドに持ち込むか、首を絞めればいい。
絞め技・寝技は怪力の本郷にとって得意中の得意だった。5秒あれば意識を暗闇に落とせる。人間相手なら、背中を見られるよう首を捻じ曲げることだってできる。
「っ」
だが、投げようとした瞬間、息がつまった。
脳裏に浮かぶは巨木のイメージ。年輪のつまった太く堅い樹の幹を掴んだような感覚が伝わる。
もはや引っこ抜くといった次元ではない。人の手では絶対に倒せないものだった。
獅子が吠えた。
本郷は顔を強張らせ手を離す。
相手がフロントキックを放った。本郷は両腕で胸の前にバツ印を作りガードする。
獣人の履いている革靴の先が腕にめり込む。
「うっぐ……!!」
衝撃が逃せない。体が斜め方向に浮き上がり、背中が吊革と鉄棒を破壊し天井に叩きつけられた。
誰もいない狭い車内に痛々しい音が響き渡る。自由落下した本郷はうつ伏せに倒れる。
「おお。すげぇ。あんなん食らったわ死ぬわ普通」
進藤がカラカラと笑った。
背中を激しく打ち付けたせいで息ができない。左腕の痛みも酷い。獅子から発している極度の殺意を浴びているせいで、冷汗が止まらない。
「飛び降りて」
誰が喋ったのか一瞬わからなかった。随分と若い声に呆気にとられてしまう。
本郷は前を見据える。獅子が獰猛な牙を見せながら口を動かしていた。
「殺しは、あまりしたくない。扉を開けて、飛び降りて。このまま戦うより、生存できる確率は高いと思う」
「おいおい。何言ってんだい?」
「黙ってて」
立ち上がろうとした進藤は呆れたように肩をすくめた。
「あなたは餌じゃない。子猫だ。もっとも、僕からしたら人間全体に言えることだけどね」
相手は興味が失せたような口調だった。本郷をすでに敵とも獲物とも捉えていないようだ。
本郷は膝をついて俯く。
「……お前、現世界に来てどれくらい経つ?」
「ん? 1年と、半年かな?」
「そうか。随分と言葉が達者だな」
「英語しか喋れなかったから、片っ端から色んな言語を勉強して覚えた。日本語は5日で覚えたよ」
”左腕の痛みが引き始めている”。
「獅子搏兎、という言葉を知ってるか?」
本郷はゆっくり立ち上がる。獅子は首肯した。
「獅子は兎を捕まえる時も手抜きや妥協をしない。どんな簡単なことでも全力で取り組んでいく、って意味でしょ? それが?」
「わからねぇのか」
本郷が眉間に皺を寄せる。
「妥協するお前は獅子じゃない」
一歩前に足を踏み出し間合いに入る。
「”子猫”だ」
本郷の渾身のアッパーカットが王の腹に突き刺さった。
巨躯が浮く。
「がっ……」
獅子の瞳が丸くなる。
「うおおおお!!!」
雄叫びと同時に振り抜ける。獅子の体が仰け反るが倒れなかった。
本郷は両足を揃えて飛び上がり、顔面目掛けて足を伸ばす。獅子の鼻柱に靴底がめり込む。
巨体はとうとう吹っ飛び、仰向けにどうと倒れた。
体勢を整え荒い呼吸を繰り返し相手を見下ろしていると、小さな拍手が上がった。
「すげぇ! 半端ないな、あんた。ちょっと侮ってたよ」
進藤は路上アーティストの演奏を褒めるような拍手を止める。
「まさか吹っ飛ばすなんて予想もしてなかった。な? ジャギィフェザー。お前もそう思うだろ?」
獅子は腕を使わず両足の力だけで起き上がる。
「なるほど。わかった。認識を改めよう」
獅子の眼光が矢のように飛んだ。声色が変わり威圧感が増す。
獅子の周囲が群青色に染まり蒸気のように立ち昇るそれは空間を歪めていった。
比喩ではない。オーラのようなものが、獅子から噴き出していた。
「あなたは、子猫じゃない」
本郷は敵の眼光を真正面から受け止めていた。油断などしていない。相手の挙動を瞬きもせず注視していた。
次の瞬間、巨大な拳を鼻っ柱に叩き込まれていた。
痛みよりも驚きで目を見開いた刹那、拳が振り抜かれる。
「兎だ。全力で狩るよ」
衝撃を逃すことができず吹き飛んだ本郷は、貫通扉を打ち破り、次の車両まで飛んでいき、斜面を転がるように何度も転がり、何度も体を打ち付けて、ようやく止まった。
『次は、江田────』




