彼女を取り巻く環境
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学校にいるときの香月結菜は、それはそれは美しい雲の上の人のような存在だった。
彼女は誰の目から見ても特別で、本来は生徒たちを平等に扱うべき教師も、知らず知らずのうちに結菜を特別扱いしてしまう。
お堅いことで知られる古文の女性教諭も、そのルールから逃れられない。
教壇の上からクラスを見回した彼女は、無意識の内に一人の少女に目を留める。
「では……、香月結菜さん、読んでみてください」
「はい」
その日も結菜は教師の指名を受け、音もなく静かに立ち上がった。
彼女はすぅと息を吸い込むと、透き通るような声をクラスに響かせ始める。
「こもよ みこもち ふくしもよ――」
彼女が喋り始めた言葉は現代に生きる高校生には馴染みの薄い言葉だった。
しかし彼女のクラスの男子生徒たちは、早くも頬をだらしなく歪ませながら結菜の声に聞き入っていく。
クラスメイトの彼らはほとんどの時間で結菜の姿を見ることが出来るが、そんな彼らでも結菜の声を聞ける機会は多くはない。
馴染みの薄い言葉を喋っていたとしても、その透き通るような声は彼らにとっては宝物だ。
香月結菜は最強のアイドル。彼女は授業の一コマでも、一瞬でそのステージに変えてしまうのだ。
「はい、そこまで」
女性教諭がパンパンと手を叩く頃には、教室中の生徒たちが結菜の朗読に心を奪われていた。
結菜が言葉を途切れさせると、あちらこちらから思わずといった感じに「ほう」というような感嘆の息が漏れ出る。
「結菜さんは本当に素敵な声で読んでくれますね。座ってください」
「ありがとうございます」
そして上品に頭を下げ、再び物音一つ立てず着席する結菜。
いつもと変わらない完璧な彼女の姿に、男子からはまたもため息のような声が漏れた。
「では授業を進めます。結菜さんが読んでくれた万葉集は現存する我が国最古の歌集として知られていますが、最近では令和の名前の出典元としても有名になりましたね。その内容を知ることは――」
彼女は生ける伝説とまで呼ばれた少女。
その影響力は、計り知れない。
香月結菜は絶対的な高嶺の花としても名高く、また十七歳とは思えない大人びた考え方と包容力を持つことでも知られている。
休み時間にもなるとたくさんの女子生徒たちが彼女の周りに集まり、男子はその光景に、そして中心にいる結菜に憧れを抱く。
結菜は学校では、女子生徒たちの聞き手に回ることがほとんどだ。
学校の象徴的存在として扱われている彼女は、あまり多くを語らない。
そして結菜の周りには、親衛隊とも言える彼女の友達がいる。
その友人たちがサポートしてくれるおかげもあり、結菜は凄まじい影響力を持っているのにも関わらず、いつも静かに穏やかに笑っていられるのだ。
とはいえ、彼女らも年頃の女の子たち。
結菜の周囲に集まったとしても、こぼれ出る話題から恋愛に関するものは外せなかった。
「あれ、サッカー部の佐々木くん、また彼女に注意されてるよ」
「最近ファンクラブの活動が熱心だったから、多分それが原因でしょ」
「佐々木は『結菜さんは別腹』っていつも言ってるし、彼女としては舵取り難しそうだ」
「いや、あれはじゃれ合ってるだけだって。叱られてる彼氏も叱ってる彼女も、なんだかんだで嬉しそうじゃん」
結菜は彼女らの中心にいるが、話題の中心にいつも据えられているわけではない。
彼女の周囲に集まる女子生徒たちは結菜の人柄に惹かれて集まってはいるが、結菜の身辺を守るという意味合いでも集まってきているのだ。
特に親衛隊とも言える結菜の友達には、その意識が強い。
結菜は数々の伝説を打ち立ててきており、その中には少女たちの人生を変えたと言っても過言ではないエピソードも含まれている。
親衛隊の彼女たちはそうした神に愛された少女の恩恵を直接受けた少女たちがほとんどであり、結菜を尊敬し恩を返したいと考えているのだ。
結菜自身は「重いよー」といつも冗談めかして伝えているのだが。
「でも、ファンクラブには格好のネタを提供しちゃったよなあ」
「それ。何度考えても悔しいわ。まさかあそこまでやる人が出てくるなんてね」
「まあそれくらいやりたくなるくらい、結菜が魅力的ってことでもあるんだろうけど」
そこで彼女たちは、先日結菜が他校のイケメンに待ち伏せされた話題に触れ始める。
ファンクラブの活動が熱を帯びた原因の話題だから仕方のないことかもしれないが、それはデリケートな話題だった。
だが話がネガティブな流れになりそうになった瞬間、初めて香月結菜は口を開く。
柔らかな微笑を湛えたまま、穏やかに話しかける。
「まあまあ。私は本当に被害だとは思っていないから。ほんのちょっと校門前で他校の人とお話しただけだよ」
結菜が喋ったことで、一気に様々な意見が彼女の周りから飛び出してきた。
結菜は大人だ。結菜は優しい。結菜は甘い。結菜は男と喋らないのに男のあしらい上手。結菜は不意のことでも、大勢の前でも動じない。などなど。
あっという間に話が膨れ上がり、そして同時に裏で別の話も広がっていく。
守れなくて悔しい。結菜が嫌がりそうだから割って入らなかった。イケメンを手引きしていた人物がいる。今度は呼び止められる前になんとかしないと。
元々女の子はおしゃべり好きではあるが、それでも結菜が一言喋っただけでこの反響だ。
象徴的存在というのは伊達ではない。
しかし、一見収拾がつかなくなったかに思えるこの状況だが、結菜には心強い味方が付いている。
すぐに彼女の親衛隊が気を利かせ、結菜の周囲の雰囲気が悪く、あるいは加熱しすぎないようにフォローし始めてくれる。
結菜は微笑んでいるだけだったが、事態はみるみる収まっていき、彼女の平穏はまたも守られる。
しかも同じ雰囲気にならないように、別の話題に変えてくれるおまけ付きだ。
「でもさー、佐々木くんたちの姿を見ているのも微笑ましいけど、私は最近別の二人が気になっているんだよね」
「あ、あの二人? 私も私も。何があったのかは知らないけど、最近ジワジワ来てる感じだよね」
「ねー。微笑ましいよねー」
そして新しく提示された話題は、タイムリーなことに結菜が気になっていた二人のことだった。
結菜は他の女子生徒たちが視線を向けたことで、彼に視線を向ける免罪符を手に入れる。
結菜はゆっくりと首を動かし、彼のことを視界に収める。
門倉伊織が美桜美代子に絡まれている光景を、結菜はしっかりと目に収めた。
「(伊織? 昨夜上手くやってみるって言ってたのに、全然そうは見えないんだけど、どういうことなのかな?)」
穏やかな微笑の下で苦笑しながら、結菜は幼馴染と友人がやり取りしている様子を眺める。
伊織は美代子に何かを必死に弁明しているようで、美代子は不満そうにそんな伊織に食って掛かっていっていた。
「ちょうど今もやってるんだ。相変わらずミミってば、不器用なアピールしてるんだから」
「毒舌止めて素直になればいいのに。でも、素直になれないけど一生懸命話しかけている姿は、健気っていうか可愛いよね」
「だよね。当の伊織くんは大変そうだけどね」
クスクスと笑う女子生徒を見て、他の女子生徒たちも伊織たちの様子を見る。
「ホントだ。あの二人あんなことになってたんだ。ていうか、ミミがあそこまで男に絡んでるの初めて見たわ」
「私もビックリ。ミミは毒舌だけど、相手が嫌がってたら適当なところで引くはずだと思ってた。でも今はムキになって伊織くんに突っかかって行ってるよね?」
「これはもしかして、もしかするかも?」
盛り上がる女子生徒たちの話を聞いて、結菜は改めて思う。
「(あーあ、騒ぎになっちゃった。伊織、あなたの知らないところで外堀が埋まってきてるよ。本当に大丈夫なの?)」
結菜は心の中で再び苦笑する。
彼女は友人に対しても心の中で呼びかける。
「(というか、ミミちゃんも気付こうよ。注目されてるよ。ミミちゃんは人の評判を気にしないほうだと思うけど、色恋沙汰で目立つのは大嫌いだよね?)」
結菜は一息入れると、ある言葉を思い浮かべる。
「(恋は盲目、ってことなのかなぁ?)」
結菜は表情に出ないように、改めて苦笑した。
しかし結菜は、ゆっくりとした動作ではあったが、そこであっさりと伊織と美代子から視線を外した。
もう彼らの姿を見たくなくなったからではない。
彼女が一人の男子生徒に視線を向け続けるのは、誤解を招いてしまうからだった。
結菜は幼馴染と友人の仲が噂されていても口を挟むことが出来ず、しかもそんな彼らを満足に見つめることも出来ない少女だ。
しかしそんな彼女からはそのような状況であるにもかかわらず、不安や不機嫌、後悔や不幸に思っている様子は感じられなかった。
彼女は思う。
「(伊織、頑張って。あなたなら、最後にはなんとかしてくれるって信じてる)」
俺が上手くやってみる、と言った伊織。
結菜は彼のやり方に全面的に納得していたわけではないが、彼がそう言った以上、彼の意見を立てる女性だった。
だから彼女は伊織を応援する。
彼を立て、誰よりも信じて応援する。
そこには彼女が先ほど自分で言った言葉が当てはまらないとは言い切れないかもしれない。
しかし結菜は、生まれてからずっと一緒だった幼馴染のことを信じていた。
教室で彼が一人ポツンといるのは、バネが最大限の力は発揮するために縮こまっているようなものだと、結菜は思っていた。
「(伊織は優しいから、私もミミちゃんも悲しませたくなんてないだろうしね。伊織はやる時はやる男の子だよね)」
頑張れ、伊織。
彼女はもう一度心の中で幼馴染のことを応援すると、さらりと彼らのことから意識を切り替え、再び学校の象徴的存在としての生活に戻っていくのだった。
そして――。
香月結菜の本質は、明るく前向きなところにある。
昼間の結菜は幼馴染のことを視界に入れることすら出来ない状況に置かれていたが、少しも不幸だとは考えていなかった。
彼女にとって、昼間の寂しさは夜の二人の時間のスパイス。
離れている時間があるからこそ一緒に居られる時間が一層幸せに感じられると、彼女は考えていたのだった。
結菜の周囲の女子生徒たちは、会話の最後に思い出したように付け加える。
「……あれ? でもマコはどこに行ったんだろ?」
「そういえばさっきから見ないね。今日も学校来てたと思うけど、どうしたんだろうね?」
◇
門倉伊織は美桜美代子からの無言の圧力に、スマホを見ながら冷や汗をかいていた。
彼は当てが外れていた。
消極的な態度で美代子と真琴から距離を置こうと思っていたのに、昨日までとは打って変わって積極的に話しかけられてしまう。
休み時間になるたびに話しかけられることなど、今までに一度もなかったことだった。
「むー……」
この休み時間に入ってからも、隣の席からはずっと不満そうな視線が向けられてきていた。
伊織はその視線がグサグサと自分の身に突き刺さるのを感じながら、美代子に話しかけられるのも時間の問題ではないかとヒヤヒヤしていたのだ。
しかし何のことはない。今の状況は彼が招いたことだった。
伊織が逃げようとするから美代子は気になって追いかけたくなる。休み時間になるたびに話しかけられているのは、彼の自業自得だった。
美代子は普段のようにスマホを眺める伊織を見て、小さくつぶやく。
「怪しい……」
美桜美代子は毒舌家として知られているが、はみ出し者の嫌われ者というわけではない。
それは彼女の可愛らしい見た目のおかげではなく、美代子が相手の気持ちを察することが出来る生徒だからだ。
クラスメイトが言っていたように、彼女は毒舌を振るっても相手が嫌がっていたらそれ以上の追撃をしない。
嫌われないのは見極めが出来るからで、それはつまり観察眼が優れていることに他ならない。
伊織が相手をしているのはただの女子生徒ではなかった。
キッカケは伊織の服装という武器かもしれないが、それでも彼女はスマホを見ているだけの少年から、その目立たない魅力を見出してきた女の子なのだ。
「なんかおかしいんだよね……」
美代子の違和感は、朝に挨拶をしたときから。
おはようという、ごく普通の挨拶の応酬。
しかしその時の伊織の頭の中には、昨夜の結菜との会話がしっかりと残っていた。
彼は上手く立ち回ろうと気を引き締め、その上で普段通りを心がけておはようと答えていたのだ。
そして恋に目覚めつつある女の子は、そんな伊織の心情の変化を敏感に感じ取っていたのである。
「最初は昨日馴れ馴れしくしすぎて嫌われちゃったのかとも思ったけど……」
伊織に違和感を感じ、美代子は持ち前の乙女な一面が顔を出していた。
すぐさま恐る恐るではあるが、探りを入れ始める美代子。
しかし伊織に美代子を嫌っている様子はなく、逆に気遣う素振りも見せた。
「嫌われてはいないみたい。でも、なんか避けられてる気がする……」
やがて煮え切らない伊織の態度に、美代子はいつもの毒舌家な調子を取り戻していく。
逃げる伊織に追う美代子。
最初は小さかった美代子の違和感も、今ではすっかり不信感へと育ち切っていたのだった。
そこで美代子は、結局その休み時間も伊織に声をかけることにした。
女子生徒の一人が言っていたが、彼女はたしかにムキになっていたのだ。
しかし美代子が口を開く寸前。
今まで休み時間のたびに席を外していた北条真琴が、暗い顔付きで美代子の前に戻ってきた。
驚く美代子に、真琴は声をひそめて言う。
「ミミ、ちょっと大変なことになってる」
その言葉は、伊織の耳にも届いていた。
彼はすぐに気を利かせ、イヤホンを取り出す。
伊織は美代子が自分以外のことに興味を持ってくれるのは嬉しかったが、他人の不幸を喜ぶ趣味も、また深刻そうな話に聞き耳を立てる趣味もない。
「みょこ、話を聞いてほしいの」
次に美代子に声をかけたのは、聞かないあだ名で彼女のことを呼ぶ、別のクラスの女子生徒だった。
その女子生徒も男子の目を惹きそうな容姿をしていたが、今は見る影もなく憔悴していた。
「……潤、久しぶり。でもずいぶん疲れてるね。みょこだなんて呼ばないで……なんて言えそうな雰囲気じゃないね」
「ああ、今はミミのほうが主流なんだっけ? でも、今はそれより真面目な話があるの」
「……聞くわ。場所を変える?」
女子生徒は美代子の言葉を受け、すぐに不安そうに彼女の隣の席を見る。
偶然今は周囲に生徒の姿がなかったが、唯一の例外としてスマホを眺めている少年が美代子の隣の席に座っていた。
返事に困る女子生徒に、そこで真琴が明るめの声で話しかける。
「彼なら大丈夫。口は堅いし、ミミの友達なんだよ」
伊織はすでにイヤホンをしており、彼女らの話は聞こえていなかった。
真琴の言葉に驚いたのは美代子だけであり、そしてその女子生徒は真琴の言葉と伊織の耳にイヤホンがあるのを見て、大丈夫だと判断したようだった。
「それでも場所を変えたいなら、すぐに移動するけど」
真琴が続けた言葉に、女子生徒な静かに首を振る。
「ううん、それならここで話そう。今は少しでも時間が惜しいし」
そうして彼女らは椅子を一つ借りてきて腰を下ろし、声を落として話し始める。
切羽詰まった表情で女子生徒が切り出した言葉は、美代子にとって意外なものだった。
「ミミは結菜さんの友達だよね? だからお願い、結菜さんに話をつけてほしいことがあるの」
美代子を尋ねてきたのは彼女と真琴の古い友人。
名を前田潤という。
潤は美少女に分類される容姿を活かし、友人たちとバンドを組んでそのボーカル兼リーダーを務めていた。
◇
美代子は潤の話を聞き終えると、腕組みしながら彼女に答えた。
「結菜を女子高生バンドに一回限りのメンバーとして誘いたい、ねえ……。事情はわかったけど、あたしは気乗りしないな」
潤が美代子に持ち込んできた話を要約すると、バンドのライブが間近に迫っているのに怪我をしたメンバーが出てしまい、代わりに結菜にドラム演者として参加してほしいというものだった。
渋る美代子に、すぐに潤が声を上げる。
「私だって結菜さんのことはわかってるつもり。だけど今回のライブはどうしても成功させたいの」
「たしかにこの話を成功させることが出来るのは、結菜をおいて他にいない気がするけど……」
美代子は改めて眉をひそめると、言った。
「その女子高生バンドっていうのが最大の売りだったけど、今回は最大の弱点になってるわけか」
「そうなの。条件に合う代わりのメンバーもすぐには見つかりそうにもないし、打ち込み音源ももっての外だよ」
「まあねえ。女子高生だと聞いてたけど、本番は大人とか機械が演奏してましたーだと、そりゃお客さんは不満に思っても仕方ない」
ため息を吐いた美代子に、潤は再び訴えかける。
「だから結菜さんをメンバーに誘いたいの。あの人は超人だしリズム感も抜群じゃない。ピアノも普通に弾いてるし、ドラムだっていけるかもしれない」
「いけるかいけないかで言えば、私だって結菜なら出来ると思う」
「だったら――!」
「でも、知ってるよね? あの子有名になりすぎて、こういう話はもう受けてないんだよ。潤もその辺の事情がわかってるから、直接行かずにあたしのところに来たんじゃないの?」
「…………」
黙り込んだ潤に、美代子は静かに告げる。
「たぶん、結菜は今でも毎日アイドルを頑張ってるんだと思うな。だからもうそっとしておいてあげよう。何でもかんでもお願いしてたら、いくら結菜でもパンクしちゃうかもしれない」
美代子の言葉は潤の胸に響いたようだったが、しかし潤はすぐに奥歯を噛みしめると、最後のお願いというように美代子に言った。
「でも、今回は本当にやっと掴んだ夢の舞台なの。私が詞を書いてみんなで曲つけて練習して、色んな人にもお世話になって、とにかく本当に思い入れのある舞台なの」
美代子は友人が必死になる気持ちも当然理解できたが、しかし彼女は厳しい言葉を告げる。
「ダメ。他の人だって結菜の助けがほしくてほしくて、それでも一生懸命我慢して諦めてるかもしれないんだから。潤だけ特別扱いするわけにはいかないよ」
「……話を通してくれるだけでいいの。結菜さんが断ったら、私だってきっぱり運命だと受け入れられるし」
「潤、ちょっと嫌いになるよ?」
「えっ?」
「潤は話さえつければ、結菜は優しいから断らないだろうっていう下心があるね?」
「…………」
泣きそうな顔で俯く友人に、美代子は心を痛めた。
彼女としても潤を助けてあげたかったが、潤が結菜の名前を出して泣きついてきたのには訳があった。
ライブの日時はもう目前に迫ってきていた。
時間があれば他に手はあったかもしれないが、今はもう神に愛された少女に頼むしか解決方法はないように思われた。
潤は俯いたまま、顔を上げなくなる。
そこで、ずっと黙っていた真琴が、ゆっくりと潤の肩に手を添えた。
「やっぱりダメだったねー。でもこれで吹っ切れるよね。それに、泣かない約束だったよね?」
真琴の言葉を聞いた潤は、思わず一筋の涙を流した。
でもすぐに彼女は涙を拭い、笑う。
誰が見ても無理をしているよう笑うと、言った。
「あー、青春って面白いね。まさかこんなことになるとはね。あ、そうだ。これを機に、いっそロックにでも転向してみようかな?」
潤はそう明るく言って、そして直後にまた俯き、再び涙を堪えた。
美桜美代子は毒舌家として有名だが、嫌われ者ではない。
それは彼女の可愛らしい容姿のおかげではなく、理由はその性格にある。
「あーもう、わかった、わかったよ。結菜に話してみるよ」
潤と真琴は驚いて顔を上げた。
その際、潤の目からは再び涙がこぼれたが、彼女はもうそれを拭おうともしなかった。
「……いい、の?」
潤はようやく、それだけを口にした。
潤も真琴も美代子の友人だ。
美代子が一時の同情から結菜に迷惑をかけるとは思えず、だからこそ彼女が言った言葉が信じられなかった。
そこで美代子は首を振りながら、二人に告げる。
「早とちりはしないように。あたしは今でも結菜がメンバーに入るのは反対」
「それって……?」
「でも、結菜の知恵を借りるくらいならいいと思う。可能性は薄いけど、あの子ならいい解決方法を見つけてくれるかもしれない」
「……! ありがとう、みょこ! 愛してる!」
「みょこは止めなさいって」
飛びかかって抱きついてこようとする潤を、美代子は苦笑しながら押し返した。
そして美代子は表情を改め、真面目な口調で言葉を付け足す。
「言っとくけど、あたしは結菜がメンバーに入るのは最後まで反対するよ?」
「うん、それでもいい。本当にありがとう。それで断られたとしても、今度は本当に諦めが付くよ!」
潤が吹っ切れたようにそう言ったのを見て、美代子は小さく笑いながら息を吐いた。
そしてその次に、これから迷惑をかけるであろう結菜のことを考え、ごめん、と心の中で謝った。
そこで二人の様子を眺めていた真琴が、嬉しそうに口を挟む。
「うん、すごいことになってきたね。じゃあ早速動き始めようか? 私は大きな問題にならないように結菜の友達とかに根回し始めておくよ」
美代子はまだ結菜のことを思い浮かべていたが、その言葉で首を振った。
賽は投げられた。
美代子は頭の中を切り替えて、万事うまく行きますように、と祈った。
そして、美代子も行動を開始する。
「なら、あたしも頃合いを見計らって結菜にメールしとくか。それまでにこっちはこっちで話を詰めておこう。潤、時間ないんだよね?」
「あ、う、うん!」
時間がないという言葉に大きく頷いた潤は、すぐに今抱えている問題を話し始めた。
「これから始めるのはもちろん仮定の話だけど、結菜さんがドラムをやってくれるなら、他に目立って足りないのは荷物運搬等の裏方の人なの」
潤は真っ先に結菜をメンバーに入れた場合の話を始めたが、美代子はそれを止めなかった。
結菜に話を持っていく以上こちらの準備は万全にしておくべきだと思ったし、そしていくら自分が反対しても結菜なら受けるのではないかとも考えていた。
もっとも、結菜がドラムを叩けるかどうかは美代子も知らないし、さらには残された時間だって少ない。
いくら神に愛された少女と呼ばれる結菜でも、断る可能性は十分あった。
その場合でも、潤はある程度気持ちが切り替えられるだろうし、結菜には自分が無理な話を持ちかけて悪かったと強く謝罪し続けようと美代子は思っていた。
彼女は潤の話を思い出しながら、会話に応じていく。
「ドラムの子がお兄さんと一緒に軽のトラック乗ってて、それで事故しちゃったからこんな話になってるんだっけ?」
「うん。事故自体は大したことなかったけど、二人とも指を痛めちゃったの。だからドラマーと重い荷物を運べるヘルプがほしいの」
「トラックが運転できないとダメ?」
「いや、そっちはその兄貴がそのままやってくれるみたい。運転には支障ないって言ってるよ」
「なるほど」
美代子は頷くと、スマホを操る真琴の顔を見た。
「あたしとマコで持ってもいいけど、ハッキリ言って機材みたいな重い物は自信がない。他の人も誘って人海戦術かな」
「女子高生バンドってことだけど、裏方は出来れば男の人がいいの。そもそも最初はドラムの兄貴だったしね」
「女はダメなんだ?」
「人数の問題。力持ちの女の人ならいいけど、私たちみたいな力のない子が力を合わせてゆっくり運んでいくのは色々と困る」
そこで美代子は真剣な顔付きで思案し、やがて首を振った。
「口うるさいようだけど、やっぱり男はダメ。荷物持ちで結菜に近付かないにしても、やっぱり結菜の周囲は女で固めたほうがいいと思う」
「そこまで徹底しなくても……。結菜さんって完全に男の人をシャットアウトしてるわけじゃないでしょ? 用があったら話したりもするんでしょ?」
「逆の問題。もちろん結菜のイメージもあるけど、男があの子に近付いてはっちゃけ始めたらどうするのよ?」
「……あー」
潤は困った表情を浮かべると、美代子に言う。
「簡単に見つかると思って油断してたけど、これって地味に難しい問題?」
「慎重になったほうがいい問題ではあると思う。でもなんか解決方法あるんじゃない? 時間がある誰かのお父さんを見つけて手伝ってもらうとか、中学では運動部だったけど今は帰宅部の女友達を探すとか」
「みょこ冴えてる! そういうのは、マコに聞いてみよう!」
潤が真琴に話しかけるのをを見て、美代子も口に手を当てて心当たりがいないかを考え始める。
「…………」
そうしてなんとなく動かし始めた彼女の視線。
その視線がピタリと彼の姿を捉えたのは、偶然か必然か。
その少年は今もイヤホンを耳に付け、スマホの画面を見続けていた。
まるで路傍の石ころのようなその姿は、隣を気遣う紳士的な行動のようにも見える。
しかし美代子はムッとした。
そんな門倉伊織の姿を見て、カチンと来ていた。
私たちがこれだけ悩んで苦労して迷っているのに、この男は隣で我関せずなのか、と。
それは八つ当たりと言えば八つ当たりだ。
しかし人間は理性だけで行動できるわけでもなく、ましてや恋心が混ざればもっと複雑だ。
次に美代子が口を開いた時には、彼女の口元は笑っていた。
「……いい人見つけたわ」
「「えっ?」」
「男の人だけど、もしも結菜が関わることになっても大丈夫そうな人」
美桜美代子は不敵に笑う。
その視線の先には、今も事態に気付いていない伊織の姿があった。
「あたしが絶対結菜には近付けさせないから」




