友人の変調
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伊織たちの毎日に、かけがえのない平凡な日常が戻りつつあった。
泉燐音を美代子たちに紹介したことをきっかけに始まった、今回の騒動。
焦点であったオカルト部の部室は無事に生徒会から返してもらい、彼女たちは予てから約束していた昼食会も済ませた。
その時点で、美代子と真琴の二人が騒動に区切りがついたものだと考えるのも無理はなく。
彼女らの興味は早くも、伊織と結菜の関係を詳しく調べ上げることに移りつつあるようだった。
だが、そんな折。
一通のメッセージが燐音から伊織へと届く。
『我が盟友よ。今日の放課後、おまえの家に遊びに行ってもいいか?』
伊織はそれを読んだ瞬間、直感的に新たなる波乱の幕開けを予想した。
オカルト部の騒動は、まだ終わってはいなかった。
最後に特別な、文字通り終焉をもたらす出来事が残されていた。
燐音は伊織と結菜の幼馴染関係を、何年も前から知っている女の子だ。
彼女は二人の家に遊びに行ったこともあり、伊織と結菜の母親とも面識があった。
その点から考えれば、燐音が伊織の家に遊びに行きたいと言い出すことに不可解なところはない。
けれども、燐音はどちらかと言うと伊織たちを家に呼びつけるのが好きなタイプだ。
そんな彼女だからこそ、伊織は遊びに行きたいというメッセージに疑問を持った。
部の騒動が収束し始めたばかりの時期だったこともあり、「これは何かあるな」と感じたのだった。
「おまえが俺の家に来るのは久しぶりだな。二年になってまだ一度も来てなかったよな?」
「うん……」
「俺の家にはゲームもマンガもほとんどないし、結菜との愛の巣だから近寄りたくない、なんて言ってたもんな、おまえ」
「うん……」
そして伊織の予想は、本人の苦笑が止まらなくなるほど当たっていた。
学校が終わり、伊織の自宅。
燐音はここに来るまで終始俯いたまま、ほとんど言葉を発していなかった。
その様は、全身で何かがあるとアピールし続けているようなものだ。
伊織は眉をひそめてため息を吐きながら、どうやって話を聞き出そうかと考えていた。
「ま、とりあえず何か飲み物入れるよ。紅茶でいいか?」
「うん……」
「わかった。じゃあすぐに入れるから、適当に座って待っててくれ」
「うん……」
ひたすら同じ言葉を繰り返す燐音に、伊織は改めて小さく笑った。
そうして彼は背を向け、キッチンへと向かい始める。
ところが、次の瞬間。
伊織は視界の端に映った燐音の行動に、慌てて振り返って口を開いた。
「お、おい燐音、何してるんだよ」
泉燐音はマイペースで、そして感情がすぐに表に出る女の子だ。
子どもっぽいとも言われ、人とは協調性を欠く行動を取ってしまうこともある。
そんな彼女が、心に何らかの問題を抱えて元気を失った状態で、一人座って待つように言われたら。
「ボクはここでいい……」
燐音はあろうことかその場に、リビングの床に腰を下ろし始めていた。
そのまま彼女は伊織の制止も聞かず床に座ると、あっという間に両膝を立ててそれを抱きしめた。
「……何やってんだよ……」
その格好は、不安や寂しさを感じている女の子の仕草そのものだった。
今の燐音に結菜の部屋からぬいぐるみを持ってくると、しっかりと胸に抱いて離さなくなるかもしれないと伊織は思った。
彼はゆっくりと、燐音を刺激しないように尋ねる。
「今は、その格好が安心するのか?」
「うん……」
「なら、すぐそばにソファがあるだろ? そこに移ったらどうだ?」
「もう動きたくない」
いじけたようにそう言った燐音は、とうとう自分の膝の上に顎まで乗せて背中を丸めてしまった。
伊織はそんな彼女の様子を見て、これはよほど深刻な悩みがあるのではないかと考え始める。
しかし、彼は直後に一人首を振った。
本格的に燐音から話を聞き始める前に、まずは彼女の現在の格好を変えるべきだと思ったのだ。
「んじゃ、これでも使え。おまえも女の子なんだし、おなかでも冷やしたら大変だろ?」
その言葉とともに、伊織はクッションを差し出す。
だが、燐音は軽く首を振ってそれを受け取らなかった。
挙げ句、彼女は小さな声で言う。
「ほっといて」
伊織は笑った。
他人の家の床にうずくまりながら放っておけと言い出した燐音に、彼はいわゆる構ってちゃんのような感想を持ったのだ。
そっちがその気なら、こっちだって方法はある。
彼は笑顔でクッションを戻すと、無言で燐音へと歩み寄った。
そして不思議そうな表情で見上げる燐音の隣に膝をつくと、その小さな体の下に腕を滑り込ませ、彼は言った。
「俺の首に手を回せよ?」
「えっ?」
「行くぞ」
「あっ……」
次の瞬間、伊織は一気に燐音の体を抱き上げていた。
彼は燐音が言われた通り首に手を回してくれていることに胸を撫で下ろしながら、明るい声で喋り始める。
「軽っ。おまえ相変わらず軽いのな。床から持ち上げるのは大変かと思ったけど、予想以上に軽くて驚いたわ」
その言葉に返事はなかった。
燐音は不意の伊織の行動に思考を止められてしまったのか、ただ黙って彼に横抱き――あるいはお姫様抱っこをされたままになっていた。
「…………」
ゆっくりと、燐音の顔が赤くなっていく。
伊織に口元を拭かれても頭を撫でられても平気にしている彼女が、彼に抱き上げられることで頬を染める。
しかし、彼女のその変化を伊織が目にすることはなかった。
彼は普段の燐音の反応から、燐音が顔を赤くしているなどと考えもしなかった。
また、燐音だから大丈夫だろうと安易に女の子を抱き上げてしまい、その感触や体温や幼馴染とは違う匂いに、彼自身も思考を鈍らせていたからだった。
二人はそれ以降何も喋ることなく、お互い緊張を隠したままソファへと移動した。
伊織は優しく燐音の体を降ろし、彼女は腰がソファに着くや否や、すぐにそっぽを向いて赤い顔を隠す。
その後沈黙が破られたのは、伊織がやり過ぎだったかなと反省しながら頬を掻き始めた時だった。
「ぼ、ボクが結菜より軽いのは当然だろ。ボクの方がずっとずっと小さくて愛らしいんだからな」
声の大きさこそ控えめであれ、それは彼女らしい内容の発言だった。
伊織は燐音に元気が出てきたことに目を輝かせ、自分が失敗したわけではなかったと喜んだ。
彼はあっさりと燐音の身体に手痛い反撃を食らったことを忘れ、再び彼女と肩が触れ合うほどの距離に腰を下ろす。
「なんでそこで結菜の名前が出てくるんだよ。比較対象は昔のおまえに決まってるだろ。今年に入ってからも、前が見えないからって俺に肩車させたりしてるだろ」
「くっ……! 前世からの付き合いがあるとはいえ、ボクはどうしてこうも易々と伊織に体を許してしまっているのか……!」
「変な言い方するなよ……。美代子さんたちに誤解されるだろ……」
喜びの表情を浮かべていた伊織は、一瞬でげんなりとして肩を落とした。
彼はここ最近の美代子が自分を見る目を思い出し、燐音にも結菜にも余計なことを言わないようにもっと釘を差すべきかと考える。
が、彼はそこでハッとなって自分の心を戒めた。
元気が出てきたとはいえ、今日の燐音の態度はおかしい。
伊織は自分や他の女の子のことよりも、今は燐音のことを考えるべきだと思った。
「(あれ……? でも……)」
しかしそこで、伊織はふと気付く。
「(今、なんだか雰囲気悪くないっぽいし、燐音の心配事を聞き出せる流れが来てるんじゃないか?)」
彼のその考えは、普段結菜たちから女心が読めてないと怒られている伊織にしては、かなり鋭い読みだった。
実際に燐音は意気地になって膝を抱えていた時より、ずいぶんと伊織に心を開いていた。
強い力で強引に扱われたり、優しく丁寧に扱ってもらったり。そして気を許している者同士でしかありえない距離に腰を下ろされたり。
燐音は先ほどからずっと、伊織の行動に胸をドキドキさせっぱなしだった。
「(燐音だって、わざわざ俺にメッセージを送ってきたりして喋りたがってるはずなんだ。ここはこちらから聞きに行くべきだろ)」
伊織はチラリと横目で燐音のことを窺うと、一度呼吸を整えてから喋り出す。
「でも、おまえが元気出してくれてよかったよ。さっきの床に座り込んでたのは、自分でも異常だったと思うだろ?」
「……ふん。ボクの家も伊織の家も、いつも綺麗好きな掃除人がいるって知ってるからな。だからボクはどこにだって座るんだよ」
「それでも俺は、おまえが床に一人うずくまってる姿なんて見たくない。泉燐音は生意気で付き合いにくい女の子だけど、やっぱり元気にしてないと物足りないからな」
「…………」
彼の発言で、燐音は憎まれ口すら返さなくなった。
けれども、彼女は恥ずかしさに耐えきれなくなったように身震いを行ったので、伊織はここだと思いズバリ本題へと切り込んだ。
「けどおまえ、まだ本調子じゃないよな? 心に何か抱えてるよな?」
不意に自身の内心を言い当てられた燐音は、息を飲んで体を強ばらせた。
伊織にもその様子がわかり、しかし彼は祈るような気持ちでもう一歩彼女へと踏み込む。
「それ、俺に話してくれよ。俺は元気なおまえが見たいんだ。だから話すことでおまえが楽になってくれたら嬉しいし、悩み事なら手助けするぞ?」
彼は出来るだけ気持ちをこめてそう言い、友人の返事を待った。
泉燐音は伊織に様々なお膳立てをされ、最後には隣で彼女が男らしいと感じる台詞まで言われてしまった。
熱でのぼせ上がっていくように彼女の頭は真っ白になっていき、やがて気持ちがあふれ出て彼女を突き動かした。
「い、伊織、ボクを助けてくれよ」
門倉伊織は突如自分の体に飛びかかってきた彼女に、目を見開いて驚いた。
燐音は彼の胸板に握りこぶしを置いて、堰を切ったように喋り始める。
「ボクはもう、頭の中がグチャグチャになってるんだ。やりたい目標はあるけど、それが正しいのかもわからないし、一人じゃ絶対できないことなんだよ。助けてよ」
発言の途中で燐音は伊織の服をつかみ、ガクガクと揺するように動かした。
すでに彼女のその瞳が潤んでいる気がして、伊織は慌てて答える。
「お、落ち着け燐音。俺はおまえを助けると言ってるだろ。出来るかぎりのことはするから、だから落ち着いて話してくれよ」
「ぜ、絶対だからな? 嘘ついたら伊織だって一生許さないからな?」
「ああ、嘘じゃない。だいたい、こういう話で俺が嘘をついたことなんて一度でもあったか?」
「……ない、けど……。でも、ボクは不安なんだ。伊織に見捨てられたら、ボクにはもう後がなくなるんだ」
燐音の小さな体を受け止めていた伊織は、そこで密かに顔をしかめた。
友人関係になったばかりの美代子たちに気後れするのは理解できるが、自分以上に仲がいいと思われる結菜のことが頼りにならないように言っているのは何故だろう。
彼は頭の中に疑問符を残したまま、しかし直後に首を振る。
せっかく話し始めてくれた燐音の気持ち。
今はその流れを切って彼女を追求するより、燐音を落ち着かせて続きを話してもらうことが先決だと考えたのだった。
伊織は目の前の彼女の頭に手を伸ばすと、ゆっくりと撫でながら喋り始めた。
「大丈夫だって。俺たちは前世からの盟友同士なんだろ? それに、今までだってこんな場面でおまえを裏切ったことは一度もない」
「…………」
「ほらな? だから今回も信用して、何もかも話してくれよ。最初は――そうだな、やりたい目標から聞かせてくれよ。おまえの目標なら、俺だって興味あるからさ」
「…………」
その言葉を聞いた燐音は、しばらく視線をあちこちに彷徨わせ始める。
伊織は辛抱強く微笑みながら待ち続け、やがて、とうとう彼女が口を開く瞬間を見た。
伊織のことを上目遣いに燐音は見上げ、言う。
「……聞いても、怒らない?」
彼は即答した。
「それはわからない。でももし怒ったとしても、おまえの味方は絶対に止めないよ」
彼女の頭を撫でる手を止め、伊織はまっすぐに自分の気持ちを正直に言った。
そして燐音に疑われないように、瞬きも止めてじっと燐音の目を見つめる。
「…………」
けれども、その発言を信じてもらおうとする伊織の努力は意味がなかった。
彼の発言自体が、燐音の中の地雷をすでに踏み抜いていた。
燐音は伊織からあっという間に視線を外し、独り言のようにつぶやいた。
「それじゃ、結菜と同じなんだ……」
「えっ?」
伊織の思考が停止する。
同時に彼の体からも力が抜け、燐音はその瞬間に「伊織のバカ!」と叫びながら彼の胸を突き飛ばした。
「え……? り、燐音……?」
混乱する伊織の目が、ソファから立ち上がり走り去る燐音を捉えた。
彼は茫然としながら、その小さな後ろ姿を見送る。
だが、しかし。
その姿がリビングから消えた瞬間、彼の体は無意識の内に反応を起こしていた。
「ま、待てよ燐音!」
考えるより先に言葉が出て。
気が付けば自分が駆け出していることを認識し。
伊織は全速力で燐音を追った。
小さな歩幅の彼女より圧倒的に早く、リビングを走り抜け廊下の先を見る。
「ッ!?」
伊織がリビングから顔を出した時、玄関の近くに迫る燐音が後ろを振り返った。
彼女は伊織が追ってきていることを確認すると、焦った様子で速度を上げ、玄関へと座り込んだ。
「待てって!」
燐音の行動に子どもっぽいところが多く見られることが、彼には大きな追い風となった。
立ったまま靴を履くことが得意ではない燐音に、伊織は一気に距離を詰める。
ところが、追い詰められた燐音は短絡的な行動に出た。
中途半端に履いた靴のまま彼から逃げ出そうと立ち上がり、そして案の定と言うべきか、一歩目を踏み出そうとした瞬間に足を縺れさせた。
「あっ……」
悲鳴と呼ぶには危機感の足りない声を出し、泉燐音は玄関の床へと倒れ込んでいく。
彼女も運動神経は得意ではないグループに属す。
受け身を取るための行動は、圧倒的に遅れてしまい――。
その視界が床で埋め尽くされる直前に、力強い腕に抱きしめられていた。
◇
門倉の家の玄関で、二人分の荒い呼吸音が流れていた。
彼女の体をしっかりと後ろから抱きとめる伊織と、激しい運動や羞恥などの様々な要因から顔を赤くする燐音。
彼らはお互いの体を密着させたまま、頭を真っ白にして息を整え続ける。
沈黙を破ったのは、伊織のほうからだった。
「あー、焦った。走った距離は大したことないのに、まだ全然酸素が足りてないな」
口で呼吸を続けながら、彼はそう言った。
そしてその発言で燐音は我に返り、慌てて彼の腕の中で暴れ始めた。
「は、離せ! はーなーせー!」
「嫌だよ。また追いかけるの面倒だし」
「ぼ、ボクはレディだぞ! 伊織も男なら、最低限の配慮くらい弁えたらどうだ!」
「あーあ、ソックスのまま下に降りちゃったよ。……って、そうか。ソックスで全力疾走したから余計に疲れてるのか」
「こら、ボクを無視するな! ていうか、いつまでどこに触ってる気だ! は、離せ!」
燐音は精一杯体を捻らせたり振ったりして暴れるが、彼女のお腹に回された伊織の腕はびくともしなかった。
しまいにはその細い腕でポカポカと伊織を叩き始め、しかし間もなく体力が尽きたのか、彼女はだらしなく肩を落とした。
「はぁ、はぁ、わ、わかった。ボクの負けでいい。もう逃げないから離してくれ」
「何度も同じことを言わすなって。嫌だよ、また追いかけるのが面倒なんだよ」
「だから! 逃げないって言ってるだろう!」
「悪いけど、こんな時のおまえは一切信用してない。ちょっとでも体力が戻ったら、あっさり約束を破って逃げ出すからな」
「うぐぐぐぐ……」
彼の言い分に思い当たることがあるのか、燐音は悔しそうな声を出す。
そして言葉で言いくるめられたことに腹を立てたのか、彼女は残された力を振り絞って伊織に反撃を試み始めた。
「く、この! 伊織のくせに!」
手を振り回し、足を上げ下げし、燐音は全身を使って暴れまわる。
伊織は盛大にため息を吐き、ひとまずソックスを脱いで家の中に戻ろうかと考えた。
しかしその時、燐音の頭に閃きが走る。
暴れる際に見上げた瞬間、伊織の迷惑してますよと言いたげな表情が目に入ったのだ。
こいつのその生意気な顔に、頭突きを食らわせてやろう。
彼女はそう考え、両足で床を蹴って飛び上がる。
「っと……!」
いくら相手が力が弱く小さな体の女の子とはいえ、突然の極端な体重移動には伊織も耐えられなかった。
彼は頭突きこそ食らわなかったが、燐音を抱いたまま後ろにバランスを崩してしまった。
「(痛ッ……!)」
バタンと大きな音がして、二人は玄関の上がり口に倒れ込む。
だが顔をしかめたのは伊織だけで、燐音は特に痛みも感じず、逆に得意げな声を上げた。
「ハッハッハ! 少し予定とは違ったが、どうだ、ボクの力思い知ったか!」
顔をしかめていた伊織は燐音の発言を聞き、無言で笑った。
「ああ、やられたよ。でも倒れたことで安定感が増したし、今度こそおまえを逃さないからな」
「く、これが人の器に縛られるということか……! 体の大きさが勝負に直結するとは……!」
その場面には彼の魅力が集約されていたが、燐音がそれに気付くことはなかった。
彼女が感づくのは、オカルト部の騒動が終わる直前。もう少し先の話だった。
その時の燐音は、再び体力が尽きてしまったのか彼に体を預けるようにして脱力し、ぼんやりと天井を見つめ始める。
伊織も体に残る痛みと衝撃から回復し、彼女と同じように力を抜いて体と頭を休ませていった。
二人は体をくっつけて寝転がったまま、しばしの間、何を考えるでもなく同じ時間を共有する。
次に沈黙を破ったのは、燐音のほうからだった。
「……なあ伊織、ボクはどうやったら離してもらえるんだ?」
「ん?」
彼は意表を突かれたような声を上げ、その後現状を思い出すと彼女に告げた。
「そりゃ、俺の質問にちゃんと答えてくれたらだな」
「……俺の質問って?」
「そうだな……、結菜と俺が同じになるとどうして都合が悪いのかも気になるけど、やっぱり最初に答えてもらいたいのは、おまえのやりたい目標だな」
「あう……」
さすがの燐音も話の流れを理解していたのか、観念したように可愛らしい声を上げた。
その声を聞いた伊織は改めて笑い、ようやく話の本題に入れそうだと感じた。
燐音は伊織の体の上でもじもじと動き始め、やがてか細い声で彼に言う。
「い、伊織、なんか言わされてるみたいで恥ずかしい……」
「みたい、じゃなくて言わされてるんだよ。いいからもったいぶらずに、さっさと言え」
「あうう……」
長い長い遠回りをしたと、伊織は思った。
しかし、とうとうそれが終着点へと向かう。
燐音を抱いている伊織には、彼女が体に力を込めて度胸を決めていくのがわかり――。
カチャリ。
その直前、金属質の音が響き渡る。
二人は凍りついた。
彼らがいる場所は玄関の上がり口。
音はすなわち、玄関の鍵が開けられた音に違いなく。
「い、伊織……!」
ヒソヒソ声を出す燐音の前で、ゆっくりとドアのノブが回り始める。
彼も彼女も、この時間に帰ってくる人物のことをとても良く知っていた。
燐音はあろうことか、恐怖から伊織の体にしがみつく。
「ただいまー」
香月結菜が玄関の扉を開けたのは、まさにそんな頃合いのことだった。




