グルーミング
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9/6 誤字修正を行いました。ご指摘ありがとうございました。
耳掃除をする際に、結菜がいつも以上に太ももを露出させて登場したその日。
始まりこそスムーズとは言えなかったその彼らの耳掃除だが、そこは長い付き合いのある伊織と結菜。
関係修復はお手の物で、いざ始めてみると二人はあっという間に普段の姿に戻っていく。
「よし結菜、こっちは終わりだ。反対の耳を見せてくれ」
「えー? いつもより短くない? もっとやってよー」
「元々綺麗だったし、それに、耳掃除のやり過ぎは却って体に悪いって言われてるだろ?」
「それも当然知ってるけど……。でも、そこを敢えてお願い! もうちょっとだけ!」
「ダメ」
「ケチ!!!」
そして普段の彼らにとって、言い争いは特段珍しいことではない。
近年は踏み込まない領域も増えてきたとはいえ、それでも伊織と結菜の間柄は今でも世界で一番気の置けない者同士だ。
二人は遠慮なく本音で会話を行い、ゆえに衝突が起こることもある。
「だいたい、私を寝かしつける予定じゃなかったの?」
「掃除が片側残った状態で眠くさせても、心残りになって気が休まらないかなって思ったんだが」
「予想外にしっかりとした気遣いが返ってきちゃった。困ったな。――でも伊織なら、残りはまた明日にでも掃除してくれるよね?」
「いつもならそうだけど、今回は嫌だ」
「どうして!?」
「おまえ、絶対また下を脱いで来るし」
「えー? そんなことは……」
「昨日俺に見てもらってなかったから、とか言い出すよな。おまえなら」
「…………」
多くの場合、その衝突は美貌と才能を兼ね備えた彼女が彼を言い負かすこととなる。
だが、その時は違ったようだ。
結菜は幼馴染の発言に黙り込み、伊織はそれを見て自分の予想が正しかったとため息を吐く。
「ほら、反対の耳を見せろ」
「はーい……」
残念そうに返事を返した結菜は、寝返りを打つようにして逆側を向いた。
すぐに伊織がその横顔に対し、断りを入れることもなく手を伸ばしていく。
「……ふふ」
繰り返しになるが、彼らが二人の関係を元に戻す力はとても強い。
今も彼の手が触れた瞬間に結菜が機嫌を直したように、伊織もいつの間にか結菜の大胆な格好を忘れ、自然体で彼女を癒やすことに集中し始めていた。
二人はその関係を修復する力――確固たる絆があると信じており、だからこそ意見がぶつかることを恐れず、相手に嫌われてしまうかもしれないなどというブレーキを掛けずに、今日もお互いの心をさらけ出して会話を行う。
「ねえねえ」
「ん?」
「なにか面白いお話してよ?」
「……いきなりひどい無茶振りが来たな」
伊織は苦笑すると、耳の奥の掃除は控えて話し始める。
「でも俺、ちょうどこの前思ったことがあるんだ」
「お、なかなか期待できそうな流れ」
「期待に沿えられたらいいんだけどな。……まあそれで、燐音の家で四人でクレープを食べた日のことだ」
「ふむ。バナナがミミちゃんのスカートの中に侵入しようとした事件があった日だね?」
放課後に燐音の家で、彼女の飼い犬が美代子の顔を真っ赤にしてしまった日。
結菜はからかい目的でそのネタをチョイスしたのだが、耳掃除という危険を伴う行為の最中だった伊織には効果はなかった。
彼は幼馴染の発言を一切無視すると、続きを話す。
「あの時おばさんが、一緒にコーヒーも入れてくれたよな」
「そうだね~」
「砂糖とミルクをどうするか、聞かれたんだよな」
「……あー……」
今度は結菜が苦笑する番だった。
その時点で彼女は幼馴染が言いたいことがわかり、伊織も結菜が気付いたんだろうなと思いながら喋り続ける。
「なんか、すごく新鮮だった。同時に、最後におまえに砂糖とミルクのことを尋ねられたのは、何年前の話になるんだろうと首を捻ってたよ」
「あはは。たしかに私は、飲み物を入れる時にあなたの味の好みを聞いたりしないからね」
「俺もほとんど確認取らないよな。お互い好みを知ってるってのもあるし――」
「今日の夕食はお肉かぁ、みたいな感じで、今日はブラックを出してくれたんだね、みたいに考えちゃうよね。私たち」
「その通り」
頭を動かすことの出来ない結菜は、彼の話題に心の中で何度も頷いた。
「うん、面白い話だった。ありがとう伊織」
「お気に召していただけたようで、なによりです」
伊織の言葉遣いに結菜は小さく笑い、そしてその笑顔のままで再び口を開く。
「じゃあ次、もっと色々お話聞かせて? 早く早く」
「……おまえは俺に要求するハードルが高すぎるんだよな」
彼女の言葉は、気を良くしていた伊織を一瞬でげんなりとした表情に変化させた。
「(俺は突然言われても、そうポンポン話が出てくるタイプじゃないって知ってるだろうに)」
彼はそんなことを考えながら、話のネタを探すべく耳掃除を中断させた。
そして彼が道具を引っ込めた気配を感じた結菜は、より耳をはっきりと見てもらうつもりだったのか、伊織の目の前で髪をかき上げる動作を行う。
「…………」
美少女が髪をかき上げる姿は、それだけで様になるものだ。
ましてやそれを自分の膝枕の上で見せつけられた伊織は、彼女のその動きに目を奪われてしまう。
やがて、話題を探していた彼は自分の中で生まれた感想を、しみじみと結菜に伝えた。
「おまえって、本当に綺麗になったよな」
彼にとっては何気ない会話の一コマ。
しかし、その言葉は彼女の中で爆発的な効果をもたらした。
「……え?」
結菜にとって、それは完璧な不意打ちだった。
タイミング。発言の内容。そして声色からわかる気持ちの乗り具合。
すべてが噛み合った幼馴染からの言葉に、結菜の心は一瞬で飲み込まれてしまう。
彼女は頭で理解するより先に、まず胸がドキドキと高鳴り始めた。
じんわりと、しかし加速度的に顔が熱くなっていく様がわかり、結菜は思わず伊織から顔を背ける。
「……なんでおまえ、そんなに恥ずかしがってるんだ?」
一方、伊織としても結菜のその反応は予想外だった。
自分の膝の上で羞恥に耐える彼女。
その姿は伊織も可愛らしいとは感じたが、しかしそれ以上に戸惑いのほうが強かった。
結菜は伊織の膝枕に顔を埋めたまま、彼に言う。
「急にそんな事言い出すなんて、反則だよ」
「な、なんでだよ。おまえならこんな台詞、散々言われ慣れてるはずだろ?」
「そうだけど、そうじゃないよ。もう……」
伊織は結菜の容姿のことを、決して褒めないわけではない。
頻度は多くはないかもしれないが、綺麗だと言うことも美人だと伝えることもある。
それなのに今日はたった一言でここまで赤くなる幼馴染が、彼には不思議でならなかった。
「うー、やられた。恥ずかしい。悔しい。嬉しい。ちょっと泣きそう」
「……かなり混乱してるのはわかった。笑いのツボに入るみたいに、恥ずかしさのツボに入った感じかね」
結菜の動揺を自分の中でそう解釈した伊織は、息を吐きながら小さく微笑み、彼女の後ろ髪へと触れた。
彼がそのままゆっくりと撫で始めると、体を強ばらせていた結菜も徐々に落ち着きを取り戻していく。
元々伊織の幼馴染は、明るく楽観的で頭の回転速度も抜群な少女だ。
本気でいたたまれないほどの恥ずかしさを抱えていた結菜だったが、それでも彼女は驚異的な回復力を見せ、気持ちを切り替える。
「あー、恥ずかしかった」
次に彼女が口を開いたときには、少なくとも口調はほとんど平時の状態に戻っていた。
彼女は体を動かすと仰向けになり、先ほどは隠そうとした赤みの引かない顔を見せつけるようにして伊織に微笑みかける。
「お話を聞かせてほしいとは言ったけど、まさかこんな手で来るとはね。完敗だよ」
「悪かった。たしかに脈絡のない会話で驚かせたな」
素直に謝罪する伊織に対し、結菜は声を出さずに笑うと言う。
「謝らないでよ。嬉しかったんだから」
「……その割には、反則だとか言ってた気がするけどな」
「あはは、言っちゃったね。悔しいなぁ。そんな単語を使っちゃうなんて、とんだ失態だよ」
「失態……。まあ、おまえにしては珍しいことばかりだったな」
彼の言葉に結菜は今度も同じように笑い、その後再び彼の目を見る。
「でも、あなただって珍しいことをしてくれたじゃない」
「……そうか? なんだかんだで俺は、おまえの容姿もそれなりに褒めてると思うんだけどな」
「ただ褒めてくれるだけなら、結構あるかもね。私もイタズラであなたに言わせようと仕向けているところもあるし」
「ほら見ろ」
「でも、今日みたいに腰を据えて堂々と私の容姿を褒めてくれることは珍しいんじゃないかな?」
「そ、それは……」
「ふふ」
口ごもる伊織を見て、結菜は本当に嬉しそうに笑った。
そこで彼女は体を横向きにすると、再び髪をかき上げながら幸せそうに目を閉じ、代わりに口を開く。
「今日は嬉しかったなぁ。綺麗になったよなっていう言葉選びがいいんだよね」
結菜は独白のように語り始め、伊織は彼女が耳を見せてきたことで、無言で耳掃除を再開させる。
「私、容姿を褒められるのならそのパターンが一番好きだな。だって私を一番に知る人が認めてくれるんだよ? 言葉の重みが違うよね」
伊織は彼女の耳に丁寧に触れながら、そこで彼女の言葉に口を挟む。
「ひねくれた解釈をするなら、昔はひどかった容姿が今はマシになった、とも取れるんじゃないか?」
「あはは、ひどい。でもあなたは小さな頃から、結菜は可愛い、きっと美人さんになる、って言ってくれてたよね」
「……昔の黒歴史をほじくり返すなよ」
「照れちゃって。恥ずかしいことを言ってしまったと後悔してるかもしれないけど、私との思い出が黒歴史なはずないくせに」
「…………」
形勢の不利を感じた彼は、小さく息を吐くだけでそれ以上喋ることはなかった。
結菜は沈黙した伊織に、純粋に嬉しそうに、言う。
「ねえ伊織」
「……なんだよ」
「これからも私のこと、たくさん褒めてね」
「…………」
「楽しみにしてるね」
その言葉に伊織からの返事はなく、そして結菜も気にした様子はなかった。
彼女もそこで会話を止め、余韻を楽しむかのようにして伊織からの耳掃除に身を任せる。
二人の間からは会話がなくなり、静かに時が流れていく。
しかし、気恥ずかしさを感じていた伊織はある時思い立つ。
彼は幼馴染が驚いて耳を傷めないように、耳掃除の道具を引っ込めながら彼女に言った。
「結菜」
「うん?」
「さっきのおまえの恥ずかしがる姿も、とっても可愛らしくてドキドキしたぞ」
彼は自身の緊張をさとられないように、それでいて出来るだけ気持ちをこめて幼馴染にそう告げた。
すると、結菜はゆっくりと振り向き穏やかに答えた。
「ありがとう」
一言。
そう言った彼女は、再び幸せそうに前を向いて目を閉じる。
彼女の幼馴染は彼女以上に赤くなった顔で、動揺せずに自分の照れを真っ向から受け止められる結菜のことをさすがだなと思った。




