幼馴染の母親
8/6 誤字を修正しました。ご報告ありがとうございました。
結菜の母親は、世界中を忙しなく飛び回る多忙な人物だ。
ワーカーホリック、仕事中毒気味な彼女は、週末ぐらいしか自宅に戻ることはない。
そのような理由から、結菜は週末は家に帰って母親との時間を大切にする。
たまに戻る母親の癒やしになれるように、結菜は彼女の食事を作り洗濯をしたりと身の回りの世話を焼く。
その日は違った。
『里佳さん、結菜が俺の家で寝入っちゃいました。起こすのは可哀想なので、里佳さんの夕食は俺が代わりに作ってもいいですか?』
伊織は自分のスマホから、結菜の母親へとそうメールを送る。
あれからすぐに、伊織は結菜がソファの上でスヤスヤと眠っていることに気付いた。
彼はとっさに罠かと警戒したのだが、結菜は本当に眠っており、伊織は彼女がそれほどまでに疲れていたんだなと推測したのだ。
まもなく、結菜の母親から返信が来る。
それは短くも、若干読みづらいメッセージだった。
『かれーはいらない』
カレーは要らない。
それを読んだ伊織は軽い目眩を感じ、思わずこめかみを手で抑える。
家族ぐるみでの付き合いがある門倉と香月の両家は、お互いの家の事情を知り尽くしている。
結菜の母親も、当然伊織の得意料理を熟知していた。
彼はすぐにメッセージを送り返す。
『もう俺だって、カレーしか作れないわけじゃないです。ご期待に沿えるかはわかりませんが、お望みのメニューを頑張って作りますよ』
また少ししてそれに返信が来る。
『いいそとでたべてかえるゆなはねかせてておけ』
いい、外で食べて帰る。結菜は寝かせててオーケー。
伊織は再び頭を抱え、スマホに入力する。
『外食すると結菜が気にしますよ。あと、変換機能ぐらい使ってください。読みづらいです』
『めんどう』
『変換とか一瞬の動作でしょ。それを面倒だなんて言うなんて、一体いつの時代の人ですか』
ブブブブブ……。
伊織が何度目かのメッセージを送ると、秒で彼のスマホが震え始めた。
着信。
伊織は相手の名前を見て、すぐに電話に出る。
「はい、もしも――」
「誰が時代遅れのおばさんだって?」
「…………」
伊織はスマホを片手に、三度目の頭痛に耐えていた。
ドスの利いた声で伊織の電話をかけてきた女性、彼女こそが、結菜の母親の香月里佳だ。
彼女をよく知る伊織は、落ち着いてもらえるようにゆっくりと喋り始める。
「お久しぶりです里佳さん。ところで今晩何が食べたいですか? 今から買い物も間に合うと思うので、何でも言ってください」
「ごく自然に流そうとするな。まあいいや、じゃあビーフ・ストロガノフ」
「くう、さすがは名家出身のお嬢様。素で食べたいのか嫌がらせで言ってるのか、判断に苦しむ絶妙なところを攻めてきましたね」
「親友やら実の娘やらのほうが、よっぽどお嬢様っぽいけどね」
結菜の母親はれっきとした名家の出身だ。
残念なことに彼女の代でその経歴に傷はついてしまったが、それでも香月の家は今でも知る人ぞ知る家となっている。
「結菜はあまりお嬢様感ないですよ。学校では……、まあ見た目や言動はお嬢様っぽいですけど、あいつ家庭の事情が複雑だって微妙に公表してますからね」
「うう……、私のせいで娘にも苦労をかけてしまって……」
「でも結菜はその理由を上手く使って、放課後自由にしてますけどね」
「うん、知ってた。あの子私より要領いいからね」
伊織は里佳と普通に世間話をしていることに気付き、話題の修正を試みる。
「というか、仕事で遅くなるんじゃなかったんですか? こんなにのんびり電話しててもいいんです?」
「遅くなったよ。おかげで帰る便が二つも後のやつになった」
「ああ、そういうこと。じゃあ今は帰宅途中ってことですか」
「うむ。だからたっぷりと伊織と話す時間もあるってわけ」
「俺はないです。結菜の代わりに里佳さんの夕食作らないとダメですから」
「いいよ外で食べてくるから」
「お願いしますよ。たまには俺も里佳さんと一緒に食べたくなったんですから、帰ってきてくださいよ」
「……え? 私口説かれてる?」
「あなたはその質問に、俺がイエスと答えたらどうするんですか?」
「……いいよ?」
「ああ、こいつは結菜の母親だったな……」
伊織はその日最大の疲労感を感じ、スマホを取り落しそうになった。
そんな伊織に、里佳は面白おかしく話しかける。
「でも伊織、キミはその天然ジゴロっぷりでハーレムを形成しつつあるそうじゃないか」
「天然ジゴロとか滅多に聞かない言葉ですね。やはり世代の差というやつですか」
「おっけ。そのケンカ買ったわ」
「まあそれはさておき――」
「そこでぶった切るのか。あんた割といい度胸してるね?」
「なんですかハーレムって。結菜は実の母親にそんな報告してるんですか」
「んー? 学校で何があったのかを親に話してくれる娘。実に良好な親子関係の証明だと思わないかい?」
「なんでだろう……。真っ当なセリフを聞いているはずなのに、あなたたち親子の会話を想像すると恐ろしさを感じてしまう」
彼は里佳に返事を返しながら、今の話の流れは嫌な感じがすると思った。
伊織にとって触れられたくない話題。
それこそを結菜の母親は聞きたがっているのではないかと、彼は予感のようなものを覚えていた。
「とにかく、最近の伊織は可愛い女の子といつも一緒にいるとか聞いているが」
「そうかもしれないですね。ありがたいことに友人扱いしてもらってます」
「それに、先日は女子高生だけのバンドに唯一の男として入れてもらって、みんなからチヤホヤされたらしいじゃないか」
「まあ、運良く綺麗に彼女たちをサポート出来ましたからね」
「バンドを抜けるときには、みんなから残念そうな表情を向けられたとか。それなのに、連絡先の交換もしてないそうじゃないか」
「元々俺があの場にいたことは秘密にする約束だったんですよ。仕方ないです。一期一会の精神ってやつですね」
伊織がそう言うと、電話口の先で里佳がため息を吐いたのが聞こえてきた。
彼女は間を置かず、同じ話題を掘り下げていく。
「昔の伊織は結菜一筋で、将来の夢は結菜と結婚して幸せにしてあげることです。……とか言っていたのに。それが今やハーレム王になってしまうとは」
「……何歳の頃の話ですか。あと、俺がハーレムを望んだわけじゃないですからね」
「はぁぁぁぁぁ……」
里佳は再び露骨なため息を吐く。
さすがの伊織もそれには盛大に眉をひそめ、そろそろ話を打ち切ろうかとも考え始める。
しかし次の瞬間、結菜の母親は声色を変え、真剣な口調で伊織に言った。
「結菜のこと、選んであげないの?」
伊織は一瞬で言葉に詰まる。
それこそが彼が最も触れられたくない話題、そのものだった。
結菜のことを選んであげないのか。
彼女の母親、里佳は、伊織が答えにくい質問にずばりと切り込んだ。
伊織の心音が早くなり、頭の中がフル回転を始める。
しばし目を閉じて彼は考え込み、そして電話口から、里佳の追加の問いかけが聞こえてくる。
「またこの話か、って思ったかもしれないね。でもねえ、最近の伊織の話を聞いていると、親としては心配になってしまうものだからね。尋ねさせてもらったよ」
彼は里佳の話を、正論だと感じた。
ゆっくりと目を開き、伊織は彼女に答える。
「ご存知だと思いますけど、俺と結菜の間には様々な要素があるんです。遊び相手だったり協力者だったり、ケンカ相手だったり憧れのヒーローだったり。……男と女だったり」
そこで伊織は軽く呼吸を整えると、一気に話し始める。
「でもそのように多くの要素があったとしても、結菜は世界で一番大切な人なんです。それは間違いない。俺の中の気持ちでは、それが一番強い気持ちなんです」
彼はそう強い口調で里佳に伝えると、一転して小さめの声で「だからおいそれと軽々しく選んだり出来ませんよ」と付け加えた。
結菜の母親はしばらくの間黙ったままだったが、やがて疲れたように話し始める。
「伊織は愛の力が、変な方向に向かいすぎてると思うんだけどねえ」
「…………」
「結菜がキミの家で無防備に眠る意味を、伊織もわかっているだろう?」
「…………」
伊織が何も答えないことで、里佳はまたもため息を吐いた。
しかし、今度のため息からは『仕方がないな』といったニュアンスが多く感じられた。
「ま、今日のところはこの辺にしておくか。伊織が相変わらず結菜のことを大切に想っていると確認できたからね」
里佳が矛を収めたことで、伊織はそれには返事を返さなくては、と思った。
謝罪か、感謝か。
しかし伊織が迷う暇もなく、彼女は娘と同じようにいたずらっぽく言葉を続けるのだった。
「ところで伊織は先ほど私を時代遅れだと言ったが、そんな私でもスマホの録音機能くらいは使えるのだよ?」
「……え?」
「キミに待たされっぱなしの結菜も、今日の録音データを渡してあげたらいくらか気も紛れるだろう」
「……そ、それは……」
「あの子は意外に健気なところがあるからな。大切に保管して末永く聞き続けてくれるかもしれないな?」
世界で一番結菜が大切。
そのような言葉を力強く語っていた伊織は、事態の恐ろしさに青ざめるべきか赤くなるべきなのかわからなくなってしまった。
だがそんな伊織に、里佳はあっさりと言う。
「なんてな。冗談だよ。ちょっとやり返しただけ」
「……里佳さん、心臓に悪いですよ」
「私だってそれくらいの分別はあるさ。でもね、伊織――」
「……なんですか?」
不気味に発言に溜めを作る里佳に、伊織は恐る恐る尋ねる。
すると彼女はまるで怪談を喋るがごとく、雰囲気たっぷりに伊織を脅すのだった。
「私の娘のことだ。気配を感じて起き出してきていて、今も影から直接話を聞いているかもしれないよ?」
「ッ!?」
伊織はスマホを持ったまま、慌てて後ろを振り返った。
当たり前かもしれないが、そこには結菜の姿はなく、伊織はホッと胸を撫で下ろす。
「……伊織、今後ろを振り返っちゃったかい?」
そして電話口から聞こえてくる、結菜の母親の声。
伊織は何度目かわからない疲労に耐えると、彼女に答えた。
「ああ振り向いちゃいましたよ。あなたたち親子にはいつも遊ばれてますよ」
「はは、結菜はいなかったようだね」
「さすがにまだ寝ているみたいですね。かなり眠かったみたいですし」
「ふむ」
里佳は神妙に答えると、すぐに言葉を続けた。
「それで、伊織は下着の色くらいは確認したのかい?」
「……さっきまでの実の娘を心配する母親は、一体どこにいったんだ?」
「その様子だと、一切触れてないようだね。伊織は本当に女の子に興味があるのか?」
挑発的な物言いをされ、しかも疲れも溜まってきていた伊織は、その里佳へと吐き捨てるように言葉を返した。
「別に確認するまでもないですよ。結菜は俺の家で服を洗濯してるんですから。多分今日は淡いピンクとかじゃないですかね」
「……うわぁ……」
「なんで素でドン引いているんですか! おまえが言わせたんだろ!」
「よし! では答え合わせをしてみよう!」
「ガチで頭痛くなってきた。もう電話切ってもいいですかね? 夕飯はカレー作ってそちらの家まで持っていきますね」
「ああ、待て待て。今度こそもう止めるって」
それを聞いた伊織は意趣返しのようにため息は吐き、里佳は楽しそうに伊織に言う。
「まあ、今晩の夕食はいいよ。娘もいないことだし、久しぶりに一人で飲んでくる」
「……里佳さんは、今も若くて美しいですよ。そんなあなたが一人で酔うんですか?」
「ちゃんとしたバーに行くさ。そんなわけで、結菜にもそう言っておいてくれ」
「…………」
伊織は里佳の発言に寂しさを覚えた。
里佳が一人でバーに行って酔うという行為に、伊織は物悲しさを感じたのだ。
しかし、バリバリと仕事を熟す大人の女性に、自分なんかが意見していいものかどうか。
伊織は迷い始める。
だが彼は直前のやり取りを思い出し、あっさりと里佳に告げるのだった。
「わかりました。結菜にはちゃんと伝えておきます。ついでに結菜が家にいることに疑問を覚えるであろう俺の母さんにも、ちゃんと理由を伝えておきますね」
「…………」
伊織は電話の向こうで、里佳が初めて息を飲んだのがわかった。
彼は攻勢に出る。
「まあ母さんのことですし、里佳ちゃんが飲んでるなら私も飲みに行く、とか言い出すかもしれませんねえ。そしたら結菜も、ついつい母親の行きつけのバーを喋っちゃうかもしれませんねえ」
「あー! わかったわかった! まっすぐ帰るよ。久しぶりに伊織のカレーを味わわせてもらうことにするよ」
彼女のその発言を聞いた伊織は、思わず笑みをこぼした。
そうして楽しい気分になった彼は、一気に要求をエスカレートさせていくのだった。
「もういっそ、今日は俺の家に来ませんか? 結菜もいますし、俺の母さんも喜んでくれるはずですよ」
「……もしかして私、伊織をからかい過ぎたかな? かなり怒ってる?」
「いいえ、まったく怒ってないですよ。本当です。ただ、来てくれないと言うならまた母さんに里佳さんが話を断ったという説明をしようかなと思うくらいです」
「あのな伊織。私はもう大人だから、おいそれと他人の家にお邪魔することなんて出来ないんだよ。しかも夜にだぞ?」
「わかりました。あなたがそう言って断ったと、母さんに話しておきますね。一言一句正確に」
「……最後の最後で、私が伊織の言いなりになってしまうというのか……」
里佳は悔しそうにそう言い、伊織は改めて笑った。
「じゃあ、本当にカレーでいいんですか?」
「ああ、いいよ。その代わり美味しいのを作ってくれよ?」
「全力を尽くします」
今度はその伊織の発言を聞いた里佳が笑い、そして彼女は独り言のように静かに言う。
「ま、あんたの家と私の家は、今も昔もこんな緩い関係だったな」
「つながり自体はガチガチに絡み合ってますけどね」
「そうかもね。……まあわかった。一度自宅に帰るけど、その後すぐにそっちに向かうとするよ」
「お待ちしております」
「ああ。後でな、伊織」
「はい」
そこで長い通話が終わった。
伊織は体中の力を抜きながら大きく息を吐き、そして腕まくりをしながら結菜が眠るリビングへと戻り始めた。
「さて、今夜は賑やかになりそうだ。準備をしっかりとしておかないとな」
彼は一人つぶやき、気合いを新たにする。
門倉と香月の両家は様々な苦難に見舞われながらも、今もまだ良好な関係を保っていた。
そうして伊織がリビングで結菜の寝顔を確認した時、こっそりと安堵の息を吐いたのは彼だけの秘密だった。




