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場所は違えど友人と一緒なら


「なんたることだ! 人が知恵の実を食して六千年、堕落は為政者にまで及んでいたとは! 実に嘆かわしい!」


 昼前から続いていた燐音の怒りは、放課後になっても収まる気配を見せなかった。

 学校からの帰り道。

 燐音は並んで歩く伊織と美代子の前で、ひたすら文句をこぼし続ける。


「ボクを部室(シャングリ・ラ)から追い出した罪は必ず償ってもらうからな! 魂が浄化されるまで反省させてやるぞ!」


 その日の伊織たちは、ずっと燐音の愚痴を聞き続けていた。

 知り合ったばかりの燐音に気を遣っていた美代子も、そこでとうとう限界が訪れる。


「まあ、部員も少なく活動内容も不透明な部活なら、生徒会が部室を没収すると言い出すのも当然の流れだと思うけどね」

「なっ!? 美代子までそんなことを言い出すのか! せっかく友達になれたと思ってたのに、あの堕落した為政者どもの肩を持つというのか!」


 疲れ果てた口調で喋り始めた美代子に、燐音はいつも伊織に対して行っているように噛みついた。

 それは冷静な美代子なら嬉しいと感じるかもしれない発言だったのだが、あいにくその時の美代子には余裕がなかった。


 彼女らは知り合ったばかりだというのに、遠慮のない言い合いを始めていく。


「落ち着いて。あたしはあなたの活動が不透明だったと言ってるの。リンの敵に回るつもりはないよ」

「ふん、どうだか。美代子はボクに対して下剋上を狙ってる気がするんだよな。……ははぁん? さては美代子、愛くるしい姿のボクにライバル意識をもっているんだな?」 

「あのね……」

「無駄だ無駄だ! 美代子もたしかに可愛らしいが、ボクには到底敵わない! 伊織だって美代子なんかよりボクを選ぶだろう! ボクのほうが小さくて可愛いからな! 選ばれなかった美代子は、家来らしく指をくわえて見ているがいい!」

「……今、なんて言った? あなたの魂も浄化されたいわけ?」

「ひ、ひぃぃぃッ!? ご、ごめんなさい!」


 会話の途中で伊織の名前を出された美代子は、鋭い眼光で燐音を(にら)みつけた。

 すると燐音は一瞬で震え上がり、その視線から逃れるようにして伊織の背中に隠れる。


 美代子はそんな燐音を(にら)みつけ、ついでに何も言ってないはずの伊織にもギロリと鋭い視線を向ける。

 巻き込まれた伊織は慌てて口を開いて弁明をしようとするが、その前に美代子は苦笑すると、明るい声で彼らに言った。


「まったく。ずっとリンの話を聞いてたから、あたしにもリンの喋り方が感染(うつ)っちゃったじゃん」

「そ、そ、それくらいでボクと同格になったつもりなのか! 魂の浄化と言っただけじゃないか!」

「魂の浄化とか、リンと知り合う前なら頭に浮かびもしない言葉だよ。これは間違いなく感染ってる証拠だって」

「ぐぬぬ……」


 ほんの少しでも燐音に言いたいことを言ったことで、気が紛れた美代子は落ち着きを取り戻していた。

 彼女は伊織の背から顔だけを出して反撃してくる燐音を軽くいなすと、笑顔で話しかける。


「でもリンだって、あたしの喋り方が少しでも似てきたほうが嬉しいでしょ? まったく変化がないのも寂しいよね?」

「……むむむ」

「それに、あたしも生徒会の肩を持つわけじゃないよ。あたしだってリンの部室が没収されるのは嫌なんだ。みんなと同じように、リンが誘ってくれた部室でお昼を食べるのを楽しみにしてたからね」

「あう……」


 今も怒りの炎を(くすぶ)らせていた燐音は、部室で食べるお昼を楽しみにしていたという美代子の発言で水を被ったように大人しくなった。

 叱られた子どものようにしょんぼりと下を向き、燐音は伊織の服の裾を握る。


 伊織はそんな燐音を見て微笑むと、その小さな肩を優しく掴んで美代子の真正面に引っ張り出してきた。

 ところが燐音は気まずそうに(うつむ)いたままで、伊織と美代子は目を合わせると苦笑する。


「ほら燐音、よかったじゃないか。美代子さんもおまえの味方みたいだぞ?」

「うん……」

「まあ、リンはあたしなんかより、今日はマコに来てもらいたかったと思うけどね。用事があったからマコが来れないのは仕方ないけど」

「ううん……、ボクは美代子一人来てくれただけでも嬉しい」

「……あなたって素直になったときは、本当に気持ちを正直に伝えてくれるんだね」


 燐音は直前の会話で言われたからではなく、一度喋り始めて勇気が出たため言葉を続けた。


「美代子、ごめんなさい。ボクがしっかりしてなかったせいで、部室でお昼食べる約束、守れなくなっちゃった」

「……あなた、まだそんなこと気にしてたの? もしかしてずっと怒ってたのも、それが悔しくて心に残ってたから?」

「…………」

「……バカだねえ。お昼なんて、どこでも一緒に食べられるのに」


 美代子はそう言いながら彼女に近付くと、手を伸ばして燐音の頭にそっと触れる。


「大丈夫だって。あたしとリンが分かり合えたように、生徒会もちゃんと説明すれば分かってもらえるよ。そしたら部室も戻ってくる」

「だと、いいんだけど……」

「頼りないかもしれないけど、あたしも協力する。リンの良さを広めるために、あたしにも出来ることがないか考えてみるよ」

「あ、ありがとう美代子。でも……、ボクは色んな人にボクのことを知ってもらう前に、もっと美代子たちと仲良くなりたい」

「……なにこの可愛い生き物。素直になったリンはまるで別人みたいだ」


 顔を伏せたまま、燐音は小さな声で自分の正直な気持ちを口にする。

 それを見た美代子は我慢できずといった様子で、真琴がやっていたように燐音の頭を撫で始めた。


「リンのそうやってまっすぐ気持ちを伝えてくれるところは、あたしには真似できないあなたの美点だよ。ちょっと(うらや)ましいな」


 燐音は美代子に対しては張り合うことが多いのだが、この時は何も言わず美代子の行為を受け入れていた。

 美代子はそのことが嬉しくて、「いい子、いい子」と言いながら伸ばした手を何度も動かす。


 そうして二人は仲良さそうに向かい合っていたのだが、しかし、親密な時間は長くは続かなかった。

 ふと我に返った燐音は、慌てて美代子の手を振り払って大きな声を出す。


「ぼ、ボクを子ども扱いするな! ボクは小さくてもただの人間じゃない! 何代もの記憶を受け継いだ超越的存在なんだぞ!」


 美代子は驚いた表情で、振り払われた自分の手に触れていた。

 しかし痛みはなかったのか、やがて彼女は苦々しく笑うと不思議そうに言う。


「えー? 何が悪かったわけ? さっきまで仲良くやれてたと思うのに」

「美代子さん、さっきのはいい子いい子ってセリフがダメだったんだと思うよ。燐音はその辺の線引は厳しいんだ」


 すぐさま伊織が彼女の疑問に答え、その言葉で美代子は伊織に視線を向ける。


「ああ、そうなんだ? なんていうか、やっぱり面倒――コホン。個性的な子だね」

「別に最初に言いかけた評価でもいいと思うよ。燐音本人も自覚あるだろうし」

「面倒って自覚あるんだ……」


 美代子は伊織の発言を受け、チラリと燐音のことを見る。

 彼らからネガティブな評価を受けた燐音は、そこで逆にふんぞり返ると口を開いた。


「ふん。ボクという存在を人間が難解に感じるのも無理はないからな。それを面倒だと評するのも、また人間の勝手だ」

「なるほど……、そういう解釈をしてるのか……」


 脱力したように美代子はそう言い、しかし明るく笑うと楽しそうに言った。


「けどまあ、面倒なリンを少しずつわかっていくのも面白いか。まだまだいいところも隠されていそうだし、素直になったリンは本当に可愛かったし」

「……ぼ、ボクの配下として、(あるじ)のことを理解しようと努力することはいいことだ。ほ、褒めてやろう」

「お、照れてるな? 素直になったリンは可愛いぞー?」

「て、照れてなんてない! ボクが可愛いのは当然だからな!」


 可愛いと言われて恥ずかしかったのか、素直な自分をさらけ出したのが照れくさくなったのか。

 燐音は赤らんだ頬でぷいと顔をそらすと、そこで一人早足で歩き出した。


 美代子と伊織は再び目を合わせると、おかしそうに笑った。

 彼らは二人、手短に話し合う。


「ごめんね美代子さん。変な面倒事に巻き込んじゃって」

「リンの部室の問題? それを言うなら伊織くんだってオカルト部の部員じゃないでしょ」

「まあ、そうなんだけどね。でも俺は知らない間に、あいつに寂しい思いさせてたみたいだから……」

「その罪滅ぼし? あたしが思うに、伊織くんならそんな理由がなくても助けると思うけど」

「…………」

「ま、あたしもマコも似たようなものだよ。こういうのは持ちつ持たれつだって。変な面倒事に巻き込まれたとは感じてないよ」

「……そう言ってもらえるのは嬉しいけど、燐音は一筋縄じゃいかない面倒なやつであることは間違いないよ。そのことを忘れないほうがいいと思う」


 伊織がそう言うと、美代子がそれに返事をする前に燐音が振り返る。


「伊織、美代子! 何してるんだ! ぐずぐずしていると置いていくからな!」


 伊織は苦笑し、美代子に「ほらね」と目で話しかけた。

 美代子も伊織と同じように微笑むと、燐音を見て声を出す。


「リン、本当に手土産とか持参しなくていい?」

「いいに決まってる。どこに行くつもりなんだ。ボクなんて考えもしないぞ!」

「それはそれで問題だと思うけど……」

「いいから来い! 今日はボクが美代子を歓迎するんだ! だから美代子は何もしなくていい!」


 燐音は美代子に背を向け前に向き直りながら、ぶっきらぼうにそう言い放つ。

 その言葉に美代子は目を丸くして驚き、燐音は素直にならなくてもいい子なんだなと思った。


 しかし、美代子もまた人の子。

 彼女も燐音と同じように照れくさくなって、つい憎まれ口に逃げる。


「うーん。でもご家族の人とかいるんだよね? リンの歓迎するって言葉だけじゃ不安なんだけど」

「ぼ、ボクをなんだと思ってるんだ! ボクがママにも言ってちゃんと歓迎するんだ! 心配は無用だ!」

「そ、そう? それなら今日のところはお言葉に甘えておこう」

「なんか上から目線のような気がするけど……、まあ楽しみにしておけ。ボクは家来には優しいんだ」


 美代子は燐音を見て、なんだかんだで大声を出しつつも今の時間を楽しんでくれていそうだと感じていた。

 彼女自身も笑い、隣で歩調を合わせてくれる伊織と並んで歩く。


「おーい、ボクの家はもうすぐだぞ! 直々に案内してやるから、二人とも早く来い!」


 二人は目配せをし合うと、小さく笑って燐音の隣に小走りで追いつくのだった。



    ◇



「へぇ……。綺麗な一軒家だね」


 燐音の自宅に到着した美代子は、その敷地に入りながらまじまじと建物を見上げた。

 新築と見違えるほど綺麗な家は、住んでいる人が家を大切にしていることを感じさせる。


「ふふん。すごいだろう。……と言いたいところだけど、家だけを比べるなら伊織の家のほうが断然すごいよ。庭も広いし」

「え、そうなんだ? 伊織くんっていいとこのお坊っちゃま?」

「いや、そういうわけじゃないけど……。でも家は家族の自慢なんだ」


 彼らはそのような会話をしながら、玄関を目指す。

 すると美代子はその途中で、庭先に干された子供用プールが目に留まった。


「あれ、リンは弟さんか妹さんいるの?」

「いないよ。ボクは一人っ子だ」

「…………」


 美代子はその返事で、子供用プールに入ってはしゃぐ燐音の姿を想像した。

 子どもっぽい燐音にはピッタリかもしれないと感じ、美代子は危うく吹き出しそうになってしまう。


 しかしそんな美代子の姿には伊織しか気付かず、燐音は玄関のノブをガチャガチャと鳴らして施錠されていることを確かめていた。


「ママは出かけてるみたいだ。買い物か散歩かな。遅くならなければいいんだけど」

「久しぶりだからご挨拶したかったんだけど、今日は会えないかもしれないのか?」

「わかんない。でもボクのご飯までには絶対帰ってくるよ」

「おまえの飯って何時くらい?」

「遅い場合は、二十時ぐらい」

「……さすがにそんな時間までは待てないな」


 燐音は伊織と会話をしながら、荷物の中から鍵を取り出して玄関のドアに差し込む。

 普段は鍵がかかっていないのか、彼女は不慣れな手付きでそれを回し、ドアを開けた。


「ただいまー!」


 家の中に入った燐音は、とても元気な声で挨拶をすると雑に靴を脱ぎ始めた。

 彼女はそのまま伊織たちを待たずに、バタバタと小走りで家の奥へと消えていく。


 美代子は初めて見る燐音の自宅内部に、戸惑いの表情を浮かべていた。

 隣の伊織は慣れた様子で燐音の脱ぎ散らかした靴を揃えると、「お邪魔します」と言って敷台(しきだい)部分に上がる。


 そして彼は振り向くと、美代子をエスコートするように手を差し出した。


「どうぞ、美代子さん。俺は家人(かじん)じゃないけど、上がらせてもらってもいいと思うよ」

「わ、わかった」


 彼に勧められ、美代子も靴を脱いで「お邪魔します」と頭を下げた。

 するとその瞬間、まるで彼女の挨拶に答えるように、大きな声が聞こえてくる。


「ワン!」


 心底驚いた様子で顔を上げる美代子に、伊織は家の奥を見ながら笑顔で言う。


「お、バナナ(・・・)はお留守番してたのか」

「ば、バナナ?」

「うん、泉家で飼ってるメスのゴールデンレトリーバーだよ。今年で三歳になるんだっけな」

「な、なるほど。犬のバナナちゃんか。可愛い名前だね。それに今まで一度も鳴かなかったし、賢い犬みたい」

「まさにその通り。しっかり訓練された優秀な犬だよ。燐音のほうがよっぽど扱いにくいくらいだ」

「あ、それ言っちゃうんだ?」


 緊張していた美代子は、伊織の冗談で笑みをこぼした。

 そして彼女は直後に、その微笑みをさらに何段階も美しく輝かせる。


 その話題のゴールデンレトリーバーが、廊下の奥から燐音につれられて姿を見せたのだ。


「わぁ、可愛いー」


 キツい性格をしていると言われる美代子が、突如伊織の隣で女の子らしい反応を見せた。

 伊織はそんな彼女に意表を突かれ、燐音は楽しそうに笑いながらバナナを美代子の前まで連れてくる。


「どうだ美代子、これがボクの愛玩動物のバナナだ。愛くるしい姿だろう?」

「も、もふもふしてる……! つぶらな瞳も可愛い……!」

「バナナはママ自慢の犬だからな。いつも清潔でグルーミングもトリミングも完璧だ。ふさふさの毛はいい香りもしてくるぞ?」

「わぁぁぁ……!」


 美代子は伊織にどういうふうに見られているかにも気付かず、滅多に出さない声を上げながら目の前のゴールデンレトリーバーに夢中になってしまっていた。

 燐音は無防備になった美代子を見て、ニヤリと笑うとイタズラっぽく言う。


「ふふふ。美代子よ、そんなにボクのバナナに触りたいのか? もふもふのこの体を、十分に堪能したいというのか?」

「さ、触りたい! 触ってもいいの?」


 美代子はその問いかけに、何も考えずに反射的に答える。

 ぼーっと美代子のレアな姿に目を奪われていた伊織は、彼女のその返事にハッとなって目を(まばた)かせた。


 燐音はなにか(たくら)んでいる。

 直感的にそう感じた伊織は、すぐさま口を挟んで美代子に警戒を(うなが)そうとした。


 だがその前に、燐音は尊大な態度で美代子に言う。


「もちろんいいとも。ボクと美代子の仲じゃないか。さあ、早速試してみるがいい。バナナは賢いから、両手を広げておいでと言えばすぐに来てくれるはずだぞ」


 それは言葉選びこそ偉そうなものだったが、内容は伊織の予想に反して好意的なものだった。

 不思議そうに首を(ひね)る伊織の前で美代子は燐音に「ありがとう」と言い、中腰になって両手を広げる。


「おいで、バナナ」

「ワン!」


 訓練された泉家のゴールデンレトリーバーは、美代子の遊んであげようの合図に即座に反応して駆け出した。

 大型犬に慣れておらず、また元々非力な美代子は、その迫力だけで「わっ!?」と嬉しそうな悲鳴を上げて尻もちをついてしまう。


 バナナからしてみれば、それは遊び相手が自ら自分と同じ高さまで体を下ろしてくれたようなものだった。

 ただでさえ喜んでいた彼女は、ますます尻尾を振って美代子にじゃれつく。


「あはは、や、ヤダ、そ、そんなに舐めないで。くすぐったいってば、あはは」


 怒涛の勢いで甘えてくるバナナに、美代子は困惑しながらも満更(まんざら)でもなさそうな表情を浮かべていた。

 突如尻もちをついた美代子を心配していた伊織も、彼女のその表情にホッと安堵(あんど)の息を吐く。


「ほ、ホントにいい毛並みしてる。それにいい匂い。で、でもちょっと激しすぎだって」

「美代子さん、バナナは名前を呼んで待てと強めに言ったらすぐに動きを止めるはずだよ」

「そ、そうなんだ? でも、今は好きにさせてあげるよ。すごく喜んでるみたいだし」


 念のため伊織が告げた言葉も、今の美代子には無用の長物だったようだ。

 彼女はバナナを(たしな)めることなく、その甘えをすべて受け止める。


 伊織はそんな美代子に苦笑し、そして燐音へと話しかけた。


「あの調子だと、あとで長く洗面所のお世話にならないとダメかもな」

「もちろん貸してあげるさ。真っ白なタオルもサービスだ」

「……ふむ」


 伊織は燐音の妙に協力的な言動が気になっていたが、ここに来て彼は、それがただの美代子歓迎の一環なのではないかと考え始めた。

 燐音の言う通り、バナナは彼女の母親が手塩を掛けて世話をしている名犬だ。

 健康で清潔でしかも賢いバナナは、美代子に害を加える存在だとは思えない。


「……あー、もしかしておまえ」


 そこまで考えた伊織は、燐音の考えに予想がついた。

 もし当たっていたら健気だなと思いながら、彼はその予想を燐音に言う。


「美代子さんがバナナを気に入ってくれたら、度々遊びに来てくれるようになるんじゃないかと期待してるのか?」


 燐音の反応は劇的だった。

 一瞬で耳の先まで真っ赤になり、両手を前に出し首を振って伊織の言葉を否定し始める。


「ぼ、ボクにそんな下心なんてないぞ! ただちょっと、また会いに来てくれるかもと思っただけだ!」

「それを期待してるって言うんだよ。自白してるじゃないか」

「うぐっ!」


 言葉に詰まる燐音を見て、伊織は柔らかく笑った。

 彼は燐音が美代子のことを気に入っていそうで何よりだと感じ、だから今はこれ以上余計なことを言わないでおこうと思った。


「ふ、ふん。そもそも美代子はボクの家来だ。だから会いに来るのは当然の行為だ。伊織だってそうだぞ? 前世からの付き合いがなければ絶交してたくらいだからな」

「悪かったよ。これからはまた遊びに来させてもらうって」

「げ、ゲームにも付き合えよ? アニメだって一緒に見るんだからな?」

「わかったわかった。結菜ほど上手くないけど付き合うよ」

「絶対だからな! 約束を破ると今度こそ許さないからな!」

「ああ。破らないよ」


 伊織はそう言って、すっかりみんなの手の置き場となった燐音の頭に触れる。

 そうして軽く撫でてみると、燐音は満足そうに(うなず)いて喋り始めた。


「よし、ならば同じく家来である伊織にも褒美を与えよう。ククク。きっと面白いことになるぞ」

「……なんか嫌な予感がするんだが。俺への褒美は燐音の笑顔だけで十分だぞ?」

「まあそれもそうなんだが、たまにはもっと与えてやる。楽しみにしておけ」

「…………」


 燐音の発言を聞いた伊織は、どうせ止めても無駄なんだろうなと思い肩を落とした。


 そんな彼らの側では、いつの間にか大人しく座ったバナナを美代子が撫でていた。

 彼女はバナナの扱い方を覚えたのか、尻尾を振るバナナの首元に抱きついたり頭を撫でたりと充実した時間を過ごしているようだった。


 疲労感を覚えていた伊織も、そんな美代子とバナナの姿に癒やされる。

 同時に「いい子だねー」と言いながらバナナを撫でる美代子を見て、先ほどの燐音の頭を撫でていた光景にそっくりだと思った。


「あー、楽しかった。もふもふは堪能できたしバナナも賢かったし、本当に最高だったよ。ありがとうリン」

「なに、そんなに喜んでくれてたら、ママも飼い主冥利に尽きるだろう」

「本当にすごいワンちゃんだよ。今度会えたらお礼を言いたいな」


 やがて美代子は立ち上がり、燐音とそのような会話を始めた。

 一人でこっそりと微笑んでいた伊織は、そこで美代子に声をかける。


「あ、美代子さん。燐音が洗面所貸してくれるって。こっちだよ」

「ああ、伊織。ちょっと待つんだ」

「……え?」


 燐音の呼びかけに、伊織は眉をひそめて彼女を見た。

 その燐音は意地悪く笑いながら、彼らに言う。


「せっかくだからバナナの芸をもう一つ見てもらおうと思ってね。美代子もどうだ?」

「え、もちろん見たいに決まってる!」

「なら決まりだ。じゃあ美代子はバナナの前に立って、両手を上に上げるんだ」

「わかった」


 燐音の言葉に怪訝(けげん)な顔をしていた伊織だが、バナナの芸なら大きな問題は起こらないかと安心した。

 美代子は燐音に言われるがままバナナの前に立ち、ワクワクしながら燐音に(たず)ねる。


「このまま手を上げたらいいわけ?」

「うん。出来れば伊織を見ながらがいい」

「こう?」


 そうして美代子は燐音の思惑通りの行動を取ってしまう。


 伊織は油断していた。

 犬は人とは感性が違う。バナナは悪意のない犬だが、その行動は人間にとっては迷惑になる場合もある。


 バナナは美代子が両手を上げる仕草を見ると、無邪気に彼女のスカートの中へと鼻先を突っ込んだ。


「きゃ、きゃあああ!」


 再びその場に、美代子の滅多に聞けない声が響き渡った。

 彼女は慌てて身を引きながら、頬を真っ赤に染め上げスカートの裾を押さる。


 伊織は予期せぬ展開に体が凍りつき、燐音は腹を抱えて笑い始めた。


「きゃ、きゃあだって! あの毒吐く子犬(ケルベロス・ベビー)が女の子みたいな悲鳴を上げてる! これは最高だ! 録音しておくべきだった! あははははは!」


 真っ赤な顔で俯く美代子の前で、燐音は遠慮なく笑い転げる。

 伊織はあまりのことに頭が真っ白になっていたが、彼は次の瞬間、またも予想外の光景を目にすることとなった。


 美代子は赤らんだ顔を上げると、恥ずかしそうに笑ってその場にしゃがみ込んだのだ。

 そこには悪いことをしたと思っていない、泉家のペットがいた。


 彼女はバナナと目線を合わせると、その頭に手を置いて口を開く。


「ごめんねバナナ。いきなり大声出しちゃったね」


 美代子は真っ先に、自分に恥ずかしい思いをさせた相手へと謝った。

 伊織は彼女のその行為に驚かされ、バナナの頭を優しく撫でる美代子から目が離せなくなってしまう。


「おなか痛い、おなか痛い。笑いすぎておなかが痛いー! これはボクの人生の中でも屈指の面白さだ! まさに傑作! まさに重畳(ちょうじょう)! いやー、バナナはよくやってくれた。後でいっぱい撫でてやるからなー」


 しかし、そこから先は伊織の予想通りの展開が待っていた。

 ズゴゴゴゴ……とでも形容すべきドス黒いオーラを(まと)いながら、美代子はゆらりと立ち上がる。


 伊織はまだ動けず、燐音は彼女に気付きもしなかった。


「ずいぶんと、楽しそうだねえ?」

「それはもちろ――ひぃぃぃッ!?」


 肩を掴まれた燐音は、ようやく自分の置かれている状況に気が付いた。

 走り出す勢いで美代子から離れようとする燐音だったが、あっという間に美代子に羽交い締めにされ、耳元で怨念のこもった声を聞かされる。


「このままリンにも、あたしと同じ目に遭ってもらおうか……」

「ひっ!? じょ、冗談だよね美代子。ボクをそんな酷い目に遭わせたりしないよね?」

「リンはあたしを、その酷い目とやらに遭わせてくれたんだけど……?」

「……そんなことも、あったかも……」


 燐音は気まずそうにそうつぶやくと、突如視線を伊織に向けて大声を出した。


「ぼ、ボクを助けろ伊織! 今こそ前世の借りを返すときだぞ!」


 だが伊織は、嵐に巻き込まれないように無言で視線をそらした。

 燐音はそんな伊織を憎たらしそうに見て、次にバナナを見て声を上げる。


「ば、バナナ! ご主人様の危機だぞ! 美代子に吠え立てるんだ!」


 しかしバナナも小さく首を(かし)げるだけで、燐音の命令を実行する様子はなかった。

 救援が来ない燐音に対し、美代子はなおも低い声で話しかける。


「諦めなさい。因果応報ってやつよ」

「ひぃぃぃ!? だ、誰か助けてぇ!」


 燐音は美代子の声に本気で(おび)え、大声で助けを求めた。

 だが伊織もバナナも彼女に手を差し伸べることはなく――そして状況は意外な方向へと転がり始めた。


 一人でいるときは鳴かないバナナも、その時はその場にいる人間に合図を送るために声を上げる。


「ワン!」


 伊織はバナナが玄関を向いて一声鳴いたことで、彼女が伝えたかったことに気付いた。

 彼はそのことを美代子に言う。


「美代子さん、たぶん、燐音のお母さんが帰ってきた」

「えっ?」


 美代子は力を抜いて燐音を開放し、自由になった燐音はすぐさま伊織の背中に隠れた。

 そうして燐音は彼の背から顔だけを出し、言った。


「た、助かった……。ど、どうだ美代子! 因果応報とはならなかったな! ボクは運命の因果律を操ることができる。見事な窮地の脱出だっただろう!」

「…………」


 そう言った燐音を美代子はジロリと見、次に伊織のことを頬を赤くしながら睨みつけた。

 伊織はさっきも同じようなことがあったなと思い、そして今度は美代子が睨んでくるのもわかるような気がした。


「ただいまー。あら、伊織くんが来てるの?」


 燐音の母親が玄関を開けたのは、そのすぐ後のことだった。



    ◇



 中二病ちゃんと呼ばれる泉燐音の自室は、黒色が基調でマンガやゲームが散乱する部屋だった。

 一見男の子の部屋のようだったが、ベッドに可愛らしい動物のぬいぐるみが置かれていたりと女の子らしい一面もある。


 しかし、その時は部屋の内装に感想を言い合ったりする雰囲気ではなかった。

 母親の帰宅により消化不良に終わってしまった美代子が、頬を膨らませて怒ったままだったからだ。


「み、美代子、ママがクレープ作ってくれるってさ。すぐに出来て美味しいぞ?」


 この時ばかりはさすがの燐音も腰を低くし、積極的に美代子に声をかける。


「よ、よかったらそれを食べて、機嫌を直してもらえると……嬉しいんだけど……」


 とうとう彼女は口調まで変えて、申し訳なさそうに小声で話し始める。

 そんな燐音を見て美代子はため息を吐くと、弱々しく笑って口を開いた。


「あたしさ、リンのことはもう友達だと思ってるんだよ」

「えっ?」

「だから今回のことは遠慮なく貸しにしておく。いつか絶対に返してもらうから」

「あう……」


 燐音は嬉しいのか困ったのかわからないような微妙な表情で返事を返し、美代子はそれで気持ちを切り替えることが出来たのか、軽く燐音の頭を撫でて笑った。

 しかし伊織に対してはまだ不満があるのか、美代子は直後に彼と目が合った瞬間、ぷいとそっぽを向いたのだが。


「ま、今はあたしのことよりリンの部室のことが先決だったね。そもそも今日はそのことを話し合うために来たんだし」

「う、うん。ありがとう美代子」

「お礼を言うなら伊織くんにもだよ」

「そ、そうだね。伊織もありがとう」

「……どういたしまして」


 美代子は伊織がそう言ったのを見て微笑み、そして改めて明るい声を出すと場を先導し始めた。


「よし、じゃあまずは何から話そうか。今リンに起こっている問題の、現状の確認からしたほうがいいかな?」

「美代子さん、それより先に、クレープがもうすぐ出来るみたいだよ。どうせ中断されるんだし話し合いはその後でもいいんじゃない?」

「あ、そっか。それならそれまでは軽い話題でも流していようか。うーん、何がいいかな」

「そうだなあ。燐音は何か聞きたいことあるか?」

「えーっと……」


 そうして彼らは雑談を開始しようとした。

 ところがその時、伊織たちの耳に一つの機械音が届く。


 ピンポーン。

 泉家のチャイムだった。

 伊織たちは顔を見合わせ、伊織が燐音に問いかける。


「お客さん? それとも宅配便か?」

「わかんない。でもママが出ると思う」

「……クレープ作ってもらってるのに?」

「うん。いつもそんな感じだし」

「ちょっとは手伝ってやれよ……」

「でも、知らない人と話すの怖いし嫌いだし」


 伊織は燐音の発言にあきれた表情を浮かべた。

 たしかに燐音の言う通り、すぐに彼女の母親が応対する声が聞こえてくる。


「……まあ、部外者の俺たちが出る幕じゃないか」

「そうだよ。ママが全部やってくれる。それに、多分ボクには関係のない用事だろうし」


 燐音はそう言って、いきなりゲーム機のスイッチを入れた。

 美代子はそのマイペースっぷりに目を丸くし、伊織は苦笑して小さく息を吐く。


 しかし、燐音の自分に関係ないという推測は外れていた。

 チャイムを鳴らした人物は彼女のよく知る人であり、また彼女の家に一番よく来る友人でもあった。


 燐音の家に、バナナの元気で嬉しそうな鳴き声が響く。


「ワン! ワン! ワン!」

「おお、バナナすごく喜んでるな。よほど親しい人が来てくれたのかな?」

「えっ……? あの吠え方は、まさか……」


 ゲームを起動しようとしていた燐音は、聞こえてきた愛犬の鳴き声にその手を止めた。

 伊織と美代子は不思議そうに顔を見合わせ、燐音がし始めたように耳を済ませる。


 やがて、上品な足音がまっすぐ燐音の部屋へと近付いてきた。

 燐音はまだ信じられないといった様子で固まり、伊織もその足音で直感的に一人の少女の顔が思い浮かぶ。


 コンコン。

 間もなく燐音の部屋がノックされ、部屋主は震える声で許可を出した。


「ど、どうぞ入って」


 ドアはすぐに開かれた。

 顔を覗かせた少女は、彼女らしい明るい笑顔と茶目っ気ある口調で彼らに言う。


「えへへ。来ちゃった」


 放課後の燐音の部屋に集まったその日最後のメンバーは、学校という(かせ)から解き放たれた香月結菜だった。



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