名付け親
神に愛された少女。
それは伊織の幼馴染に付けられた愛称であり、香月結菜という女の子をよく表した二つ名でもあった。
彼女は美人で気立ても良く、何をやらせても万事卒なくこなせてしまう奇跡のような少女だ。
そのため生徒たちは神に愛された少女という愛称をピッタリだと感じ、誰もが受け入れ日常的に使っていた。
だが当然のことながら、名前というものは誰かが思い付かないとその場に存在することはない。
しかも神に愛された少女と書いてギフテッドと読ませるという愛称など、普通の人はそうそう思い付くこともなく、また思い付いても誰かに伝えるのは恥ずかしい言葉だろう。
ところがその学校では、結菜と聞けば必ずその愛称が思い浮かぶほど生徒たちにその恥ずかしい言葉が普及している。
その理由は簡単なことだった。
彼女たちの学校には、常日頃からそのような言葉をよく使う女の子がいたからである。
「中二病ちゃんはミミと同じで、可愛いけど性格で損してるって言われてる女の子だよね」
「あの子はなあ……。伊織くんには悪いけど空気が読めないんだよね。変わり者というか偏屈というか。そもそも会話が成り立たないというか……」
「いや、俺も同意見だよ。あいつは友達欲しいくせに、自分のスタイルを曲げようとしないんだよ」
伊織たち三人は、彼の発案で教室の中を歩いていた。
目的地はすぐ近く。周囲にその人物以外誰もいない教室の一角だ。
真琴は嬉しそうに伊織の発言に反応する。
「それで、私たちがその友達候補なんだよね?」
「まあ、そうなってくれたら俺としても嬉しいけど、無理にとは言わないよ。とっつきにくい子なのは間違いないから」
「私はあの子嫌いじゃないよ。ちっちゃくて愛らしいというか、見ててほっこりするんだよね」
彼は友人の話題が出たことで、美代子たちにその友人を紹介しようと思い二人を連れ出していた。
中二病ちゃんと呼ばれている彼女は、伊織とは違った意味でクラスで孤立している女の子だ。
積極性はあるものの協調性がなく、その独特の話し方を変えようとしない。
だが伊織は彼女が実は寂しがり屋だと知っており、美代子と真琴が仲良くなってくれるならそれに越したことはないと考えたのだ。
「ただ私が一人で会いに行くと、話についていけなくてあの子がへそを曲げちゃうんだよね」
「見た目通り、子どもっぽいやつだからなあ。でも根は悪いやつじゃないし、素直なところもあるとは思うんだけど」
「うん。だから今日は伊織くんが橋渡ししてくれるってことで、とっても楽しみ」
「ご期待に添えるように頑張るよ」
短い会話を終え、彼らは目的地の彼女の席に到着する。
しかしその最後で、美代子が気になる台詞をつぶやいた。
「……あたし自身は、なんかあの子に嫌われてる気がするんだけどなあ……」
伊織と真琴は慌てて美代子を見たが、それに返事は出来なかった。
すでに相手の女の子がこちらに気付いており、急な来訪に驚いた表情を見せていたからだ。
変わり者で協調性がなく、喋り方が独特で会話が成り立たないと言われた女の子。
ところがその女の子は、意外にも伊織たち三人を見てすぐに微笑む。
結菜の明るい笑顔と比べると暗くて影のある微笑みだったが、それでも彼女は嬉しそうだった。
女の子の第一声は、嬉しそうな笑顔と尊大な口調で始まった。
「おやおや、これは珍しい客人だ。予期せぬ出来事と言わざるを得ないな、未来がボクの手から零れ落ちるなんて。あるいはもしや、運命の歯車が回り始めたとでも言うのか。実に興味深い」
彼女はそこで手を握り合わせ、続きを語る。
「何はともあれ、我が知恵の泉へようこそ。さあ、どんな話がしたいのか教えてくれたまえ」
彼女は本当に楽しそうな笑顔で、一気にその言葉を言い切った。
態度は子どもが背伸びしているような微笑ましい態度だったが、その口調は演技らしさは感じさせない雰囲気のあるものだった。
美代子たちは当然、クラスメイトである彼女がどんな女の子か理解している。
しかし、最初からいきなりここまで彼女ワールド全開だとは予想していなかったらしい。
二人は小さく口を開けた状態で固まり、伊織はそんな美代子と真琴に嬉しそうに声をかける。
「よかったね、二人とも歓迎されてるよ。彼女は機嫌がいいとよく喋るんだ。それにあの笑顔。よほど嬉しいみたいだよ」
美代子たちはその声で驚いて伊織を見たが、しかし答えたのは中二病ちゃんと呼ばれる彼女のほうが先立った。
「なっ!? い、伊織は何を言うんだ! ボクは嬉しくなんてないぞ? ホントなんだからな!?」
恥ずかしそうにわたわたと手を振って取り繕う彼女を見て、美代子たちも落ち着きを取り戻し、微笑ましい目を向け始めた。
そしてすぐに真琴が口を開く。
「そうみたいだね。何気にようこそって言われたのは初めてだし」
真琴も嬉しそうに言うと、しかしそこで眉をハの字に変えて笑った。
「でも、話す内容は相変わらずかなり独特だね。スプリングリンカネーションとか謎の単語が混ざるし」
それには相手の彼女がしょんぼりとした表情を見せ、そして返事をしたのは伊織だった。
「いや、謎ってほどでもないと思うよ。その単語は彼女の代名詞だからね。真琴さんも美代子さんもすぐにわかると思う」
「え、そうなの?」
「うん。よかったら考えてみてあげてよ。正解がわかったら彼女ももっと喜ぶと思う」
真琴と美代子は彼のお願いで、驚いたように顔を見合わせた。
けれどもすぐに二人はフッと微笑むと、真剣に嬉しそうにそのお願いに取り組んでいく。
「歓迎されているのなら、私たちだって負けてられないよね」
「そうだね。頑張ってみますか」
そうして二人が知恵を絞り始めたことで、悲しげに不安げにしていた彼女も明るさを取り戻した。
彼女は小さな子どものようにワクワクした様子で身を乗り出しながら、美代子と真琴の言葉を待つ。
そして伊織の言った通り、彼女たちが答えにたどり着くのはとても早かった。
「じゃあ一つ一つ考えていってみようか。スプリング、リンカネーション、代名詞……」
「あたしが真っ先にわかるのは代名詞ってとこかな。彼女の看板になる言葉か、あるいはそのまま名前の代わりにも使えるってことだよね?」
「そうだろうね。……ん? ちょっと待って。そのまま名前の代わり?」
開始十数秒で真琴は眉をひそめ、中二病ちゃんと呼ばれた彼女を凝視した。
「ん? んんんんん?」
真琴は盛大に首を捻りながら、彼女の顔を見続ける。
美代子はそんな真琴に苦笑し、イタズラっぽく尋ねた。
「なにか思い付いた? それともまさか、もう答えがわかったとか言い出すわけ?」
だが、真琴はそれに答えることはなかった。
代わりに彼女は中二病ちゃんの胸の辺りに人差し指を向けると、大真面目な口調で言った。
「あなたは泉燐音ちゃんだ!」
突如大声で女の子の名前を呼ぶ真琴。
燐音と呼ばれた彼女は「えへん」とばかりに胸をそらし、伊織も嬉しそうに微笑んだ。
しかし美代子は一人置いていかれた形になり、慌てて真琴に尋ね直す。
「ほ、ホントにわかったんだ? 名前が大きな意味を持つってこと?」
「……ええと……」
混乱したように質問する美代子と、驚いたようにして言葉を失う真琴。
二人はそこで見合わせて沈黙してしまい、すぐに伊織が口を挟んだ。
「真琴さんは答えがあまりに安直すぎて、戸惑っているんだと思うよ。美代子さんもスプリングリンカネーションを和訳して、彼女の名前に当てはめてみたらわかると思うよ」
伊織の安直という単語に、燐音と呼ばれた彼女はムッとした表情を見せる。
だが美代子はそれに反応する余裕もなく、恐る恐る伊織に言われたように別の日本語へと表現を変え始めた。
「スプリングは……、なるほど。泉って意味もあるか。でもリンカネーションは、生まれ変わるってことだよね?」
「うん、今回はそこは一番難しいところだね。けどそれでも簡単な部類に入ると思うよ。美代子さんが言ったその言葉を、それっぽい四文字熟語にしてみてよ」
「……輪廻転生……」
美代子はつぶやくようにそう言って、真琴と同じように黙り込んでしまう。
そんな二人を見て、伊織は明るい口調で面白そうに言った。
「そう。湧き出る泉と輪廻転生で、泉燐音。わかりやすい彼女の代名詞だよね。安直なのは単純に思い付いた時期が中学二年生ってことなんだ。燐音はその言葉が気に入ってて、今もずっと使ってるんだよ」
二人は「はぁ……」と納得したのかあきれたのかわからないような声を出す。
だが先ほどから不満そうにしていた燐音が、そこでとうとう口を開いた。
「さ、さっきから黙って聞いていれば、伊織はボクが一生懸命考えた名前をバカにしてるんだな? 安直ではなくシンプルで奥深いんだよ!」
彼女はまたも伊織に大きな声で突っかかっていく。
しかし伊織は落ち着いたもので、諭すように彼女に答える。
「あのな燐音、設定が変わってるぞ。おまえの二つ名は昔、夢の中で真実の扉を開けて、全宇宙の記憶を覗き見て付けたんだろ? 燐音が考えたわけじゃないよな」
「うっ。そ、そうだった。ついうっかりしちゃってた」
あっさりと矛を収める燐音を見て、伊織は頷きながら美代子たちに言う。
「燐音はこんな感じで、単純だし適当なところもあるんだよ。最初に言ったスプリングリンカネーションもおそらく別の文字が割り振られているんだろうけど、その辺は難しく考えずに雰囲気で適当に察していけばいいと思う」
「あー! また伊織はボクのことを適当とか言った! いい加減にしないと、いくら伊織だって許さないぞ!」
「燐音、適当じゃないって言うけど、俺が設定って言ったことにまだツッコミが入ってないぞ?」
「わ、忘れてた。せ、設定って言うな! あと全宇宙の記憶じゃなくてアカシックレコード! それに真実の扉もちゃんと呼び名があって――」
そのままぎゃあぎゃあと怒り続ける彼女だったが、伊織はそれをやんわりと無視して言葉を続けた。
「でも、やったな燐音。美代子さんも真琴さんも、ちゃんとおまえの二つ名を理解してくれたぞ」
「あ……」
「これは小さなことだけど、大きな一歩かもな。こうやって歩み寄っていけばおまえにもやっと友達が出来るかもしれないな」
「…………」
燐音は伊織に言われ、期待と不安が入り混じった視線で美代子たちを見る。
その視線を受けて、真琴が嬉しそうに彼女に声をかけようとした。
だがその直前で、伊織が軽く手のひらを見せて彼女を止める。
意表を突かれた真琴だったが、彼女もすぐに彼の言いたいことに気付き、静かに微笑んで燐音の言葉を待ち始めた。
「……え、ええと……」
燐音は三人に見つめられ、伏せ目がちに視線を彷徨わせていた。
彼女もここで、「友達になってください」と言えば状況が大きく好転しそうなことは薄々気付いていることだろう。
だがあと一歩の勇気が出せずに、燐音は忙しなくキョロキョロと左を見たり右を見たりを繰り返した。
しかしやがて彼女も意を決したようだった。
燐音は緊張した面持ちでゆっくりと口を開き――、そして直後にハッとなって動きを止めた。
そうして燐音は、またも尊大にふんぞり返ると美代子と真琴に言うのだった。
「よ、よし! 試練を乗り越えた二人は見どころがある! 配下に加えてやってもいいぞ!」
その発言には、三者三様の反応が返ってきた。
美代子はあいまいな表情で笑い、真琴は楽しそうに微笑み、伊織は眉をひそめて声を出す。
「あのな燐音……」
しかし燐音は伊織から逃げるように、彼の言葉を無視して一気に次を喋り始めた。
「ま、真琴は今日から北より真実を告げる者だ! これからよろしく頼むぞ!」
それを聞いて伊織はますます眉間の皺を濃くし、真琴はすぐに嬉しそうな声色で伊織に尋ねる。
「おお、私もなんか名付けてもらっちゃった! しかもなんとなく意味もわかるよ! 私の本名ってことだよね?」
「おそらくそうだろうね。ノースラインは北条だろうし、ピュアは……、真琴って名前を真実に変えて、真実を純粋って言葉に変えたのかな」
伊織の言葉を聞いても燐音は得意げだったので、彼らはそれが間違ってないのだろうと思った。
真琴はすぐに口を開く。
「じゃあ燐音ちゃんは、今日からリンちゃんと呼ぼう。これからよろしくね」
「あ、う、うん。よろしくお願いします……」
素に戻って返事をする燐音を見て、伊織は笑いながら言う。
「結菜もそう呼んでるし、ちょうどいいんじゃないかな」
「あれ、そうなんだ。安直――じゃなくてシンプルで奥深い愛称だからかな?」
二人はそこで笑い合い、そして真琴は改めて燐音に尋ねる。
「じゃあリンちゃん、次はミミの番だね。美桜美代子も仲間外れにせずに愛称を付けてあげるんだよね?」
明るい口調でそう問いかける真琴。
しかし、それを聞いた燐音は一変させる。
真琴も伊織も、その問いかけに燐音が再びふんぞり返る姿を想像していた。
だが彼女は予想外なことに、一転してビクビクと不安そうにして美代子を見る。
「……ええと、もしかしてリンちゃん、まだミミのあだ名は思い付いてないとか?」
「そ、そんなことはないぞ。ボクは彼女が怖くなんてないんだからな」
燐音は聞かれてもない言葉を自ら口にした。
真琴は「えええ……?」と小さく声を上げ、美代子も驚いて目を丸くする。
そして伊織は美代子が言っていた「あたしはあの子に嫌われている気がする」という言葉をなんとなく思い出していた。
だが、間もなく燐音は、ポツリとつぶやくようにその名前を言った。
「け、毒吐く子犬……」
それには真琴が吹き出しながら口元を押さえ、美代子は慌てた様子で伊織に聞いた。
「え、どういうこと? あたしはイマイチ意味がわからないんだけど」
今までとは毛色が違う愛称と笑いを堪える真琴に、美代子は混乱していた。
伊織も困り果てた顔色になり、ゆっくりと喋り始める。
「ケルベロスっていうのは、その……」
「その?」
「冥界の門を守護する、三つ首の番犬……」
「…………」
美代子はその言葉で、思わず表情が真顔になっていく。
燐音は彼女の反応に「ひぃ」と一度は怯むものの、すぐに虚勢を張るようにして話し始めた。
「そ、そうだ。美代子はボクの番犬だ! こ、これからボクのことを精一杯守るんだぞ!?」
「…………」
そのようなことを言われた美代子は、愛想笑いも忘れて燐音を見る。
すると彼女は再び身を震え上がらせ、「こ、怖くなんてないんだからな!」とまたも聞かれてもいないことを喋った。
美代子はそんな燐音の姿を見ると、小さくため息を吐いて疲れたように口を開いた。
「別に番犬に命じられなくても、友達ならあなたを守るのは当然だよ」
「あ……」
「これからよろしくね、リン」
「う、うん。あ、ありがとう美代子……」
「……どういたしまして」
燐音がありがとうと言ったことで、美代子も顔の強ばりを解いて小さく微笑んだ。
それを見た伊織も、ホッと胸を撫で下ろして息を吐く。
そこへ、真琴が底抜けに明るい声で話しかけてくる。
「いやー、面白かった。ケルベロスベビーは傑作だったよリンちゃん」
「ふ、ふん。当然のことだ。ボクは傑作しか付けないからな」
燐音がそう言うと、不思議なことに伊織がサッと顔を曇らせた。
彼はすぐに話題を変えようと口を開くが、しかし一歩間に合わず、真琴が先に地雷原に足を踏み入れてしまうこととなる。
「じゃあじゃあ、伊織くんにはなんて愛称を付けてるの? 友人なんだからもう何か付けているんだよね?」
「う、あ……」
それは今までで一番の表情の変化だった。
燐音はまたたく間に青ざめていき、まるで生まれたての子鹿のように体を小刻みに震わせる。
「え、ちょっとリンちゃん大丈夫?」
彼女の急変に、真琴も慌てて近寄り声をかける。
伊織はそんな二人の様子を見て、苦笑して心を決めた。
「あるよ、俺にも二つ名が」
彼は最大限に笑ってそう言った。
女の子たち三人の視線を受け、伊織は言葉を続ける。
「燐音が俺に付けた名前は神に成れなかった少年。燐音は結菜に神に愛された少女と名付けたタイミングで、俺にも愛称を付けてくれてたんだよ」
その言葉で、今度は美代子と真琴が凍りつく。
二人はあまりの衝撃に言葉を失い、その場には燐音の「伊織、ごめん、ごめんよ」という言葉が流れ続けていた。




