少女は幼馴染を起こす
第二章になります。
改めてよろしくおねがいします。
6/8 誤字を修正しました。ご報告ありがとうございました。
6/19 誤字修正を行いました。ご指摘ありがとうございます。
「ねえ、起きて」
それは、透き通るように美しい声だった。
優しい声色で、どこか甘えてくるように話す少女の声。
温かい布団に包まれていた少年は、穏やかな気持ちで意識が覚醒していく。
続いて、緩やかに体が揺さぶられる感覚。
決して強引さは感じず、柔らかい触れ方で心地よく目覚めが促される。
「目を覚まして。あなたの幼馴染が朝を知らせに来たよ。ほら、起きて?」
それはよくよく考えてみれば、少年が自分の親の声よりも多く聞き続けてきた声だった。
彼は自分の頭がはっきりしてきたことを確認すると、苦笑しながら目を開く。
するとすぐに、愛らしい瞳が間近に迫り覗き込んできた。
造形の整った顔に、嬉しさを全面に出した笑顔。
少女――香月結菜はにこやかに笑うと、目を覚ました少年に話しかける。
「おはよう、伊織。今日もお互い頑張ろうね」
また目の前の彼と同じ一日が過ごせることが幸せであるかのように、結菜はそう言って微笑んだ。
門倉伊織という少年は、超が付くほど完璧な美少女を幼馴染に持つ幸運者だ。
しかも結菜はただの美少女ではなく、性格も優しくて世話好きな女の子だった。
伊織は自分が恵まれた幸せ者だと重々理解しており、いつでも結菜に感謝を忘れない。
しかし今朝の状況は、伊織にとっては必ずしも手放しで喜べる状況ではないらしい。
苦笑しながら起き上がった彼は、間近で微笑む結菜を若干ジト目で見つめ返す。
彼は結菜に感謝をしているのは間違いないが『それはそれ。これはこれ』というやつのようだ。
「おはよう、結菜。まずは起こしてくれてありがとう。おかげで気持ちのいい目覚めを迎えることが出来たよ」
「どういたしまして。すぐに朝ごはんできるから、降りてきてね」
「ああ」
結菜に甲斐甲斐しい言葉をかけられても、伊織が心から笑うことはなかった。
それどころか、彼は視線を鋭くすると彼女に問う。
「でもその前に……、今度は何を企んでいるんだ?」
突如厳しい言葉で、伊織は幼馴染を問い立てた。
結菜は眉一つ動かさずに、彼の前で微笑み続ける。
門倉伊織と香月結菜は、たくさんの時間を共有して生きてきた二人だ。
複雑な家庭で育った彼らは、すでに自らの親よりも幼馴染と過ごした時間のほうが長くなっているほど。
そのため、二人のお互いに対する理解は深い。
伊織はその長年の経験から、今日の結菜の行動は怪しいと考えている。
にこやかに笑う香月結菜。
彼女は学校で絶対的な高嶺の花と呼ばれるだけあって、外では穏やかで淑やかに振る舞う女の子だ。
もちろんそれは結菜の性格の一部なのだが、彼女にはあまり知られていない別の一面もある。
「おまえが起こしに来てくれることは……まあ珍しくないけど、でもここまで優しいのはなんか裏がありそうな気がするんだよな」
結菜はいつでも遊び心を忘れない、明るく生き生きとした少女でもあった。
そして心を許しきった伊織には、その遊び心からお茶目なイタズラを仕掛けて楽しむことも多い。
「たしかにいつもとは違う起こし方っていうのは認めるけど、でもそこまで警戒されちゃうものかなぁ?」
結菜は声色を少し砕けた感じに変えて、伊織に言う。
彼女の言い分ももっともなのだが、彼は軽く肩を竦めながら返事を返した。
「目覚めは快適だったけどな。でもおまえのスペックで悪戯される身にもなってみろよ。警戒もしたくなるさ」
香月結菜は容姿も性格も優れた少女と言えるが、彼女のスペックはそれだけに収まらない。
文武両道を地で行き、芸術方面でもその才を見せ、細かな身の回りのことも滞りなく行うことが出来る、まさに隙のない凄まじくハイスペックな少女だ。
そして彼女はその能力をイタズラを行う場合にも出し惜しみせずに使うことがあり、被害を受ける側の伊織としては気が気ではなかったのだ。
そこで結菜はとうとう苦笑すると、彼に向けて口を開く。
「まあ、伊織のその気持ちもわかるけどね。私も日頃の行いっていう言葉を感じちゃうし」
「だよな。だから今度はどんなことを企んでいるんだ? もったいぶらずに教えてくれよ。悪戯じゃなかったら、また俺を何かの実験台にしたいとかなのか?」
伊織は幼馴染が同意する素振りを見せたことで、勢いづいて彼女に問いかける。
その時の彼は、結菜が苦笑したまま「しょうがないな」といった感じにネタばらしをしてくれるものだと考えていた。
ところが彼の予想は外れてしまう。
結菜は楽しそうに笑うと、再び優しげで聖母のような微笑を浮かべた。
「……ふふ」
そして怪訝そうに眉をひそめる伊織に向けて、結菜は本当に嬉しそうに自分の心の内を語るのだった。
「残念。今日は裏なんてないよ。私だってたまには、あなたの顔をじっくりと見つめたくなるときがあるんだよ」
それはまっすぐな好意だった。
伊織には結菜の言葉の真偽がわかる。
結菜の優しさが偽りではないことを知った伊織は、驚きでその場から動けなくなってしまった。
「…………」
警戒が解けた伊織の心に、スルリと結菜の笑顔が入り込んでいく。
元々超美少女である結菜の微笑みは強力極まりない。
伊織はついにその笑顔に陥落し、頭を真っ白にして彼女を眺め続ける。
そしてその姿は、彼をからかって遊ぶ結菜としては格好の標的だっただろう。
けれども機嫌が良さそうにしている結菜は、獲物を前にしても柔らかな表情を変えることはなかった。
彼女は一歩伊織に近付くと、その胸の辺りを人差し指でツンと突く。
「じゃあ、着替えて降りてきてね。すぐに朝ごはんにするから」
彼女は伊織と目を合わせると、にこりと微笑んでそう言った。
そして結菜は「待ってるからね」と言葉を足し、身を翻して彼の部屋を出て行く。
去り際に結菜はドアから顔を覗かせ、小さく手を振ってから階下に降りていった。
後に残された伊織は、ボーッとした表情でいつまでもベッドの上で佇んでいた。
伊織と結菜は長い長い付き合いだが、だからといってお互い心が凝り固まるわけではなく、今も新鮮なドキドキであふれている。
◇
門倉家の食卓に、今日も結菜の手料理が並ぶ。
早起きして作る彼女の朝食は、和洋を問わない。
その日はサンドイッチにサラダ、スープなどの洋食風な朝食で、サラダ用のドレッシングまで彼女のお手製のものだった。
部屋着に着替えた伊織は、いつものように結菜と二人っきりで食卓を囲む。
朝は彼の母親も家にいるのだが、仕事で帰りが遅い時間になる彼女はまだ就寝中だった。
「いただきます」「いただきます」
早速サンドイッチを手に取り、可愛らしくかじりつく結菜。
しかし伊織は挨拶をしたものの、食事を始めず何やら迷っているようだった。
やがて彼は美味しそうに口を動かす結菜を見て決心したのか、彼女へと声をかける。
「さっきは悪かったな」
「え? 私の優しさに裏があるって言ってたこと?」
「それだよ。ぶっちゃけ絶対に何か企んでいるに違いないとまで考えてたんだ。だから謝っとく。ごめんな」
「あはは、信用度ゼロだ。でもいいよ。私は自業自得のところもあるし、気にしてないよ」
結菜は明るくそう答えて、再びサンドイッチを口にする。
対する伊織はなおも迷っている様子を見せていたが、やがてぎこちなく微笑むとサラダから手を付け始めた。
そして一口目を食べ終えて、彼が結菜に美味しいと告げようとした時のことだった。
不意に結菜がぽつりと言う。
「伊織は変わったよね」
驚いて動きを止める伊織に、結菜は目を合わせずに話し続ける。
「私に謝ることが本当に増えたよね。子どもの頃はもっと対等だったと思うよ。今朝のことだって、私がいつもイタズラしてるからあなたも警戒しただけでしょ? そこまで気に病むこともないと思うけどなぁ」
その言葉を聞いた伊織は、弱々しく笑って答えた。
「子どもの頃と今では事情が違うだろ。あの頃は俺も今より生意気だったし、おまえにここまで世話にもなっていなかったし、それに善意を疑った俺が謝るのはおかしなことでもないだろ?」
結菜はそこで顔を上げると、寂しそうに彼の目を見た。
そうして彼女は、静かに伊織に告げる。
「あなたが私に謝ることが増えた一番の理由は、学校で私と他人のふりをしているからだよね」
うっと小さくうめき声を上げ、伊織はわずかに体を仰け反らせた。
しかし彼は結菜の悲しそうな目を見ると、慌てて笑って彼女に言った。
「そ、そんな顔しないでくれよ。俺はおまえと仲違いしたくて謝ったわけじゃない。それに、ちょっとずつだけど世界は変わってきてるだろ? たった二人だけど、俺たちの秘密を打ち明けた人も出てきたし、な?」
必死になって、伊織は結菜に声をかけた。
だが、それでも結菜の表情は変わらなかった。彼女は寂しそうな表情のまま、沈んだ調子の声を出す。
「ここも昔と違うところかな。今の伊織は私を腫れ物に触るように扱ってるところがあるんだよね。私がちょっとでも悲しそうな顔をすると、伊織は大慌てで私に優しくし始めるよね」
その発言で、彼は再び言葉を失った。
そして結菜の言う通り、困ったように不安そうに彼女の顔色を窺い始める。
すると結菜は一転、そこで朗らかに微笑むと元気に言った。
「なんてね?」
またも動きを止めて驚く伊織の前で、結菜は明るく楽しそうに言葉を続ける。
「伊織は昔から、私が落ち込んでるとすぐに励まそうとしてくれる子だったよね。そこは今も変わってないよね」
そこまで話すと結菜はちょっぴりイジワルっぽく微笑み、人差し指を立てて伊織に言う。
「それにあなただって知ってるでしょ? 私はメソメソし続けているような性格じゃない。だから少々疑われたところで落ち込んだりしないし、反省してあなたへのイタズラを止めたりもしないんだよ」
結菜はそこまで言い終えると、小さくチロリと舌を覗かせた。
それを見て、伊織もようやく口元を緩ませる。
「……そういうのは、俺もわかってたはずなんだけどな」
伊織はそうつぶやくと、サンドイッチを手に取った。
そしてそれに一口かぶりつくと、やがて結菜に言う。
「おまえのそういう性格も気にしてなさそうなのも理解していたはずなのに、でも、どうしてだかおまえを前にすると謝るべきだと思い込んでしまったんだよな。謝らざるを得なかった」
「伊織は生真面目だからね」
「……生真面目だから、なのかね?」
「そうだと思うよ。伊織は筋を通したりすることが嫌いじゃないでしょ?」
結菜は笑いながらそう言って、伊織は「そうなのかねえ……」と納得がいかないようにサンドイッチにかぶりつく。
そうして彼はサンドイッチを食べ終え、次にスープに手を付け始めようとした瞬間、パッと明るい面持ちで顔を上げた。
「ああ、そうか。もっと大きな理由がわかったかもしれない」
「ん?」
彼女が伊織に視線を向けると、彼は嬉しそうに結菜を言った。
「俺、なんだかんだ言ってもおまえに優しく起こしてもらったのがすごく嬉しかったみたいだ。だから疑ってしまった自分が許せなくて、おまえに絶対に謝らなくちゃって考えたんだと思う」
「…………」
結菜はそう言って爽やかに笑う伊織から、急いで目をそらした。
彼は気付かなかったが、結菜は自分の顔にみるみる血が集まっていっていると感じていた。
自分の行動が伊織に受け入れられ、そしてとても嬉しいと言ってもらえた結菜は『たったそれだけのことなのに』と思いつつも胸のドキドキが止まらなくなっていたのだ。
やがて彼女は口を強く閉じて顔のほてりを抑え、伊織に向けて笑顔で口を開く。
「じゃあこれからもここに泊まったときは、毎回あなたを起こしてあげようか?」
それには伊織が一気に眉をひそめ、すぐに答えた。
「いや、それはおまえの負担が心配だし、それに何より、おまえって俺が無防備に寝てると、いつか我慢できなくなって悪戯してきそうなんだよな」
「あはは、ひどい言われようだね。私だってあなたに優しくするのが好きなんだよ?」
「そこは疑ってないが……、でも悪戯もしたくなるだろ?」
「ふふ、ごめん。そこは否定しない」
そう言って楽しそうに笑う結菜と、やれやれとため息をつく伊織。
結菜は笑いながら、今のような幼馴染との時間が最高に楽しいと感じていた。
「ねえ伊織、じゃあ逆にあなたが私のことを起こしに来てくれるっていうのはどう?」
「……別にいいけど、罠とか仕掛けておくなよ?」
「罠とか言うんだ。さっき私を疑ったことを謝ったばかりなのに」
「そ、それは……。お、おまえだって日頃の行いがあるって自覚してるんだろ? だから俺だけを責めるのはおかしいよな?」
伊織のその言葉で結菜は再び笑いだす。
彼と彼女の食卓は今日も賑やかで、そしてその時間があるからこそ、結菜はまた明日も全力で伊織に尽くしてあげたいと思うのだった。




