年頃の少女たち
「そっか。伊織くん、彼女いないんだ……」
潤の口からそんなつぶやきが漏れたのは、彼女たちが練習を終えた帰り道の途中だった。
結菜を中心として歩く女子高校生たちの集団。
彼女たちは今日も大満足の時間を過ごし、通行人の邪魔にならないように注意しながら、みんなで仲良く家路を急いでいた。
潤の姿はその輪の一番外にあった。
彼女は珍しくメンバーたちの会話に混ざらず、歩調を合わせつつも一人考え事に耽る。
「変なの。こんなことつぶやいちゃうなんて、まるで私、恋してるみたい」
潤は彼女らのバンドのリーダーで、ボーカルを担当している。
同時に作詞作業も手がけており、その詩は思春期を送る女の子らしく恋心を扱ったものが多い。
彼女はそのような立場から、知識欲として恋話を貪欲に求める質の女の子だった。
その性格はライブという大きな目標を前にして鳴りを潜めていただけで、潤には元々耳年増と言われる一面があった。
「でも、恋とは違う……よね。彼のことはちょっといいなって思ってるけど、それ以上の感情はない……よね。うん」
彼女の頭の中から伊織のことが離れなくなっていたのは、そのためだ。
ライブへの準備が整い心に余裕が生まれていた彼女は元の性格が顔を出し、伊織のことが頭から離れなくなっていたのだ。
「彼のことがいいなと感じるけど、愛とは違うみたい。そっか、もしかしてみょこもこんな気持ちなのかな?」
そこで潤は旧友たちのことが気になり、後方を振り返った。
美代子と伊織は今日も一団の最後尾にいた。彼らは寄り添うように並び、二人で歩く。
一見すると、仲が良さそうにも見える距離。
しかし二人は無表情というほどではないが、淡白な表情で前を向く。
結菜の周囲とは違い、伊織と美代子の間に会話は少ない。時折美代子が話しかけるのに対し、伊織が受け答えしているくらいだ。
「……やっぱり二人の間に恋愛感情は見られない。好きな人と話すならもうちょっと嬉しそうに話すはずだよね? みょこが伊織くんの隣から離れないのは、彼を引き入れた責任感からだったんだね」
潤は美代子と伊織の間に何があったのかを知らない。
もし潤がもう少しだけ早い時期に二人を観察していたら、美代子の個人的な感情にも気付けたことだろう。
しかし今の美代子は伊織に壁を感じてしまい、若干距離を置いている状態だ。
潤が彼女の「あたしと伊織くんはただの友達」という言葉を完全に信じてしまうのも、仕方のないことだった。
前に向き直った潤は、口元に手を当て考え始める。
「それでもみょこは伊織くんのことを認めているみたい。でないと誘ったりしないだろうし。彼の良さは認めているけど、性格的には合わないから友情止まりってことなのかな?」
伊織という少年への考察をさらに深めていく。
「うん、わかった。とっても余計なお世話かもしれないけど、伊織くんって恋愛に関しては損をしてるんだ。みょこに認められるような魅力を持っているのに、積極性の無さでそれに気付いてもらえない。気付いてもらえても、好きになってはもらえないのね」
彼女は今までの練習の記憶を思い返す。
考え直してみれば、濃密な練習が出来た影には要所要所で伊織の存在があった。
「伊織くんはいい人。困っていたらすぐに駆けつけてくれるし、荷物は何も言わずに持ってくれるし、それが裏方としての役割かもしれないけど、それでもちゃんと目を光らせてくれている」
潤はもどかしさを感じた。
目の前でとても値打ちのある骨董品が売られているのに、誰も手に取ろうとしないようだと彼女は思った。
「差し出がましいのはわかってるけど、それでも伊織くんにも幸せになってもらいたいな。誰かいい人がいたら、全力で応援してあげるんだけど……」
伊織に恩義を感じながらも恋愛感情は持っていなかった潤は、そこで純粋にそう思った。
だが直後に、彼女は知り合って間もない自分が伊織の恋愛に踏み込むのは下世話なことだと考え直す。
何度か首を振った潤は、モヤモヤとした気持ちを抱えながらも割り切るようにつぶやいた。
「ううん、変なことは考えず、伊織くんへのお礼は別のちゃんとしたもので済ませよう。そしてこの焦れったい気持ちは、せめて新しい曲作りに活かさせてもらおう」
潤はそこで気持ちを切り替え、伊織という少年のことは頭の外に追いやろうとした。
そして、なんとかして今の気持ちを曲に表せないものかと彼女は考え始める。
しかし潤が伊織のことを忘れようとした瞬間、その伊織本人が不意に彼女の隣を横切った。
潤は驚いて顔を上げた。
すぐ隣を、男性の大きな背中が通り過ぎていく。
意図せず目を奪われてしまう潤をよそに、伊織はなおも歩幅を広げて歩き続ける。
「ちょ、ちょっと伊織くん」
潤は思わず彼を呼び止めようとする。
しかし彼女の発言は、伊織を追いかけるようにして歩いてきた人物に遮られた。
「大丈夫。彼はどこかへ行こうとしてるわけじゃないよ」
「みょこ?」
それは後ろにいたはずの美代子だった。
彼女は潤の隣に並ぶと、目線で前を向くように促す。
「あんまり目を合わさないほうがいいと思うけど、ほら、伊織くんの前」
「あ……」
美代子に言われた潤は、すぐに状況を理解した。
たしかに伊織の歩く先に、軽薄そうな大学生っぽい男だけの集団が歩いてきていた。
帰り道を急ぐ潤たちにとって、出来れば関わり合いになりたくない集団。声をかけられると面倒なことになる、と潤は思った。
彼女はバンドのリーダーとして、いつもは頑張ってナンパに立ち向かう。
だがその時の彼女は、身を縮め息を潜め、まるで伊織の背中に隠れるように歩き始めた。
やがて二組の距離は縮まり、すれ違っていく。
彼女たちより人数が多そうな男たちの集団は好奇の目を向けてくるだけで、直接言葉をかけてくることはなかった。
彼らはすぐに別の道へと曲がり始め、あっさりとその声も聞こえなくなる。
「……よかった。何も起こらなかったね」
潤は大きく脱力すると、すぐに思い出したように美代子に話し始めた。
「そういえばすっかり忘れてたよ。ああいうニアミスも有り得るんだった。今は特に結菜さんがいるから気を付けないといけないのに、油断しちゃってたね」
その言葉に、美代子は苦笑する。
あいまいに答えようかとも思ったが、彼女は正直に話すことを選んだ。
「いや、実はすでに何度かあったんだって。潤たちは可愛いし結菜もいるし、大声ってほどじゃないけど本当に楽しそうに話してるから、結構目立ってたからね」
「え、それってひょっとして」
「そ。彼が全部追い払った。まあそれは言い過ぎかもしれないけど、今みたいに地味にプレッシャーを与えて、話しかけられる前に騒動を回避してたね。幸い騒動には発展してないね」
「……そうだったんだ」
伊織は出番は終わったとばかりに、静かに元の位置に戻り始めた。
潤はその姿を上目遣いに見送ると、下を向いてまたも自分の世界に引きこもっていく。
「彼ってちょっとキザなところあるよねえ。物事に大真面目に取り組んでいる結果かもしれないけど、自覚してない分タチが悪いっていうか」
楽しそうに話す美代子の言葉を、潤はすでに聞いていなかった。
知らず知らずのうちに自分たちが守られていたことを知った潤は、鼓動を早めながら伊織のことだけを考えていた。
裏方に徹し、黒子のように働く伊織。
いい人だと思っていたけど、彼はその予想以上にもっといい人だったこと。
自分の功績を語らない伊織は、あるいは他の場所でも損な役回りを引き受け、苦労しているかもしれないこと。
色々なことを考えた潤は、やがて彼への感謝の気持ちを爆発させる。
彼への恋愛感情を持たなかった潤が選んだ行動は、彼の境遇を詞にすることだった。
「ごめんみんな!」
「え?」
突如潤は、隣で喋っていた美代子がビックリするほどの大声を上げる。
「さっき途中に公園あったよね? 何かすごい曲が思い付きそうになったから行ってくる! 先に帰ってて!」
「ちょっと、潤!?」
そう言うが早いか、潤はメンバーたちの返事も聞かずに駆け出した。
美代子はあっけにとられ、小さくなっていく潤の姿を見送る。
残されたメンバーたちもしばらくの間固まっていたが、やがて美代子より先に元通りの笑顔を取り戻し始める。
彼女たちは今も固まったままの美代子に、笑いながら話しかけた。
「潤センパイって、たまーにあんな感じで周りが見えなくなるッスよ。思い込んだらまっすぐなところがあるッスよ。熱いリーダーでもあるんス」
「そうそう。潤はさっきまで一人でブツブツとなんか言ってたし、いきなり走り出すのは読めなかったけど、でもいつものことだと思って私もスルーしてたよ」
「本人も言ってたけど、それで良い詞でも思い付いたんでしょ? 気にすることないと思うよ」
美代子もそれを聞いて、ようやく小さく笑いだした。
メンバーの中心にいた結菜も、穏やかに笑いながら口を開く。
「私もなんとなくわかるかなー。潤ちゃんの私への第一声って、お願いします助けてください、っていう気持ちがこもったお願いだったよねー」
結菜のその言葉で、メンバーたちもその時のことを思い出す。
それは先日の空き教室を借りての話し合いの、潤の第一声だ。
「そうだったッス! 自分も慌てて結菜センパイに直角に腰を折ったッス!」
「私もビックリしたよ。予定とは違う行動だったし、みょこさんが怒り出してぶち壊しになったんじゃ、と焦ってたよ」
今まで仲良く話していた彼女らは、そのままの流れで会話を再開させていた。
美代子は苦笑し、「あたしだってそこまでじゃないよ」と答えた。
そうして美代子はスマホを取り出すと、盛り上がる彼女たちに向けて言う。
「でも、これからどんどん人気がなくなる時間帯だし、女ひとりで公園はダメだね。どこかの店に入るように言っておくよ」
しかしその言葉には、理緒たちが眉をひそめた。
「あー、潤センパイ、夢中になったら電話に出ないんスよね」
「スマホ見てるかも怪しいんだよね。他が見えなくなるっていうか、のめり込んじゃうっていうか」
スマホを操作しようとしていた美代子は、彼女らに言われて手を止める。
たしかに先ほどの潤の姿からすれば、スマホを見ないというのも納得できる話だった。
美代子は大きくため息を吐くと、困り果てたように口を開く。
「じゃあ余計に心配だ。暗くなってから知らない女に声をかける男には、ろくなやつがいない」
それにはすぐに他の人が「言い切っちゃうんだ。善意で心配してくれる人もいるでしょ」というツッコミを入れるも、美代子は聞き流す。
彼女はその意見を否定するつもりはなかったが、やはり可能性としてはトラブルに遭うほうが高いと考えていた。
美代子はやれやれとばかりに小さく息を吐くと、しかしメンバーたちに柔らかく微笑み、言った。
「ちょっとあたしが見てくるよ。みんなは先に帰ってて。何があってもなくても、途中で必ずマコに連絡入れるから」
だが今回の美代子の言葉にも、理緒たちは微妙な表情で応える。
喋らない美代子は可愛らしい女の子だという認識は、彼女を知る人なら公然の秘密だ。
メンバーたちの頭の中には、ミイラ取りがミイラになるという言葉が思い浮かんでいた。
誰もが次の一手に悩む状況。
そんな時に、結菜が誰にも気付かれず伊織の視線に応えたのは、まさに一瞬のことだった。
幼馴染の二人は視線だけでやり取りを交わし、伊織は集団の最後尾で声を上げる。
「俺が行くよ。潤さんは俺一人が現れると驚くかもしれないけど、伝言を伝えて安全な場所に移動してもらうだけだから。何かあったら美代子さんに連絡入れる」
彼はそう言って片手を上げると、時間が惜しいとばかりに走り出した。
残された彼女らは、再び唖然としながらその場に立ち竦む。
「…………」
美代子は小さく口を開けたまま、潤を追いかけていく伊織の背中を見つめていた。
彼と彼女との距離が離れていくにつれて、次第に美代子の鼓動も早さを増していく。
やがて美代子はハッとなって思考を回復させると、憎々しげに言い放った。
「あのバカ、可愛い潤が一人になるのを待ってたな。送り狼にでもなるつもりでしょ。やっぱりあたしも行ってくる! 連絡はマコに入れるから!」
美代子は今度こそ、皆の返事を待たずに駆け出した。
そしてその場にいたメンバーたちは、今度は唖然とすることなく、失笑を浮かべて顔を見合わせる。
「……あれってどう見ても、伊織くんが送り狼になるって言うよりさ」
「うん、みょこさんが伊織くんにヤキモチ焼いてる可能性のほうが高いよね」
「じ、自分もそう思うッス」
メンバーたちはそこで楽しそうに笑い合う。
事情を詳しく知らない彼女たちは、美代子がずっとベッタリ伊織の後を追いかけていたことぐらいしか覚えていなかった。
そのため皮肉なことに、その会話は潤よりもはるかに真実に近いものだった。
やがて彼女らは誰とはなしに「じゃあ私たちは急いで帰ろうか」と言い出し、また仲良く歩き出す。
真琴はその輪の中で「ミミ、頑張れ」とつぶやき、結菜はいつものようにただ穏やかに微笑むのみだった。
◇
潤は無事に一人で公園にたどり着いていた。
彼女は目に留まったブランコに腰を下ろし、スマホを取り出してメモのようなものを取り始めている。
しかし威勢良く飛び出してきたはいいが、彼女のスマホを操る指先の動きは鈍かった。
一時期は感情が決壊したようにあふれてきていた彼女だったが、地に足が着かない思考を上手く文章にするのは難しい。
彼女はうんうんと唸りながら、けれど真剣にスマホの画面を見続けていた。
誰もいないと思っていた公園に少年の声が響いたのは、そんなときだった。
「潤さん」
名前を呼ばれた潤は、目を丸くして声のした方向を向く。
彼女は早くもその時点で、心臓が高鳴っているのを感じていた。
「みんな心配してたよ。こんな時間に潤さん一人で公園にいるのは危ないって」
対する伊織は軽く息を整えながら、ブランコの近くに歩いていく。
そして会話をするのに遠すぎない距離で、彼は立ち止まった。
それはしかし、潤にとっては少し遠くに感じる距離。
伊織が彼女を下の名前で呼ぶのは彼女に親しみを感じているからではなく、潤が名字をあまり好きじゃないと答えたからに過ぎなかった。
「何かが閃きそうなときの時間が大切なのはわかるけど、ライブも近いし安全策を取ろう。どこか店に入るか、家に帰って頑張ったほうがいいと思う」
潤は伊織のその言葉に、眉をひそめて笑った。
彼女は自分の鼓動がどうして早くなっているのかをちゃんと理解できないまま、伊織に返事を返す。
「ありがとう伊織くん。でももうちょっとで何か浮かびそうなの。よかったらちょっとだけ付き合ってくれないかな?」
伊織はそれを、簡単なボディガードの依頼のように受け止めた。
自分が少しの間ここにいれば、潤の気は済むだろう。彼はそう考え、その場で頷く。
「わかった。潤さんが安全な場所に行くまでは付き合うよ。でもまずはみんなに潤さんの無事を報告させてほしい」
「本当にありがとう。そして、それが終わったら早速一つお願いを聞いてもらってもいい?」
「どうぞ」
「伊織くんちょっと遠いよ。それだと話すのに疲れちゃう。だから、もうちょっとこっち来てもらえない?」
「……了解」
伊織は潤の目を見ながら歩き出し、彼女が望んでいるであろう距離を察してそこまで近付いた。
ほんのりと頬を染めた潤は小さく微笑むと、直後恥ずかしそうに目をそらして再びスマホの画面を見始める。
伊織も自分のスマホを取り出すと、最近登録したばかりの美代子へとメッセージを送った。
美代子は肩で息をしながら、それでも懸命に走っていた。
彼女は運動が得意なほうではない。走れど走れど姿が見えない伊織のことを恨めしく思い、同時に早く追いついてまた隣に捕まえておきたいと感じていた。
伊織からのメッセージで彼女のスマホが揺れたのは、あるいはちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
限界が近付いていた美代子はその振動で立ち止まり、荒く息を吐きながら小休止を取る。
やがて彼女はスマホを見ると、メッセージの送り主とその短い一文を確認した。
『潤さんは無事。みんなにも伝えてあげてください』
それを読んだ美代子は、周囲に人がいないことを良いことに声を出して悪態をつく。
「もう、これだけじゃあんたが何してるかわからないでしょ。いつまで潤と二人っきりでいるつもりなわけ?」
彼女はスマホを仕舞うと、再び疲れた体に鞭打って走り出した。
記憶にあるかぎり公園は後少しの場所にあり、そしてそれは間違ってはいなかった。
帰り道の途中で見かけた公園。
美代子はその景色を見て胸を撫で下ろし、その後公園の中を見て仰天した。
ブランコに座る潤と、それを見守るように側に立つ伊織。
美代子はそんな二人がいい雰囲気を醸し出しているように見え、即座に大きく口を開いて割り込もうとする。
その瞬間、美代子の耳はたしかに潤の声を聞いていた。
「伊織くんって、彼女欲しくないの?」
美代子は大きく口を開いたまま、体を凍りつかせた。
みるみるその表情は青ざめていき、気が付けば彼女は物陰に逃げ込んでしまっていた。
バクバクと音を立てる美代子の心臓。
彼女は服の上からそれを握りしめるようにしながら、こっそりと潤と伊織の話に聞き入っていった。




