コミカライズ1巻カウントダウンSS③ 女官長と仮初のティータイム
紅茶のふわりとした香りが、鼻腔をくすぐる。
お気に入りのカップを持ち上げ、唇をつける。ゆったりとした時の流れと共に、豊かな味わいもまた、口から喉へと流れていく。
優雅な午後だわと、フーリエ女官長は微笑んだ。
女官長の一日は忙しい。
アリシア付き侍女のアニとマルサに指示を出しつつ、自身も淑女のたしなみを幼いアリシア王女にレッスンを施し。亡くなった王妃に代わり、城の女主人代行として城を訪れる様々な客人たちの相手をしつつ。空いた時間は、城勤めの女たちの管理を行い。
そうして身を粉にして尽くしている彼女が唯一気を緩めることが出来るのが、午後のティータイムだ。
(今日も平和だわ……。まあ、侍女たちが、意味もなく補佐室の周りをうろうろしているのを除けばだけれども)
きゃっきゃっとはしゃいだ様子で補佐室に群がる若い娘たちの姿を思い出し、フーリエ女官長は微かに眉をひそめた。
とはいえ、彼女らが婿探しという目的もあって城勤めに来ていることを考えれば、無理もないことだ。加えて王女が登用した新任の補佐官――クロヴィス・クロムウェル。あれだけの美形、それも未婚の若い男が現れたのだ。若い娘が色めき立つのも当然だろう。
……まあ、それは置いておこう。美形補佐官の対策は、また考えればいい。
ほっと息を吐いて、フーリエ女官長はカップを受け皿に戻した。
こんな風に心から寛げるようになったのは、つい最近だ。なぜなら、ちょっと前までは、決まってティータイム中に「姫様が逃げた!」の報告が飛び込んできたのだ。
姫様が逃げた。その報告は、長らく女官長の頭痛の種であった。
王女と言えば、一国を代表するレディ。加えてアリシア王女は、親友でもあったリズベット王妃の忘形見だ。
女官長としても、早逝した友に娘を託された身としても、アリシアを立派なレディに育て上げるのが自分の使命。そう信じてアリシアと向き合ってきたフーリエだが、なにぶん彼女はお転婆がすぎる。
式典は嫌うし、勉強は逃げ出すし、およそ王家と釣り合いの取れないような身分の者にも友のように接する。――最後のは、まあ、美徳と言える部分がないわけではないが、ほかに問題が大有りだ。
一体彼女をどうすればいいのだろう。さすがのフーリエも弱音を吐き出したくなった頃。突如として、王女が変わった。
転機となったのは、アリシア姫が熱を出して寝込んだ翌日のエアルダール視察団慰労式典。急に出席を申し出た彼女は、なんとそこで自分付きの補佐官を指名し、さらには翌日からは熱心に勉学に打ち込むようになった。
あまりの変わりように、女官長は目を疑った。王女の手の込んだ悪戯かとも思った。しかし違った。生まれ変わった。そうとしか言いようのない変化が、アリシア姫の身に起きたのだ。
(どういったご心境の変化があったのか……。けれども、これでリズベット様も、天国で安心していることでしょう)
ソファにゆったりと身を預けて、フーリエは満足げに目蓋を閉じる。
なにはともあれ一安心だ。アリシア姫は地頭は良い。やる気さえ出してくれれば、これまでの遅れだって十分取り戻せる。勉学はもちろん、一人前のレディとしての嗜みも、しっかり身につけるだろう。
もうこれまでみたいに、目を吊り上げて彼女を追いかけ回す必要もないのだ。
(……そう、ね。もう、姫様を追いかけることもないのね)
そのことにふと気づいた時、フーリエはほんの少し、ひとかけらだけ、寂寥の思いを抱いた。
なるほど。これで終わりかと思えば、胸にくるものがある。おそらくそれは、育っていく我が子に抱くのと同じようなもの。喜びと寂しさと、相反する気持ちが奇妙に混ざり合う。
(熱を出される前に、アリシア様が逃げられた時。あれが最後だと知っていたら、もう少し時間をかけて、大切にアリシア様を追いかけたのに)
ふっと、女官長は小さく笑う。
一抹の寂しさは覚えども、姫の成長は嬉しいもの。ひたむきに歩みはじめた彼女を、これからは支え導いて行こう。
そんな風に、フーリエ女官長は微笑んだ。
――の、だが。
「いけませんよ、あなた方。そんなところで立ち話などして」
ティータイムを終えて仕事に戻ると、侍女たちが楽しげに集まって話している。また、どこぞの美形補佐官の話題で盛り上がっているのだろうか。そう思いつつ声を掛けると、彼女らは笑顔のまま振り返った。
「あら。女官長は探しに行かれないんですか?」
「私たち、なんだか久しぶりでウキウキしてしまって」
「お待ちなさい。なんの話です?」
嫌な予感がして尋ねてみれば、侍女たちは嬉しそうに顔を見合わせる。それから彼女らは、声を合わせて仲良く答えた。
「アリシア様が逃げたそうですわ、フーリエ女官長」
フーリエ女官長に平穏の時が訪れるのは、もう少し先の話である。




