序:諸葛孔明の軍事手腕
時は西暦228年。蜀漢は勢いに乗っていた。
蜀の丞相・諸葛亮は「出師の表」を書き、宿敵・魏を成敗すべく北伐を敢行しようとしていたのである。
「えっ。もう行軍中って事は……『出師の表』を主君・劉禅の前で読み上げるのあの名シーンはカットなの!?」
「残念は残念ですが……あれの内容は要約すると『今の蜀があるのは全部劉備さんのお陰!』ですからね」
「ミもフタもねえな莉央ちゃん!? まあいつもの事だけど!」
名シーンを見逃した事を嘆いている暇はなかった。
北伐の目的は魏の支配する大都市・長安を奪還すること……なのだが、とにかく行軍が大変なのである。いつもの歴史補正がなかったら、ひ弱な現代人である俺や莉央ちゃんはとっくに音を上げていただろう。
「あれ? よく考えたらこの軍勢、行き先長安じゃねえな?」
「その通りです。漢中ルートから侵攻している軍もいるにはいますが、もともと山が険しく行軍に不向き。つまり彼らは陽動です。
本命は長安西の雍州を攻める、私たちの部隊です。こちらを先に制圧してからの方が、長安を攻めやすくなりますから」
当初、蜀軍は連戦連勝であり、瞬く間に雍州三郡は諸葛亮の手に落ちた。
もともと何年もかけて、内応するよう根回しをしていたのだろう。蜀に協力的な異民族によって反乱祭り状態であった。
「へえ~、やるじゃん諸葛亮。とてもこの後失敗するとは思えねえ、鮮やかな手並みじゃねえか」
そう。失敗する――「結果だけ」を見れば、諸葛亮は生涯五度も北伐を行ったが、第三次を除き、いずれも失敗している。
その失敗だけを挙げ連ね「諸葛亮は内政手腕は優れていたが、戦下手。『演義』で描かれているような、神様みたいな軍師じゃない!」と揶揄する人間は少なからず、いる。
「しかしながら、孔明さんが軍才に乏しかったのか? というと――決してそのような事はありません」
「へえ? 現実主義の莉央ちゃんにしては、今日はやけに諸葛亮の肩を持つんだな」
「事実ですから」
自信満々に言ってのける莉央ちゃん。
「でも確かに、怖いくらいスムーズに勝ち進んでるよな。
これだけ大規模な軍事行動してるってのに、魏の動きは鈍すぎるし。向こうの大将は一体何をやってたんだ?」
「まあ、当時の長安太守・夏侯楙が、無能な二代目ボンボンだったという理由も勿論ありますが……一番大きな要因は別にあります」
「……というと?」
「三国志フリークの下田さんは、もちろんご存知ですよね?
今から五年前、まだ存命中だった劉備率いる蜀軍が呉に大敗を喫した――夷陵の戦いを」
莉央ちゃんに問われ、俺は大きく頷いた。もちろん知っていたからだ。
「義兄弟の関羽を呉軍に討たれた敵討ちってんで、劉備自ら怒りに燃えて、弔い合戦に大軍を率いたんだったよな」
「まあ、演義だと分かりやすさ優先でそのような扱いですが……恐らく本当はもっと現実的な理由からですね。
いずれ魏を攻撃するため北伐するなら、本拠地の益州だけでなく、荊州からも北上し、魏に二正面作戦を強いた方が有利ですから」
しかし結果的に、劉備は呉の陸遜に敗れた。この時の損害は凄まじいものだったという。
「当時の記録を見れば分かりますが……蜀軍は大将クラスの指揮官が多数、戦死しています。
これはつまり部隊が全滅に近い損害を受けた証拠であり。ひいては将来、国の命運を担うであろう有能な人材をごっそり失ってしまったという事なのです」
「あー……そいつは確かに、致命的だな……」
最前線の雑兵と違い、将校のような大人数を指揮する人間を育成するのは、非常に時間と手間がかかる。
第二次大戦直前のソビエト連邦が赤軍の大粛清をした結果、マトモに軍を動かせる人材が不足し、独ソ戦の序盤にボロ負けに負けまくったなんて例もあるくらいだ。
「そんな大損害を被った蜀が、たったの五年で大規模な軍事行動を起こせるまでに復活するなど……当時の常識からは到底考えられなかった訳です。
夏侯楙でなくとも、油断はしたと思いますよ。この点だけでも、孔明さんの軍事的手腕が優れていた事の証明となります」
さて――第一次北伐はここまでは順調に進んでいた。
しかし、三国志に少しでも詳しい方なら……この後どのような結果になるのか、すでにお分かりだと思う。
何年もかけて入念に準備し、うまく行けば魏の大都市・長安の奪取にも成功したかもしれない。
それほど優れていた諸葛亮の作戦を台無しにした人物――彼の愛弟子である馬謖の部隊に、俺と莉央ちゃんは同行する事になった。




