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ハンカチを見せたら、領地に帰ると言われました

 曲がりなりにも貴族令嬢のエルナは、家同士の決めた婚約は仕方ないと理解している。

 日本で言えば、会社同士の契約だ。個人の感情など関係がない。


 だが、嫌なものは嫌だろう。

 ハンカチひとつで気持ちが軽くなるのなら、安いものではないか。


「あ、でも、完売ってさっき言っていましたね」


 今日エルナが納めたハンカチも、既に買い取り手が決まっているとも言っていた。

 ということは、店に行っても買えるハンカチはもうない。


「そうですか……せっかく手に入ると思ったのですが。仕方ありませんね。また機会を作って……」

「あの、良かったらこれを」


 エルナが急いでカバンから出したのは、リリーと色違いで作った虹色の花の刺繍を入れたハンカチだ。


「新品ではないですけれど、汚れてはいません。間違いなく『グリュック』のハンカチです。これでよければ、差し上げます」


 普通に考えれば、平民と思っているだろうエルナから、新品ですらないハンカチを貴族令嬢が受け取るはずはない。

 だが、エルナはこの女性がそうはしないだろうと思っていた。


 彼女は切羽詰まっている。

 平民から使用済みのハンカチを渡されるという、本来なら失礼な事さえどうでもいいと思うほどに。

 エルナは何となく、そう感じていた。


「でも、これ、あなたのものでしょう?」

「私はいつでもお店に行けます。必要な方がいるのなら、役立ててください」

 女性はじっと手に乗せられたハンカチを見る。


「……本当に」


 小さく呟いて、じっとハンカチを見ている。

 やがて、ゆっくり顔を上げると、穏やかに笑った。


「ありがとうございます。いただきます。本当に、ありがとうございます」

 それは、貴族令嬢が平民にかける言葉ではない。心の底からの感謝の気持ちだった。



「こんなところにいたのか!」

 路地の向こうから男性が走ってくる。淡い金髪に緑玉(エメラルド)の瞳の、たいそうな美青年だ。


「お兄様」

「探したぞ、心配をかけるな」


 どうやら兄妹らしい。

 妹も美女なら、兄も麗しい。

 遺伝子というものは、この世界でもきちんと仕事をしているようだ。


「ハンカチは完売らしいのですが、この方が譲ってくださったのです」

 そう言ってハンカチを見せると、男性は息をのんだ。


「これは……確かに」

 二人は顔を見合わせると、真剣な表情でうなずく。


「ありがとう。とても助かった。せめてお代は支払います」


「いえ。高いものではないですし、新品でもないですし。役に立つなら良かったです。気にしないでください。では、私はこれで」

 言うや否や逃げるようにその場を離れる。


 下手に貴族と関わって、レオンハルトにばれるのは良くない。

 『ファーデン』にハンカチを納品していることを、まだ伝えていないのだ。


 順番って、大事です。

 さらば、美男美女の兄妹。

 婚約破談を陰ながら祈っています。


 それにしても、最近美人と関わることが多いな。


 田舎で鍛えた脚力に貴族がついてこられるはずもなく、エルナは颯爽とその場から去ることに成功した。




 無事に屋敷に着くと、そのままレオンハルトの部屋に向かう。

 レオンハルトが在室しているのは、執事見習いのフランツに確認済みである。


 もともと刺繍ハンカチが売れるようになったら報告しようと思っていたが、『ファーデン』に貴族が来ているのを実際に見た以上、早い方がいいと思ったからだ。


 ノックして部屋に入ると、レオンハルトは机に向かって何やら書類とにらめっこしていた。


「お帰り、エルナ」

「ただいま戻りました、レオン兄様。少しお話ししたいことがあるのですが、よろしいですか」

「うん。俺も聞きたいことがあったからちょうどいい」


 そう言うと、席を立ってソファーに移動する。

 二人が座ったと同時に、フランツが紅茶を持ってきたので、まずは一口のどを潤す。

 広がる良い香りに、体は温まり、心もほっとする。


 そういえば、この世界に緑茶はないのだろうか。

 紅茶があるということは茶の木があるということだから、可能性はある。

 もしあったら、飲んでみたいものだ。



「話って、テオのことかい?」

「あ、いいえ。テオ兄様のことは諦めています」


 正確には、乙女ゲームの強制力だと思うので諦めた。

 もちろん釘は刺してほしいが、効果は望み薄である。


「ええと。刺繍糸を買ったお店が委託販売をしていまして。縁があって、ハンカチを納品していたんです。どうせ売れないと思ったら、意外と売れまして。レオン兄様に報告しておこうと思いました」

 エルナの報告を、レオンハルトは黙って見つめて聞いている。


「あの、ノイマンの名前は出していません。私個人の名前も出さない方がいいかと思って、違う名前で出しています」

 だから、家には迷惑をかけていないと思うのだが……駄目だっただろうか。


「うん。知っている」

 さらりと放たれた言葉に、エルナは唖然とする。


「え、知っていたのですか?」

「最近だけどね。『グリュック』の清めのハンカチの噂は、エルナが思っているよりも広がっているよ」


「そうなんですか?」

「俺が聞きたかったのはそのことだよ、エルナ」



「あの、ノイマン家に迷惑をかけてしまったでしょうか。もうやめた方がいいでしょうか」


 ストレス解消で大量生産されたものが喜ばれるのも、お小遣いとなるのもありがたかったが、家人に迷惑をかけているのなら考え直さなければいけないかもしれない。


「エルナが名前を伏せていたから、今のところ『グリュック』は謎の平民作家ということになっているよ。まあ、このまま続ければ、どこからか素性がばれる可能性はあるけどね」


「謎の平民作家……では、私のお出かけスタイルは間違いなく立派な平民なのですね。自信がつきました」

「それもどうかと思うけどね」


「家に迷惑が掛かっていないなら、続けてもいいのでしょうか」

「それだけど。最近刺繍したハンカチ、あるかな?」


 今回納品したのは星柄八点。

 他にも鳥の刺繍をしたものがひとつあったが、何となく柄を統一して納品したかったので家に残っていた。

 そのハンカチをレオンハルトに渡すと、少し難しい顔をして見ている。


 どこか刺繍が変だったのだろうか。



「……前に、領地でも祭りでハンカチを売ったことがあったよね」

「はい」


「そのハンカチは、持っているかい? 持っている人が分かればそれでもいいが」

「私は持っていません。領地のお屋敷なら、お母様の侍女とか数人にあげたので、持っているかもしれません」


 そうか、と言ったきり、レオンハルトは押し黙る。

 以前のハンカチがどうしたのだろうか。

 上達しているか比べる位しか使い道がなさそうだが。


 しばらくの沈黙の後、レオンハルトはフランツとゾフィを呼んだ。



「フランツ、領地に帰るから、手配をしてくれ。できるだけ早く帰れるように」

「承知いたしました」

 突然の帰宅宣言に、エルナは動揺する。


「レオン兄様、領地に帰るのですか? なら、私も」

「エルナは学園があるだろう。フランツは残るから心配ない。すぐに戻るよ」


 便乗して領地に帰るのはあっさり却下された。

 でも、フランツを残すというのは何故だろう。

 男手が減るから心配ということだろうか。


 それに、ノイマン子爵領は王都から決して近くはないので、すぐにというのは難しいだろう。

 王都で忙しく仕事しているレオンハルトが何故、急に帰ると言い出したのか分からない。


「エルナ。ハンカチは少し控えて作りなさい。店に行く時は、必ずゾフィと一緒に行くこと。いいね」


 ハンカチ禁止じゃないことは嬉しいが、何故同伴者が必要なのか。

 これは、子供扱いされているのだろうか。


「あの、一人でも大丈夫ですよ?」

「一人で行くのなら、ハンカチを作るのは禁止だよ」

「ええ?」


「それから、俺がいない間、外出は控えて。必要ならゾフィかフランツと一緒に行くこと。いいね?」


 確認のように見えて絶対の命令の言葉に、エルナはうなずくしかなかった。



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