新学期と友人
新学期が始まった。颯谷と木蓮は同じクラスになり、お互いに「よろしくお願いします」と挨拶をして、それから小さく笑った。そして颯谷の新しいクラスには去年のクラスメイトの姿もあった。
「あ、木戸じゃん。今年も同じクラスか。よろしく」
「颯谷さん。こちらの方は?」
「木戸鉄平。一年のときも同じクラスだったヤツ」
「ああ、そうだったんですね。木戸さん、駿河木蓮です。よろしくお願いします」
「あ、は、はい。よ、よろしくお願いします」
テレビでもなかなかお目にかかれないレベルの美少女ににっこりと微笑まれ、鉄平はドギマギしながらなんとかそう答えた。しかし彼は知っている。どんな美少女よりも桐島颯谷のほうがはるかに稀有な存在であることを。
颯谷にとって彼はただのクラスメイトだろう。しかし彼にとって颯谷はただのクラスメイトでは収まらない。では何なのかと言われるとうまい言葉が見つからないのだが、あえて言語化するのなら「偉人」というのが一番近いかもしれない。
およそ二年半前、この地域に異界が現れた。直径16.7kmの、大規模異界である。この「大規模」というのはあくまでも異界の大きさであって征伐難易度ではないのだが、異界が大きくなれば当然その対処は広範になる。要するに、避難区域が広くなるわけだ。そして木戸鉄平もこのとき避難生活を経験した一人だった。
異界が顕現したのがほぼ無人の地域であったこと、そしてその周囲の人口も少なかったことが幸いして、木戸家はすぐに一次避難所から行政が借り上げたアパートへ移ることができた。とはいえそこで一年以上も暮らすことになるとは、このとき鉄平は想像さえしていなかった。
異界のフィールドが群青色であることは、ニュース報道を見るまでもなく知っていた。実際にそれを見たからだ。そして群青色のフィールドは異界内部に取り残された人がいることを示している。
『一体誰が……』
避難する車の中、そう呟いたことを鉄平は覚えている。そしてその日の夕方、避難所のテレビでやっていたニュースで、取り残されたのは自分と同じ中学二年生の男子生徒であることを知った。
『鉄平と同学年じゃないか』
『かわいそうにねぇ』
『やるせないなぁ』
周りの大人たちはそんなことを呟いていた。誰一人として「助かってほしい」とか「生き残ってほしい」とは言わない。そう思っていなかったわけではないだろう。だが現実問題として生存は絶望的だ。
鉄平もその中学二年生の男子生徒が生き残って、つまり異界を征伐して外へ出てこられるなんて思っていなかった。「死んだな」と思ったし、結局問題は彼がいつ死ぬのかということだった。端的に言って、彼が生き残るなんて誰も思っていなかった。
ところが一日経っても一週間経っても、異界のフィールドは群青色のままだった。この時の大規模異界は山を覆うほどに巨大で、避難先であっても嫌でも目に入る。そして異界が征伐されるまでの一年以上、鉄平は群青色の異界が佇む日常を過ごすことになった。
そのおよそ一年間、鉄平の心情は振れ動いた。怖かったりホッとしたり、不安になったりウンザリしたり。ともかく早く避難生活を終えて家に帰りたかった。早く征伐隊が突入してくれればいいのに、と思った。だがそれは同時に取り残された男子生徒の死を望むということ。自分本位のその考えが汚れて思えた。
『早く征伐してくれよ』
鉄平は群青色の異界に向かってそう呟いたことがある。男子生徒の死を望まず、それでいて避難生活を終えるにはそれしかない。だがそんなことは不可能だと思っていた。同い歳の男子なのだ。自分がその立場だったならと想定してみればいい。どうやって生き延びれば良いのか、彼には想像さえできなかった。
だがしかし、異界の佇む非日常がただの日常になってさらに月日が過ぎたころ。突然に、唐突に、音もなく、異界は消えた。征伐されたのだ。そこにあるはずの異界がなくて、鉄平は一瞬、自分が迷子になったんじゃないかと思ったくらいだった。
その日の夕方くらいから、テレビはこの話題一色になった。何機ものヘリが飛んで、なんの変哲もない山を映す。そこは異界があった場所だ。アナウンサーやコメンテーターはあれやこれやと喋るが、肝心の男子生徒は全く出てこない。それでも報道は過熱した。
注目を集めたのは報奨金のこと。概算だというが、ワイドショーによればその額なんと約350億円。目ん玉飛び出るというか、大きすぎてイメージできない金額だ。正直、「すげー」という感想しか出てこない。ただ大きな金額というのは、目の前に札束を積まれなくても、人の心を惑わすものらしい。そして鉄平もわずかとはいえ惑わされた一人だった。
『儲かるんだなぁ、異界征伐って』
彼がネットで調べてみたところ、単純に頭割りした場合の一人当たりの異界征伐の報奨金はだいたい2~3億円。今回の350億円は例外中の例外だが、それでも3億円だ。一生遊んで暮らせそうなお金に思えた。
『タメのヤツができたんだ。オレだって……』
そんな根拠のない自負を胸に、鉄平は大手流門の入門説明会に参加した。説明会自体は無料という話だったので、物は試しと思ったのだ。そして似たようなことを考えた者は大勢いたのだろう。説明会は盛況だった。
『え~、皆さん、初めまして。師範代の松田です。本日は当道場の入門説明会にお越しいただきありがとうございます。時間になりましたので説明会を始めさせていただきます』
松田と名乗った男がそう挨拶してから、説明会は始まった。彼はマイクを右手に持ち、説明会に集まった人々を見渡しながらまずはこう話す。
『え~、最初にまずこうしてお集まりいただいたわけですが、当道場には大きく分けて二つのコースがございます。一般向けのコースと能力者向けのコースです。一般向けのコースを希望される方は、実際に道場を見学していただきながらご説明させていただきますので、あちらの係員のところへお集まりください』
そう言われて立ち上がったのは、全体の四分の一ほど。鉄平は「意外と多いな」と思ったが、常の状態から言えば四分の三も残ったことのほうが多すぎる。誰も彼も、350億円という数字に踊らされた者たちだった。
余談になるが、征伐隊に入るつもりがなくても、道場で武道や武術を習う者は多い。異界顕現災害はいつどこで起こるか分からず、いざ自分が巻き込まれた時に少しでも生き残る確率を上げるために、そういう技術を求めるのだ。常に一定の需要があるわけで、この時に立ち上がった人たちの数もだいたいいつも通りと言ってよい。
そして立ち上がることなくその場に残った、いつもよりはるかに多い能力者向けコース希望の者たち。征伐隊に入れば大金を稼げると安易に考え、「中学二年生の子供にできたんだから自分だって鍛えれば」と根拠のない自信を抱く彼らに、松田はまずこう尋ねた。
『では残られた皆さんは能力者向けコース希望ということだと思いますが、まず皆さんの中ですでに氣功能力を覚醒させている方はいらっしゃいますか? いらっしゃいましたら手を上げてください』
手を上げた者はいない。鉄平も上げなかった。それを見て松田は一つ頷き、それからさらにこう言葉を続ける。
『では皆さん、氣功能力は未覚醒ということですので、まずは異界に突入して氣功能力を覚醒させることを目指すことになるわけですが、当道場としましても無条件に門下生を異界へ突入させるわけにはいきません。それで征伐隊への参加基準としているのが、こちらになります』
そう言って松田が目くばせをすると、幾人かの係員が台車を押して現れる。台車の上に載せられているのは大きなバックパック。運ばれてきたバックパックは全部で六つあり、それらを示しながら松田はさらにこう言った。
『こちらの背嚢ですが、重りを入れて一つ60キロにしてあります。この背嚢を担いで一キロを五分以内に走ること。これが当道場における征伐隊への参加基準です。ですから入門していただいたら、まずはこの基準のクリアを目指していただくことになります』
その説明を聞いて、残った入門希望者らはまるで冷や水をぶっかけられたかのように静まり返った。そしてややあってから、次にざわめきが上がる。鉄平も呆然としたことを覚えている。
1kmを5分以内に走るだけなら、今すぐにでもそれをクリアできる者は多いだろう。だが60kgの背嚢を担いでとなると話は別だ。相当に鍛えなければそんなタイムは出せない。それは容易に想像できた。
その後、幾つかの質問が出て松田は丁寧に、しかし毅然と答えた。声を荒らげることはなかったが、基準を引き下げるつもりがないのは明らかだ。それでも基準が厳しいと食い下がる入門希望者に、松田はこう言った。
『あなたがご自分の伝手を使ってどうにか征伐隊に入ったとして、我々はそれを止めたりはしませんよ』
鉄平の耳にそれは「足手まといを連れて行く気はない」と言っているように聞こえた。いや、たぶん実際にその通りだったのだろう。結局、彼は入門せず、普通に受験勉強をして高校へ進学した。
鉄平が高校一年生になった頃には、例の異界とそれを征伐した少年のことは、もう人々の記憶の片隅に追いやられていた。それは彼も同じで、一時の熱が冷めてしまえば、征伐隊に入って大金を稼ぐというのがいかに現実味のない妄想であったかがよく分かる。しかしそんなときに、彼は鉄平の前に現れた。
『桐島颯谷です。よろしくお願いします』
そう簡単に自己紹介するその彼が、まさか世界初単独での異界征伐を成し遂げたあの少年であろうとは、この時の鉄平は思ってもみなかった。テレビでは少年の名前や写真は報道していなかったし、颯谷自身もそんなオーラを出しているようには見えなかったのだ。鉄平もこの時はまだ颯谷に何の興味もなく、それよりは「別のクラスにすごい可愛い子がいた」なんて話の方に興味があった。
颯谷が件の少年だと判明したのは、入学後、新入生同士でも遠慮がなくなってくるころ。きっかけは木蓮で、彼女が颯谷と親し気にしているので、クラスメイトが二人の関係を問いただしたのだ。その際、彼が自分で異界に取り残されたと話したのだ。
その時は男子が中心で聞き取りをしたこともあり、木蓮との関係のほうに意識が向いていた。ただ後になって考えてみると、より衝撃的なのは言うまでもなく彼が一人で異界を征伐したという話の方。その偉業を前に鉄平は彼とどう接すれば良いのか分からなくなった。
(いや、だけど本当に?)
挙句、そんな疑問さえわいてくる。こう言っては失礼だが、颯谷にはオーラがない。ごく普通の高校一年生にしか見えなかった。彼が成し遂げた偉業と彼自身の人となりがかけ離れすぎているように思えたのだ。
しかしその疑問はあっさりと解消される。ゴールデンウィーク明けのことだ。担任が突然、彼が一週間学校を休むと伝えたのである。曰く「国防軍のセミナーに出るため」だという。
セミナーについては、オープンに開催されているので調べたらすぐに概要が出てきた。それによれば異界征伐に関連したセミナーだという。座学やオリエンテーリングを含めて全五日間の日程だから、かなり本格的だ。
そんなモノに出て、しかも公欠扱いになるというのだから、学校側も颯谷が例の少年であることを把握しているのだろう。また木蓮がノートを作る関係で何度も鉄平のクラスを訪れていた。静岡県の有力武門の令嬢であるらしい彼女がそこまでするのだから、やはり颯谷は本物に間違いない。
一週間が過ぎ、翌週、颯谷はまた普通に登校してきた。彼は特に変わった様子もなく教室に入ってきたが、クラスメイトたちは少し余所余所しい。彼が本物であることが証明され、距離感を図りかねているのだ。そんな中で最初に彼に話しかけたのが鉄平だった。
『よ、よう、桐島。セミナーって、どんな感じだったんだ?』
『木戸? セミナーは……、大変だった』
颯谷はちょっと苦笑しながらそう答える。そんな彼の様子に、やはりオーラは感じない。ともかくこれをきっかけにして鉄平はちょくちょく颯谷と絡むようになった。接点が増えても颯谷の印象は変わらない。どこにでもいる、普通の男子高校生に思える。だがふとした瞬間に彼のいる世界が垣間見えることがあった。その極めつけがこれだ。
『またしばらく学校休む。ノートよろしくな』
『ノートはいいけど。え、なに、またセミナー?』
『んにゃ、今度は本番』
いつもの調子でそう言われ、かえって鉄平のほうが絶句した。颯谷は「緊張する」なんて言っていたが、その一方で彼が危機感を覚えているようには見えない。そんなんだから鉄平も「頑張れ」なんて言って送り出したのだが、果たして頑張ればどうにかなるようなことなのか。60kgの背嚢のことを思い出して、鉄平はなんだか気分が重くなった。
颯谷が休んでいる間も、日常は何事もなく流れていく。それが鉄平にはあの避難生活と重なって思えた。だがその日常の裏には、間違いなく今も異界の中で戦っている人たちの存在がある。彼は避難生活の時よりもそのことを強く感じていた。
そして新潟県北部異界は征伐され、颯谷は何事もなく帰って来た。だが後日公開された国防軍の報告書を見れば、何事もなかったなんてことはないのは明らかだ。小難しいところは読み飛ばして斜め読みしただけだが、それでも彼の活躍は伝わってくる。それが自分の知る颯谷となかなか結びつかなくて、鉄平は少し戸惑った。
『なあ、異界の中って、征伐中ってどんな感じなんだ?』
ある時、鉄平は颯谷にそう尋ねた。口に出してからちょっと後悔したのだが、颯谷は気にした様子もなくこう答えた。
『空が低いな。……いやまあ、アレは空じゃないんだけどさ』
まったく予想外の返答に、鉄平は戸惑った。ただ何となく分かってしまった。颯谷にとって異界は、鉄平が思うよりずっと近い場所なのだ。鉄平はこの高校生活にどっぷりと浸かって生きているが、颯谷は異界の中と外をまたぐようにして立っている。そのうえで、もしかしたら軸足は異界のほうにあるのかもしれない。
住んでいる世界が違う、というのはたぶん言い過ぎだろう。けれども鉄平はこのとき確かに、自分が知らない世界の残り香を感じたのだ。この時は決して大きな衝撃を受けたわけではない。だがこの時のことは彼の中で長く、いや一生印象に残り続けるカルチャーショックとなったのだった。
鉄平「能力者ってモテるんだなぁ! オレだって……!」
颯谷「懲りないヤツ」




