クリスマス
「おじゃまします」
「はい。どうぞ」
颯谷はやや緊張した面持ちで木蓮のマンションに上がる。彼を出迎えた木蓮はエプロン姿で、髪はポニーテールにして後ろでまとめている。いつもと違う彼女の姿に、颯谷は一瞬どきりとした。
今日はクリスマス。あいにく平日だったので日中は普通に学校だったが、「一緒に夕食をどうですか?」と誘われたのだ。プレゼントの交換にもちょうど良いということで、颯谷はこうして木蓮のマンションを訪ねてきたのである。
「あ、コレ、良かったら食後に出して」
そう言って颯谷が木蓮に手渡したのはフルーツの盛り合わせ。駅からちょっと遠回りしてスーパーに寄り、そこで買ってきたのだ。スーパーもクリスマス一色で、この手の商品は豊富に用意されていた。
「わ、ありがとうございます。冷蔵庫に入れておきますね」
颯谷からフルーツの盛り合わせの入ったビニール袋を受け取ると、木蓮はそれをそのまま冷蔵庫に入れた。そして彼をリビングに通す。ソファーを勧めてから、彼女は少し申し訳なさそうにこう言った。
「もうちょっと待っていてください。すぐに終わりますから」
「ああ、気にしないで。ゆっくりでいいよ。……ところで今日のメニューは?」
「すき焼きです! 颯谷さんからもお金をいただいたので、いいお肉を買えました!」
「それは楽しみだ」
「はい。でもクリスマスだし、本当は唐揚げもしようかと思ったんですけど、お肉の量が意外と多くって。すき焼きだけにしちゃいました。あ、ケーキは買ってありますよ」
「すき焼きだけで十分だよ。そもそもクリスマスにチキンって日本くらいだっていうし」
「本当はターキー、七面鳥ですもんね」
そんな話をしているうちに、すき焼きの支度も終わったらしい。木蓮はテーブルの上にカセットコンロを出し、その上に鉄なべを乗せる。まさか鉄なべが出てくると思っていなくて、颯谷はちょっと驚いた。
「すごい。本格的だなぁ」
「えへへ、つい」
木蓮が少し恥ずかしそうに笑う。衝動買いだろうか。鉄なべを衝動買いする女子高生はそうそういないだろう。とはいえこうして使っているわけだから、決して無駄遣いではない。どれくらいの頻度で使うのかについては、颯谷は考えないことにした。
「じゃあ、焼き始めますね」
そう言って木蓮はカセットコンロの火をつけた。鉄なべを熱してから牛脂を入れて溶かし、そこへ長ネギを入れる。
「あれ、肉じゃないんだ?」
「はい。こうやって油に香りを移すんだそうです」
いろんなレシピがあるんだなぁ、と颯谷は感心した。さて長ネギに軽く色が付いたところで、木蓮は割り下を入れていよいよ肉を焼き始めた。「いいお肉」と言っていたとおり、サシの入った牛肉である。
それを一枚鉄なべの上に広げると、何とも言えない香りが二人の鼻をくすぐった。肉は薄切りなのですぐに火が通る。木蓮はそれを菜箸で取り上げると、生卵の入った颯谷の小鉢に入れた。
「はい、颯谷さん、どうぞ」
「ありがと。……うん、美味しい!」
颯谷がそう言うと、木蓮も嬉しそうに笑った。そして彼女も同じように焼いた牛肉を食べて顔をほころばせた。二人はそれぞれもう一枚ずつ肉を食べ、それから木蓮は野菜や焼き豆腐を入れていく。肉も残った分をすべて入れた。野菜に火が通るまでの間、颯谷は箸を止めてふと木蓮にこう尋ねる。
「駿河家は、クリスマスはすき焼きなの?」
「そういうわけじゃありませんけど……。でも特別な感じがするじゃないですか、すき焼きって」
「あ~、まあ確かに」
「桐島家はどうなんですか?」
「ウチは特別何かするってわけじゃなかったかなぁ。翌日に安くなったケーキを買ってくるくらい?」
「なるほど、節約ですね!」
感心する木蓮を見て颯谷は苦笑する。果たして本当のところはどうだったのだろうか。おそらく玄道が子供のころ、クリスマスを祝う習慣はまだ一般的ではなかっただろう。だからクリスマスに何をすればよいのか、彼自身よく分かっていなかったのではないか。それでも翌日に安くなったケーキを買ってくるのは孫のため。改めてそのことに思い至ると、颯谷はなんだかこそばゆい気がした。
さて野菜に火が通ると、二人は揃って鉄なべに箸を伸ばした。肉は当たり前に美味しかったが、野菜も美味しい。二人は他愛もない会話をしながら食事を楽しんだ。木蓮が用意した食材全部は使わなかったが、お腹がほどほどに満ちたところで鉄なべにご飯を入れ、雑炊を作ってしめた。
「じゃあケーキを出しましょう!」
木蓮が手を叩いてそう言うので、二人はテーブルの上を簡単に片づけてからケーキを出した。一緒に颯谷が買ってきたフルーツの盛り合わせも出す。だがやはりメインはケーキだ。
「おお~」
箱から出されたケーキを見て、颯谷も声を上げる。木蓮が用意したのは小さめのホールケーキ。フルーツがたくさん使われていて、見た目にも華やかだ。木蓮はそのケーキを半分に切ってお皿に移し替えた。鮮やかな琥珀色の紅茶をカップに注いで、二人はケーキを食べ始める。
「あ、意外とさっぱりしてますね」
「うん、美味しい!」
そんなことを話しながら、二人は思いおもいにフォークを動かした。少し渋みのある紅茶を飲むと、口の中がすっきりとリセットされる。少し多いかと思われたケーキも簡単に食べきってしまった。
ケーキをすっかり食べ終えると、二人は紅茶を一口飲んで一息つく。フルーツをつまんだりしながら少しゆっくりしてから、二人は一緒に食後の後片付けを始めた。特に鉄なべは普通の鍋とは扱いが少し違う。二人で取説を見ながら油を塗ったりした。
後片付けが終わると、二人はソファーの方へ移動する。そしてそれぞれが用意しておいたプレゼントを交換した。二人ともプレゼントを受け取ると早速開けてみる。まず歓声を上げたのは木蓮だった。
「わあ、手袋ですか。ありがとうございます」
颯谷が木蓮に贈ったのは手袋だった。本革で、色はライトブラウン。薄くて軽いが、しっかりと温かい。試着した際に彼女が気に入った様子だったので、この手袋にしたのだ。
「こっちは……、腕時計か」
一方で颯谷が貰ったのは腕時計。アナログ式でクロノグラフはついていないが日付が分かるようになっている。防水仕様で、さらに24時間針もついている。モーメントはクォーツ式。電波式にしなかったのは、異界で使うことが頭にあったからだろう。
「かっこいいね。ありがとう」
颯谷が早速腕時計を着けてそう言うと、木蓮は「はい」と答えて嬉しそうにほほ笑んだ。そして彼女も手袋を身に着けて颯谷に見せる。喜ぶ彼女の様子を見ていると、颯谷もうれしくなってくる。そして今が言うべきタイミングだと思った。
「木蓮」
少しだけ居住まいを正して、颯谷は彼女の名前を呼んだ。彼の雰囲気が変わったことに気付いたのだろう、木蓮も背筋を伸ばして颯谷に向き直る。そんな彼女の目を真っ直ぐに見つめ、一方で内心の気恥ずかしさからは目をそらしつつ、颯谷は木蓮にこう告げた。
「付き合って、ください」
「…………!」
颯谷の告白を聞いた瞬間、木蓮は大きく目を見開いた。颯谷が何を言ったのかは聞こえているし、それが何を意味しているのかも分かっている。だが咄嗟に言葉が出てこない。脳のインプット機能は正常だったが、アウトプット機能がフリーズしている。そんな彼女を見て何を思ったのか、颯谷は少し目をそらしてこう話し始めた。
「この一年、ああいやまだ一年は経ってないけど、とにかく入学してからずっと木蓮には世話になってきた。特に勉強は、木蓮がいてくれなかったら悲惨なことになっていたと思う。だから一度ちゃんとお礼を言いたかった。……ありがとう」
「いえ、そんな、わたしは、勝手にやったことですし……」
「それでもさ、ずっと支えてもらってたわけだし、それに甘えてきたみたいなもんだし、やっぱりけじめは必要かなって思って」
「……だから、その、告白しようと思った、んですか?」
「それはちょっと、違う。ちゃんとっていう言い方は変かもしれないけど、木蓮のことは、その、ちゃんと、好き、だと思う。……う~ん、何て言えばいいのかなぁ」
心臓がうるさく拍動する。それに合わせて頭も体も震えているみたいで、上手く考えがまとまらない。それでも颯谷は自分の気持ちを言語化するための言葉を必死に探す。そしてこう言った。
「……木蓮は見返りを求めないで、ただ、その、好意で、助けてくれる。だからオレもその好意に応えなきゃって、あいや、応えたいって、そう思ったんだ」
「…………!」
もう一度、木蓮は大きく目を見開いた。またしてもアウトプットがフリーズしてしまった彼女に、颯谷はやや居心地を悪そうにしながらこう言った。
「その、返事を、聞かせてほしい」
「……はい。『はい』、です。喜んで」
目の端に涙を浮かべながら微笑んで、木蓮はそう答えた。それを聞いて、颯谷も大いに安堵する。断られることはないだろうと思ってはいたが、それでもやっぱり緊張するものなのだ。彼は小さくこう呟いた。
「良かった……」
「……颯谷、さん……」
小さな声で颯谷の名前を呼んだ木蓮は、潤んだ目で上目遣いに彼を見上げている。そして小さく首を伸ばして目をつぶった。彼女が何を求めているのかは間違えようがない。うるさく鳴り響く心臓が口から飛び出してしまいそうだったが、颯谷はゆっくりと身体を近づけ、そして躊躇いがちに唇を重ねた。
「…………っ!」
唇を重ねるだけの、いやそっと触れ合わせるだけの拙いキス。ファーストキスはさっき食べたパイナップルの味がした。唇の柔らかさと、息を止めていても分かってしまう甘い香りに、頭がくらくらとしてくる。
二秒よりは長くて三秒よりは短い時間だけ唇を交わし、颯谷は一度木蓮から身体を離した。相変わらず心臓はうるさくて、呼吸の度に肩が小さく上下してしまう。そしてそれは木蓮も同じ。まぶたを開けた彼女の目は、さっきよりもさらに潤んでいて今にも蕩けてしまいそうだった。
「…………」
「…………」
二人はそのまま無言で見つめ合う。もう頭がまともに働かない。それでも身体は勝手に動く。再び二人の距離が縮まっていき……。
――――プルルルルルルル♪
「…………!」
「…………!」
突然の着信音に驚いて、二人はパッと身体を離した。鳴っているのは木蓮のスマホ。彼女はアワアワしながらスマホに手を伸ばし、上擦った声で電話に出る。
「も、もしもし!?」
『あ、木蓮? お姉ちゃんだけど』
「お、お姉さま!? ど、どうかしましたか?」
『ん~、どうかしたってわけじゃないけど。かわいい妹がクリスマスに一人寂しく泣いてないかなぁ、って』
電話の相手はどうやら木蓮の姉の桜華らしい。颯谷としては、二人の会話を盗み聞きするつもりは毛頭なかったのだが、気まずさもあって小さくなっていたら漏れてくる声が良く聞こえてしまう。そのせいでますます気配を消すしかなくなった。隠形までしているあたり、たいがい彼も動揺している。
木蓮と桜華の電話はだいたい五分ほど続いた。電話を終えてスマホをテーブルの上に置くと、木蓮は「はぁぁ」とため息を吐く。なんだかどっと疲れた様子だ。颯谷もその気持ちは良く分かる。たぶん今までの人生で一番長い五分だった。
「えっと、なんだか、すみません……」
「だ、大丈夫。うん、大丈夫」
それっきり、二人は黙ってしまった。二人ともこの状況で何を言えば良いのか分からない。ただ一つ分かるのは、ここからあの雰囲気に戻すのは無理だということだった。
とはいえそれを残念に思うよりは、どこかで安心してしまっている。だからこれで良かったのだと、颯谷はそう思うのだった。
桜華「お姉ちゃんインターセプト!」




