モールス信号と仙具の手入れ
「そもそも、なんでハンドサインなんですか?」
からかうようにニヤニヤと笑う茂信に、颯谷はそう尋ねた。一番槍が知らせてくれる情報が重要であることなど、改めて説明されるまでもなく自明なはず。それなのになぜ、伝えられる情報の少ないハンドサインなんて使っているのか。他にもっと良い方法がありそうなものではないか。
「大きな理由の一つは姿勢だな」
茂信はそう答えた。前提として、白色状態の異界に一度突入すると引き返すことはできない。例えば腕を突っ込めば、その腕はもう引き戻せないのだ。よって必然的に、一番槍は片足を大きく踏み込んだ前傾姿勢で顔を異界の中に突っ込ませることになる。
「顔だけを異界の中に入れるというのは、実際のところ現実的ではない。だいたい胸のあたりまでは中に入ると思っておいた方がいい。すると外に出ているのはその下になるわけだが、腕の長さを考えれば何かできるのはだいたい腹部のあたりまでだろう。だが一番槍の姿勢の場合、腹部とフィールドの間のスペースというのはほぼないか、あっても非常に狭いということになる」
その狭いスペースで例えば「メモを書く」というようなことは、決してできないわけではない。だが見えない状態でメモを書いて、例えばメモの端っこが異界のフィールドに触れてしまったら、そのメモはもうそこから引き抜くことができない。メモの内容を確認するには誰かが近づいて確認しなければならないが、下手をするとその者までフィールドにつかまってしまうことになりかねない。
「身体の表側で何かやろうとすると、いろいろ不都合が起こりかねない。そしてグダグダしていたら肝心の突入に差しさわりが出る。だが身体の背中側に手を持ってくれば、身体自体が遮蔽物になって手がフィールドに触れてしまうことはまずない。
とはいえ手を後ろにやって何かを書くというのは難しい。雨が降ったりしていると、別の問題が起こることもある。だから手を身体の後ろにやってもはっきりと情報を伝えることができ、なおかつ天候などに左右されにくいハンドサインが使われてきたわけだ」
「う~ん、それにしても、もっとやりようがあるように思いますけど……」
茂信の説明を聞いても、颯谷はあまり納得できなかった。確かに初期のころはそうだったかもしれない。だが異界が現れてもう100年以上。何かもうちょっといい方法を考えてアップデートしようというヤツはいなかったのか。
「一応というか、各地で工夫はされているんだぞ」
「そうそう。例えば、表を作ってセル毎に番号を振って、それを見ながらハンドサインで番号を指定してやるとか」
「やっぱりハンドサインなんですね……」
「ネックはやっぱりあの姿勢だよなぁ。確実性を優先すると、そうそう精密なことはできないんだよ」
門下生の一人がそう言うのを聞いて、颯谷は「むっ」と小さく顔をしかめた。確かに一番槍の姿勢というのは、落ち着いて何かをやるような姿勢ではなかった。また身体の背中側では手を自由に動かせないというのも、理解できる話ではある。それでもなんだか釈然としないでいると、茂信が苦笑しながらさらにこう付け加えた。
「一番槍の一番大切な仕事は、突入して良いかどうかの判断なんだ。だから情報を伝えるという側面が軽視されてきた、というのは否めないかもな」
「それは、ちょっと分かるかも……」
颯谷はそう呟いた。よほどのことがない限り、突入が中止されることはほぼない。つまり一番槍が伝えた情報が活用されるのは、大抵の場合二回目以降の征伐ということになる。第一次征伐隊のメンバーからすれば、情報の重要度が下がるのは仕方がないのかもしれない。
ただ今回、いよいよその情報の伝達にスポットライトが当たろうとしている。ここまでの話の流れを見守っていた門下生の一人が、茂信にこう尋ねた。
「それで九州の連中はハンドサインをどうしようと考えているんだ?」
「モールス信号を使えないか、と考えているらしいぞ」
「意外と古風だ」と颯谷は思ってしまったのだが、それはそれとして。ハンドサインのアップデートというのは、つまり伝えられる情報量を増やすということ。まず従来のハンドサインだが、これは要するにあらかじめ用意した選択肢に番号をふって置き、その番号を指定することで情報を伝えている。
ただこの場合、当然ながら事前に用意した選択肢以外の情報は伝えられない。そして選択肢についてもあまりに多くを用意することはできない。それが伝えられる情報量を制限する要因だった。
一方でモールス信号を使えば、事前に選択肢を用意する必要はない。例えば「昼」ならモールス信号で「ヒル」と送ってやればそれで伝わることになる。五十音に対応するモールス信号を覚える必要はあるが、試験ではないのだからカンペを持ち込んだって良いだろう。
「だがモールス信号を使うには、何かしらの道具が必要だろう? それはどうするんだ。いやまあ、単純な仕組みだしやろうと思えばどうとでもなるんだろうが……」
「トリガー型のスイッチを作って、そのオン・オフで信号を送るそうだ。無線でスマホと繋ぎ、専用のアプリで信号を翻訳するという計画らしいぞ」
なお、「無線はもしかしたら有線になるかもしれない」とのこと。モールス信号、スマホ、アプリという単語の並びになんとなく違和感を覚えてしまうものの、ともかくかなり現実的な計画として動いているということらしかった。
「スイッチ用の器具も、信号の翻訳アプリも、技術的には難しいモノじゃない。最初は試験的な導入になるんだろうが、結果が良好なら広がるかもしれないな」
茂信がそう締めくくると、門下生たちはそれぞれ感想を口にし始めた。懐疑的な意見もあるが、ほとんどはこの話を肯定的にとらえているようだ。少なくとも「モールス信号なんてダメだ!」という意見は聞こえてこない。せいぜい「覚えるのが面倒くさそう」といったくらいだった。
「……ところで、師範はどこからそんな話を仕入れてきたんですか?」
「道場の横のつながりだな」
茂信はさらりとそう答えた。それで九州の情報が手に入るのなら、流門同士の横のつながりというのはなかなかバカにできない。颯谷はそう思うのだった。
§ § §
桐島玄道宅は古い二階建ての住宅である。家主である玄道は主に一階で生活しており、颯谷の部屋は二階にあった。彼の部屋以外にも二階にはもう一部屋あり、そこは今まで空き部屋だったのだが、今はその部屋も颯谷が使っている。何に使っているのかというと、それは仙具の保管だった。
部屋の中には大きな鍵付きの木箱が一つ置かれている。木箱はもともと輸送のためのもので、処分してしまっても良かったのだがそのまま仙具、特に武器を保管するために使っている。曲りなりにも武器であるから、鍵を後付けした次第だった。
武器以外の仙具は木箱の外に出してある。ほとんどその場の勢いで、もしくは物欲に流されて選んだわけだが、当面使い道はない。そんなわけで今は押し入れにしまってある。屏風だけは広げて部屋の中に置いてあるが、果たしてこれは「使っている」と言ってよいものなのか。颯谷はあまり深く考えないようにしていた。
少し話は逸れるが、刀や槍といった仙具の場合、その素材は一体何であろうか。由来の分からない、それこそ突然発生したとしか考えられないこれらの道具類について、世の中の科学者たちがいわば自分たちの守備範囲にそれをおとし込んで調査を行うのは当然だった。そして科学的な分析の結果によると、それは「鉄」である。
言うまでもなく仙具の特徴は氣功能力との親和性の高さにある。だが普通の鉄で刀を作っても、当然その刀は仙具とはならない。しかしその一方で、二級や三級の仙具が示しているように、仙具としての特徴は使う素材に大きく左右される。
では仙具としての特徴を決定づける何かしらの因子があるとして、それはどの段階で素材たる鉄に付与されるのだろうか。現代の異界の研究者たちはそんな命題にも頭を悩ませている。
ただそういう因子の影響を受けているのだとしても、刀や槍の仙具が鉄製であることに変わりはない。仙具ではあっても鉄器としての性質も持っているのだ。つまり何が言いたいのかというと、仙具といえども放っておけば錆びるのだ。
仙具であってもエントロピー増大の法則からは逃れられない。そのことは仙具がこの世界にあって間違いなく物理法則に支配された存在であることを証明している。ひいては異界そのものについても、物理法則を本質的に逸脱しえないことを示唆しているのではないか。
異界特有の謎に満ちた現象は数あれど、それらは物理法則の楔から解き放たれているように見えて、その実は人間がまだ解明できていない未知の物理法則に支配されているのではないか。その未知の法則が解明されたあかつきには、異界はもはや「異なる世界」ではなくなるのかもしれない。
まあそんな小難しいことをつらつらと考えてはみたものの。ひとまず颯谷が直視しなければならない現実はただ一つ。仙具であっても放っておけば錆びる。そして錆びたら使い物にならなくなる。よって仙具であっても、いや仙具であればこそ、定期的なお手入れは欠かせない。それで今日はこれから仙具のお手入れをするつもりだった。
「よし。じゃ、やるか」
仙具を保管している部屋に入ると、颯谷は小さくそう呟いた。彼は木箱の四方につけた(今では過剰だったと思っている)南京錠を開けて上蓋を取り外す。最初に取り出したのは薙刀だった。
阿修羅武者がドロップした仙具は全部で八つ。太刀、剣、槍、薙刀、戦鎚、金棒、そして脇差が二振りである。このうち戦鎚と金棒は鈍器なので刃が付いておらず、太刀と剣と脇差には鞘がある。だが槍と薙刀には鞘がなく、このままでは刃がむき出しで危ないと思ったのだろう、発送を行ってくれた国防軍の担当者は刃を布でグルグル巻きにして送ってくれた。
たぶん担当者は応急処置のつもりだったのだろうが、颯谷はそのまま保管している。茂信の伝手を頼れば、たぶん普通の鞘は作ってもらえると思うのだが、今のところは使うつもりがないので「まあいいか」と放置した結果だ。ただこうしてお手入れはしているので、その際にはグルグル巻きの布を剥ぐことから始める。
布を剥ぐと、白々とした鋭い刃が現れる。呼気が刃にかかると錆びるということで、昔は懐紙を口にはさんだらしいが、颯谷は不織布のマスクで代用している。彼はもう一度「よし」と呟くと道具を手元に引き寄せてお手入れを始めた。
薙刀であっても、基本的なお手入れは日本刀と変わらない。つまり古い油をふき取り、打ち粉を打って拭い、新しい油をひくのだ。この一連の作業を、颯谷は千賀道場で教えてもらった。ちなみにお手入れの道具も千賀道場を通じて購入した。なんぼかバックが入っているんじゃないかと疑っているが、まあそれはそれとして。
薙刀のお手入れが終わると、颯谷はまたその刃を布でグルグル巻きにした。そして危なくないように部屋の隅に置く。次にお手入れするのは槍だ。槍を木箱から取り出すと、彼は薙刀と同じようにお手入れを行った。
槍が終わると、次は戦鎚と金棒。ただ刃はついていないので打ち粉は使わない。表面の古い油をきれいにふき取ってから、新しい油を塗り直す。表面にツヤが戻ったのを見て満足げに頷いてから、颯谷はその二つをまた端に寄せた。
次は二本の脇差。阿修羅武者の身長はたぶん二メートルを超えていたと思うのだが、脇差もそれに合わせて大きい、というわけではなかった。刃渡りは三十センチ強。ナイフと比べればだいぶ物騒だが、メインウェポンとしては少々心もとなく感じる。
脇差の次は剣。刀ではない、剣だ。諸刃で真っ直ぐな刀身、刃渡りはおよそ八十センチ。かなりの長剣と言っていい。いわゆる西洋風のデザインではなく、わずかにあるくびれが和風を強く感じさせる。ずっしりとした重みがあった。
最後は太刀。片刃で反りのある刀身。刃文は荒々しい濤乱刃で、刃渡りは剣と同じくおよそ八十センチ。剣もそうだったが、巨躯の阿修羅武者にはちょうど良いサイズでも、颯谷にはやや大きく感じられた。
(どうするかなぁ、これ……)
太刀の手入れをしながら、颯谷は内心でそう呟いた。以前は一級品の仙具、それも刀が手に入ったらぜひ使おうと思っていた。だがこうしていざ手に入れてみると、やや使いづらいのが否めなかった。
その理由としては、まずサイズ。上記の通り、颯谷にはやや大きい。そして重量。当たり前だが仙樹の杖と比べはるかに重い。もちろん内氣功を使えば十分に振るえるし止められるが、しかし逆に言えば内氣功が必須だ。少なくとも仙樹の杖のように軽々と振り回すわけにはいかない。下手をすれば振り回されるだろう。
逆に優れている点と言えば、やはり質。茂信にも見てもらったが、「一級品の中でもさらに質が良い」とお墨付きをもらっている。これは太刀だけでなく八つの武器すべてについての評価だ。さすがは主のドロップだ。
また氣の通りも良い。使い込んだ仙樹の杖と比べても、太刀の方が良いとはっきり分かる。それくらいの差がある。ちなみに氣の通りに関しては、八つのうち戦鎚と金棒は仙樹の杖と同程度かやや劣るように思われた。
太刀と仙樹の杖を比べた場合、武器としての格は太刀の方が上だろう。ただ優れた武器と自分にぴったりの武器というのは、必ずしもイコールではない。使いやすさでいえば、仙樹の杖の方が上になる。
(まあ、それは今までずっと使ってきたからっていうのも込みなんだけど)
太刀を鞘に納め、颯谷は心の中でそう呟いた。そして手入れが終わった八つの武器を木箱に戻しながら、別の案についても考える。
太刀ではなく脇差ならどうだろう。片手で伸閃を放つことを想定するなら、脇差でも十分実戦に耐えうるだろう。だが高周波ブレードの場合は間合いが狭くなる。また両手で使うのも難しくなるだろう。
(うまくいかんなぁ)
颯谷は心の中でそうぼやいた。別の案としては交換も考えている。長物は道場でも習っていないので、槍や薙刀をちょうどいいサイズの刀と交換してもらうのだ。もちろんランクは同程度。もっともこれは考えているだけで、まだ誰にも相談さえしていない。
「まあ、いいや。保留!」
木箱に鍵をかけ終えると、颯谷は声に出してそう呟いた。今後、身長が伸びて筋肉も付けば、あの太刀がちょうど良くなる可能性だってあるのだ。急いで決める必要はないだろうと思い、彼は保管部屋の電気を消した。
茂信「ハンドサインからモールス信号へのアップデート」
颯谷「もう少し時代を進めることはできなかったんですかね?」




