突入1
征伐隊の全体ミーティングが行われたその二日後の夜。新潟県北部、山形県との県境近くに現れた異界は燃え尽きたように真っ白になった。征伐隊が突入するタイミングが来たのである。
翌日の午前九時。征伐隊は異界に向けて出発する。借りていた部屋の中を片付け、颯谷もバスの中に乗り込んだ。迷彩服に半長靴の姿で、他の装備などは背嚢と一緒にバスの貨物室に入れる。なお征伐に使わない私物は部屋の中の段ボールの中にまとめてあり、後で国防軍が指定した住所へ送ってくれる手はずだ。
段ボールの中にはスマホも入っている。異界の中ではネットに繋がらないので、持っていく意味がない。スマホには朝、木蓮からメッセージが入っていた。「ご武運を」とあって、次に「どうかご無事で」とあった。二回に分けられていたそのメッセージが、今はなんだか愛おしい。
家には送らず、国防軍にそのまま預かっておいてもらう物もある。遺書だ。千賀道場の師範、茂信に勧められ、迷ったが颯谷も遺書を書いた。もし征伐に失敗したなら、この遺書が玄道に送られることになる。
もちろん、そうならないのが一番である。異界征伐を成し遂げ、この遺書を笑ってシュレッダーにかけるのが颯谷の目標だ。ただ彼は遺書を書いてみて良かったと思っている。どことなく浮ついていた気分が、スッとあるべき場所に収まったような気がするのだ。これで、良いコンディションで征伐に臨めるだろう。
(あ……)
バスに乗り込むと、颯谷は今井慎吾の姿を見つける。バスが複数台ある中で図らずも同じバスになるとは。颯谷は内心でため息をつきたくなる。慎吾のほうも颯谷に気付き、彼は気まずそうに視線をそらした。
全体的に滑稽だったとはいえ、いきなり怒鳴ってきた彼に、颯谷はもちろん良い印象は持っていない。ただあの時のことは慎吾も後悔している様子だ。とはいえそれは颯谷との関係をわざわざ悪化させてしまったから、ではない。自分の軽率な行動のために、十三の面子を潰してしまったと思っているからだ。
あの後、現場に居合わせた小野寺健太は同じ一門でもある慎吾をかなり厳しく叱ったという。そしてそれが十三の耳にも入り、慎吾は彼からも厳しく叱責された。そのうえで彼は当主として、また慎吾の伯父として颯谷に対して謝罪を行ったのである。
『申し訳ない、桐島颯谷君。私の甥が馬鹿なことをした。どうか許してやって欲しい』
そう言って十三は深々と頭を下げた。さらに慎吾の頭も鷲掴みにして下げさせる。場所は夕食時の食堂。それでその光景は多くの人が目撃した。
『颯谷君。ほら、どうする?』
呆気に取られていた颯谷に、茂信がそう声をかける。その一言で彼は我に返った。同時に自分たちが注目を集めてしまっていることに気付く。彼は動揺して激しく視線を彷徨わせ、その間も十三は頭を下げ続ける。ごくりと唾を飲み込んでから、颯谷はこう答えた。
『えっと、その、丁寧な謝罪をいただきました。じゃあ、その、この件はこれで終わりと言うことで……』
『そう言ってもらえるか。感謝する』
そう言ってから十三は頭を上げた。鷲掴みにしていた慎吾の頭からも手を放し、彼にもう一度謝罪をさせる。謝罪が終わると十三は少し相好を崩し、颯谷に「君とは一度話をしてみたかったんだ」と告げた。そしてこう尋ねる。
『図々しいお願いだとは思うが、相席しても良いかな?』
まさかイヤと言えるわけもなく、颯谷は十三たちと一緒に夕食を食べた。とはいえ嫌な思いをしたわけではない。十三と茂信を中心に終始和やかな雰囲気だったし、長年特権持ちとして異界征伐に関わってきた十三の話は颯谷にとってもためになった。ともかくこうして二人の特権持ちの間に確執はないと喧伝されたのである。
謝罪を容れて水に流したわけであるし、そうでないとしてもまさかバスの中で一悶着起こすわけにもいかない。そもそもそんな気も無い颯谷は、慎吾からは離れた窓側の席に座った。
待機していた国防軍基地から、征伐隊のメンバーを乗せたバスが出発する。バスの中は楽しくワイワイと、とはさすがにいかない。むしろ緊張感が漂っている。颯谷も無言のまま窓の外を眺めた。
バスは途中でそれぞれ別の方向へ分かれていく。グループごとに突入する場所が違うからだ。本隊の突入地点まではバスでおよそ二時間半。窓の向こうに白色化した異界が見えてくると、颯谷はごくりと唾を飲み込んだ。
当然ながらバスはその異界の方へ向かっていく。途中、国防軍が封鎖していた検問所を通過。すると窓から見える景色は一気に物々しくなった。氾濫対策なのだろう、銃を持った兵士の姿はもちろん、火器を積んだ車両などの装備がいたる所に認められる。まるで戦争をしているかのようなその様子に、颯谷は異界の脅威の大きさを見た気がした。
さて、バスが停まった。降車すると、そこには国防軍のテントが張ってあり、軽食も用意されている。バスから降りた本隊のメンバーはぞろぞろとそちらへ向かい、思いおもいに軽食をつまんでいく。
颯谷も茂信に勧められておにぎりに手を伸ばす。普通にお腹が空いていたこともあるが、これが異界突入前最後の食事。コンディションを整える意味でも、食べすぎにならない程度にしっかり食べた。
ペットボトルの水を飲みながら、包装された状態の市販のブロックバーを迷彩服のポケットに入れる。背嚢の中にもレーションは入っているが、なんとなくあるなら持っていきたかった。
マシロたちにもおやつを与え、三匹がそれを食べている間に、颯谷は自分の装備を確認する。背嚢よし、ヘルメットよし、グローブよし、仙樹の杖と棒よし。これだけでも前回より充実した装備だ。さらに今回は全部で180人以上の味方がいる。だからきっと大丈夫。彼は自分にそう言い聞かせた。
「よし。そろそろ行こうか」
十三がそう声をかけると、征伐隊本隊がぞろぞろと動き始めた。ここから先は歩きだ。細い山道を数百メートル、白色状態の異界へ向かって歩く。舗装されているから歩きやすいな、と颯谷は思った。
やがて道路の真ん中に停められた数台のトラックが見えてきた。国防軍に頼んでおいた物資だ。数台のバイクもある。ちなみに颯谷が頼んだ、マシロたち用のドッグフードもどこかに入っているはず。ともかくこの物資が本隊の命綱になる。
「各隊、突入準備完了です」
白い異界のフィールドの前で待つこと数分。国防軍の兵士が十三にそう報告する。十三は鋭い表情で重々しく頷くと、本隊のメンバーを前にこう言った。
「ではこれより異界に突入する。まずは一番槍だ。……雅、頼む」
「了解です」
そう言って雅は異界へ向かって歩き始めた。そして手を伸ばせば触れるほどの位置で一度立ち止まり、大きく深呼吸をする。そして背嚢を持った片腕と片足、頭を異界の中に突っ込んだ。彼はその姿勢で数秒静止し、それから外に出ている方の手がハンドサインを送り始めた。
傍から見るとなかなかシュールな光景である。だがそれを笑う者は一人もいない。全員が真剣にハンドサインを注視している。颯谷はそのハンドサインの意味は分からなかったが、ありがたいことに口頭で意味を教えてくれる人がいて、彼はどちらかと言うとそちらの方を注意して聞いていた。
「……昼、常温、構造物なし、それから……」
ハンドサインの翻訳を聞いている限りでは、どうやら異界内部に超自然的な変異は認められないようである。もちろんこれは目に見える範囲での話。だが異界に突入してすぐに大きな環境の変化に直面しなくて済むのは、正直に言って安心材料だ。
「……突入、承認」
ハンドサインの翻訳をしていた人物は、最後にそう言った。それから各グループへ情報が伝達させる。それが終わると、本隊メンバーの視線が十三へ集まる。彼は重々しく頷いてから、落ち着いた口調でこう言った。
「突入開始」
ぞろぞろと、と言うべきか。本隊のメンバーは動き始めた。後ろの方ではトラックのエンジン音も聞こえてくる。千賀道場のメンバーが動き始めたのを見て、颯谷もマシロたちを連れて異界へ向かって歩き始めた。
眼前に迫った異界のフィールドは、まさに白い壁。颯谷はそこへ左手を突っ込んだ。手のひらは何の抵抗もなく向う側へ入る。だが引き抜こうとしても動かない。この手はもう、この異界を征伐しない限り外へ出せないのだ。そういう異界の厳しさに、颯谷は小さく苦笑を浮かべた。
そして彼は白い壁を通り抜けて異界に突入する。一瞬視界が遮られ、そのあと彼の目に映るのはもう異界内部の景色。ぐるりと見渡してみるが、雅が教えてくれた通り大きな異変は見当たらない。ただ真っ白い空だけが異様だった。
ふぅぅ、と颯谷は一度大きく深呼吸をする。すると朝の少し湿った空気を吸い込んだ時のような清々しさがあった。身体の細胞一つ一つが覚醒していくかのような、爽快感と解放感を覚える。
(ああ、そうか、オレは……)
息苦しかったのか。颯谷は心の中でふとそう呟いた。真面目に考えるなら、異界内部の空気にはやはり氣功的ななにかが含まれているのだろう。それは颯谷が保有する氣功エネルギーと親和性が高く、その結果それを取り込むことで爽快感や解放感を覚えるのだ。
ただ見方を変えるなら、氣の量が多くなればなるほど、そいつは異界に適応していっていることになる。その意味では颯谷ほど異界に適応した人間はいないだろう。このままさらに適応していったらどうなるのか。
「お~い桐島。そこで立ち止まるな~。後ろからトラック来るぞ~」
「あ、はい、すみません」
パーティーリーダーである澤辺和彦の声で、颯谷は考えごとを打ち切った。彼のことを見上げているマシロたちに小さく笑いかけてから、彼はトラックの邪魔にならないように異界の白い境界から離れた。
少しすると、エンジン音を響かせながらトラックが異界の中に入ってくる。すべてのトラックが異界の中に入ると、いよいよ征伐隊本隊は本格的に動き出す。突入後、すぐに先行していた斥候隊がこの先の様子を報告すると、十三は地図を取り出してルートを確認。一つ頷いてからこの先にある少し広くなっている地点までの移動を指示した。
目的地には徒歩五分ほどで到着。ひとまずそこにトラックを停める。この時点で斥候隊はバイクを使って先行している。彼らの役目は拠点設営予定地までのルートを確認すること。もっと言うならトラックが通れるかどうかの確認だ。
この時点では颯谷はまだやることがない。大多数のメンバーと一緒に次の指示待ちだ。十三の様子を見れば、彼は地図を見ながらトランシーバーで斥候隊と頻繁にやり取りをしている。リーダーは大変だな、と思った。
十三から少し視線を動かすと、一番槍を務めた雅の姿を見つける。彼も颯谷の視線に気づいて笑顔を見せ、右手に持った槍を小さく掲げて見せる。穂先が十文字になった槍で、彼が異界に突入した時点では持っていなかったはず。もしかしたらあの槍が、一番槍の報酬として楢木家から使用権を得た仙具なのかもしれない。
(にしても……)
ヒマだな、と颯谷は内心でぼやく。激戦を期待していたわけではないが、突入後に少し歩いただけでもう待機である。こんなにのんびりしていていいのだろうかと思ってしまう。そしてそれが顔に出たのかもしれない。茂信が彼の近くに来てこう話しかける。
「颯谷君。ヒマかな?」
「ええ、まあ。そうですね」
「ははは。だがまあ仕方がない。拠点設営までが最初の関門だからな」
拠点設営の予定地は事前の計画で定めてある。だが何かしらの要因で使えなくなっているかもしれないし、あるいは途中の道路が寸断されてしまっているかもしれない。今は斥候を出してそう言うのを確認している最中なのだという。
「燃料も有限。確認が取れなければトラックは動かせない。今は焦っても仕方がないぞ」
「別に焦ってはいませんけど……。もし予定地が使えなかったらどうするんですか?」
「代替地を探すことになる。まあ色々変わっているとそれも大変だから、願わくば変異の少ない異界であって欲しいものだ」
茂信の言葉に颯谷も大きく頷く。想像しかできないが、大きな変異がある異界で拠点を設営可能な場所を見つけるのは大変そうだ。そして拠点を設営できなければ、その後の予定がすべて後ろ倒しになる。学校の勉強に追い付くのが大変になりそうなので、何とか計画通りに進んでもらいたいものである。
さて待機を始めてから十五分ほど経ったころ、和彦が颯谷を呼びに来た。「仕事だ」という。颯谷は表情を引き締めて立ち上がった。和彦が言うには、背嚢はトラックに載せてしまって良いそうだ。それで颯谷は背嚢をトラックに積んでもらってから、多数のメンバーが集まっているところへ混じった。そして彼らを前にして十三がこう切り出す。
「斥候隊からの報告によると、現時点でだいたいルートの半分くらいは確認が取れた。ひとまずそこまでトラックを移動させたい。君たちには先行してもらって、ルートの露払いをしてもらう。それとポイントごとの保持も頼みたい」
そう言ってから、十三は地図を見せながらさらに詳しく説明する。要するに、トラックが通るルートの安全を確保しろ、ということだ。ちなみにこの臨時先行隊のリーダーは攻略隊のリーダーである中原仁が務めることになった。彼は三十名ほどの先行隊のメンバーにこう言った。
「え~、我々が速やかにルートをクリアできるかどうか。すべてはそこにかかっている。我々が下手を打つと、今日中に拠点の設営ができないかもしれない。その場合、夕飯にあったかいモノは食えないと覚悟しろ」
仁がそう言うと、メンバーから小さく笑い声が起こる。メンバーの緊張をほぐしてから、彼は手を叩いてこう言った。
「よし、行こう。走るぞ。遅れるなよ」
先行隊が動き始める。颯谷の二度目の異界征伐が始まった。
征伐隊員「ハンドサインは、見落とした場合と、後学のために録画してあります」
雅「不格好だから、自分ではあんまり見たくないんだよなぁ」




